第二十話『逢魔時(おうまがとき)の開戦(後編)』
雷鳴と共に現れた三式中戦車は停止したきり、動きを止めていた。
やがて、由機が意を決して足を踏み出そうとしたその時、車体前部から張り出した黒光りする筒のようなものが僅かに動いた。
「…………ッ!」
由機が反射的に横へ飛び退くと同時に、筒の先から連続して閃光が走る。
けたたましい銃声と共に、先ほどまで立っていた場所に大きな水しぶきがいくつも上がった。
――機関銃――!
鋼鉄の猛獣が明確な殺意を示して見せたことに例えようのない恐怖を感じながら、由機は槙野の身体を引きずって民家のブロック塀の陰に隠れた。
――一体、どうすれば……!
地面に伏せながら思案に耽っていると、再び機関銃の発射音が轟いた。
身を強張らせる由機の頭上にコンクリートの破片が降る。塀の内側にある民家のモルタル壁に無数の穴が空くのが見えた。
機関銃弾がブロック塀を容易く撃ち抜いていることが分かり、慄然とする。ここに隠れることは無意味だ。
――早く、槙野さんを連れて逃げないと!
銃声が止むのを待って身を起こしかけた由機の耳が、再びモーターの回転音を捉える。砲塔が旋回する音だ。
咄嗟に身を伏せた瞬間、これまでに経験したことのない轟音と閃光が、衝撃波と共に由機を襲った――!
自分が生きていることに気づいたのは、それから十秒ほど経ってのことだった。 あまりにも強い音と光に、数秒間、全身の感覚が麻痺していたのだ。
「うっ……ごほッ、ごほッ!」
自身に覆いかぶさる崩れたブロック塀とモルタルの破片を払いのけ、激しく咳きこむ。口の中が砂だらけだった。
雨で顔を洗うようにしてようやく目を開けた由機の前に、殺伐たる光景が広がっていた。
「……嘘……」
平屋建ての民家が……
近代兵器の持つ威力を初めて目の当たりにし、全身の血が凍る思いだった。
火砲から撃ち出される弾丸は単なる金属の塊だと思っていた。爆発を起こして目標を粉砕する
背後から聞こえる重い金属音が、由機を現実に引き戻す。顔を上げれば、自身と三式中戦車を隔てていたブロック塀が消えていた。
視線の先に、文字通り無機質な戦車の顔――砲塔前面の装甲と主砲がある。
本来、砲兵部隊の装備である九〇式野砲に必要最小限の改修を施し戦車砲とした、三式七
ギアの回転する音と共に、主砲が僅かに下を向いた。明らかにこちらを狙おうとしている。
――まずい……!
死の危険を感じた由機だったが、主砲の射線が自身より上にあることに気づいた。
――これ以上、大砲を下に向けられないのか――!
主砲の俯角に限界があることを悟り、槙野の身体を瞬時に抱え上げる。自分にこれほどの力があったのかと内心、驚いていた。
槙野の身体を背負ったまま崩れたブロック塀を乗り越え、三式の側面を走り抜ける。戦車という兵器の欠点――周囲に対する視界の悪さを即座に理解した上での行動だった。
後方で履帯がアスファルトを削る音が聞こえたが、
――私を見失えば、あの戦車も諦めて撤退するはず!
一刻も早く槙野を小三坂の下へ送り届けたいが、刀と合わせて七五キログラムもの重量を架したまま移動を続けるのは困難だ。
敵をやり過ごし、危険が遠ざかった後で移動するのが賢明だと判断した。
自転車一台がやっと入れるほどの通路を発見し、急いで滑り込んだ。
通路の突き当たりに辛うじて身を隠すほどの空間を見つけ、石畳の上に槙野を下ろす。ちょうど民家の屋根の下になる為、雨もしのげる。
槙野の身体を小さなステンレス製物置の壁に寄りかからせようとすると、左手にぬるりと生温かい感触があった。雨ではない。
逃げるのに必死で気づかなかったが、槙野の右上腕部からは血が溢れ出していた。
――槙野さん。砲弾が爆発した時に――!
すぐに懐からハンカチを取り出して傷口を縛り、濡れないように右腕をビニール袋で覆う。
出血の量からして死に至るほどではないものの、可能な限り早く治療を行う必要がある。だが、迂闊に動けば補足され攻撃を受ける危険が大きい。
木造モルタルの建物を一撃で粉砕する七五ミリ榴弾の破壊力。開けた場所で炸裂すれば、爆風と破片による危険範囲は半径二〇メートルに達する。
一体、どうすればよいのだろうか。必死に思考を巡らせる由機の耳に、あの忌まわしい轟音が飛び込んできた。砲声だ――!
