黄昏

小椿清夏

黄昏

 夕暮れ空が置き忘れた眩い燈が、彼の真白い頬にあたって、見知った人の筈なのに、まるで、この世の者ではないように、紗智には思えてしまう。

 綺麗な弧を描いて微笑んだ幼馴染みは、まるで、紗智が知らない別の生き物のように思えた。

珍しい獣と出会ったように、彼の頬におずおずと触れながらも、拙い言葉で問いかける。

「あなた、だぁれ?」

 幼馴染の姿を模した少年は、愉快そうに笑い出した。








「紗智さん。せっかくだから。雪路さんと、お買い物にでも、行ってらっしゃいな」

 生け花に用いる花の香りを楽しんでいると、紗智の艶やかな黒髪に黄色い花粉が纏う。花粉をとることに、悪戦苦闘していると、入室の合図もなく、部屋の襖が開いた。

 部屋の前に立っていたのは、想像していた口煩い使用人ではなく、世話になっている葦原の家の小母であったことに、紗智は慌てて、短い髪を両手で櫛代わりに梳いて、佇まいを整える。

呉服屋を営んでいる彼女の背筋の凛とした姿勢に、紗智の背筋も、自然と伸びた。

今日は、生け花を教えてくれている先生が、来られなくなったという用件を、伝えに訪れた小母は、今、いいことを思いついたようにと、紗智に許嫁との買い物を促す。

使用人に言づけを頼まなかったのも、此方が、小母が意図とすることだったからだろう。

 生け花の先生が来られなくなったというより、小母が習いごとを断ったに違いない。

「雪路さんと行くよりも、小母様と一緒に買い物をした方が楽しいわ」

 昔から、許嫁の葦原の家で、母のように彼女を慕っていたので、可愛らしく紗智がおねだりしてみると、小母は困ったように目を細める。

「紗智さんとのお買い物は、今度にしましょう?おばさんは、ふたりが昔みたいに、仲良くしてくれた方が、嬉しいわ」

 悩むように小母に言われてしまったら、紗智も素直に嫌とは言えない。

 幼少の頃は、仲が良かった許嫁の雪路と紗智であるが、現在の関係は、深くは干渉はしてこないものの、小母の目からみても、仲が良好とは言えないのだろう。

「雪路さんを、誘ってみます」

 紗智が負けたように宣言すると、小母が嬉しそうに胸元で両手を叩く。その行動をみて、紗智は昔から可愛らしい人だと思う。

こういう彼女の仕草から、今でも、小父が彼女を溺愛していることが窺えた。

「はい、お小遣い。ふたりとも、日常のように、喧嘩しないようにね」

「分かりました」


 






仕方なく、紗智は客室から、自室へと戻る。

自分の部屋へ戻るのに、緊張しているのは、雪路がいるかもしれないからだ。

紗智の部屋でもあるのだから、襖に映る影の気配から、彼の所在を、確かめることもないだろう。

勢いよく、襖を開くと、取っての部分から手を離すことが出来ずに、部屋を見渡す。

 目で確かめて、改めて、雪路の姿がないことに、紗智は肩をなで下ろした。

実際、雪路が部屋にいたとしても、上手くは誘えず、意地の張り合いとなって、喧嘩になってしまっていただろう。

このまま、家に閉じこもっていても、小母に窘められそうで、紗智は使用人に一言告げると、ひとり散策に繰り出すことにした。

 普段なら、良家の子女が女中のひとりも伴わず、買い物に出るなんてと母がいたのなら、口を酸っぱくして、自分に言い聞かせたところだろう。

しかし、紗智は昔から、婆や使用人と買い物に出掛けるよりも、ひとりで買い物に出掛けることが好きだった。

 せっかく、外に出るのだから、馴染みのカフェで氷菓子での頼もうかと、自然と頬が緩んでゆく。    

小花が舞った赤い巾着をぶらつかせながも、見知った町を紗智は、ひとりで歩いてゆく。

 人混みの中、一際、目についた華やかな男女に目を惹かれると、ひとりは見知った人物であったことに、紗智は足を留めた。楽しそうに談笑をしていた薄茶色の瞳が驚いたように、紗智の名前を呟く。

