第十三話『よみがえりしものたち(後編)』

 小さな音と共に雫が一つ、額に落ちた。

 その冷たさに、由機は思わず身を震わせる。

 ゆっくりと目を開けて周囲を見渡すと、見慣れない光景がそこにはあった。

「……あれ……?」

 タイル張りの浴室に、ステンレスの浴槽。壁も床も天井も綺麗に磨かれてはいるが、それでも年季を感じさせる。

 浴槽は辛うじて足を伸ばすだけの広さがあるものの、浴室全体はお世辞にも広いとはいえない。ここは――自宅の浴室ではない。

 由機はハッとして立ち上がったが、やがて再び浴槽に身を沈めた。

 ――そうだった。今日は楓ちゃんの家に……。

 そして、再び目を閉じた。湯温は熱過ぎず、ぬる過ぎず、快適だった。心地良さに疲れも手伝って、そのまま眠ってしまったのだろう。

 由機は目を閉じながら、ここに至るまでの経過を振り返った。


「……これでよし、と」

 機十郎は芝生の上に膝を着いて、青く輝く軍刀を静かに鞘に納めた。

 由機はまた何事か起きはしないかと固唾を呑んで見守っていたが、軍刀にもそれを持つ機十郎にも異変がないのを見届けると、安堵のため息をついた。

「……何だ。何も起きなかったのが、そんなに不満か?」

「そんなわけないでしょう!」

 振り返ってこちらを見る機十郎の言葉を、由機は間髪入れずに否定した。

「ははは、まあそうカッカするな。それはさておき、今は何時だ?」

「二〇時四三分だ、お祖父様。そろそろ……私は帰らなくては」

 楓が腕時計を見ながら、やや寂しげに答えた。

「あ……その、楓ちゃん。会おうと思えば、またいつでも会えるんだし。ね?」

「……そうだな」

 由機が慌てて声をかけると、楓は小さく口角を上げて微笑んでみせた。

 機十郎は楓の肩に優しく手を乗せて頷いた。

「ありがとう、ユキ。お祖父様」

 楓は二人に感謝を述べてから、足を踏み出した。由機と機十郎はそれを待って、自分達も縁側へと向かった。


「さて……和機かずき真由子まゆこさんには、何と言ったものかな」

 座卓に頬杖をついてニュース番組を退屈そうに観ながら、機十郎が呟いた。

「うっ……」

 楓の帰り支度を手伝っていた由機が、思わず口ごもる。

 ただでさえ、生前は仲の悪かった機十郎と息子夫婦。第一、死んだ人間が若返って生き返ったなどという話を信じてくれるかどうかも分からない。

 一悶着起こるのは目に見えている。こうして穏やかにしている機十郎も、いざ二人と顔を合わせれば、そうではなくなってしまうかも知れない――。

 由機の胸に、じわじわと焼けつくような痛みが広がってゆく。

「ありのままに、あったことを説明するしかないと思います」

 由機は胸の痛みに耐えながら、意見を述べた。

「……そう思うか?」

 機十郎は由機に一瞬だけ冷たい眼差しを見せてから、楓の背中に視線を移した。

 由機は一瞬の間を置いて、その意味を理解した。

「……いえ、それは……」

 両親は機十郎に婚外子がいることを知らない。詳しい事情を説明するには、楓にも同席してもらう必要がある。

 しかし、二人が機十郎を嫌悪していたことを考えれば、妻や家族への背信の証ともいえる楓に対し、どんな態度を取るだろうか。

「ユキ」

