第十話『キージェ中尉』

 少女は街から家までの長い道のりを歩き終えようとしていた。

 少女の名はクラーラという。

 クラーラは絹糸のようにつややかな金色の髪と宝石のような青い瞳を持つ、美しい少女だった。小さな身体には不釣り合いな、大きな革の鞄を肩にかけ、晩秋の冷たい外気に耐えながら一人、舗装されていない、ぬかるんだ道を歩き続けていた。

 ――『夏はバケツ一杯の雨がスプーン一杯の泥となる。秋はスプーン一杯の雨がバケツ一杯の泥となる』――

 少女を育んだこの地――ウクライナに古くから伝わることわざである。

 カバンに詰め込んだ荷物を背負いながら往復一五キロの道を一人で歩き切ることが、この一〇歳の少女にとっての日常だった。


「ただいま」

 帰宅の挨拶と共に、クラーラはリビングのドアを開けた。

室内はひっそりと静まり返り、冷え切った空気がクラーラの白い頬に触れる。

「お祖母様ばあさま?」

 板張りのリビングの中央には大きなテーブルと六脚の椅子が置かれている。

 クラーラの祖母は部屋の入り口に背を向けて椅子に腰かけていた。クラーラはそっと歩み寄り、鞄から取り出した紙袋をテーブルに置くと、祖母の横顔を覗き込んだ。

 クラーラの祖母――ナターリヤは六五歳の老女だった。

 かつてはその美貌で男達を魅了し、若者顔負けの体力と負けん気の強さで周囲を振り回していたナターリヤだったが、数年前に体調を崩してからは急激に老け込んでしまった。

 かつて金色の輝きを放っていた髪は真っ白になり、きめ細やかで瑞々しかった肌は張りを失い、細かい皺が刻まれている。

 『白磁のよう』と形容された肌の白さと澄んだ青い瞳だけが、辛うじて若い頃の面影を残していた。

 老いと共にナターリヤが外出する頻度は減り、現在では街と家を行き来するのは孫のクラーラだけである。

「お祖母様。お祖母様」

 クラーラは静かに寝息を立てる祖母の肩を優しく叩きながら、呼びかけた。

「お祖母様、起きて。風邪をひいてしまうわ」

 しかし、祖母――ナターリヤが目を覚ます気配はない。

「あ……」

 クラーラは、ふと動きを止めた。

「……キージェ……」

 目を閉じたまま、ナターリヤが誰かの名を呼ぶ。ナターリヤの目から涙がこぼれ落ちるのが見えた。

 寂しげな祖母の笑顔を前に、クラーラは見てはいけないものを見てしまったような、言いようのない後ろめたさを覚えた。

 クラーラは他の椅子から毛布を取って優しくナターリヤの身体にかけると、ストーブにくべるまきを持って来ようときびすを返した。

「……クラーラ」

 背中に浴びせられる声に、クラーラが後ろを振り返る。

「お帰りなさい。クラーラ」

 ナターリヤは背もたれに預けていた上半身を少しだけ起こし、笑顔を見せた。

「お祖母様、ストーブもつけずに眠っていたら、風邪をひいてしまうわ」

 クラーラはそう言って再びナターリヤの下へ歩み寄ると、その頬に優しくキスした。

「そうね……気をつけるわ」

 ナターリヤの頬に触れたクラーラの唇が濡れる。頬を伝った涙はまだ乾いていない。

「お祖母様、頼まれた本を借りてきたわ。ボンダレンコ先生がお祖母様によろしくって仰ってたわよ」

「ありがとう、クラーラ」

 椅子に腰かけたまま、ナターリヤは紙袋に入った本を受け取った。

「お祖母様は本当に、日本の文学が好きなのね。ボンダレンコ先生が感心してらしたわ」

「……ふふ」

 ナターリヤは穏やかな笑顔を浮かべながら、紙袋に入った本を取り出した。

「夏目漱石の『それから』……読みたかったのよ。本当に嬉しいわ」

「ねぇ、お祖母様。先生が仰っていたわ。あと少しで、好きな本が自由に読める時代になるって。早く、そうなるといいのにね」

