第3話 傷口は開いたまま1
そこは、大きな家が立ち並ぶ町の一角にあった。途切れない塀が続く。個人宅とは思えない豪邸だ。
ひとつの家族が暮らすのに、これだけ大きな家が必要だろうか。その気になれば、何日も何日も、家の中にいる家族と顔を合わせずに生活することだって可能だろう。
普段なら羨望の的になるような大きな家。でも今は、大きな門の門柱が片方なく、門扉もない。煉瓦敷きの道のあちこちで土がむき出しになっている。破壊されたと猫が言っていたが、瓦礫のようなものは残っていなかった。ある程度は片付けた後なのだろう。何せ、門は目立つ。
紫から紺へ染まりつつある空を背景にそびえ立つ洋館は、幽霊屋敷のようだった。静まり返って薄気味悪い。しかもところどころ足場が組まれ、メッシュシートが被されている。明らかに何かを隠している。庭木もなぎ倒されていて、台風の後のようだ。
押し掛けた都雅を、にこやかに出迎えたのは中年の男だった。
「神舞さんでいらっしゃいますか。ご足労おかけして申し訳ありません。随分お早いですね」
奇妙なくらい丁寧な物腰で、頭をさげた。都雅が来るのが分かっていたような口ぶりだ。その目は、都雅の足元にいる猫を見ている。
「早いってどういうことだ」
「雅毅様をお迎えにいらしたのではないのですか? 先程、ご連絡差し上げました」
都雅は唇を歪めて、男を見返した。
やはり雅毅はここにいるのだ。しかし後手に回ったらしい。家から迎えが来るのなら、鉢合わせる前に、さっさと退散するに限る。だがその前に、どうしても雅毅に釘を刺しておかないといけない。こういったことに、二度と関わりにならないように。
「さっさと雅毅を呼んできてくれないか」
「それが、雅毅様がどうしても、こちらにとどまるのだとおっしゃっていまして。頑として動いてくださいません」
ああそう、と都雅は唇の端をつり上げた。
「言い訳は聞いてない」
「どうぞ、玄関先で長話も何ですから、おあがりになってお待ちください」
今の新藤家にとっての最大の痛手は、家を破壊されたことでも、息子を狙われていることでもないはずだ。惨事を引き起こした原因として、世間に叩かれ、裏ではおもしろがられている。この上、もし雅毅に怪我などさせようものなら、新藤家は、神舞家との関係を損ねかねない。それは誰も望んでいないはずだ。なのにこの男は、丁寧な物腰で、のらりくらりと都雅をかわそうとしている。
「あたしはここから先一歩たりとも、この家の中には入らない」
都雅は頑として言い張った。関わるつもりはない。この家とも、神舞の家とも。
「本気で帰すつもりがあるのか」
不機嫌に言い捨てた都雅に、男は再び菊を見て言った。
「その猫は、あなたの猫ですか?」
「冗談でも、こいつと関係つけるのはやめてくれないか」
菊が抗議の鳴き声をあげるが、知ったことではない。都雅が無視していると、男は、おごそかな声で言った。
「では、あなたのご友人の猫ですね」
美佐子と菊はこの家の子と親しいと言っていた。新藤家の秘書が菊のことを知っていておかしくはない。彼は笑みを深めて、都雅に向けて言った。
「神舞家のお嬢さん。あなたの噂を、思いがけないところで耳にいたしました」
「何の話だ」
「今回の事態で、我々も色々と伝手を辿り、事態収拾の努力をしたのですよ。――魔道士殿」
都雅は、笑ってしまった。こんな硬そうな、上等なスーツを着たご立派なおじさんから、その固有名詞を投げかけられると思わなかった。
「知ったことか」
嘲笑のように言い返して、下手を打ったかもしれないと気づく。
新藤家の秘書が言うように、雅毅の迎えを頼んでいたのなら、雅毅を帰す気があったということだ。今それを渋っているのは、都雅が来たから。
この事態に対抗する手段を持っているらしい人間が。
雅毅を利用して引きとめるつもりか。交換条件にでもするつもりか。
「あたしには関係ない。何度も言わせるなよ。いいからさっさと……」
最後まで言えなかった。豪邸の中に、呼び鈴の音が響き渡る。奥から慌てて家政婦が駆けてきて、男に耳打ちをする。都雅は後ろのドアに目をやり、ちい、と舌打ちした。
都雅は雅毅の後を追うようにしてこの屋敷に来ている。もし雅毅が来てすぐに、この家の者が神舞家に連絡をしているとすれば。そろそろ迎えがくる頃だ。