 楓は落ち着いた声を発して、立ち上がった。

「……あっ! 帰るんだね」

 由機は我に返り、とりあえず返事をした。

「ああ。お祖父様と一緒に」

 そう言って、楓は機十郎に微笑んだ。

「……え?」

 由機は楓の発した言葉が信じられず、楓と機十郎の顔を交互に見た。

「……いいのか、楓?」

 目を丸くする機十郎に、楓は恥ずかしそうに微笑みながら頷いた。

「勿論だとも。お祖父様は家族なのだから」

「すまないな、助かる」

 機十郎は照れ臭そうに笑って頭を下げた。

「――待ってください!」

 由機は自分でも驚くほどの大きな声を出していた。

「……何だ、由機?」

「どうしたのだ? そんな、切羽詰まった顔をして」

「あの……」

 口を開いたものの、うまく言葉が出てこない。数秒の沈黙の後、由機は大きく息を吸い込んでから言葉を紡いだ。

「楓ちゃん、駄目だよ!」

「……何が駄目なのだ、ユキ?」

 数秒の沈黙の後、楓は怪訝そうに問いかけた。

「何がって……楓ちゃんは一人暮らしでしょう? その、何ていうか……」

 言葉を濁す由機を前に楓が首をかしげる。

「……ふぅむ、なるほど」

 ややあって、機十郎が顎に手を当てながら呟いた。

「由機。ひょっとして……俺と楓が間違いでもしでかすんじゃないかと、そう考えているのか?」

「……っ!」

 由機は顔を真っ赤にして俯いた。あえて明言を避けていたことを、機十郎がさらりと口にしてしまったのだ。

「お祖父様。間違いとは何だ?」

 楓が不思議そうに尋ねた。

「そりゃ、決まってるさ。男と女が一つ屋根の下で一夜を――」

「わぁぁっ! 言わなくていいです!」

 由機は慌てて機十郎の言葉を遮った。

「由機よ……お前は俺が孫に手を出すような、見境のない男だと思っているのか?」

 機十郎は幾らか落胆した表情で問いかけた。

「そ、それはその……楓ちゃんはどうなの? 女の子の一人暮らしに男の人を泊めるんだよ。不安じゃないの?」

「……おかしなことを言う。お祖父様は家族だぞ? それに、私の家に泊まるのでなければ、お祖父様は君と同じ家で眠るのだろう。それは問題ないとでも言うのか?」

 呆れたような表情を見せる楓の隣で、機十郎が腕を組みながら二、三度頷いた。

「えぇと……それは……」

 再び口ごもりながら、由機は時計を見た。時刻は午後八時五二分。ぐずぐずしていては両親が帰って来てしまう。

「……では、こうしよう」

 困り果てた由機を見かねたように、楓が声を上げた。

「え?」

 振り返った由機に楓が微笑む。

「お祖父様と私だけというのが、不満なのだな。ならば話は簡単だ。ユキも一緒に、私の家に泊まればいいではないか」

 機十郎がぽん、と手を叩いて楓の提案に賛意を示す。

「え……?」

 由機は再び小さく声を上げ、楓と機十郎の顔を交互に見た。


「……はぁ」

 由機は格子状のタイルが貼られた天井を見上げながら、小さくため息をついた。楓の提案を受け入れて自らも泊まりに来たが――本当に、これでよかったのだろうか。

 居間のテーブルには友人の家に泊まるという内容の置手紙を残し、夕飯のおかずがどこにあるかも分かるようにしてきたが、外泊など滅多にないことなので両親はきっと驚くだろう。

