9-2
「何を言っているの。あなたの話じゃ、私はその日、母と出掛けていたはず――」
そこで言葉が途切れた。香世子さんの瞳が見開かれる。
高台の邸の住人。香世子さん。香世子さんのお継母さん。でも、私が母や祖父母から聞いた話では、あともう一人いる。城の主。今はもういない人。でも、十年前は健在だった、その人。
「…………父が?」
そんなはずがないという吐き捨てるニュアンスと、探るように問いかけるそれが絶妙にブレンドされた一言。
私は人見知りしない子どもだった。もしも優しく声を掛けられたなら、お菓子でもちらつかせられたら、ついていってしまうかもしれない。お菓子の家の魔女に招き入れられた哀れな兄妹と同じに。
外で遊んでいた私に声を掛け、ほんの数百メートル離れた高台の邸に連れて行くことはさほど難しくない。祖母の目が届いていなかったなら、尚更。あるいは、私自身が邸を覗き込み、中を見せてくれるようせがんだのなら。
五歳の子どもは初めて訪れた高台の邸に興味津々であちこち見て回り、書斎に入り、あの美しい宝石箱を見つける。私はせがまずにはいられない。あんなに美しい箱にはどんな宝物が入っているのか、見せて、見せてと。でも――
「何を言っているの。あの父が、子どもを呼び寄せるはずないわ」
「美雪だって一人で他人の家に無断で入り込むほど豪胆でもない。いくら躾がなっていなかったとはいえ」
しばらくの間、二人は無言だった。そうして、香世子さんが重々しく口を開いた。
「何が言いたいの?」
もう一度、香世子さんは繰り返す。紅茶の香りに混じり、剣呑な空気が、密閉された空間に立ち昇った。
「美雪自身は何も覚えていないわ。要領の良い子だから、自分がしでかした悪事も半年も経たないうちにすっかり忘れてしまった。本当にきれいさっぱり。ただ、泣きながら帰ってきた後、美雪は〈城〉をひどく怖がって近寄ろうとしなかった。怖いことがあったからなのか、自分の罪を思い出すからなのか、理由はわからないけど」
母の顔には表情らしい表情は浮かんでいない。ただ淡々と言う。
「……宝石箱は前からあの本棚に置かれていたの? だとしたら、とても子どもの手の届く高さではないわね」
暗に母は言う。香世子さんの父親が幼い頃の私を連れ出したと。そして、宝石箱を取り出して見せたのは、彼なのだと。
もっと昔ならば、近所の老人が子どもを遊びに連れ出すのは、どちらかと言えば親切な、心温まる話だったのかもしれない。しかし、今のご時勢、それが事件として扱われることを私でも知っていた。だけれど。
「あなたは人の父親を犯罪者にして、自分の娘を傷物にするつもり? 正気の沙汰じゃないわ」
香世子さんの言うとおり、あまりにも乱暴な話だった。全てが想像というか、妄想に過ぎない。妄想を並べ立てて、相手を攻撃し、宝物を失くした非はそちらにあると言っているのだ。これは取り引きでもなんでもない。ただただ相手の感情を逆なでするだけに過ぎない、悪手だった。私自身も複雑な心持ちにさせられる。母はこんなにも魯鈍だったろうか。子どもの背が届かない高さに宝石箱があったとしても、何か踏み台の代わりなるものがあれば取り出せてしまうのに。
こちらの心配をよそに母は手を膝の上に揃え、眉一つ動かさぬまま続ける。
「貴女のお父様は高名な大学の教授だったわね。亡くなってなお慕う教え子の方も多いのでしょう」
それは皮肉だったのだろう。でも、あまりに当然に過ぎてあまり効果はなかった。実際、香世子さんは余裕たっぷりにカップに唇を寄せながら言う。
「そうよ。そんな父がよその子どもに何かするなんて、」
ありえない。そう続くはずの言葉は、母が遮った。いや、遮ったという素振り見せないほど圧倒する強さで無視したというべきか。
「三十年間考えていたことがあるわ。貴女がこの町を離れたのは、私がしでかした
ガシャン、と。カップがソーサーの上に落ちる。ただ単に手が滑ったというには、タイミングが意味深過ぎた。その無粋な音の後、さらに静まり返った部屋に呟きが落とされた。
……千匹皮。
あまりに深い静寂の後。
香世子さんは手を振り上げ……母を叩いた。叩いて、叩いて、叩き続けた。
「……ごめんなさい」
ただただ、母は頭を垂れていた。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。そう蚊の鳴くような声で繰り返す。