 クラーラは目を輝かせながら、ナターリヤの手を取った。

「そうね。早く、そうなるといいわね」

 ナターリヤはクラーラの頬をそっと撫で、顔を綻ばせた。

「お祖母様、待っていて。今、薪を取って来るから」

 そう言ってクラーラがその場を離れようとすると、ナターリヤが思い出したように口を開いた。

「……夢を、見ていたの」

 クラーラが再び振り返る。

「ずっと昔の夢……あなたのお祖父さんの夢」

 そう呟くナターリヤの目は、どこか遠くを見ているようだった。

「私の……お祖父様じいさま?」

 驚きの表情を浮かべるクラーラにナターリヤが微笑む。

「そう。生涯でたった一人、私が愛した男性ひと

「お祖母様が、愛したひと……?」

 クラーラが小さな声で聞き返した。

「……これまで話したことがなかったわね」

 ナターリヤは自らにかけられた毛布を取るとそれを几帳面に畳み、ゆっくりと腰を上げた。

「お祖母様?」

「今、写真を見せてあげるわ」

 ナターリヤはリビングの隅にある古びたクローゼットに歩み寄ると、懐から小さな鍵を取り出した。

 クラーラはそのクローゼットが開かれるのを見たことがない。

 恐らく祖母の大切なものが入っているのだろうとは思っていたが、それだけに自分からその中身について触れることはなかった。

 ナターリヤは鍵穴に鍵を差し込むと、両開きの戸を大きく開け放った。

「……お祖母様。その服は……」

 クローゼットの中には、ハンガーにかけられたカーキ色の軍服があった。

 立襟でプルオーバー式のM1943ルパシカ型野戦服。それが大祖国戦争当時にソ連軍将兵が着用していた軍服であることは、クラーラも知っていた。

「私が着ていた軍服よ。もう……四〇年以上前になるわね」

 ナターリヤはクローゼットの内側からB5サイズの黒い木箱を取り出し、テーブルへと持って来た。

 クラーラは未だかつて、これ程までに幸せそうなナターリヤの笑顔を見たことがなかった。祖母の笑顔を前に、いつしか室内の空気の冷たさも忘れてしまっていた。

 ナターリヤはそっと真鍮製の留め具を外し、木箱の蓋を開けた。

 蓋が開くのと同時に、木や金属、油などが入り混じった匂いが放たれた。箱の中で止まっていた時間が、数十年ぶりに動き出した瞬間だった。

 木箱の中には、油紙に包まれた物がいくつも入っていた。ナターリヤはそれらのうちのいくつかを取り出し、テーブルの上に置いた。

「お祖母様、この中にお祖父様の写真が入っているの?」

 テーブルに置かれた包みを手で示しながらクラーラが問いかけると、ナターリヤは笑いながら首を横に振った。

「そこには、大祖国戦争で私がもらった勲章や階級章が入っているわ」

 ナターリヤは包みの一つを開け、赤いリボンに留められた勲章を取り出した。金の台に小銃とサーベルを模した細工が施され、その上に金メッキで縁取りされた琺瑯ほうろうの赤い星をあしらった勲章だった。

 赤い星の中央には共産主義を表す鎌とハンマーの紋章が金色に輝き、紋章の周りの円環リングにはキリル文字で『大祖国戦争』の文字が刻まれていた。

「大祖国戦争……」

 クラーラが呟くように、その文字を読み上げる。

「……大祖国戦争の頃、私は戦車兵だったの」

「戦車兵……お祖母様が?」

 孫に驚きの表情を向けられ、ナターリヤは寂しげに微笑んだ。

「そう。初めて実戦に参加したのは一九四三年の夏、クルスクだったわ。その後はドニエプル川を越えて、ルーマニア、ポーランド……いくつもの街を越えてベルリンを目指した。二年近い長旅が終わったのは、プラハだったわね」

