第二十二話『Extermination―殲滅―(前編)』

 空を覆い隠す黒雲は絶えず蠢き、時折雷鳴を轟かせては灯りの消えた街を威嚇し続けていた。

 昼前から降り続く雨は一時に比べ勢いを弱めたものの、未だ止む気配はない。

 機十郎は車長用展望塔キューポラから上半身を出して鉛色の空を見上げていたが、やがてスラックスのポケットから懐中時計を取り出して時刻を確認し、小さく唸った。

 時刻は午後六時になろうとしていた。

 七月上旬の北関東における日没時間は午後七時前後。一時間足らずで街は完全な闇に包まれる。

 機十郎達の乗車――霊山りょうぜんは住宅地を離れ、左右を雑木林に囲まれた道路の傍らに停車していた。

 前方には倒れた木々が横たわり、これ以上進むことはできない。アスファルトの路面には大口径の砲弾で執拗に抉られた跡があった。

 周囲に濃く漂う硝煙の匂い。住宅地で破壊活動を行った三式中戦車はこの道を通って逃走し、追手を足止めする為に道路を破壊していったのだろう。

 機十郎は首にかけた白いタオルで濡れた髪を軽く拭うと、キューポラの上に広げたラミネート加工済みの地図に目を落とした。

「……なるほどな」

 地図上のある場所に注目した機十郎は誰に言うともなく呟くと、背後を振り返った。雨音に交じり、独特な騒音がこちらに近づいている。五〇年以上前に、何度も聴いた音が。

 この音を、聴き間違えるはずがない――。

「由機。距離二〇〇、砲塔七時ほうとうななじ。弾種徹甲!」

 落ち着き払って指示を下し、砲塔に滑り込む。

「はい!」

 由機が旋回ハンドルを猛スピードで回し、瞬く間に後方の三叉路へと砲口を向ける。

「敵が右の側道から顔を出すのと同時に撃て。タイミングが遅れればこちらが撃たれるぞ」

「分かりました」

 由機の声に、もはや余計な気負いや緊張の色はなかった。

 ディーゼルエンジンの排気音と履帯の金属音が次第に近づき、やがて機十郎の目が側道から躍り出る戦車の姿を捉える。照準器のレンズを通して、由機も同じものを見た。

 背が高く、ずんぐりしたシルエットの――古めかしい戦車。

「撃て!」

 号令と同時に由機が引鉄を引く。機十郎への返答は発射音にかき消され、次の瞬間にはレンズの向こうで敵戦車が炎に包まれていた。

「命中、敵戦車を撃破!」

 機十郎の声は、あくまで落ち着いていた。

「……『あれ』、三式中戦車じゃありませんね」

 由機はそう言いながら顔を上げた。

「ああ。八九式だ」

 車体の前に張り出した大きな起動輪(履帯に動力を伝える歯車状の車輪)と小さな砲塔から突き出した短い主砲が特徴的な、八九式中戦車。三式中戦車と同様、武器学校から姿を消した兵器の一つだった。

 土浦武器学校に展示されていたのはディーゼルエンジンを搭載した『乙型』と呼ばれるタイプで、機十郎が戦車部隊に配属されて最初に乗った戦車もこれだった。

「楓、方向転換だ。交差点まで引き返せ」

「承知した」

 先程まで大声を出さなければ聞こえなかった互いの声が、まるで通話装置を介したように、はっきりと聞こえる。戦車には付き物の激しい騒音と振動の中にいるにもかかわらず、である。

 三人共、そのことに気づいていながら、誰も触れようとはしなかった。この戦車の中にあっては、何が起きても不思議ではない。

「由機、砲塔はそのまま。後方からの攻撃に備えろ」

「はい!」

 短いやり取りの後、機十郎は再び砲塔から上半身を乗り出した。視線の先では八九式の残骸が篝火かがりびのように炎を上げ、周囲の木々を赤く照らしている。

「楓、停止しろ。ゆっくりとな」

「承知した」

 指示された通り、一六トン近い巨体を楓が静かに停止させる。車輌にも乗員にも負担をかけまいとする気配りが感じられる操縦だった。

 霊山は交差点の一〇メートル手前で履帯を止めた。交差点に進入を試みて撃破された八九式は側道を塞ぐ形で擱座炎上している。炎に落ちた雨が音を立てて蒸発してゆく様はまさしく『焼け石に水』で、そう簡単には鎮火しそうにない。

 機十郎は激しく火を噴く車体側面の貫通孔を無言で眺めていたが、やがて砲塔に目を移し、小さく眉を動かした。かつて自分が土浦武器学校で見たそれとは明らかに異なっている部分がある。