一体、これはどういった光景なのだろうか。母は一切抵抗せず、俯いたまま、香世子さんに叩かれるに任せている。けれど華奢な腕を振り上げている香世子さん自身のほうがよっぽど悲痛な表情を貼り付かせていた。その蒼白の顔色はひびの入ったグラスを連想させる。辛うじて形を保っているだけで、あと少し突けばきっと無惨に崩れてしまう。
――今更、どうして掘り返すの。三十年も経って焼けた靴を履かせる必要がある? 私の香純を喪わせて、なお、私を苛む。私の脚本を勝手な都合でぶち壊す。どんな権利があってそんな仕打ちができるの。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
許さない。許さない。許さない。許さない。
私は香世子さんにやめてと止めることも、母に逃げてと叫ぶこともできなかった。自分はあくまで二人の傍観者――いや、観客に過ぎない。ガラスの棺の中で死んでいる白雪姫以上に何もできない。二人の関係性に割り込むことができない。スポットライトは当たらない。物語を紡ぐのは私ではありない。それを直感的に悟った。
どれほど時が過ぎたのか。香世子さんの手が止まってしばらく、母はゆるゆると顔を上げた。香世子さんは椅子にぐったりともたれかかり、放心したように宙を眺めていた。
「……香世子?」
乱れた髪が頬に落ち、彼女の細面を一層儚く彩る。それでもなお、彼女は美しい。美しいと思う自分がいた。そしておそらく母も陶酔しているかのように香世子さんに見入っているのだろう。魅入られざるをえないのだ。愚かな娘ではあるけれど、それだけは確信できた。そして気付く。母が香世子さんを名で呼んだことに。それが聞き逃すほどにごく自然であったことに。
「……魔女ね」
皮肉な、痛々しい、凄絶な笑み。
「あなたは魔女に違いない。でなければできるはずないわ。妄想をでっちあげ、幼馴染の父親を犯罪者に仕立て、娘を傷物にしようなんて」
「私に魔法は使えない。貴女の言う通り妄想をでっちあげただけ。魔法を使えるのは貴女だけよ」
香世子さんは一瞬、虚を突かれた顔をした。魔法を使えるのは貴女だけ。そのフレーズを噛みしめるようにゆっくりと瞬きをしてから呟いた。
そうして、香世子さんはぐったり椅子に身をもたれかけさせ、呻く。
「ひどい取り引きだわ」
「……同感よ」
香世子さんはしなやかな背を立て直してポットから白磁の器に紅茶を注ぐ。自分の分だけ淹れて、口をつける。
母も向かいに座り直し、自分の分を淹れ、勝手に飲み始める。
それからしばらくの間、紅茶の芳香と白い湯気だけが、書斎を支配した。
「私からも訊きたいことがあるわ」
長い沈黙を破ったのは母だった。ティーカップをティーテーブルに戻してから続ける。
「結局、貴女は『宝物』を取り戻したかっただけなのでしょう。そのために、美雪に近付いた。でも、なぜ、今だったの? 十年間、あの子に『宝物』について問い質す機会はいくらでもあったはずよ」
フォークでショートケーキのセロハンを器用に巻き取る香世子さんに母は問う。その言葉には何も今でなくて良かったじゃない、そんなニュアンスが含まれていた。受験生の親としての真っ当な意見だろう。
「よく言うわ。この十年、私と美雪ちゃんを接触させないよう、いつだって見張っていたくせに。いつもキッチンの窓辺にいたでしょう?」
「主婦がキッチンに詰めているのは当然じゃない」
見張っていたこと自体は否定しないで、母はさらりと言ってのけた。香世子さんはそれ以上追求しようとはしなかった。音も立てずにフォークを置き、ほうっと溜息をつく。
「正直、期待はしていなかった。『宝物』はもう取り戻せないってね。でも、両親が亡くなって、少しだけ時間に余裕ができて、美雪ちゃんと駅で会って……ラストチャンスだと思ったのよ。おもちゃの指輪の持ち主で、この家に出入りする可能性があるのは美雪ちゃん以外考えられなかった。美雪ちゃんから返してもらうには、美雪ちゃんの協力は不可欠。だから、あれこれ好かれるためにやってみせたけど」
結構、面白かったわね。香世子さんはそんなふうにうそぶいてみせる。
夢だから、だろうか。香世子さんが親しくしてくれていたのは下心があったから。けれど、さほどショックを受けなかった。やっぱり、という静かで透明な納得が心のコップを満たし、間違いなく寂しさも混ざっていたのだろうけれど、透明すぎて認識できなかった。
「大日向さん――美雪の同級生もたらし込んだわね。彼女は〝毒薬〟を飲んでいない。仮病を使って休むよう、唆したんでしょう?」