「しょうがないよね……」

 由機は一言呟くと、左手でそっと浴槽の湯をすくい、右肩にかけた。機十郎が入った後の湯であったが、そのことは気にならなかった。

 機十郎が「九年ぶりの風呂だ」と言って入浴したことから警戒心を持って浴槽の蓋を開けたが、湯は思いの外綺麗だった。

 後に入る人のことを考えて、身体をよく洗ってから湯に浸かったのだろう。由機は、祖父――機十郎がそういった気遣いのできる人間だとは思っていなかった。

「本当に……おじいちゃんなの?」

 天井を見つめながら、ぼんやりと呟いた。

 次の瞬間、浴室の隣にある脱衣所のドアが開く音が聞こえた。由機は驚いて浴室のガラス戸に目を向けた。

「……ユキ。湯加減はどうだ?」

 続いて脱衣所から聞こえてきたのは、楓の声だった。

「……う、うん。とってもいいお湯だよ」

 由機は高鳴る胸を両手で押さえながら、平静を装って返事をした。

「そうか。長く入っているようだから、のぼせているのではないかとお祖父様が心配していた。だから様子を見に来たのだ」

「え……」

 由機は両手で胸を押さえたまま、動きを止めた。

「どうやら、心配はないようだな。それなら問題ない」

 楓の声には安堵の響きがあった。

「ありがとう……」

「礼には及ばない」

 楓がいつもの調子で抑揚のない声を発する。由機はそれが妙に可笑しく、クスリと笑いを洩らした。

 それから数秒後、由機はあることに気づいた。

 楓が脱衣所を去ろうとしない。脱衣所には洗濯機と洗面所があるので、洗濯か洗顔でもするかと思ったが、そういった音は聞こえない。

 その代わりに由機の耳に聴こえてきたのは、衣擦れの音だった。

「え……?」

 やがて、浴室のガラス戸越しに楓の肢体と白い肌が浮かび上がる。

「……楓ちゃん……?」

 由機が言葉を発するのと同時に、ガラス戸が開け放たれた。

「ユキ。背中を流そう」

 楓はそう言って、一糸纏わぬ姿で浴室へと足を踏み入れた。

「あ…………」

 由機はしばし楓の美しい肢体に見惚れた。

 透けるように白く滑らかな肌に、ほど良く肉付きのある長い手足。豊かで張りのある胸とくびれた腰、瑞々しい太腿から足首にかけての美しい曲線。

 その美しい肌とプロポーションは下着モデルやテレビで見るグラビアアイドルのそれを、遥かに上回っているように思えた。

「……あまり、見るな。恥ずかしいではないか」

 楓が見せた恥じらいの表情に、由機は慌てて視線を逸らした。

「ご、ごめんなさい! でも……一緒に入るなんて、その……」

「最初は君が上がるのを待つつもりだった。だが、私も一緒に入りたくなってな」

 楓は戸を閉めながら、照れ臭そうに言った。

「ユキ。座ってくれ」

 楓は床に膝を着くと、浴室用の小さな椅子を示した。

「え、でも……もう身体は洗ったから……」

「背中を自分で洗うのは難しいだろう。さあ」

 楓はそう言って、由機に微笑んだ。

「……うん」

 由機は戸惑いながらも浴槽から出て、椅子に腰を下ろした。


「ユキの肌はとても綺麗だな」

 石鹸で泡立てたボディータオルで背中を優しく擦りながら、楓が言った。

「え、そんな……楓ちゃんの方が色も白いし、それに……」

 そう言いながら、由機は楓の豊かな胸に視線を移した。

 ――負けた……。

 普段、人からは『スリム』と称される由機の身体つき。胸の大きさもそれ相応といえる。対して、楓の胸は自身のそれよりも二周りほど大きいように見えた。

「……心配するな。ユキもすぐに大きくなるぞ」

 楓は由機の心を見透かしたかのように、励ましの言葉をかけた。

「えっ? 私は、その……! そういうわけじゃ……」

 慌てて否定する由機の肩に、楓の長い腕が触れた。

「きゃっ! か、楓ちゃん……?」

 楓は後ろから優しく由機の身体を抱き寄せた。

「……私は嬉しい。日本に来て初めてできた友達が……私の家族だったなんて。まさか、こんなことが現実にあるとは思っていなかった」

「……楓ちゃん」

 由機は楓が取った突然の行動に驚いたが、そっと楓の手に触れた。

「……ユキ。一つ聞きたいのだが」

 由機の肩に手を回したままで、楓が口を開いた。

「何?」

「ユキはどうして、お祖父様に他人行儀に接するのだ?」

 楓の声に、責めるような口調は含まれていなかった。

 由機が答えに窮するのを見た楓はそっと腕を解き、浴槽の湯を桶ですくって由機の背中を流した。

 背中を温かい湯が洗い流す心地良さに、由機は小さく息を吐いた。

「何て言えばいいのかな。死んだ人が若返って生き返る、なんてことが受け止められないっていうか……」

 少しだけ考えを整理できた由機は、鏡に映る自分と楓の姿を見つめながら口を開いた。

「あの人が、私のおじいちゃんだっていう実感がどうしても湧かなくて。私の持っていたおじいちゃんのイメージと、あまりにも違い過ぎるの。だから……『おじいちゃん』と呼ぶ気にもなれなくて」

「そうか」

 楓は再び浴槽から湯をすくうと、由機の肩に優しく流した。

「そう言う楓ちゃんはどうなの? ああして話すことに、抵抗はないの?」

 鏡に映る楓の顔に、困ったような笑みが浮かぶ。

「本当のことを言うと……私も不安だった。お祖父様本人に言った通り、お祖母様の前から消えたお祖父様を恨んでいる気持ちもあった。だが……いざ、お祖父様に抱き締められると、嬉しさでそんなものは吹き飛んでしまった」

