第2話 逃げるにしかず1
※ ※ ※
階段を駆け下り、二階にたどり着いたところで、奏は下るのをやめた。下の踊場に、見たくないものを見てしまったからだった。
まあ、それはそうだよな、と思うのだが。
踊場に窓はなく、いっそう沈んだ闇の中で、笑いながら少女がたたずんでいた。息も乱さずに。
そもそも相手は忽然と目の前に現れたのだ。どれだけがんばって走ったところで、ポンポンとどこにでも現れる相手から、簡単に逃げられるわけがない。
そもそも逃げたのは振り切りたいわけではなくて、態勢を整える時間が欲しかっただけだったが、それも許してくれないか。
人を盾にされるとやはり弱かった。特に、女子供などを前に出されると、お手上げだ。しかも状況は奏の不得意な分野で、頼みの綱の崇子があれではまったくもってダメだ。
くるりと向きを変えると、今度は廊下を駆け出す。緊張にか恐怖にか、脚が突っ張ってうまく走れない崇子の腕を引っ張りなんとか前へ進んでいく。
さてどうしたものか。考えながら、彼がめざしているのはやはり校長室だった。とにかく蓮のところに戻るしかない。
「ロ」の字型の校舎の先には、職員室や校長室や事務室などが集まった、二階建ての建物が続く。そこから先に体育館があるので、デジタル数字の「9」のような形だ。奏はその二階建ての建物に走りこんだが。
「奏さん……こっちは、だめですよ……!」
息を切らしながら、崇子が声を出す。
彼女は奏よりも、この学校の見取り図を頭に入れていたようだった。たどり着いた先は行き止まりで、下りるための階段がなかった。――追い詰められた。
「なんだ。やれやれ、行き止まりなのか」
絶望を顔ににじませる崇子に反して、のんきに奏がつぶやく。息も切れていない。振り返って、ほのかな明かりの差し込む窓と、反対側の暗い教室を見比べた。プレートには「図書室」とある。この下には、職員室と玄関、それに校長室があったはずだ。
「あっちから行ったほうが早いよなあ。んー、でも蓮が入れてくれるとは思えないし…。真下に行くのも、ちょっと骨だしなあ。後がめんどうだし」
ぶつぶつとつぶやきながら、もう一度右の窓を見て、左の扉を見て、奏は崇子の手を掴んでいない方の手で、図書室の扉に手をかけた。――開かない。ふむ、とつぶやくと、彼はすぐに扉をあきらめた。厳密には扉を、ではなく、扉を手で開けるのを。
「いよっとぉ」
気合のこもらない掛け声とともに、脚を振り上げる。扉の真ん中に踵が命中し、扉は簡単に図書室の中へ倒れこんだ。崇子の手を引っ張って駆け込もうとした奏は、彼女の反応が鈍いのに気がついて振り返る。
「もうちょっとだから、がんばれ」
「何が、もうちょっとなんですか……逃げられないのに」
逃げられるわけがない、しかも崇子は逃げてはならない立場だ。思いつめた様子の崇子に対して、奏は肩をすくめて見せてから、崇子の肩と膝に手を差し入れて、彼女を抱えあげた。崇子が悲鳴をあげるのなど構わず、部屋へ駆け込む。
図書室の中は、たくさんの本棚や机の影が、濃い闇を作り出している。細かいことは構わずに、奏は窓へ向けて直進した。
「まさか……!」
奏にしがみつきながら崇子が高い声を上げる。
「ここ、二階ですよ」
「それくらい、たいしたもんじゃないだろ」
確かに、不可能な距離ではない。でも、無傷ですむ距離でもない――
「でも」
反論を待たず奏は再び脚を振り上げ、二枚の窓ガラスのちょうど真ん中、鍵のところを蹴る――というよりは、勢いをつけて、踵で力いっぱい押した。ビキビキとガラスに亀裂が走り、桟が歪み、
そのまま奏は窓を二枚とも、闇の向こうへ吹き飛ばした。遅れて、ガラスの割れる大きな音が響く。
茫然としていた崇子は、開いた穴のふちへ奏が足をかけたのに気がついて、今度はきつく目を閉じる。身を硬くして、小さく音を立てて息を吸い込んだ。
地面に叩きつけられる衝撃は、一体どれほどのものなのだろう。崇子は投身自殺したという生徒を思い出し、血の海の中に倒れる自分を想像した。たかが二階なのに。
ふわりと体が浮かぶ頼りのなさのあとで、ほんの少し体に重みが――せいぜい、転んでしまった程度の衝撃があった。
「お嬢さん、ほい、歩けるか」
のんびりした声が降ってきて目を開けると、奏と目があった。着地した衝撃を全部受けたはずの奏は、変わらずけろりとしていた。ガラスの破片の上に平気な顔で立ってる。そういえば、この人は異常なほどに頑丈だったのだ。崇子は一気に肩から力が抜けてしまった。
奏は崇子がガラスを踏まないよう気をつけながら、そっと地面に降ろしてくれる。それから、自分は平気な顔でガラスの上を歩いていく。ちりちりと砕かれた破片が音を立てた。 そして奏は、摺りガラスをはめこんだ正面玄関のドアの前に立つと、また無頓着に蹴飛ばした。蝶番がはじけとび、吹き飛んだガラスの戸は玄関の石床にぶつかる。同時に盛大な音を響かせて枠だけを残し、砕け散った。彼はまたその上を平気な顔で歩いていく。
思い切りがいいのか、何も考えていないのか。崇子は驚くやらあきれるやらで、もう声も出ない。しかし、置いていかれそうなのに気がついて、慌てて駆けだした。その時、崇子のポケットで、チャリと小さな金属音がした。