傍にいた小紋を着たふんわりとした女性が、不思議そうに彼を見つめる。

「雪路さん?」

彼女の声も、鈴の音のように可愛らしい。

紗智は顔を真っ赤にすると、青年に向け、巾着を彼の顔面に当たるように投げつけて、その場から走り去る。女性の慌てた声が聞こえた気がしたが、知ったことではない。

 周囲の瞳が紗智を捉えるが、彼らを睨みつけると、そそくさと人混みの中へと消えた。 

気分転換にカフェに行こうとして、財布が巾着の中だったことにも腹正しさを感じながら、紗智は足を葦原の家へと変えた。









「さっちゃん、買い物は楽しかったかい?」

 使用人よりも先に出迎えてくれた恰幅のいい葦原の小父に問いかけられると、紗智は憮然としていた表情を微笑みに変えた。

「ええ、楽しめました」

「まったく、あいつは仕方のない奴だな」

 紗智の言葉に分かっていて苦笑を浮かべる小父は、本当にいい人だと思う。

 下駄を脱いで、整えると、出掛ける前は持っていた赤い巾着を彼に捨て台詞と共に、投げ捨てて帰ってきたことを後悔する。幼い柄でも、今の年齢まで持っていたのは、元は雪路が紗智の為に買ってくれたことを思い出して、益々、苛立たしさが増した。

「さっちゃん?」

「いえ、何でも。小父様。そろそろ、仕事に戻らなくてもいいの?」

「お義父様と呼んでくれてもいいんだけどなぁ」

「雪路さんの覚悟によるわね」

 ふたり目を見合わせると、離れからの声に助かったように小父が紗智に告げる。

「さっちゃん、じゃあ、またあとでね」

「はい、お夕飯の時に」

 玄関の傍に置いてある、鏡に映る自分の姿と紗智は睨めっこをする。

 周囲の大人達からは、お姫様と呼ばれて、もて囃されているが、実際の容貌は女学校の友達に比べたら、瞳が大きいことで子供らしさが際立ち、雪路が連れ歩いていた女性のような匂い立つような艶がないことに俄に落ちこむ。

 せめて、髪を伸ばして結えば、女性らしさが引き立つかと首回りを手で撫でるが、湯殿でのことを考えると、伸ばす気にもならなかった。

鏡に向けて両頬を引っ張ると、紗智は自室へと戻る。

 畳にふて寝をする為、寝っ転がると、嫌でも先程の光景に囚われて、紗智は首を振る。

 こういうところが子供じみていると、感じても、今はふたりの残像を掻き消すように、目を瞑ることが紗智にとっての強がりだった。











眠りが、紗智に覆い被さった時。

カタカタと家鳴りが、自分の周りを走り回っている足音が紗智の耳に聞こえてくる。

昔は彼らが恐かったが、繁盛する商家には存在するものなのだと、彼が教えてくれてからは、今は、紗智も気にしない。

 狐が来たよ。

迎えに来た。

もう、傍にいるよ。

紗智を娶りにきた。

 ただ、けたたましい足音共に、彼らが口早に騒ぐ誤解のある発言に目を見開いてしまう。

 自分の座高が高くなっていることが分かり、紗智は顔を上向けたが、瞳を覆われて、頭を押し返される。覆われた手が頬を撫でる冷たい指先の感触に変わると、誰かに膝枕をされていることに気づいた。

微かに目の端に映った白銀色の髪の毛をした美丈夫は『人間』ではない。

人ではないものだと知って、紗智は安堵する。一応とはいえ、許嫁がいる身としては、他の男

との膝枕などみられては、体裁が悪い。

葦原の家を追い出され、家に戻されたら、父の激高に触れるだろうと考えて、この美丈夫は、紗智と彼にしか視えないものだと思い出した。

「尾崎。来てたの?」

 そのまま、手の心地よさを受け入れると、頭上から彼の呆れた声が聞こえてゆく。

「男の膝枕で寝ているのに薄い反応だな、紗智。そんなんだから、人間だけじゃなくて妖し達からまで、嫁き遅れると噂されるんだぞ。雪路はお前を置いて、界隈の女共と遊び歩いているそうじゃないか」

