幕裏

第9話 取引

9-1

〝山と谷が出会うなんてことはまずないが、人間たちとなると話はべつで、善人と悪人がかちあうことがある。〟

 グリム童話『二人の旅職人』冒頭


 翌日となって医者に診せたところ判明したのだが、高台の白い邸の階段で足を滑らせた私は、左足の甲を骨折していた。

 骨折の激痛でいわゆる血管迷走神経反射――医者曰く、痛みやショックのため、自律神経系が失調して血圧や心拍数が下がり、脳に行く血液循環量を確保できないために起こる症状――を起こした私は意識を失った。要するに、校長先生の長話で起きる朝礼の貧血と同じだ。

 母と香世子さんの大人二人は慌てず騒がず対処したようだった。

 意識を取り戻した私は、見覚えのある部屋にいた。校長室を彷彿させる、クラシカルな意匠。ぼんやりとした頭で自分のおかれている状況を推測する。階段の上で倒れた私を、一番近くの部屋――すなわち、香世子さんの書斎――に運び込み、寝かせたのだろう。

 ソファベッドに足を高くして仰向けになっており、左足は痛んだけれど、ひんやりとした感触に覆われていて、我慢できないほどではない。

 誰かに覗きこまれ、大丈夫だと呟く。大丈夫。だから、今は放っておいてほしい。

 大日向有加の安否も、N西女の推薦も、写真の送り主も、幼馴染との関係も、グループの女子との確執も、母の怒りも、香世子さんの本心も、今はもういいから。

 ただでさえ風邪を引いて体調が悪く、極度の睡眠不足だった私は、あっさりと再び意識を手放す。

 ――だから、その後に見た光景は、夢なのかもしれなかった。


 室内は静寂に満ちていた。いや、呼気やカチャカチャという硬いものが触れ合う微かな物音はするし、気配もある。けれどその人たちは目には見えないルールを遵守しているのか、最低必要限度の動作と言葉があるのみ。その静けさと緊張感は、放課後の図書室を思い起こさせた。

 二人の女が、ティーテーブルに向かい合って座っている。

 ティーテーブルとそのセットである椅子は優美なデザインではあるが、華奢すぎてゆったり寛げる代物ではない。私自身一度座ったことがあるけれど、腰を直角にしていなければとても座っていられない。けれ彼女らは、セットされた人形のごとく落ち着いて腰掛けていた。それがごく自然だというように。どことなく、子どもの頃、体調を崩して寝込んでいる時に観たNHKの影絵アニメを思い起こさせた。

 テーブルの上には、陶器のカップとソーサーとティーポット、真っ白なクリームと艶やかな紅い苺のショートケーキ、そしてもう見慣れてしまったソルトケースが置いてある。そして、部屋には薄靄のように紅茶の香りが漂っていた。

「……どうして、これが砂糖だと?」

 左に座っていた女の細く美しい指先がソルトケースを掴む。チェスの駒を動かすように。問いに、右に座っていた女が答える。

「確信はしてなかった。でも、薄々はそうじゃないかと疑っていた」

「なぜ? 私はさんざん思わせぶりに振る舞っていたはずよ」

 右の女は、しばらく黙していた。が、観念したように息を吐く。

「……美雪よ。あの日、貴女の手ずからケーキを食べさせてもらって、なんて言ったか覚えている?」

「さあ、なんだったかしら」

 二人の女――当然、母と香世子さんだ――の様子を眺めるのは、映画やドラマの観賞と同じだった。どれほど面白く興奮あるいは恐怖におののいたとしても、彼女らが画面から出てくることは絶対にない、安堵に似た冷めた心地。だからこそ、私は自分の名がのぼっても冷静に聞いていられた。

「あの子は極度の甘党なのよ。一杯の紅茶にどれだけ砂糖を入れるか。 小さな頃は余計にそうだった。そんな子の口に、『Sun room』の大人向けのケーキが合うはずない。だけど言ったわ。満面の笑みで〝美味しい〝ってね」

 華奢な銀のフォークに乗せられた、きらきら光る真っ白なクリーム。ああ、そう。あのクリームは甘かった。とろりとろけて、ぼうっと酔わせるほどに。

 それに、と右の女――母は続ける。

「私が貴女の立場なら、自分の子の*を、他人にあげたりしない。夫にだって渡したくない。もったいなさ過ぎてね。まして憎い女の子どもなら、なおさらでしょう?」

 言葉の一部が聞き取れない。もしかしたら、あえて声を潜めていたのかもしれない。けれど左の女――香世子さんにはもう十分過ぎるほど伝わったようだった。

「あなたに何がわかると言うの!」

 叫びと共にティーテーブルが大きく揺れた。が、立ち上がって揺らした当の本人の腕が、しっかりとティーテーブルを押さえ込み、載せてあるものが落ちることはなかった。けれどテーブルをひっくり返さない理性は残っていても、感情は収まらないのか、