――逃げないと。
でもこの玄関から、前にも後ろにも動けない。戸を抜ければ当然、新たな客と鉢合わせするし、上がり込めば男の思惑通りになる。――もちろん、そんなことは気にせず、雅毅に釘を刺すだけ刺して帰ればいいのだが。
さっさと踵を返せるかどうか、都雅には自信がない。
迷って、都雅が広い玄関に立ち尽くしていると、両開きのドアが乱暴に開かれる。家の者が迎えに出るのも待てなかったようだ。遠慮なく玄関に踏み込んだのは一人の女性だった。
――一番避けたい事態が起きていた。
顔を背けて、都雅は床を睨みつけている。別の人間だったらいいなと思っていたが、甘かった。それはそうだ。息子のことで、この人が家でじっとしているわけがない。
「これは神舞の奥様、お久しゅうございます」
艶やかな黒髪を背に流した母親は、都雅とよく似た強い眼差しで男を見た。元キャビンアテンダントの彼女は、語学が得意で多国語を操り、その美貌と頭脳で見事玉の輿に乗った。仁王立ちをしていても上品に見える。しぐさに無駄がない。
「ご挨拶は結構。ご連絡いただいて感謝します。雅毅を迎えに参りましたので、即刻帰して下さいな」
「もちろんのことでございます。雅毅様がお帰りになりたくないと申されておりましたので、お迎えに来ていただいたのです」
「何を悠長なことを言っているの。新藤さんは今ご自分の立場が分かっていらっしゃるの? それに、こちらのお屋敷の様子は一体どうなさったというの? 厄介ごとに雅毅を巻き込まないで。雅毅にかすり傷でもさせたら、どうなるか分かっているの?」
部下を叱るように厳しい口調で言い立てる。そして突然止まった。
その目が都雅を、凝視している。
今頃、気がついた。もう一人の、彼女の子どもがここにいたことに、今更。
「なにをしているの、こんなところで」
母親は低く抑えた声で、都雅に言った。嫌悪がありありとあらわれている。
二年ぶりか、三年ぶりか、あまり覚えていない。久しぶりに見た我が子に対して、久しぶりに発した言葉がそれだった。
「あんたに関係あるか?」
――その態度の違いはなんなのだ。
都雅は露骨に顔をしかめている。それを見るのも不快な様子で、母親は顔をそむけた。もう都雅を見ようともしないで言う。
「どういうつもりか知らないけど、わたしの子に関わらないで」
頭のてっぺんから、血が引いていく音が聞こえた気がした。慣れているはずなのに。
――じゃあ、あたしはなんなんだ。
昔から変わらない心の疼きがある。同じ相手に、同じような言葉を言われ続けて、慣れていると思っても、やはり堪える。自分の弱さを実感させられて、むかついた。
くだらない。そう思う。同じことを繰り返す相手も、いちいち、動揺させられる自分も、実にくだらない。
家を逃げ出したのは、もっとしっかり立つためだったのに。何も変わってない。イライラする。感情が高ぶって、息が乱れた。
「うるせえな。だったら、とっとと雅毅を連れて帰ればいいだろ!」
感情を隠すように、相手を睨みつけながら怒鳴る。泣くのなんて冗談じゃない。振り回されてたまるか。そんなこと、プライドが許さない。
挫けてしまうわけにいかない。自分の弱さを知っているから。
どうしてもこの事態を避けたかったから、早く雅毅を帰らせようとしたのに、無駄になってしまった。母親は、雅毅がこういった普通でない状況に巻き込まれるのを、恐れている。心から、何よりも恐怖している。それは同時に、都雅を嫌う原因でもあった。
だからこういうことには二度と関わるなと、雅毅に釘を刺しておかなければいけなかった。鉢合わせするかもしれないとは思っていたけれど――もうちょっと、動揺せずにいられると思ったのは、自分への買いかぶりだったらしい。余計に腹が立つ。
突然猫が、威嚇するような声を発した。びくりとした都雅の足元から母親のスカートにとびかかる。菊に気づいていなかったのか、彼女は悲鳴を上げた。金切り声をあげて振り払おうとした。
けれど菊もそこは年の功。身軽くその手を避けると、玄関の隅の方まで逃げてしまった。菊は呑気に舌を覗かせて相手を見上げた。
「なんなの、この猫は!」
母親は怒りと興奮で頬を赤く染めて、新藤家の秘書を睨みつける。