 クラーラは祖母の寂しげな微笑みを、無言で受け止めた。

「戦友と呼べる人が次々と死んでいく中で……私は生き残ったの。信頼する戦友達に守られ、戦車兵として、指揮官としての自分の能力に自信を持ってはいたけれど……それでも私が生き残れたのは、運が良かったからだと思っているわ」

 ぽつりぽつりと語りながら、ナターリヤは木箱の中から勲章や徽章の入った包みを取り出してはテーブルの上に並べていった。しかし、クラーラに見せた勲章――『一等祖国戦争勲章』を除いては、それらを開けようとしなかった。

 やがてナターリヤは木箱の底から葉書大の包みを取り出すと、嬉しそうに笑って見せた。

「写真はこの中に入っているわ」

 ナターリヤが見せた、少女のようなその笑顔。

 クラーラはようやく、ストーブに火を灯していないことを思い出した。

「お祖母様。ストーブをつけないと凍えてしまうわ。お茶もれてくるから、少しだけ待っていて」

 話の腰を折ったようだが、冷たい部屋で大切な話を聞くのは厭だった。

「分かったわ。あなたは薪を持って来て。お茶は私が淹れるから」

「はい」

 クラーラは笑顔で返事をすると踵を返し、部屋の外へ向かった。


 ストーブには煌々と火が灯り、ようやく室内が暖まり始めた。ナターリヤが二つのカップにティーポットから紅茶を注ぐと、芳しい香りと共に大きく湯気が立ち昇った。

「……いい香り」

「……ふふふ」

 目を閉じて香りを楽しむクラーラに、ナターリヤが優しく微笑んだ。

 クラーラは差し出されたカップに、ナターリヤ手製のキイチゴのジャムをたっぷり入れ、スプーンでかき混ぜた。

「それじゃ、さっきの話の続きをしようかしら」

 ジャム入りの紅茶を自らも一口飲むと、ナターリヤは油紙の包みを開いた。包みの中には色褪せた白黒写真が何枚か入っていた。

「あなたのお祖父さんと出会ったのは……私がまだ軍にいた頃だったわ」

 取り出した一枚の写真には、鋳造砲塔に車長展望塔キューポラを装備し七六ミリ砲を搭載した1943年型のT‐34/76中戦車と、その前に立つ精悍な顔つきの女性が写っていた。

 クローゼットにかけられていたのと同じM1943ルパシカ型野戦服と乗馬ズボンに黒革のブーツを身に着け、腰に手を当てながら射るような視線でカメラを見据える、美しい女性。

 三つ編みにまとめた長く美しい金色の髪と鋭い目を持ち、その肢体は弓のようにしなやかだった。

「これ……お祖母様……?」

 クラーラが呟くように問いかけた。

「そう。これは確か、キロヴォフラードで撮った写真だったかしら」

 ナターリヤは小さく首を傾げながら言った。

「お祖母様……とっても綺麗」

「ありがとう、クラーラ。でも、怖い顔をしているでしょう?」

「え……っ」

 クラーラは数秒の逡巡の後、無言で頷いた。

「……仕方がないわね」

 困ったように微笑むと、ナターリヤは別の写真を取り出した。

「これは……ルブリンで撮った写真だわ。バグラチオン作戦が終わった頃ね」

 彼女の戦車の乗員だろう、戦車兵用の黒いヘッドギアを着けた、まだあどけなさを残す少女二人がカメラに向かって微笑んでいる。しかし、その後ろに立つナターリヤの表情はやはり厳然として、見る者を圧倒するような雰囲気を漂わせていた。