 先程、その現場をみてきたところだと言おうとして、狐にわざわざ、報告することもないと考え直し、ふっくらとした赤い唇を紗智は尖らせる。   

ふっくらとした唇を、狐が面白そうに摘んだ。

「本当に可愛げのない女だな、お前は。昔から」

「昔はまだ、可愛げがあったわ」

 襖が開き、櫨色をした瞳と目が合う。紗智は、慌てて、尾崎の頭上から飛び起きた。

「……お帰りなさい」

 焼きついた光景が払われず、尾崎が言うように、可愛げのないぶっきらぼうな対応で応じると、雪路は紗智の巾着を投げつけてきた。

紗智も自分のことを子供だと思うが、こういう返しの仕方をみると、雪路も子供っぽいと思う。

「忘れ物だ」

「さっきの女の人はいいの?」

 自分が帰ってきてから間もなく、雪路が帰ってきたということは、先程の美人とも、彼は早々に別れて帰ってきたということだ。

「自分も尾崎狐と戯れているのに、一丁前に悋気か?」

「妬いてくれてるの?」

「まさか」

「俺達、仲良しだもんなぁ~。紗智」

 そんなふたりをみていた尾崎が紗智の小さな体を引っ張って、抱きしめる。抵抗しないで、紗智は雪路の表情をみつめた。

少しでも、彼が自分に興味を持ってくれればいいと思っても、彼の表情は特に変わった様子がない。

紗智は狐の腕に知らず、爪を立てていた。尾崎は面白そうに、そんなふたりの動向を見守って、目を細める。

「せいぜい、ふたりで仲良くしていればいい。俺は、出掛けてくるから。じゃあ、尾崎、ごゆっくり」

 襖が雪路によって閉められると、紗智は精一杯の恐い顔を作って睨みつける。

「尾崎のせいよっ!」

「いってぇなぁ」

 自分の渾身の力で殴っても、尾崎が痛がる様子が見られなくて、悔しい。

 紗智と雪路、そして、尾崎は幼少の頃からの付き合いだ。

 雪路と紗智が、当時、子供達の間で流行していた「こっくりさん」を行い、喚びだしてしまったのが妖しである尾崎で、それ以来、何が気に入ったのか、尾崎は時に喚びだしてもいないのに、自分達の前に、気まぐれに現れるようになった。