「冗談じゃないわ。私はこの十年、あなたを後悔させているのだと思っていた。自分を責めさせているからこそ溜飲が下がった。一生涯、とけない呪いをかけたはずだったのに……!」

 ふっと。糸が切れた操り人形のように、香世子さんはぐったりと椅子に身を預ける。華奢な椅子が華奢な身体を支えきれるのか、そんな場違いな心配が頭をかすめたけれど、それは杞憂に終わった。

 そうして、彼女は両手で顔を覆い、呻く。

「やっぱり子どもは嫌いよ。大嫌い。こっちが必死になって書いた脚本を、ほんの一言でぶちこわしにする」

「後悔ならしていたわ。この十年、ずっと」

「おためごかしはよして。良かったわね、あなたの娘は可愛く、賢く、健全に育った。香純とは違ってね。でもね、唆してしまえば、ほら、こんなに簡単に人殺しになってしまうのよ!」

 人殺し、と呼ばれたことよりも『カスミ』という聞き覚えのない名前が気に掛かった。聞き覚えのない、けれど耳に馴染むその名。いつも近くにいたような、そんな気すらする。

 香世子さんとは対照的に、母は硬く静かな口調でそうねと頷いた。

「正直、ここまでの馬鹿娘だと思わなかったわ。でもまだ間に合う。貴女さえ納得してくれたら」

「納得? 私が許すはずないでしょう、あなたを」

 あなたを。香世子さんはそうはっきりと言った。私――美雪――ではなく、あなたを、と。それは坂の途中で聞いた『ひどいこと』のせいなのだろうか。疑問には思うけれど、画面の向こうとこちら側に隔てられている私には訊くことができない。

 嘲るような、泣き笑いのような表情を浮かべる香世子さんに、母はだったらと告げる。

「取り引きしましょう。貴女は宝さがしをしているのでしょう?」

 はっきりと。薄暗い部屋の中、香世子さんの顔色が変わった。さらに白く、冴え冴えと。

「あなたは知っているというの?」

 綻びが作られる。母はさらにその綻びを広げようとしていた。ぐいぐいと硬い布地に鋏を突き立てるように。

「宝物の交換については聞いたわ。あの子はそれについて覚えていなかった。覚えていないことを貴女に隠そうと必死だったようだけど、気付いていたのでしょう? 気付いていたくせに空とぼけていた。いいえ、なんとしでも宝物を取り戻したかったから、ちらつかせて焚き付けたのよね。美雪が思い出すように。私は美雪から話を聞いて、貴女の『宝物』がなんなのか見当がついたわ」

 交換のエピソードは貴女の捏造――脚本でしょう?

 ぴしりと白い陶器にひびが入ったように。画面の外にいる私にも、香世子さんに動揺が走ったのが見て取れた。

「……どこにあるの?」

 声は小さくかすれていた。けれど、こんなにも必死な声音を聴いたことはなかった。気持ちと声量が正比例するものではないのだと知る。

 母が口を開きかけ、閉じ、もう一度開く。逡巡の末、吐き出されたのは簡潔明瞭な解だった。

「もう無いわ。失くなってしまった」

「……ない?」                  

「十年前、美雪が失くしてしまった。その代わりに美雪は自分の宝物を宝石箱に入れた」

「どういうこと」

 震える声音には、焦りと、怯えがあった。いっそ、同情したくなるほどに。それでも母は事務的に受け答えする。母はあくまで沈着冷静だった。あるいは、そうあろうと努めていたのか。

「やはり貴女は美雪と宝物の交換をしたわけじゃないのね」

 母は押し出すような口調で確認した。香世子さんは一瞬迷ったようだったが、結局は頷いた。

「……そうよ。直接はしていない。家と病院と仕事の往復で、あの頃は他のことに目を向ける余裕がなかった。あなたへの報復が終わって、あとには現実が残ったわ。毎日くたくたになって、ようやく一息つける深夜になってこの部屋に戻って香純と語らうのが日課になっていた。なのに、あの日、あの子がいなくなっていて……玩具の指輪に変身していたなんて」

 香世子さんはふらり立ち上がり、飴色の本棚のワンスペースから、仄白く発光しているかのような宝石箱を取り出した。箱を開くが、ネジを巻いていないのか、曲は流れてこない。宝石箱の中には、白い布に包まれた玩具の赤い指輪。それを取り出して彼女は呟く。