「これも、これも。どれも怖い顔をしているわ。だからあなたには見せたくなかったの」

 そう言いながらナターリヤは次々と写真を並べてゆく。写真に写る背景や周囲の人物、彼女本人の服装は変わっても、その険しい表情だけは変わらなかった。

 クラーラがそれらの写真を前に言葉を失いかけた時、ナターリヤは弾むような声で一枚の写真を取り出した。

「あったわ。あなたのお祖父さんの写真よ」

 ナターリヤは嬉しそうに微笑みながら、写真を見せた。

「この人が……私のお祖父様……?」

 写真には大型の鋳造砲塔に八五ミリ砲を搭載したT‐34/85中戦車と、その前に立つ野戦服姿のナターリヤ、そして彼女と同じルパシカ型野戦服を身に着けた、小柄な青年の姿が収められていた。

 他の写真とはうって変わって、ナターリヤは恥ずかしそうに微笑みながら、その青年に寄り添うようにして立っていた。隣に立つ青年は髪が黒く、繊細な顔立ちの美男子だった。

 クラーラの瞳は、一瞬にして青年の姿に釘付けとなった。青年は大きな目と滑らかな頬のラインが印象的で、背は低いながらも均整のとれた体つきをしていた。

「小柄な人でしょう? 私の方が三センチ背が高かったのよ」

 ナターリヤが含み笑いを漏らしながら言葉を付け加えた。

「うん……でも、とても綺麗な顔をしているわ」

 ナターリヤに寄り添われる青年の笑顔は誇らしげで、その額に刻まれた傷痕からは男らしさと頼もしさが感じられた。

「気に入ったみたいで、何よりだわ」

「うん。それに、お祖母様も……とっても嬉しそうな顔」

クラーラは自然と笑顔になっていた。写真の中で祖母が見せる恥ずかしげな笑顔が、とても可愛らしく感じられた。

「その人も戦車兵だったのよ」

「お祖父様も……戦車兵?」

 顔を上げて聞き返すクラーラに、ナターリヤは嬉しそうに頷いて見せた。

「そう。それも、私が知る限りでは最高のね。私はあの人と出会い、共に戦い……気がつけば、愛するようになっていた。あの人も同じ気持ちだと知った時は、嬉しくて涙が止まらなかったわ」