民家の窓ガラスが震動するのに合わせて、自身の身体が小さく震えるのが分かった。
獲物の姿を見失った三式はまるで八つ当たりをするかのように、周囲の建物を手当たり次第に破壊し始めたのだった。
耳をつんざく主砲の発射音と榴弾の炸裂音。建物の壁を鋼鉄の車体で突き壊し、崩れた建材を履帯で踏みにじる音。それらに交じって時折、銃声とガラスの割れる音が聞こえた。
そうした音の一つ一つが鋭い刃のように、由機の胸に突き刺さった。
ぶるぶると身体を震わせ、二つの拳を固く握り締める。恐ろしい兵器に対して何も反撃の手段を持たない自分の無力さが腹立たしく、情けなかった。
やがて、砲声が止み履帯の音とエンジンの排気音が彼方へ遠ざかるのを待って、由機はようやく腰を上げ、槙野の身体を引きずりながら通路の外へと歩み出た。
そして……由機は目の前に広がる光景に言葉を失った。
崩れた家々に散乱する壊れた家具、立ち昇る黒煙。踏み荒らされた道路に花壇。スクラップと化した自動車に倒れた電柱……。
ニュース映像で見た、異国の戦場の光景が脳裏に蘇った。
放心状態のまま再び踏み出した由機の足が、何かを蹴飛ばす。
『足蹴にする』――物に足で触れるなど由機にとってあるまじきことだったが、この状況では何とも思わなくなっていた。
構わず歩を進める由機だったが、街のどこかから慣れ親しんだメロディが聞こえてくることに気づいて足を止めた。
「この曲……」
由機が生まれ育った
阿見町でもこの曲が時報として使われているのか……しかし腕時計が示すのは午後五時一二分という中途半端な時間であり、電柱のスピーカーから音が聴こえる様子もない。
そもそも阿見町のほぼ全域で停電が続いている以上、時報が流れるはずもない。
音の主を求めて周囲を見渡す由機の目に入ったのは、足元に転がる小さな木箱だった。
「オルゴール……?」
ややあって、自分が蹴り飛ばしたものがそれだったのだということに気づく。蹴られた拍子に蓋が開いてしまったのだろう。
引き寄せられるように手を伸ばしオルゴールを拾い上げた由機は、内側の真鍮プレートに刻まれた文字を、抑揚のない声で読み上げた。
「大好きなお母さんへ。お誕生日おめでとう……」
やがて由機は無言でオルゴールの蓋を閉じ、冠水したアスファルトの地面に膝を着いた。
「……私の……私のせいだ……」
目から大粒の涙が溢れ出た。
「私が、逃げたりしたから。私が隠れたりしたから……!」
住民の避難が完了している以上、一般人の死傷者は出ていないはず。しかし、人々の大切な思い出が詰まっていたはずの家々が破壊され、街は傷ついてしまった。
「うぅっ……」
由機は声を上げて泣いた。そんな自分の涙を、慟哭を、降りしきる雨と雷鳴がかき消すのが悔しかった。
やがて……由機の心に悲しみとは別の感情が湧き起こった。
「……一体、どうすれば」
槙野を道端に座らせ、小さな声で呟く。
――どうすれば……あの戦車を倒せるだろう。
街を破壊し人々の営みを踏みにじった、あの戦車に対する激しい怒り……雨で冷え切ったはずの身体が、煮えたぎるように熱くなってゆく。
「あいつだけは……絶対に許せない」
そう言って、由機は刀袋を包んでいたビニール袋を取り払った。
――誰があの戦車を倒せるのか……警察では歯が立たないのは目に見えている。それじゃ、自衛隊? まさか。今の法律で自衛隊が国内外を問わず、武力攻撃に即時対応できるはずがない。現に、ここまでの破壊が行われているにもかかわらず、
刀袋の中から軍刀を取り出しながら、由機は心の中で問答を続けた。
――あの人なら……あの戦車と戦えるかもしれない。でも……今、ここにいるのは私だけなんだ。あいつと戦えるのは、私しかいないんだ。
「私が……あいつと戦うんだ」
由機は両手で握り締めた軍刀を、未だ涙の
――あの人が乗っていた戦車の装甲から作られたというこの刀なら、きっと――!