 何と返せばいいのか分からず、由機は鏡に映る楓の瞳を無言で見つめた。

「大丈夫。ユキもすぐに、お祖父様と仲良くなれるから」

 由機がこれまでに聞いた中で、最も優しげな楓の言葉だった。

「そう……かな」

「ああ、私が保証する。ところで、ユキ。誕生日はいつだ?」

 楓の質問は、いささか唐突だった。

「二月二日だけど……それが、どうかしたの?」

「……そうか」

 楓が静かに由機の横に回り込む。その意味を量りかねる由機のほほに、柔らかい何かが触れた。

「…………っ!」

 由機は鏡を見て、自分の身に何が起きたのかを理解した。

「か……楓ちゃん! 何を……!」

 頬に触れていたのは――楓の唇だった。

 やがて楓はそっと唇を離し、鏡の中の由機に微笑んだ。

「親愛のしるしだ。私の誕生日は三月五日……ユキは、私のお姉様だ」

「し、『親愛のしるし』って……!」

 由機は顔を真っ赤にして俯いてしまった。

「頬にキスをしただけでこれか……唇にキスでもした日には、どうなるのだろうな」

 楓の口調に、からかっている様子は微塵みじんもなかった。

「か、楓ちゃん! ここはウクライナじゃなくて、日本なんだから。私は、その……こういうことに慣れてないし……!」

「その通り。私はウクライナ人で、ユキは日本人だ。そして、ユキは私の家族だ」

 楓が誇らしげに胸を張る。豊かな乳房が揺れる様を横目で見て、由機は再び俯いた。

「さあ、湯船に入るといい。体が冷えてしまう」

 黙りこくる由機を気遣ってか、まるで保護者のような口調だった。

「……ねえ、楓ちゃん」

 ややあって、由機は徐に顔を上げて振り返った。

「何だ、ユキ?」

 由機は頬を赤らめたまま、遠慮がちに切り出した。

「今度は……私が背中を流してあげたいんだけど。いいかな?」

 楓はしばし無言で由機の瞳を見つめていたが、やがて嬉しそうに頷いた。


「おっ、上がったか」

 パジャマに着替えた由機と楓に機十郎が声をかけた。

「遅くなって申し訳ない、お祖父様」

「気にするな。ところでどうだ。風呂上りにサイダーでも飲まんか?」

 言うが早いか、機十郎は手にしていた新聞を畳んで立ち上がり、台所へ向かった。

「冷蔵庫、開けるぞ」

 台所から聞こえてくる声に、由機と楓は苦笑した。


「それにしても、プラスチックの瓶とはな。世の中、どんどん便利になる。まったくもって、驚くことばかりだ」

 機十郎はそう言いながら、幸せそうな顔で1.5リットルペットボトルのキャップをひねった。

「おおっ」

 注ぎ口を開けると同時に炭酸ガスが噴き出る音に小さく声を上げた後で、機十郎は由機と楓にテーブルのグラスを取るよう手で促した。

「……お祖父様、まだ飲んでいなかったのか?」

 ペットボトルの中身が減っていないことに気づいた楓が尋ねる。

「ああ、そうだが」

「……あんなに飲みたがっていたのに」

 由機が小さく眉根を寄せた。

 機十郎が手にしているサイダーは楓の家まで来る途中、酒屋の自動販売機で購入したものだった。機十郎が「風呂上りにサイダーが飲みたい」と訴え、同時に未知の容器・ペットボトルに興味を持ったことから由機が手持ちの金で購入したのである。