 肉厚で継ぎ目のない砲身、中央部が『ト』の字型にくり抜かれた防盾――。

 武器学校で保管されていた八九式は主砲と防盾が失われ、文字通り取って付けたような模造品ダミーが代わりにあてがわれていた。

 しかし、目の前のそれらは実物にしか見えない。主砲と防盾同様、失われていた車体前面と砲塔後部の機関銃も、当たり前のように備わっている。

 機十郎は小さくため息をつくと濡れた前髪を無造作にかき上げ、苦笑した。

 何年も屋外で風雨に晒され、燃料も弾薬も積んでいないはずの戦車と錆びついた火砲が市街を破壊して回っている……そのあまりにも異常な状況を考えれば、何らかの理由でこの戦車が往時の姿を取り戻していたとしても、何ら不思議はない。

 それは自分が乗っている戦車にしても……この自分にしても同じことだ。

 やがて、機十郎は何事もなかったかのように地図を開き――。

「やはり、そうか」

 そう呟いて、再び八九式の残骸に目を向けた。その顔には冷たい笑みが浮かんでいた。


「飛行場?」

 木陰で濡れた髪を拭いていた由機は顔を上げ、霊山の車体に寄りかかる機十郎に聞き返した。

「そうだ。三式に破壊されたと思われる道路、擱座した八九式が塞いでいる道路。どちらも、この先の飛行場へ続いている。敵はそこを拠点にしていると見て、まず間違いない」

 機十郎は迷いなく言い切った。

「なるほど。この飛行場は周囲よりも標高が高い。この雨でも冠水する懸念はない」

 由機の隣で地図を見ていた楓は、そう言って暗い空を見上げた。

「その通り。しかも高強度のアスファルトで舗装された滑走路と駐機場があり、大きな格納庫もある。戦車や火砲を停めておくには、もってこいの場所だ」

「……とにかく。市街地で戦わないで済むのなら、助かりますね」

 由機に視線を向けられ、機十郎が目を丸くした。

「どうかしましたか?」

「いや。お前の言う通りだと思っただけさ」

 機十郎は苦笑し、お茶を濁した。健気な言葉を口にする由機の表情から見えたものは、安堵よりも期待だった。

「さて……話を戻そう。問題は、どうやって飛行場に近づくかだ」

 機十郎が不意に表情を引き締めると、由機と楓は居住まいを正した。

「迂回するルートはある」

 楓は二人に見えるように地図を開き、指で進路を示した。

「これまで来た道を戻り、この交差点で進路を変える。この道を進めば、そのまま飛行場の正面に出る。しかし――」

 そこで言葉を区切り、楓が由機に目配せする。

「飛行場からは、こちらが丸見えになる。近づけば集中砲火を受けることになるね」

 我が意を得たりとばかりに、楓は由機に大きく頷いてみせた。

「敵の進撃路を限定し迎撃を容易にする……防御戦の基本だ。敵は莫迦じゃない、ということだな」

「進撃路を限定して、迎撃……」

 由機は困惑の表情で機十郎の言葉を繰り返した。

「それじゃ……あの八九式は飛行場へのルートを塞ぐ為だけに、私達の前に出て来たんでしょうか。撃破されると分かっていて」

「だろうな。あわよくば、こちらを撃破できるとは思っていたかも知れんが……性能面での不利と待ち伏せを受ける危険を考えれば、あの行動は自殺行為と言っていい」

 八九式中戦車は日本初の国産戦車であり、開発が始まったのは昭和三年にまで遡る。乙型は数度に渡る改良が施された後期生産型だが、霊山――新砲塔チハと比較すれば、その性能は大きく劣る。

「別の進撃路を検討しよう。地図を見る限りでは、周囲の水田を踏み越えて行くことで飛行場に接近することが可能と思われるが」

 脱線しかけた話を戻したのは楓だった。

「重量の軽い霊山チハなら可能だろう。実際に朝鮮やヴェトナムでは戦車部隊が水田地帯を踏破している。だが、大雨で増水した田圃たんぼを同じように考えるのは危険だ。最悪の場合、身動きが取れなくなる恐れがある」

 機十郎は楓の提案に難色を示した。

「……承知した、お祖父様。私も、せっかく育った稲を踏み潰したくはない」

 楓はそう言って苦笑し、機十郎の言葉を受け入れた。

「確かに、私も田んぼを踏み越えて行くのは抵抗がありますけど……どうやって、飛行場まで近づくんですか?」

 由機は困惑の表情を浮かべたまま、機十郎に問いかけた。

「……案ずるな。他にも道はある」

 機十郎はそう答えると、白い歯を見せて笑った。


 阿見町あみまちは緑の多い町である。自衛隊施設に工場、住宅地に小さな飛行場などが存在する一方、町内には古くからの歴史を持つ神社が数多く残り、その周辺には鬱蒼とした鎮守の森や雑木林が広がっている。