前に現れた時には錆だらけだった戦車が、果たして戦力になり得るかは分からない。それでも、あの三式中戦車と戦えるものが他にあるとは思えなかった。
「……
軍刀の柄にかかった右手の親指が
「それでも……私は、この街を破壊したあの戦車を許せない。このまま放っておくわけにはいかない。だから、お願い……霊山。あの戦車を倒す為に、力を貸して!」
抜き放たれた刀身に涙の雫が落ちた瞬間、刀身が青く輝いた。
「……霊山……!」
由機は静かに頷くと、青い輝きを放つ軍刀を高く掲げ、その
刀を包み込む輝きが一条の光となり空に通じた瞬間、由機は意識を失った――。
由機が再び目を開けると、そこは暗闇の中だった。
立ち上がろうとして、頭をぶつける。ひどく狭い空間に閉じ込められていることが分かった。
この狭さ、鉄と油の匂い……ここは、間違いない。戦車の中だ。
――私、今……霊山の中にいるの……?
「おっ、起きたか」
陽気な声がする方へ振り向くと、不意に車内が明るくなった。
眩しさに両手で目を覆う由機に、何かが差し出される。コンビニエンスストアの袋だった。
「よく一人でここまで来たな。腹が減っているだろう、食べろ」
右手に懐中電灯、左手にビニール袋を持ち、屈託のない笑顔を浮かべる青年――機十郎。
「ユキ。待っていたぞ」
機十郎とは別の方向から聞こえるのは楓の声だった。
「楓ちゃん、ニコライさん……二人とも、どうして」
「こいつだ。霊山が導いてくれた。青い光が見えた方に飛んで来たのさ。それより、さあ」
機十郎に促され、由機は袋を手にした。
「あ……ありがとうございます」
袋の中に手を伸ばしたところで、意識を失い怪我をした槙野のことを思い出す。
「そうだ! 私の近くにいた――」
「心配無用だ。槙野陸士長は私の隣に座らせている。止血手当も済ませた」
由機の質問を察した楓がハキハキと答えた。
「ありがとう……楓ちゃん」
ここに到って、車内の様子がようやく見えてきた。
自分が座している場所は砲塔の真下、主砲基部の左側――砲手の位置だった。
楓は車体前部右側――操縦手の位置に、機十郎は主砲基部の右側――車長の位置にいる。
何故、乗ったこともない戦車の車内配置と内部構造が分かるのか。その理由は分からなかったが、由機は自身が空腹であったことを思い出し、灯りを頼りにカレーパンとコーヒー牛乳を袋から取り出した。そして夢中で食べ、夢中で飲んだ。
カレーパンとコーヒー牛乳が、これほど美味な物だとは思わなかった。
「……ご、ごちそう様……でした……!」
カレーパンとコーヒー牛乳を腹に収め、由機は大きく息を吐いた。
「うむ、こちらこそ。握り飯もおかずも、おいしくいただいたぞ。ごちそう様」
「同じく。ごちそう様でした、ユキ」
機十郎と楓は手を合わせ、由機に小さく頭を下げた。
「あ、いえ……おそまつ様でした。お口に合って、よかった」
ようやく心に余裕が生まれ、由機は二人に微笑んでみせた。
「本当は、お前の分も取っておきたかったが。何せ今は梅雨だ、腐るといかんから全部いただいたぞ」
「ユキ。今夜はコトレータを作ると言ったが……この分では、何時に帰れるか分からないな。夕飯は外食になりそうだが、それも悪くはない」
「え……ふふっ」
由機はにわかに可笑しくなり、笑いを漏らした。自分と二人をつなぐもの……それは『食』なのだと実感した。
「さて……ひと心地ついたところで、本題に入ろう」
機十郎が、不意に表情を引き締める。
「ここに来る前に楓と俺で調べた結果、阿見町と土浦市内の各所で道路や鉄道、通信施設や送電設備が破壊された痕跡が見つかった。いずれも三七ミリ級から七五ミリ級の火砲による、人為的な破壊だ。これは現在も市街地に潜伏する戦車と火砲による仕業だと俺は確信している。この街は……兵器の亡霊達に占領されたも同じだ」
「兵器の……亡霊……」
由機の脳裏に、破壊の限りを尽くして去っていった三式中戦車の忌まわしい姿が蘇る。
「お前も見たんだろう。この辺りを相当、荒らし回ったようだな」
由機は無言で頷いた。