 ナターリヤは胸を両手で押さえ、目にいっぱいの涙を溜めて微笑んだ。

「……お祖母様」

「ありがとう」

 クラーラがそっと差し出したハンカチを受け取ると、ナターリヤはこらえ切れずに涙をこぼした。

「お祖母様」

 ナターリヤが涙を拭き終わるのを待ってから、クラーラは話を切り出した。

「……なぁに、クラーラ」

「私のお祖父様は……何ていう名前なの」

 ナターリヤの瞳がわずかに揺れる。室内にしばしの沈黙が訪れた。

「……キージェ」

 沈黙を破ったのはナターリヤだった。

「ポルーチク・キージェ(キージェ中尉)。それがあなたのお祖父さんの名前よ」

 ナターリヤは、はっきりした声でその名を告げた。

「……キージェ中尉……私の、お祖父様」

 その名を口にするクラーラにナターリヤは優しく微笑むと、再び席を立って軍服や写真を納めていたクローゼットに向かった。

「ここに、あなたのお祖父さんから預かったものがあるの」

 ナターリヤはクローゼットの奥から長さ一メートル程の細長い木箱を取り出し、テーブルの上に置いた。

「きっと、驚くでしょうね」

 ナターリヤの手が木箱の蓋を外すと、内側からはかすかな鉄と油の匂いがした。

「お祖母様……それは、サーベル?」

 木箱に納められていたのは一振りの刀。茶褐色の鞘とつか、金色の鍔を備えた軍刀だった。

日本ヤポーニヤのサーベルよ。『カタナ』と呼ばれる、サムライの武器」

「サムライ……お祖父様は日本人なの?」

 ナターリヤは軍刀を取り出し、首を横に振り――。

「いいえ。あなたのお祖父さん……キージェはウクライナ人よ。私とあなた、あなたの両親と同じ」

 そう言って微笑んだ。

 クラーラはその言葉にどこか腑に落ちないものを感じたが、やがて静かに頷いた。

「クラーラ。この国が独立して自由な世の中になったら、あなたは日本へ行きなさい」

 ナターリヤはそう言うと、軍刀をクラーラにそっと手渡した。

「私が……日本へ?」

「そう。その時はこの刀を持って――この名前を名乗りなさい」

 ナターリヤは写真を納めていた木箱から古びた一枚の紙を取り出した。

「お祖母様……何と書いてあるの?」

 紙には見慣れない、模様のような文字が毛筆で書いてあった。

「……『かえで』」

 耳慣れない発音方法でナターリヤがその文字を読み上げる。

「……カエ、デ……?」

「そう、かえで。日本語で『クリュン』を表す文字よ。これがあなたの本当の名前」

 クラーラは紙に書かれた文字をじっと見つめた。たった一つの文字が自分の名前を表しているということが、不思議でならなかった。

「……かえで。これが、私の本当の名前……」

 自らを優しく見つめるナターリヤの瞳。クラーラの胸に、締めつけるような痛みが走った。

「お祖母様。お祖父様は日本にいるんでしょう? だったらお祖母様も一緒に、日本へ行きましょう」

 ナターリヤは微笑みをたたえたまま、静かに首を横に振った。

「それはできないわ」

「……どうして?」

 クラーラは無意識のうちに軍刀を抱き締めていた。

「私はきっと間に合わないわ。この国が独立できるまで、もう少し時間がかかる。その時には――」

「そんなの、いや!」

 クラーラは声を振り絞ってナターリヤの言葉を遮った。

「私、お祖母様とお別れなんて、いや!」

「ありがとう、クラーラ……でも、ごめんなさい。分かるのよ、自分のことはね」

 ナターリヤがそっと手を伸ばすと、クラーラは軍刀を抱き締めたまま、祖母の胸に飛び込んだ。

「お祖母様……お祖母様。私、ひとりぼっちなんていや……! いつまでも、お祖母様と一緒にいたい……!」

「あなたは一人じゃないわ、クラーラ……いいえ、楓。あなたを待つ人が、あなたを愛する人が必ずいるわ」

 ナターリヤは身を震わせて嗚咽を漏らすクラーラの身体を抱き締めた。

「寂しい思いをさせてしまうけれど……その名前とその刀が必ず、あなたを導いてくれる。あなたを待つ人に引き合わせてくれる。約束するわ、楓」

「……お祖母様」

 しばらくして、クラーラはナターリヤの胸の中で声を発した。

「なぁに」

「大好き」

 ナターリヤはクラーラの頭に手を置き、優しく撫でた。

「私もよ、楓」


 ナターリヤが世を去ったのは、それから一年後――ソ連崩壊に伴いウクライナが独立する十ヶ月前のことだった。

 クラーラ――楓はナターリヤの葬儀の席で、一滴も涙をこぼさなかった。


 「……ここは……」

 まぶたを開けた楓の目に飛び込んできたものは、白い天井だった。

 楓はゆっくりと身体を起こし、周囲を見回した。大きな座卓に茶箪笥、テレビのある畳の部屋。家具も部屋の広さも、自宅の居間のそれではない。

「三宝荒神さん。目が覚めたんだね」

 由機が部屋の入り口から笑顔をのぞかせた。

「……宮坂君。私は……」

 言いかけて、楓は頭を押さえた。頭が重く、鈍い痛みがある。

「三宝荒神さん。大丈夫? もう少し、横になってた方がいいと思うわ。さっきのことは、その……」

 由機が言葉を濁す。楓はようやく、宮坂家に来てからのことを思い出した。

「そうか。お祖父様の刀を……」

 楓は力を失ったように肩を落とし、うなだれた。

「あっ……三宝荒神さん。さっきは私も、その……とにかく、落ち着くまで休んでいた方がいいと思うの。もう夕方だし、よかったら夕飯食べていって」

 由機は素早く楓の元へ駆け寄ると肩に優しく手をかけ、労わりの言葉をかけた。

「いや、それでは申し訳ない。君のご両親もお帰りになるだろうし……」

「あっ、大丈夫。両親はいつも帰りが遅いから。三宝荒神さんには昨日、おいしい紅茶とクッキーをいただいたし、今日はそのお返しってことで。有り合わせのものしか用意できないけど……ね?」