 それだけに地形は複雑で、戦車などの重兵器を運用するにあたっては障害も多い。無論、これは機十郎達だけでなく、『敵』にとっても同じなのだが――。

「それだけに、この道のような盲点もある……というわけだ」

 キューポラの上で、機十郎は誰に言うともなく呟いた。

 神社の裏手に広がる森は濃く茂る枝葉が光を遮り、夜と変わらぬ暗さだった。

「楓、速度は維持。俺が『止まれ』と言うまで、そのまま真っ直ぐ進め」

「承知した」

 キューポラと操縦席の間で交わされた言葉は、まったく問題なく互いの耳に届いた。無論、機十郎も楓も通話機など使っていない。

 砲塔内の由機は車内灯で地図を照らしながら、目標として示された場所を食い入るように見つめていた。

 森を抜けた先にある、六〇〇メートルの滑走路を備えた小さな飛行場。

 機十郎が進撃路として選んだのは、森の中に敷かれた林道だった。これは土地の所有者が資材を運ぶ為に作った私道であり、地図には載っていない。

 幅が狭い上に土が剥き出しの未舗装道路だが、枝葉が雨を遮っている為に地面はさほど水を吸っておらず、戦車で行動するにも支障はなかった。

 意識を失ったままの槙野まきのは途中で見つけた民家の物置小屋に寝かせてある。出血があることを考えれば、安静にしておくことが第一である。

「楓、停止しろ」

「承知した」

 短いやり取りの後、霊山は静かに停止した。

 ――それにしても。初めて乗る戦車を、こんなにうまく操縦できるなんて――。

 由機は楓の操縦技術に心の底から敬服していた。

 機十郎の指示に的確に応え、操縦の難しいチハを自在に操る腕前を見る限り、楓が戦車を操縦するのが初めてとは思えない。おそらくは、どこかで戦車を操縦した経験があるのだろうと由機は考えたが、それを確かめる気にはならなかった。今は作戦行動中だ。

「由機、ハッチを開け。砲塔から出て俺について来い」

「はい!」

 由機は即座に返事をし、重い砲手用ハッチを上に押し開けて上半身を乗り出した。

「急げよ」

 そう言う間に、機十郎はもう地面に降り立っていた。

「わっ、待ってくださいよ」

 由機は急いでハッチから這い上がり、自らも地面に降り立った。


「……どうだ、飛行場の様子が見えるか」

 低木の茂みに身を隠しながら、機十郎は傍らの由機に問いかけた。

「……はい」

 木々の向こうに雨ざらしの滑走路が見える。その先にある駐機場では、六機のセスナが骸を晒していた。

「セスナだって安いものではあるまいに。被害総額を算出するだけで大変だな」

 由機と同じものを見ていた機十郎が「やれやれ」とばかりに嘆息する。

「……でも、それは私達が考えることじゃないでしょう?」

 由機は前方に目を向けたまま、突き放すように言った。

「……ふふっ。言ってくれる……確かにその通りだ。ところで……」

 機十郎が滑走路の隅にある何かを指で示した。

「あれが見えるだろう」

「……はい。確か、ソ連製の七六ミリ野砲ですか」

 機十郎が指し示したものは切り立った防盾に長い砲身、砲口制退器マズルブレーキを備えたZis‐3・七六ミリ野砲だった。

 今回の戦いにおいて機十郎が最も警戒する兵器だが、飛行場の正面に砲口を向ける位置にある為、こちらに無防備な側面を晒す格好となっていた。これでは、自慢の長射程も大威力もまったく意味がない。

「そうだ。まずはあいつを無力化する。続いて、滑走路の反対側にいるあいつだ」

「さっき撃破した対戦車砲にそっくりですね。砲身はこっちの方が長いですけど」

 続いて機十郎が指し示したのはZis‐3と同じく旧ソ連製のM‐42・四五ミリ対戦車砲だった。

「先ほどの対戦車砲の改良型だからな。装甲貫徹力はこちらの主砲と同程度だ。あのように背を向けているのでは、威力も何も関係ないが」

「他の兵器の姿が見えないのが気になりますね」

 由機は飛行場を見渡せる限り見渡してから、不安を口にした。

「格納庫の中だろう。あそこに三式と三七ミリ砲が隠れているはずだ。滑走路上の二門を片付けたら移動しつつ格納庫に連続で榴弾を撃ち込め。そうなれば三式はたまらず出てくるだろう。そこを仕留めればいい」

 機十郎は駐機場の横にある格納庫を指で差し、こともなげに言った。

「三七ミリ砲は?」

「榴弾を数発撃ち込めば格納庫内の可燃物に火がく。そのまま焼き殺してしまえ」

 その回答はまさしく『冷酷』そのものだったが、由機はそれを聞いても全く動じなかった。

「さて、由機。戦車に戻るぞ。夜になる前に敵を撃滅する」

「夜になる前に、ですか?」

 機十郎が不敵な笑みを浮かべる。

「そうだ。夕飯ゆうはん抜きで戦い続けるなんざ、俺は御免だからな」

 由機は数秒の沈黙の後で、大きく頷いてみせた。

「……はい。私もです」

 全身に鳥肌が立つのが分かった。『恐ろしい』と表現すべき機十郎の笑顔が、たまらなく眩しかった。

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