第7章 悪いくせ
第1話 夜に落ちる
都雅の前から雅毅をさらっていった後、女は夜空高く浮いて、腹立たしげに新藤家の方向を睨んでいた。
あってはならない事が起きていた。彼女の身は、その渦中にあった。
彼女は、揺るぎない捕食者だ。――正確な言葉ではないが、例えればそういうものだった。彼女は人の苦痛や恐怖を好物としていた。ただし食するのではない。確かに糧にはなるが、飢えを知らない彼女にとっては、ただひたすらに愉悦だった。それを心の中でゆるゆると
――だが、一体どうしたと言うのだろう。
かつて、人間たちの反撃にあって封印された我が身。そのせいで衰えたこの力。
それだけでも許せることではないのに。あってはならない事だったのに。
――人間を虐げるのは彼女にとって当然の行為であり、相手が逆らうのは――もがき足掻くのは楽しみの一つではあったが。その結果人間が、彼女自身に傷をつけることなど、あってはならないことだった。
しかも今回は、人間の前から逃げす羽目になった。なんという屈辱。
絶対的優位に立つ、力ある己が。魔族たるこの自分が。あってはならないことだった。
このままにはしておかない。何としてもあの人間に復讐しなければ。絶望に突き落として、逆らう意志もろとも、生きる気力も何もかもそぎ落としてしまわなければ。どれだけ傷つけられても真っ向から睨みつけてくる、無遠慮で愚かな目を恐怖に染めて、二度と立つことができないようにしてやらなければ、傷つけられた自尊心がおさまらない。
苦しめてやらなければならない。きっと抵抗するだろう。歯向かうだろうとも。しかし、そうでなくては。起き上がろうとしているところを抑え付け、苦しませ、のた打ち回らせなければ気がすまない。そう考えると、相手が屈しない者であることは楽しみの種になった。それこそ、やりがいがあると言うものだ。
そして、この手の中には切り札がある。
人間の少女の目の前からさらってきた少年が、今は彼女の手の内にあった。気を失ってぐったりとしているが、生きている。
――手始めにこれを喰らってやろう。
やはり彼女は捕食者だった。
そもそも、人の血肉を喰らう行為は、魔族の中でも低俗な者たちの好むことだ。力の弱い者たちが、己の力とするために行うことだ。まるで相手の命そのものを食するかのように。喰らう相手の能力が強いほど、意味を増した。その力ごと、自分の中に取り込むのだ。
下賤の所業だ。手っ取り早いことだと分かっていたが、やはり腹立たしかった。そんな必要に迫られた現況も、あの少女の事も。
だが自分に恥辱を味わわせた少女を苦しめるためと考えれば、苛立ちは愉悦に変わった。これを千々に切り裂いて喰らってやろう。それを知れば、あの娘は何とするだろう。嘆くだろうか。それも、どれほどに?
どうせならその目の前で喰らってやれば、どれだけ悔しがるだろうか。
どうしてやろうかと、少年を高く持ち上げ、まだ幼いその顔を覗き込む。
やわらかそうな頬。小さな唇。牙をたてれば瑞々しい血があふれて滴り落ちていくのだろう。先刻はどういうことかそれが出来なかったが、気のせいだろう。
だが、彼女が行動を起こす前――少年は突然瞳を開いた。
生気のあふれる瞳。力強いそれは、あの魔道士と似ている。まるで光りを放っているかのような錯覚を与えた。
「これは……」
思わず彼女の唇から、声がもれる。
――錯覚ではない……!
ばちり、と目の前で火花が散っている。少年に触れている腕がちりちりと痛い。
「離せ」
空中で、魔族の腕に支えられているだけの状態で、少年は命じていた。手を離せば落ちるだけだ。それが分かっていて言っている様子ではない。混乱して口にした様子でもない。かと言って、意識が戻ったようではない。
いぶかしみ、魔族が手を離さずにいると、少年は再び言った。
「離せ」
尊大に命じるその意志は、再度力となって現れた。
突然、辺りが明るくなった。照らし出されて熱い。
束の間戸惑った魔族は、その光の元を見て愕然とした。燃えているのは自分の腕。少年を掴んでいる腕だ。少年には燃え移らずに、彼女の腕だけが、業火に飲まれている。
それを意識した瞬間、焼かれる痛みが襲いかかってきた。
驚いているうちに、腕がねじくれ始める。見えない何者かが、少年の体からその手を引き剥がそうとしているかのようだった。拒否している。拒絶している。彼女が触れるのを。
嫌悪のあまり魔族は顔をゆがめる。
無造作に少年を投げ捨てた。
夜の町は、きらきらと光っていた。天上の星を地上にも蒔いたかのようなまばゆさ。だが無機質で暖かみがない。脆弱で、地表に巣食う人間たちが
少年を離した途端、魔族の腕から炎が消えた。それを自らの力で癒し、彼女はただ見送っている。
今日という日は、一体なんだというのだ。
苛立ちばかりが募る。繰り返し繰り返し、自分のことを恐れようともしなかった少女のことが、頭をよぎる。あの、強い意志の込められた、眼差し。
少年に何かをしようとしたら力が発動するように、罠を仕掛けていたのか。小賢しいにもほどがある。
だが――彼女は疑問を抱く。
果たして罠を仕掛けるような時間が、あの時あの少女にあっただろうか? そんな暇があるなら、魔族が少年を連れて行かないよう守ることが出来たはずだ。
それならば。今のは一体、誰の仕業だというのだ?
思うと同時に答えは出ていた。考えられることは一つしかない。
それを思ってから、彼女は笑う。愉悦の笑みを浮かべて、落ちていった少年の後を追った。
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