 楓はしばし目を泳がせたが、やがて小さく頷いた。

「ありがとう……宮坂君」

 由機の笑顔に安堵の表情を見せた楓だったが、一瞬にしてその表情が凍りついた。

「どうしたの、三宝荒神さん?」

 由機は問いかけてから、楓の視線の先を追った。

「おっ、目が覚めたのか。よかった、よかった」

 視線の先にいた軍服姿の青年――機十郎が顔を綻ばせながら、居間へと入って来る。

「ところで、由機。今日の夕飯は何だ? 九年ぶりの食事が孫の手料理とは、大いに感激だ。いやぁ、楽しみだ」

 由機と楓のすぐ近くに腰を下ろし、機十郎が満面の笑みで由機に話しかけた。

「え……食べるんですか、ご飯?」

 由機はぽかん、とした表情を浮かべながら、質問を質問で返した。

「なっ……それが祖父に対して言う言葉か! まさか、孫にそんな冷たい言葉を吐かれるとは……俺は悲しいぞ」

「いや……そうじゃなくて! お腹が空くんですか?」

 由機は苛立ち半分、呆れ半分といった声で再度質問した。

「何を言ってるんだ。今さっき、用を足してきたばかりだぞ。出るものが出るなら入るものも入る。自然の摂理じゃないか」

 機十郎が誇らしげに胸を張ると、由機は肩を落としてため息をついた。

「どうせ、和機かずき真由子まゆこさんは遅くまで帰って来んのだろう? 楓も一緒に、三人で夕飯にしようじゃないか。なぁ?」

 突然、機十郎に水を向けられ、楓は身体を強張らせた。

「ん……どうした?」

「いきなり現れて、いきなり話しかけたから、びっくりしてるんですよ。ちょっとは考えてください」

 ため息交じりに由機が窘たしなめる。

「うーん、そうか?」

 由機が無言で頷く。

 楓は目の前で繰り広げられる珍妙なやり取りに対して、ただの一言も発しようとはしなかった。ただ呆然と機十郎の顔を見つめるばかりだった。

「でも、この子の名前は楓というんだろう? だったら、俺のことも分かるはずさ。そうだろう、楓?」

 機十郎が嬉しそうに楓の顔を覗き込む。楓は反射的に身を引き、遠ざかった。

「ちょ、ちょっと……言ってるそばから! 馴れ馴れしいですよ、三宝荒神さんから離れてください!」

 きつい言葉を浴びせられ、機十郎が恨めしそうな目を由機に向ける。

「な……何ですか。私、間違ったことは言ってないと思いま――」

「……ポルーチク・キージェ」

 ずっと黙りこくっていた楓が、突然言葉を発した。

 由機と機十郎は、同じタイミングで振り返った。

 由機が怪訝そうな表情を浮かべるのとは対照的に、機十郎は嬉しそうな表情で楓に微笑みかけた。

「懐かしいな……その名前で呼ばれるのは、四八年ぶりか」

「え……?」

 由機は小さく声を漏らし、楓と機十郎の顔を交互に見た。

「ポルーチク・キージェ……キージェ中尉。でも、どうして……? 仏間には確かに、あなたの遺影がありました。これは、一体……」

 楓は揺れる瞳を機十郎に向けながら言葉を紡いだ。

「俺にもよく分からん。だが、心臓も動けば汗も出る。どうやら、生き返ったということらしい。嬉しいことに、身体も若返っている」

 機十郎は拳を握りしめて片手でガッツポーズを取った。

「キージェ中尉。私は、あなたを――」

 機十郎は楓の言葉を手で制した。

「そんな呼び方はよせよ、楓。お前は俺の孫じゃないか」

「…………えっ?」

 数秒の間を置いて、由機が声を発した。機十郎が何気なく口にした言葉を、心の中で反芻はんすうする。それは頭で理解できても、即座に受け止められるものではなかった。