 歳を経て彼のことを、観察してみれば、彼が自身のことを、顔立ちが整った狐だと自賛するのも、分かる気がしてしまう。

もしも、雪路の存在がなければ、紗智も彼に惑わされていたかもしれない。

 雪路は尾崎を喚びだしたことをよく覚えているらしいのだが、紗智には不思議と、彼との出会いだけが記憶から零れている。

雪路には苦言をされているし、妖しと馴れ合って、彼らの世界に連れていかれる訳にはいかない。

 しかし、恋心とは違い、尾崎に会いたいと思うことがある。

全てを見透かすような彼の紅い瞳を、間近で見たくなるのも記憶の欠片を取り戻したいと思っているからだろう。

 狐と出会って以降。あんなに仲が良かった雪路との距離が遠くなり、許嫁の呼称だけが残っている気がする。

 なかなか、両家の結納について決めない雪路に、焦れた父が、葦原の家にひとり、紗智を置いていってしまった。

どうせ、将来、夫婦になるのだから、今から、同じ家で暮らしていても、支障はないだろうと強引な理由だ。

 昔から、遊びに訪れていた家だから、紗智の暮らしぶりとしては、実家で暮らしている時と変わりないが、小父に雪路と同じ部屋にされたのは驚いた。

 仲が良かった父達の共謀で、いつか、雪路が自分に手を出せばいいと思っているのだろうが、彼がそんな素振りを見せることはない。

彼が紗智と同じ部屋で睡眠を取らないのは、花街を閨にしているかだと小耳に挟んだ。

 幼少時代から知っているというのは、厄介だと紗智は思う。彼のことを憎く思っても、嫌いにはなれない。

彼が紗智のことを疎んでいたとしても、婚約破棄をしないのは、自分の家の名前を引き継げば、葦原家の為になるだろうということは予想が出来た。

 もし、婚姻することなったとしても、彼は愛人を作り、離れにでも住まわせるのだろうと、想像が出来て、紗智の気持ちは鬱屈とする。

「雪路も可愛くなくなったなぁ。昔はあんなに健気だったのに。一丁前に女をこましてると思うと、お兄さん、感慨深くなっちゃうよ」

「最低」

 吐き捨てるように呟くと、尾崎が紗智の顎を上向け、底の見えない紅い瞳で蠱惑のように誘いかけた。

「どうする、家鳴りのいう通り、本当に俺に嫁ぐか?気のない雪路よりは、幸福になれると思うけど?」

「私は、彼のお嫁さんにしかなりたくない」

「残念だね、紗智」

 狐が残念そうでもなく言うので、紗智が足を踏みつけてやると、ようやく、痛がる素振りを見せたので、少しは紗智の気分も晴れた。











「こんなところで何をしてるんだ?」

 紗智は雪路を女と遊んでいると尾崎にそれこそ文字通り、当たっていたが、とうの本人は埃まみれの土蔵で書物を読んでいて、さすがの狐も呆れた。

「紗智との戯れは済んだのか?」

 こうして、嫌みを言い忘れない辺りも、幼い頃には、物珍しく、自分を兄のように慕ってきた彼とは違い、尾崎は溜息を吐きたくなる。

歳を経て幼かった少年は、『可愛らしい』というよりも、『綺麗』という表現が似合うようになった。

 彼の容貌なら、紗智が他の女にやきもきする理由も尾崎にも分かる。

 わざわざ、花街で女性を買わなくとも、彼なら女の方がほうっておかないだろう。

ただ、紗智本人は気づいてはいないようだが、彼の趣味は昔から彼女であるのだから、どちらも一方通行な片思いをしているようで、尾崎にしてみれば面はゆい。

 彼女は誤解しているが、雪路が遊び歩いているということはなく、仕事が終わると、彼は部屋へは戻らず、この土蔵で生活をしているようだった。

「お前さ。少しは、紗智に優しくしてやれよ。俺に大人げなく、臍曲げてたぞ。それくらい、出来るだろう?」

「優しくしてやってる」

「あれでかよ。本当は色街になんて行ってないのに、なんで、見栄を張ってるのか。お兄さんには分からないねぇ」

 からかいがてらに言うと、雪路に睨まれる。彼は読みかけの書物から目を離して、尾崎の方へ顔を向けた。

一見、能面に似た無表情を装っているが、微かな苛立ちが顔に表れている。

「雪路のことが、忘れられないから。紗智に、優しくなんかしてやれない」

「紗智を他の男にやる気もないんだろう。いい加減、素直にならないと、紗智の狸親父も色々と考えてるみたいだぞ。今はあいつの気持ちを優先してやってみるみたいだが」

 その言葉に雪路は考えたように、尾崎に告げた。

「他の男に紗智が嫁ぐのは、俺でも気に食わないが。お前が紗智を娶りたいというのなら、俺は止めない」

「人間と妖怪が婚姻した場合。男が妖怪を娶れば幸福になるが、女の場合は不幸になるだけだぞ。お前はそれでも、違えず、同じ言葉を俺に言えるのか?」

「……紗智は、いずれ、貰ってやる。雪路がな」

「本当に素直じゃないよ、お前は」

女学校が終わり、ひとり夕暮れ空の下、歩いていると、ふと手を誰かに掴まれる。

 見知らぬ女性に手を握られたことに、紗智は驚くと、彼女の姿を眺め、呆れた声音を出した。

「驚いたわ、どうしたの?尾崎」

「お迎え」

「珍しいわね」

「この時間は、逢魔が時とも言うだろう?お前が連れていかれないか、不安になってな」

 他からみれば、自分達の姿は姉妹だろう。尾崎の変化が口調までなりきれてはないことに、紗智はくすくすと笑い出す。

「私を連れて行くとしたら、貴方くらいなものじゃない」

「さてね。どうせ、寄り道をして帰るんだろう」

「ええ」

 紗智は尾崎を連れ歩くと、荒廃した寺へ、途中で小さな風車を買って赴く。『葦原家』と書かれた墓の前に風車を置くと、風もないのに、紅い花を綺麗に咲かせた。紗智は、驚くこともなく、ゆっくりと手を合わせる。