「死ぬほど驚いたわ。まるでおとぎ話じゃない」

「それは貴女も同じよ。*を絹の小布に包むなんて『杜松の木』を真似たつもり? ……でも、おかげで宝物がなんなのかわかったわ」

 『杜松の木』。それは香世子さんが好きだと言っていたグリム童話の一つのはず。緩慢な思考の中、私はそれがどんな物語か思い出せない。

「十年前、美雪は貴女の知らぬ間にこの邸に入り込み、美しい宝石箱に惹かれて蓋を開けた。そして中身を持ち出した」

「なぜ? あれは私にとってはそれこそ〝宝物〟だったけれど、小さな子の興味を引くようなものではなかったわ。ただの白い石ころに過ぎないじゃない……!」

 はっきりとそれは悲痛な叫びだった。私。私が香世子さんの宝物を持ち出した。本当に私? だって、まったく覚えがない。

パッケージが美しければその中身も特別な品だと思ったのかもしれない。でも、もう一つ思い当たることがある」

 宝石箱を抱えたままの香世子さんは白いガウンも相まって、幽霊じみた風情で母を見据えた。

「森に捨てられた兄妹は、庭で白い石を拾い集めていた。彼らにとってそれが意味のあるものだったから。美雪にとってもその白い石は意味があったのよ。貴女の宝物は、きっと……」

 そこで母は言い澱んだ。ほんの短い間、でも、わずかに視線を逸らして、

「きっと多分、コンクリートに落書きするチョーク代わりに使われてしまった。四、五歳当時の美雪にとってブームだった遊びよ。いたるところに落書きをしていて、どうにか止めさせようと自宅と母屋からペンやら鉛筆やら書くものを隠したことがあったわ。だから、美雪は描くものに飢えていた。〈城〉で『宝物』を見つけた美雪は、それを持ち出し、夢中になって落書きをした。そのうちにすり減らして失くして……そこでようやく悪いことをしたと気付き、代わりに自分の宝物を宝石箱に戻した。罪の相殺をしようとしたのよ」

 静寂が痛かった。香世子さんは呆然と立ちすくみ……ようよう、声を振り絞る。

「私の、あの子を。あなたの娘は使ってしまったというの……」

 宝石箱を取り落とし、香世子さんは母に掴み掛かった。幽霊から突如生身に成り代わった唐突な動き。絨毯の上に落ちたオルゴールはネジを巻いていないはずなのに、ほんの一小節分だけ澄んだ音色を鳴りこぼす。

「あなたはそれを黙って見ていたの!」

 両肩を揺さぶられながら、母は首を横に振る。

「いいえ。私は見ていない。全部想像よ。だけど、的外れな考えではないと思う」

「ふざけないで! 想像で香純を弄ぶなんて」

 香世子さんは、母を大きく突き放し、立ち上がろうと椅子を引く。おそらくは『カスミ』の仇――私の元へ向かうために。その瞬間。

「待って。これは取り引きと言ったはずよ」

 華奢な腕が、痩せぎすの細い腕に捕まえられる。

「何を取り引きするというの。香純はもういない。あなたの娘が、私の娘を」

「五歳の子どもよ」

「子どもだからといって許されるはずがないでしょう!」

 こんなにも感情的なこの人を見たことがあっただろうか。髪を振り乱し、香世子さんは腕を振り払おうとするが、母はがっしりと捕まえ離さない。

「……そうじゃない。五歳の子どもがよその家に上がり込んで、宝石箱を開け、中身を取り出し、あげく自分の宝物を代わりに入れる。たった一人でそんなことができると思っているの?」

「何が言いたいの?」

 険のある声音だったけれど、香世子さんの身体からわずかに力が抜ける。それでも母の節くれ立った指は細く白い腕を離さなかった。

「十年前の天気雪の日から、私は貴女の甘い毒に美雪が誘われないよう、注意深く見守って――いえ、見張っていたわ。ソルトケースの中身が砂糖だと察しがついていても、確証はなかった。いつだってびくびくしていた。あの日、一度は美雪を死なせたようなものだから。

 だから、貴女が在宅している間――赤いフォルクスワーゲンが停めてある間は、絶対に美雪を一人にさせないようにしていた」

 なのに、と母は呟く。自嘲のように。 

「その一年後のことよ。朝から雪がちらついていた日だったわ。貴女はお母様を連れて朝早くから出掛けていた。お母様と出掛ける日はN市の大学病院に行くから夕方まで戻らないと知っていたから、私も用事を済ませに外出したのよ。母屋の母に美雪を預けて」

 ――あの日、母に預けて出掛けたことを、何度後悔したかわからない。

 母はそこで言葉を切り、俯いた。それでもなお香世子さんの腕を離さない。

「夕方前、まだ明るい時刻に帰ってきたら美雪の姿がなかったわ。母はどっかに遊びに行ってるんだと呑気に言ったけど、私は血の気が引く思いだった。幼稚園で美雪が行方不明になった時と同じにね。二度と同じ愚を犯さないと自分を戒めていたはずなのに、一年も経たないうちに美雪は姿を消した。自分の馬鹿さ加減がほとほと嫌になったわ。すぐさま自宅の周辺を捜して、この邸に向かって……その途中、一人で泣きながら坂を下りてくる美雪を見つけたのよ。坂の上には大きな白い落書きがあったわ」

 香世子さんはもう立ち上がろうとはせず、母の話に耳を傾けていた。その様子を感じ取り、母も力を緩めたのだろう。香世子さんは忌々しそうに腕を振り払い、

「何が言いたいの?」

「美雪は、この〈城〉の住人に招かれたのよ」

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