突然の出来事に、強張っていた都雅の肩から力が抜ける。ふっと鼻から息が抜けた。笑ってしまった。
――相変わらず、おせっかいで出しゃばりな猫だ。
「ただの猫だろ。いちいち怒鳴るな」
普段の調子に戻っていた。
母親は怒りと興奮で頬を赤く染めて、新藤家の秘書を見上げる。黙って成り行きを見守っていた新藤家の秘書が、何かを言う前。
「お母さん!」
割り込んだのは、まだ高い少年の声だった。
「お母さん、どうしたの」
吹き抜けになっている二階から、少年が二人駆け下りてくる。雅毅と、その後ろにいるのは、康平という少年だろう。その姿を認めると、母親は再び声を上げた。
「雅毅、何をしているの!」
母親の剣幕に驚いて、雅毅は思わずのように足を止めた。異様な雰囲気に包まれた階下を見下ろす。手すりをきつく握りしめた。
「お母さん、お姉ちゃんに何か言ったの」
「お前には関係ないわ。早く降りていらっしゃい」
顎を上げて、尊大に母親は言う。けれど雅毅はゆずらなかった。
「ぼくは帰らないよ。今日はここに泊めさせてもらう」
「何を言っているの。妙なことに関わるものじゃないわ。早くいらっしゃい」
「いやだ。友だちを見捨てられない。力になれなくても、一緒にいるって約束した」
いつになく頑として聞かない雅毅に、母親は詰まってしまったようだった。その間にも、雅毅は言い募る。
「お姉ちゃんだって、心配して来てくれたんだよ。どうしてみんなが大変なときに、少しでも助けになりたいと思ったら駄目なの。自分のことだけ考えろってことなの? ……そんなお母さん、嫌いだ」
母親の眉がつり上がる。
雅毅が口にした言葉に、彼が逆らったのだという事実に、ひどく衝撃を受けていた。傷ついたなんて、生易しいものでない。それはすぐ、激しい怒りへと変わる。都雅が、混乱を怒りに摩り替えたのと同じように。
都雅は嫌々ながら、それを顔全面にあらわしながら、口をはさむ。
「雅毅、やめておけ」
けれど雅毅は、首を左右に振って動こうとしなかった。普段なら母親に逆らったりしない。素直で、人の気持ちをよく考える雅毅は、他人を拒絶するようなことも言わない。頭のいい子だから、今どうするべきか本当は分かっているはずだ。そんな雅毅を見て、母親は言い捨てた。
「いいわ。雅毅までそんなことを言うのなら、勝手になさい。何が起きたって知らない。もちろん、何かあったときには、新藤さんに責任をとってもらう」
彼女は、息子を心配して駆けつけたはずだった。新藤家が厄介ごとに巻き込まれているのを知っていたし、屋敷の様子を目にして、それを実感したはずだ。大事な息子の命に関わるかも知れないとも、思ったはずだった。
……なのに。息子が何を言おうと、引きずってでも帰るところだろうに、この反応は変だと都雅は思う。
母親は踵を返し、都雅の横を通り過ぎた。一瞥もせずに。
「お前のせいよ」
言い捨てた。
来たときよりも激しい勢いでドアを開け放つ。ヒールの音を響かせながら、もう二度と振り返りもせずに帰ってしまった。重々しい音をさせながら、扉が閉まる。
奇妙な沈黙が落ちた。都雅は知らず詰めていた息を、大きく吐き出す。猫が近づいてくる。囁くような声で言った。
「都雅、おぬし……」
「めんどくせーから何も言うな」
笑おうとした。奇妙なおかしみやら不快さやら色々隠そうとして、ゆがんでしまったが。
「よくやった。かなりスッとしたぞ」
菊は物問いたげな目を向けてきたが、何も言わなかった。牙を噛み締めて、唇を半端に開いている。不安そうで不可解そうな表情だった。猫の表情なんてよく分からないが、そう見えた。
「お姉ちゃん」
嬉しそうな響きを込めた声が都雅へかけられる。思わず、都雅は眉を片方つり上げる。 ――仕方ないなあ。
溜息をつく。関わるつもりなんてなかった。
――でもなんとなく、こうなる気はしていた。だから、来たくなかったんだけど。
しかしこうなったら、母親へ意趣返しをしてやりたくなる。
「おい、お前」
まっすぐに立って、揺るぎない瞳で、新藤家の秘書を見る。
「仕方ないから、仕事請けてやる。そのかわり、金のあるやつからはそれ相応にいただくから、そのつもりでいろ」
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