「そして、ここからが重要だ。現在いる地点を中心に半径約二キロの範囲内で、全ての通信機器が機能を停止していることが分かった。そして、この範囲から外の空間へ出るのが不可能であることも。この街は文字通り、外界から隔絶されている」
由機が、その言葉に即座に反応した。
「外界から隔絶……それじゃ、さっき私が見つけた男の子は?」
「ああ。晴之という坊ちゃんか……よくやったぞ、由機。安心しろ、愛犬と揃って自衛隊に保護されるのを見届けた。この街を外界と隔てる『霧』が発生したのは、その後だ」
由機がほっと胸を撫で下ろすのを確認してから、機十郎は言葉を続けた。
「由機、楓。この中で唯一の実戦経験者として、俺はお前達に言っておくことがある」
普段とはうって変わって威厳に満ちた機十郎の声に、由機と楓は自然と居住まいを正していた。
「俺は自分の指揮下で百人以上の部下を戦死させ、しかも負けてはならない戦いに、二度も負けた。それを理解した上での答えが聞きたい」
楓と由機、二人の視線が自分に向いていることを確かめてから、機十郎は車体の床板に正座した。
「この戦車を運用するには、最低でも二名の人員を必要とする。戦闘を行う為には、三名の人員が必要だ。単刀直入に言おう……この街を占領する敵を排除する為に、お前達の力を借りたい。これはお前達の祖父としてではなく、一人の人間としての頼みだ」
言い終わると、機十郎は膝に手を着いて頭を下げた。
しばしの沈黙の後、口を開いたのは楓だった。
「お祖母様は、お祖父様を最高の戦車兵だと評していた。私はお祖母様の言葉を信じている。だから私は、お祖父様を信じる。お祖父様の孫として……この戦車の搭乗員として」
迷いを全く感じさせない口調だった。
「ありがとう、楓」
機十郎が力強く頷いたのを見計らって、由機は徐に口を開いた。
「私が今、考えていること。それは、どうすればあの三式中戦車を倒せるか……それだけです。私は、あの戦車を倒す為に……この戦車――霊山を呼びました」
由機は一呼吸置いてから、言葉を紡いだ。
「勿論、私は戦車に乗ったことなんてありません。それなのに……どうしてか分からないけれど。今の私には、この戦車のことが分かるんです。操縦方法も、照準・射撃の方法も。だから……」
由機は立ち上がり、錆だらけの装甲内壁に手を当てた。
「私は戦います。霊山に乗って。楓ちゃんと……あなたと一緒に」
由機が言い終えると同時に、車内が
「これは……!」
楓が思わず声を漏らす。
赤茶色に朽ちていた装甲内部が本来の色に……まるで新品のような純白に染まってゆく。
空になっていた弾薬箱に真新しい砲弾が姿を現し、主砲の尾栓(閉鎖器。薬室に装填した砲弾を密閉する機構)や砲塔旋回ハンドル、照準器が輝きを取り戻す。そして動きを止めていた心臓部――一七〇馬力のV型一二気筒・ザウラー式ディーゼルエンジンが唸りを上げた。
装甲を通じて伝わるエンジンの鼓動。死んでいたはずの戦車が……生き返ったのだ。
「……こいつは凄いぞ! まるで新品じゃないか!」
立ち上がり、車長用ハッチから顔を出した機十郎は感嘆の声を上げた。内装だけでなく、錆で赤茶色一色だった外部の装甲が、本来の迷彩色を取り戻していた。
機十郎はハッチを閉め、不敵な笑みを浮かべた。
「二人とも、感謝する。おかげで霊山もその気になった……これで決まりだ。今度は勝つぞ」
「はい!」
由機と楓が、寸分違わぬタイミングで同時に返事をした。
「楓、操縦は任せたぞ」
「承知した。お祖母様の遺したレポートで学んだ知識と技術を活かす時は、今を置いて他にはない」
「頼りにしているぞ。さて……由機。お前にはこいつの世話を頼む」
機十郎はそう言って尾栓を優しく撫でた。
「分かりました。砲塔の操作と照準・射撃ですね」
「そうだ」
機十郎は力強く頷き、懐中電灯のスイッチを切った。車内灯が復活した為、当面の間は使う必要がない。
「それでは、これより作戦を開始する。目的は市街に潜伏する戦車二輌と火砲四門を撃滅し、外部との連絡を回復すること。いいな」
「はい!」
二人の力強い声に反応したかのように、エンジンが一際大きく唸りを上げた――!
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