 機十郎はゆっくりと由機に振り向くと、困ったような笑顔を見せた。

「由機。今の言葉で分かったと思うが……楓は俺の孫なんだ。戦争が終わってウクライナに抑留された俺は、ウクライナ人の女性将校に出会った。ナターリヤ=クラウチューク。その人こそが楓の祖母……俺が愛した人だった」

 由機は機十郎の目を見つめたまま、凍りついたように動きを止めた。

「それじゃ、三宝荒神さんは私の……」

「ああ。楓はお前の従姉妹いとこになる」

 機十郎は再び楓に目を向け、優しく微笑んだ。

「ナターリヤは、どうしてる?」

「祖母は……六年前、天に召されました」

 楓は俯きながら、まるで他人事のように言い放った。

「……そうか。せめて一目だけでも、会いたかった」

「…………ッ!」

 楓は勢いよく立ち上がると、機十郎を見下ろして睨みつけた。

「そんなことを言うくらいなら、どうして……どうして祖母を捨てたんですか? 祖母はあなたのことを思い出して泣いていました。亡くなる時までずっと……ずっとあなたのことを愛していたんです。それなのに、どうして……どうして!」

 身体をぶるぶると震わせて、楓は怒りの眼差しを向けながら機十郎をなじった。

「……すまない」

 機十郎は楓の視線を真っ直ぐに受け止めながら、幾分低い声で応えた。

「今更、謝らないでください……私は、あなたをずっと恨んでいました、キージェ中尉」

「……違う」

 機十郎は楓の目を見つめながら、短く反論した。

「違うって、何が違うんですか? キージェ中尉!」

「……それだよ、楓。自分の祖父さんを呼ぶのに階級をつける奴があるか」

 そう言って機十郎は再び微笑んだ。

「く…………っ!」

 楓は崩れ落ちるように膝を着いた。

「お前にも、ナターリヤにも……寂しい思いをさせてすまなかった。俺にはただ……謝ることしかできない」

 機十郎の手がそっと楓の肩に触れる。

 楓は唇を震わせながら顔を上げ、目の前の赤い瞳を見つめ返した。

「楓……お前は本当に、ナターリヤによく似ているな。こうしていると……ウクライナでの日々を思い出す」

 次の瞬間、楓はこらえ切れなくなったように、機十郎に抱きついた。

「お祖父様……! 私、私……!」

 その目からは堰を切ったように、とめどなく涙が溢れていた。

「やっと、呼んでくれたな……『お祖父様』ってのは、ちょっと照れるが」

 機十郎は楓の身体を優しく抱き締めながら、嬉しそうに呟いた。

「私……お祖父様をずっと恨んでた。でも……それと同じくらい、お祖父様が恋しかった。こうして……こうしてお祖父様に会える日を、ずっと夢見てた」

 楓は嗚咽を漏らしながら、機十郎の身体をきつく抱き締めた。

「……楓。遠くから、よく会いに来てくれた。俺もお前に会えて……本当に嬉しいよ」

 機十郎はそう囁きながら、楓の背中をてのひらで優しく叩いた。

「……三宝荒神さん……」

 二人のやり取りに全く入っていけなかった由機が、思わず声を漏らす。

 目の前の青年を『おじいちゃん』と呼べないでいることに、由機はようやく気がついた。

 ――私はおじいちゃんが大好きだったはずなのに。

 抱き合う二人を前に、由機は胸の奥がずきずきと痛むのを感じていた。

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