浮上した同級生の名に耳が反応する。香世子さんがそそのかした? なぜ。なんと言って。
「たらしこむなんて品のない言い方ね。最初に声をかけてきたのはあちらだし、少しアドバイスしただけで彼女には何もしていないわ」
いえ、むしろアドバイスをもらったのかしらね。答えながら香世子さんはふっと笑った。
――あいかわらず、気になるのね。私が他の子と仲良くなるのが。母はそれには答えない。大日向有加についての言及はそれだけで終わった。
二人の会話には、奇妙な気安さと一定の距離、そして緊張感があった。強いて表現するのならば、共犯者めいたそれ。
「『宝物』はもう手に入らないの? あちらとは連絡とってないの?」
母の問いに香世子さんは小さく肩をすくめた。
「元夫はともかく、姑は私を許していないわ。葬儀の時もさんざん罵られて、水の入ったコップどころかお茶の入った急須を投げつけられた。もう生きて会うことはないでしょう」
葬儀。一体、誰の? 思考は緩慢でわからない。でもきっと、香世子さんの大切な人の。それは続く口調から窺い知ることができた。
「ようやくかすめ取ったひとつだったのに。でも、わかっていた。何をしたって、私はあの子を取り戻せないって」
「……今後も可能性はないの? 五年、十年先なら」
それがどういう意味なのか、朧気ながら私も察する。母の不謹慎な発言に、香世子さんはうっすらと笑みを浮かべるだけだった。
大人は――少なくとも、私の周囲の大人は、皆、道徳的で善良なのだと思っていた。ゴミは分別して、電車の優先席には座らず、町内会の公園掃除には時間どおりに参加する。それは疑うことのない信仰のようなものだったはずなのに。
香世子さんは、ケーキを一口、紅茶を一口含んでから、ゆっくり首を横に振った。
「……無理ね、もう」
――あるいは、幸せなことかもしれない。
ぽつりと落とされた呟きは、香世子さん自身がすでに諦めていることを告げていた。
母は物言いたげにしていたが、結局、黙ったままでいた。
「あなたは怖くないの?」
しばらくしてお茶請けの世間話というように、香世子さんはケーキの天辺に乗った苺を突きながら軽い口調で言う。
「さっきあなたが作り上げた脚本でいけば、私の父は犯罪者で、聡明な母親であるあなたは〝狼〟に近付かせないよう十年前から腐心していた」
ショートケーキを食べる順序をマナー教則本で読んだことがある。三角の鋭角から食べ始め、適度なところでフォークの先端をケーキに垂直に刺して手前に倒し、横に倒して切る、と書いてあった。苺は、本体を食べ進め、ぶつかったところで食べるのだという。
「あなたの娘は、可愛く、賢く、健全に育ち、娘盛りの十五になろうとしている」
けれど香世子さんは大分手前で苺を蹴落とすようにフォークの先で転がした。クリームをお尻につけたまま皿に落下した苺に、銀の切っ先がぶっすり突き立てられる。
苺は単なる果物――厳密に定義すれば野菜にカテゴライズされるらしいが――であるはずなのに、ひどく生々しく感じられた。同時に、マナーもへったくれもない所作にもかかわらず、その躊躇いのなさはいっそ清清しく、それがこそが正道ではと思わせる。
「そんなあなたの娘に、私が、母であるあなたの所行を暴露しないか」
…………あなたは、怖くないの?
香世子さんは繰り返した。
母は、香世子さんに〝ひどいこと〟をしたと言っていた。ひどいことってどんなこと? コルベス様は何をして殺された? 母のひどいことはコルベス様と同じ……?
「私は、」
母はやや猫背気味の姿勢で香世子さんを見上げる。背筋の伸びた香世子さんは母を見下ろす。二人の視線が絡んだ。先に逸らしたのは、母だった。
「……はなから慕われていないから。貴女ほどに」
咄嗟、反論しようと思った。けれど観客たる私は当然できるはずもなく、それこそまぎれもない事実だったので、どうしようもなかった。守られたから、その相手に良い顔をしようなんて、私も大概だった。
香世子さんは無表情に赤い果実を口に運び、咀嚼し、飲み込む。ケーキを切り分け口に運び、紅茶を飲む。母もようようケーキのセロハンを剥がし始めた。
二人は黙々と紅茶を飲み、ケーキを口に運ぶ。その律動的な動きは、厳かなようにも、機械的にも感じられた。
その様子を眺めている観客席の私の意識は徐々に薄れ始め……次に目を覚ました時には、ミミタンのベッドカバーが掛かったベッドに横たわっていた。
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