「分かっていない癖に、来るんだな」

「何を?」

「うん? 俺の一人言」

「あっ、そう」

 一度、無愛想な顔をした雪路に連れてこられて以来、女学校が終わると、この墓へ参るのが紗智の日課となっていた。

来なくてはいけない理由はないのだが、気づけば、こうして、足が引き寄せられる。

尾崎が繰り返す呼ばれるというのは、こういうことを言っているのかもしれない。

些細なことを墓前を前にして話すと、紗智は後ろを振り向かず、寺を後にする。

後ろを振り向いたら最後。誰かに連れて行かれる気がして、家に戻る足が早くなる。

「お前、誰に会いに来てるんだ?」

「誰って、誰でもないわよ。強いて言うのなら、葦原の家のご先祖様達かしら。こんな寂れた場所だから、誰かが、綺麗にしないといけないでしょう?」

「別に、毎日じゃなくてもいいじゃないか」

「そうね、私も不思議だと思うわ。でも、雪路に連れて来られて以来、会いに来なくちゃいけない気がするの」

「帰るぞ、紗智」

 尾崎が手を差し出したことに、素直に紗智はその手を繋ぐ。からかってはいない尾崎の様子に、紗智は子供の頃のように心が温かくなる。

「尾崎と手を繋ぐなんて、子供の時以来ね」

「お前が連れて行かれでもしたら、俺が怒られるからな」

「誰に?」

「お前を好きな奴に。しかも、ねちねちと煩く絡まれそうだ」

「だったら、離れないように、強く握っていて頂戴」

「そういうことは、好きな奴に言えよ」

「尾崎も好きな人よ?」

 紗智が何気なしに言うと、珍しく、尾崎が照れたようで、片方の手で、軽く額を小突かれた。

「お前にそういう芸当は早いと思ってたんだけど。雪路に言ってやると、喜ぶぞ」

「雪路は呆れるだけよ」

「俺、雪路が少し、可哀想になってきた」








「さっちゃんも良ければ、一緒についてきてくれるかい?」 

 小母に気づかれないように、手を招いた小父が持っていたものは、菊など彩り溢れた供え花達だった。

首を傾げる紗智に違和感を感じなかったようようで、義父は淡々と話す。

「お墓参りですか?」

「ああ。今日は、雪路の命日だからね。俺ひとりで行くよりも、綺麗になったさっちゃんをみる方が、あいつも喜ぶだろう」

「雪路は」

 生きているじゃないですかと、口にしようとした紗智の脳裏に、鮮やかな夕暮れの黄昏の景色が脳裏を駆け巡る。

『誰そ、彼』

 その場で足の感覚がなくなり、紗智は床へと崩れ落ちる。

 優しい姿をしか見せたことがなかった小父が恫喝して声で使用人を呼びつけるのが聞こえる。

慌ただしく駆けつけてくれた彼の心配げな顔が朧気に陽炎のように揺蕩った。

 



 





 幼い頃。家が忙しかったこともあってか、紗智はよく、葦原の家で遊んでいた。

 幼馴染みの雪路は病弱だったが、自分が遊びに来ると愛らしい顔で穏やかな微笑みを浮かべてくれた。

どうして、今まで、彼のことを忘れることが出来たのだろう。

 雪路は今日も寝ついていると、小母から聞いて、紗智は見舞いに訪れていた。部屋の中に存在したのは雪路ではないと直感で感じた。

夕暮れ空が置き忘れた眩い燈が、彼の真白い頬にあたって、見知った人の筈なのに、まるで、この世の者ではないように、紗智には思えてしまう。

 綺麗な弧を描いて微笑んだ幼馴染みは、まるで、紗智が知らない別の生き物のように思えた。

珍しい獣と出会ったように、彼の頬におずおずと触れながらも、拙い言葉で問いかける。

「あなた、だぁれ?」

 幼馴染の姿を模した少年は、愉快そうに笑い出した。

「雪路が言ってた通りの子だ」

 押し入れの中から出てきた、もうひとりの雪路が顔を覗かせる。

「そうでしょう?驚いたよね、さっちゃん」

「ゆきちゃん。この子、誰なの?」

「この子は、僕の弟で『宮路』って言うんだよ」

 雪路は愛おしそうに少年を抱きしめる。嫌がる素振りを見せながらも、少年の顔は嬉しそうだから、彼が本心では嫌がっていないことが分かる。

 宮路と紹介された少年は、雪路の双子の兄弟ということだった。

「知らなかった」

「本当は、父様からも、さっちゃんには言うなって言われてたんだけど。僕、君には隠しごとをしたくなかったから」

 昔から双子は縁起が悪いと言われてきたが、葦原の家でも例外ではなく、家に災いを齎すと言われ、家の中でも権力を持つ祖母が彼の存在を強く否定した為、宮路は名のない子供だったらしい。