「俺だけ先に飲むのも、なんだからな。まあ、一杯やれ」

「ビールじゃないんですから……」

 由機は苦笑しながら酌を受けた。

「ビールか。俺は好かんな。飲むならサイダーやカルピスの方がいい」

「お祖父様はお酒が飲めないのか?」

 酌を受けながら楓が尋ねると、機十郎は「ふふん」と鼻を鳴らした。

「飲めないことはない。好きじゃないだけさ。ウクライナではナターリヤによくウォッカを飲まされたもんだが、残念ながら俺にはうまいとは思えなかった」

「……お祖父様には、私が注ごう」

 楓は機十郎の手からペットボトルを受け取ると、機十郎が手にしたグラスにサイダーを注いだ。機十郎が祖母の名を口にした為だろう、その顔には柔らかな笑みが浮かんでいた。

「お……すまんな。では」

 機十郎がグラスを傾けるのを待って、由機と楓もそれに続いた。

「くはーっ! サイダーは飲み物の王様だな……生き返った甲斐があるってもんだ」

 機十郎は勢いよくグラスを空にすると、品良くサイダーを飲んでいた由機に視線を向けた。

「……お替りですか?」

 由機はグラスを置き、ペットボトルを手にした。

「いや、そういうわけじゃなかったんだが……すまんな」

 由機がサイダーを注ぎながら首をかしげるのを見て、機十郎が言葉を紡ぐ。

「さっきは金を出してもらってすまなかった。明日、骨董屋に行って来るからな」

「骨董……って、昔のお金を売るんですか?」

 機十郎が身に着けていた軍服のポケットには昭和十四年の軍票と満洲国の硬貨が入っていた。当然、現代の日本で貨幣として利用できるはずがなく、骨董品店やコイン商で換金する必要がある。

「ああ。俺の財産は全て和機に相続済みだからな。死んだ人間が生き返るというのは、面倒なものだ」

 機十郎は小さく嘆息してサイダーを一口含んだ。

「今日はこうして楓ちゃんの家に泊まりに来ましたけど、いつまでもそういうわけにはいかないですよね。機会を見て、家に戻りましょう。いつかはお父さんとお母さんにも話さないと」

「うむ。無論、それはそうだが……」

 機十郎の視線を察して、楓がグラスを置いた。

「私はユキのご両親にとって、招かれざる客だろう。だが、日本に来るということは、そういうことだと分かっていた。その時には、どうか――」

 頭を下げようとした楓の額に、機十郎の手が触れた。

「楓、頭を下げる必要なんかない。大丈夫だ、お前に厭な思いはさせないと約束する」

「お祖父様……ありがとう」

 楓が顔を上げて安堵の表情を見せると、機十郎は膝に手を着いて頭を下げた。

「二人とも。挨拶が遅くなったが……これからよろしくな」

 今、こうして生きていることに心から感謝の念を抱いている――そんな表情だった。


「ユキ、電気を消すぞ」

「うん」

 由機の返事を待って、楓は寝室の電気を消した。

 三人で話し合った結果、由機と楓は寝室で眠り、機十郎は居間で眠ることになった。楓の家は3Kの間取りで、台所に面した六畳の部屋を居間として、その奥に二つある五畳の部屋をそれぞれ寝室・書庫として使用していた。

 機十郎が現代の知識を可能な限り身に着けておきたいと言った為、楓は三週間分の新聞と一九九四年版の現代用語事典を居間に運び込んでから床に就いた。

「おやすみ、ユキ」

「うん、おやすみ」

 就寝前の挨拶を交わし、二人は目を閉じた。

「…………」

 目を閉じたものの、慣れない環境の為かすぐに寝付くことはできなかった。由機はふと隣の布団で横になる楓のことが気になり、そっと右側を向いた。

「……ユキ」

 それを察したかのように楓が声を発した。

「な……何?」

「私は、物心ついた時には両親を亡くしていた。母は私を産んですぐに病気で、軍人だった父はアフガニスタンで戦死した。私にとって家族と呼べるのは、お祖母様だけだった」

 楓は灯りの消えた天井を見つめながら、まるで他人事のように呟いた。

「そう……だったんだ。大変だったでしょう」

 由機が労わりの言葉をかけると、楓は小さく首を横に振った。

「寂しくはなかった。お祖母様と一緒にいられて、私は幸せだった」

 強がりや虚勢は感じられなかった。

「楓ちゃんのお祖母さんって、どんな人だったの?」

「お祖母様は……強く、優しい人だった。どんな時も私を愛し、守ってくれた。大祖国戦争――日本で言う独ソ戦では戦車兵として戦い、多数のドイツ軍戦車を撃破した強者つわものだったという。国は違えどお祖父様とは同じ戦車兵同士、惹かれ合うものがあったのだろうと思う」