今更ながらに思い出し、ポケットに手を入れて確かめる。手に触れる冷たい金属の束。見回りをするのだから、校内の鍵を預かっていた。動転しすぎていて忘れていた。少なくとも、図書室のドアも玄関の戸も壊す必要はなかったのに……。
もう本当に今更だったけれど――そもそも、思い出したからって、崇子に奏を止める事ができたか、その隙があったかも疑問だったけれど。
――多分無理だっただろう。
ガラスを踏まないよう気をつけながら、玄関に入った頃には、あきらめた。そんな細かなことで悩んでいる場合でもない。
校長室まで戻って来たはいいが、奏はすぐにドアを開けようとしなかった。ノブに手をかけて、大きくため息をつく。それは魔族に対峙したときよりも深刻な表情で、息は重く、覚悟を決めるような顔だった。
意を決した様子で彼は遠慮がちにノブを回す。カチャリ、と小さな音がして、奏は顔をひきつらせた。今までガラスを割ったり壁にヒビを入れたり、あれだけ盛大な音をたてていたくせに。
奏はそっと隙間を開けて、真っ暗な部屋の様子をうかがおうとした。
「何騒がしいことしてんだよっ」
間髪いれず怒鳴られて、眉を寄せる。「やっぱり怒られた」と小さくぼやくと、こそこそするのをやめて、大きくドアを開いた。
「仕方ないだろー。俺だって穏便に済ませたかったけど、いきなりなんか出てくるわ、このお姉ちゃんいきなり仕掛けるわ、あっちも問答無用で攻撃してくるわで大変だったんだからな」
ぼやきながら、電気をつけて部屋に入る。ソファの上に身を起こした蓮は、眩しそうに目をしばたかせてから、迷惑げに奏を見た。安眠を妨害されたことを怒っているらしい。
「あーもうやだやだ。愚痴っぽくて爺クサイ」
顔をしかめて、臭いものをはたくような仕草をして蓮は言う。まったく容赦がない。
「蓮ちゃん、少しはボクの心配してください」
「はあ? そんなものするだけ無駄だろ。繊細なぼくはともかく、バカは殺しても死なないからねー」
「お前が繊細って言うんなら、世の中の人間みんな繊細だな……」
「なあーんか言ったあ? ていうか、死ぬようなことになってたらどうなるかわかってんの?」
眉を吊り上げて、蓮が奏へ厳しい声を向ける。大きく口を開けて、まくしたてようとした蓮を、崇子はおもわずさえぎった。
「あの」
気が急いて、強く声を出したものの、瞬時に蓮の怒りの目が向けられて、すくんでしまった。けれども、奏の促すような視線に、大きく息をついて言う。
「あの……。大丈夫なんですか」
たくさんの意味を込めた一言だった。逃げなくてもいいのか、態勢を整えるなら作戦を錬らなくていいのか、どうしてそんなに平然としていられるのか。今だって追われているのに。今この瞬間にもここに、あれが現れるかもしれないのに。
どう対処すればいいか分からない。訳のわからないものを見せられて、超越した力を見せられて、何とも思わないのだろうか……?
能力者だって、あれだけのものを見れば恐いはずだ。むしろ、力のある者ほど、自分の力量も相手の力量もわかるものだから、余計に怖気づくものだろうに。目の前の二人にはそんなところは少しもない。
不毛な会話の内容も、悠長に構えている二人も、不思議で仕方ない。蓮はともかく、奏は敵を見ているのに、どうしてこんなに落ち着いていられるのか。
焦れる崇子を、蓮は強い瞳で見る。大きな目にじっと見られてたじろいでしまった。
「大丈夫なわけないだろ」
ソファの上でふんぞり返って、何当たり前のことを、とでも言うような態度で彼は言う。
「晩御飯は?」
その言葉に、さすがにあきれ返って奏が言う。
「……お前なあ。とにかく体勢を整えるから、立って動けるようにしとけよ。いつ敵が現れるかわからないんだから」
「いやだ。ピザかなんかとってよ。でなかったら、コンビニ行って何か買ってきて」
「わがまま言うんじゃありません。さっき喰ったばっかだろうが。だいたいお金はどこから出すんだ」
「必要経費」
「……あんまり必要じゃないと思うんだが」
「腹が減っては戦が出来ぬっていうだろ」
「お前、喰っちゃ寝してたら、太るぞお」
「なあに言ってんのお。生まれてこの方、肥満なんて言葉とは無縁な美しいこのぼくに向かってそういうこと言う訳? 昔っから頭悪いと思ってたけど、やっぱ目もおかしいんじゃないのお。老眼鏡でも買ってくればあ?」
「頭悪くないモンっ。蓮に比べたら百倍いいモンっ」
「何ヤケになってんの。それがバカの証拠じゃん。もういいよ、ぼく俄然やる気なくしたしい。食べ物持ってきてくれないんだったら、ぼく力でないから奏一人で片づけてよね」
「まーひどいっ。か弱い奏君にそんなこと言うなんてっ」
奏は頬に両手をあて、わざとらしく傷ついた表情をした。昭和のポーズだ……崇子はもう、妙なところであきれてしまった。肩に入っていた力が抜けたのはいいのか悪いのか。今度はどう口を挟もうか迷っていた、その時。
――辺りの空気が、変わった。
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