 本来は、存在してはいけない子供だった。

 しかし、元々、伝承など信じてはいなかった小父が、祖母には内密に土蔵で育てることにしたらしい。

 彼を産んだ小母も彼のことを死産と聞かされたようで、宮路のことを知る者は、今では、雪路と小父、そして小父が信頼する口の堅い一部の使用人だけのようだった。

時折、ふたりはこうして入れ替わって、家族達の反応を楽しんでいた。

宮路が紗智の前に姿を現したのは、雪路が自分達を見分けられるか、興味を持った為ということだった。

「宮路とも仲良くしてあげて。僕のたったひとりの弟だから」

「うん、よろしくね。宮路」

 この日以降、紗智は、雪路の体調が良い時は3人で。彼の体調が芳しくない時は、宮路とふたり、一緒に遊ぶ日々を過ごしていた。

紗智が土蔵に宮路に会いに行くことを、小父は気づいていたようだが何も言わなかったのも、自分が将来、雪路に嫁ぐこともあっただろうが、元々、家族のような存在だったからだろう。

ただ、時折、何か言いたげに小父の見つめる視線には、知っていて、気づかないふりをしていた。

「紗智は、もしも、俺が、〈雪路〉だったらどうする?」

 紗智が女の子であることを考慮してか、宮路は自分は楽しめないのに、彼女のお人形遊びにもよく付き合ってくれていた。

彼に聞かれた言葉の意味が分からずに、紗智は首を傾げる。

「先に産婆に取り上げられたのが、雪路じゃなかったら。紗智のお婿さんが、俺だった可能性もあるんだってさ」

 それこそ、毎日のように、父母から『紗智は、雪路のお嫁さんになるんだよ』と繰り返し言われていた。雪路じゃなく、宮路が自分のお婿さんになることが、紗智には想像出来ない。

「わたしは雪ちゃんのお嫁さんだから」

「そうだね」






 















ある日、紗智は友達から聞いた〈こっくりさん〉という遊びを雪路と宮路に話した。

「せっかくだから、さっちゃん。やってみようよ」

「えっ、でも、危ないって、お友達も言ってたわ」

「僕達、ふたりがついてるから、大丈夫だよ。用意する物は、なんだっけ?」 

 面白がったふたりが、制止する紗智の言葉を聞かず、こっくりさんを行い始めてしまう。 

初めは怖がるだけだった紗智も、質問の答えが出てくることに、次第に楽しみを感じてしまっていた。しかし、次第に、彼らは違和感に気がついた。

 初めは誰かが、答えの手を動かしていると思ったのだが、誰一人として、彼らは指を動かしてはいなかった。

 3人は目を見合わせるが、こっくりさんを途中で止めると、呪いがかかるということなので、〈彼〉が帰るまで、手を動かせない。

 黄昏れが、暗闇へと姿を衣に移す時。

泣きそうになってた彼らの前に、1人の獣耳がついた青年が彼らの前に、いつの間にか、姿を表した。

 銀色に包まれた存在に場違いにも、紗智は綺麗だと感じてしまった。

『今回、俺を呼び出したのは、餓鬼3匹か。本当だったら、全員を呪い殺してやることも出来るんだが、それは俺の主義に叛するしなぁ。温情でひとり、選ばせてやるか。おい、お前』

 そう言って青年は、紗智に問いかける。

『このふたり、どちらもお前に恋情を抱いているようだが、お前は、どちらを選びたい?』

 彼、尾崎に問いかけられて、紗智が選んだ人は……。

 





 