 由機は無言で楓から顔を背けた。自身の家族を誇らしげに語る楓をうらやましく思った。

「ユキのお祖母様は、ユキが産まれる前に亡くなっているのだったな」

「うん」

 由機は楓に振り返ることなく応えた。

「ユキのお祖母様……小枝子さんはとても美しい人だったのだな。遺影を見て、ユキに似ていると思った……だが」

 楓はそこで一度言葉を区切り、大きく息を吸った。

「お祖父様と一緒に過ごしているうちに、考えを改めた。ユキは、お祖父様にも似ているな」

「え……っ」

 暗闇の中で由機は大きく目を見開いた。楓が口にしたのは、かつて由機が聞いたことのある言葉だった。

「ユキ。生前のお祖父様は、どういう人だったのだ?」

 由機は大きく深呼吸をしてから静かに寝返りを打ち、楓に向き直った。目が暗闇に慣れて、うっすらと楓の顔が見えた。

「何ていうか……とにかく無愛想な人だったわ。笑った顔なんて、殆ど見たことがなかったもの」

 自然と笑顔になっていることに、自分でも気がついていた。

「なるほど。それでは同一人物とは思えないのも、無理はないな」

「ふふっ」

 由機は小さく笑いを洩らした。楓が理解を示してくれたことが嬉しかった。

「もう寝なきゃ。おやすみ、楓ちゃん」

「おやすみ、ユキ」

 二人は向かい合ったまま、静かに目を閉じた。


 タクシー運転手・館林六郎たてばやし ろくろうは一日分の稼ぎを終えて、ラーメン店で遅い夕食を摂っていた。

 牛久うしくから土浦つちうらまでの客を乗せた帰り道、国道一二五号線沿いに営業中の店を見つけ、飛び込んだのだった。

 館林が入店したのは閉店時間とほぼ同時だったが、気のいい店主夫妻は看板だけ下ろし、「時間のことは気にしないで」と彼を迎え入れたのだった。

 貸し切り状態の店内で注文したのは、チャーシューメンにチャーハン大盛りと餃子一人前。五〇歳を超えてもなお、その食欲は盛んだった。

 目の前で湯気を立てる、薄くラードの浮いたスープをレンゲですくって一口飲む。長時間の運転がこたえた身に、醤油味の利いたスープがしみ渡ってゆくようだった。

 続いて同じレンゲでチャーハンの山を崩し、皿を口元に寄せて勢いよくかき込む。品の無い食べ方ではあるが、こうして食べると一層おいしく感じられた。

 幸せそうに食べる館林の姿を満足そうに見て、店主は厨房へと下がった。既にガスの火を落とし食器や調理器具もあらかた片付けてあるが、全ての仕事が終わったわけではない。

 妻はカウンターの奥で本日の売上を計算していた。館林が予め代金を払っていた為、これが終わればレジの中を空にできる。

 館林が箸に取った麺を啜ろうと、息を吹きかけて冷ましている時のことだった。

「…………?」

 店の外から、妙な音が聞こえてきた。

 硬質の金属とアスファルトが擦れ合う甲高く耳障りな音に、低出力のディーゼルエンジンの排気音。

 この店から一キロも離れていない場所には陸上自衛隊土浦駐屯地がある。館林も仕事柄何度かこの道を通り、自衛隊の車両が出入りするのを目撃している。

 しかし、こんな時間――午後十一時にもなって、自衛隊の車両が出入りすることは稀だ。

 館林は麺をすすると、後ろを振り返って道路に目を向けた。

 騒音は次第に大きくなってくる。甲高い金属音は、履帯キャタピラによるもの……おそらく、戦車などの装軌車両そうきしゃりょうだろう。

 音の主を確かめようと、館林は道路を睨み続けた。

 やかましさを増すその音に鼓膜がびりびりと震え始めたその時、視界に一輌の戦車が飛び込んできた。

 全長に比して高さばかりが目立つ垢抜けないフォルムに、寸詰まりといえるほどの短い主砲。車体前方に張り出した大きな起動輪、ムカデの足を思わせる細細こまごました下部転輪、それを覆う懸架装置カバー。

 砲塔と車体はリベットだらけで、車体後部には上に向かってカーブしたそりのようなものが見える。一目見てそれが現用の戦車などではなく、旧時代の遺物であることが分かった。

 目の前の道路を通過してゆく戦車の姿は、まるで鎧武者の亡霊のようだった。

「な……何だ、あれは……」

 言い終わるのと同時に、館林は全身の力が抜けてゆくのを感じた。

「お客さん! どうしたんですか!」

 異変に気づいた店主夫妻が店の奥から現れた時には、戦車は姿を消していた。

「お客さん、お客さん! 大丈夫ですか!」

 店主夫妻の声が、耳の中で反響する。しかし、指の先から爪先まで、身体のどの部分にも全く力が入らない。

 チャーハンの皿に顔を突っ込んだまま、館林の意識は闇の中に落ちていった――。

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