冷たい布地の触り心地に夢から覚めると、心配そうにしている彼の膝の上であった。

「嫉妬なんてしていないって言ったのに。宮路」

「悪かったな」

 宮路は驚いた顔をして、紗智の鼻を軽く、摘む。自分を覗きこんでいる懐かしい薄茶色の瞳をみて、もう、雪路はいないのだと思い知らされる。

「〈雪路〉は、尾崎に連れて行かれてしまったのね」

「思い出したのか?」

 宮路の言葉に、紗智は首を頷く。

自分が尾崎にひとりを選ばされた日から、紗智は幼いながらに気まずさを感じて、次第に葦原の家から遠ざかっていった。

しかし、母から、病弱だった雪路の容体が悪化したと聞いて、急いで、葦原の家へ向かった時。

布団に横たわっていたのは、〈雪路〉ではなく、〈宮路〉であった。

 彼を溺愛していた小母が悲しむことを恐れ、小父は〈宮路〉を〈雪路〉として育てることにし、それ以来、〈宮路〉は〈雪路〉として、葦原の家で生活することになった。

『さっちゃん、このことは小父さんと宮路。3人だけの秘密だよ。宮路は、いなかったんだ』

「私は、〈雪路〉じゃなくて〈宮路〉を選んだ」

 紗智の言葉に、宮路も目を伏せる。

「俺は、〈宮路〉としてはお前を娶れない。ただ、〈雪路〉としてなら、お前を娶ることが出来る」

「私との距離を置いて?」

「ああ、〈雪路〉に悪いから」

 好きな人に嫁げるというのに、どうして、不幸せのように感じるのだろう。宮路が大切にしているものは、昔から、雪路であり、紗智ではないと宣言されたようだった。

「私が雪ちゃんのお嫁さんだから?」

「お前が昔、そう言って、俺を振ったんだろう?あれでも、悔しかったんだぞ」

 雪路も宮路も紗智にとって、同じくらい、大切な存在であった。

 自分がどちらかを選んだのが信じられなくて、紗智は宮路の膝に顔を埋める。埋めた顔を振り向かせたのは、宮路ではなく、尾崎であった。

「お前ら、大切なことを忘れてるぞ」

「尾崎?」

 今は尾崎のことが恐くて、紗智は狐の手を振り払ってしまう。宮路が紗智を守るように、ぎゅっと抱きしめた。

「なんで、餓鬼ってのは、自分達に都合の悪いことだけは忘れてるのかね。あれは、〈冗談〉だと言っただろうが」

「冗談?」

「ふたりとも、雪路が亡くなったことで、俺をよっぽど、〈悪者〉にしたかったんだろうな」

「でも、だったら、どうして雪路は」

「真実に、病死だったのか、尾崎?」

 宮路が尾崎に問いかけると、尾崎は頷く。静かな答えに、紗智の目から涙が溢れた。

 もう病で幾ばくかもない人間を追い詰めた自分が、決して、悪くはないとは言えない。

「あと、紗智。お前は、罪悪感を感じてるようだが、紗智は宮路も雪路もどっちも選んでねぇよ。俺が問いかけた時、お前は、『どっちも選べない』とはっきりと応えたんだ。俺も、お前の言葉に呆れて、その日以降、お前らの面倒をみることになったんだがな」

「だから、尾崎は時々、遊びに来てくれたの?」

「雪路に頼まれたからな。宮路、お前、雪路に頼まれたこと覚えてるか?」

「何を、だ?」

「お前は、雪路に成り代わることを懸命に務めようとするばかりで忘れていたようだが。雪路から、最期に我が儘、言われてただろう?『宮路として、紗智を愛してあげて。僕には、出来ないから』ってな。あいつ、自分が長く生きられないことを知ってたんだよ」

「……紗智。体調は良さそうか?」

「うん」

 紗智は、宮路の膝から、頭を起こす。

「誰そ、彼」

「宮路?」

「自分が誰か、分かっていなかったのは、俺の方だったのかもしれない。紗智に問いかけられる前から、俺は自分の存在が幽霊のようだった」

 宮路の言葉に、紗智は彼の手を握りしめる。

「でも、今は此処にいるよ?」

「ああ」

 狐は嫌そうにふたりを見つめると、追い払うように手を振った。

「お前ら、いちゃついてるくらいなら、ふたりで墓参りでもしてこいよ。雪路も喜ぶだろう」

「尾崎は、一緒についてきてはくれないの?」

「馬に蹴られるのは御免だからな」

 早々と、尾崎に背を押されて、ふたりして、部屋から追い払われると、紗智はこっそりと、宮路に問いかける。

「ねぇ、私は、貴方のお嫁さんになってもいい?」

「今更、だろう」

「それでも、直接、貴方の口から聞きたいの」

「俺のお嫁さんになってくれるか?紗智?」

 紗智が嬉しさのあまり、飛びつくと、勢い余って、宮路が廊下へと体を倒される。

体の下から文句がある声が聞こえてきたが、構いなく、彼の体温を感じていると、大切な物を愛おしむように、彼の腕が紗智の小柄な体を抱きしめてくる。

 黄昏れ時でもないのに、彼の頬の色が昔、目に焼きついた眩い色よりも染まっていることが、嬉しかった。


【End】

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黄昏 小椿清夏 @sayuki_f

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