8-5
一体いつのまにか香世子さんは階段の最上段に現れ、こちらを見下ろすように佇んでいた。ゆったりとしたベージュのニットワンピースに、オフホワイトのガウンを纏っている。
その天女じみた姿を見上げ、母は古ぼけたエプロンのポケットからソルトケースを取り出し、突きつけるようにして言う。
「返しにきたの。うちの娘には過ぎたものだから」
「それは困るわ、美雪ちゃん。贈り物は返品を受け付けない主義なの」
「受験勉強の妨げになっているのよ」
「お守りみたいなものよ、持っていてちょうだい」
「お守りどころか、害にしかなっていない」
「使い方次第よ。いらっしゃいな、私が方法を教えてあげるわ」
母は香世子さんに話しかけているのに、香世子さんは私に返す。奇妙なやりとりに加われるはずもなく、私は馬鹿みたいに突っ立ているしかなかった。
母は話しかける間にも、玄関ホールを抜け、階段を一段一段上がり、香世子さんとの距離をつめていく。一方の香世子さんは階段を下りてこようとはしなかった。
「代金はきちんと支払います、だから」
「頼み込んで譲っていただいた品だから、値をつけようがないわ。それにもう、使ってしまったのでしょう?」
――使ったわけじゃない。使うフリをしようとしただけ。
そう反論しよう思うのに、私の喉は大きな石でも飲み込んでしまったように封されて何も言えない。
母は階段の小さな踊り場で足を止め、香世子さんの微笑を見上げる。
その構図は、見ていて気持ちの良いものではなかった。ゆったりと手すりに腕を置いて階段上から母を見下ろす貴婦人と、着古したエプロンをつけた痩せぎすの中年女。天使の輪を浮かべた香世子さんの髪が揺れるたびに、のばしっぱなしで一つに束ねただけの母の傷んだ髪を見てしまう。
どれだけ香世子さんが好きで憧れていても、やはり母が見下ろされるのは心苦しく、同時に無意識のうちに香世子さんと母を見比べてしまう自分自身にも嫌気が差した。
もういい、もういいから。私は泣き出す心地で、視線で訴えるが、母が気付くはずもなかった。
香世子さんは嗤う。それはとても満ち足りた笑顔。そして、向けられているのは他ならぬ母だった。
唐突に悟る。これは罠なのだ、と。
私は香世子さんへの恋情から毒薬を使ったことを否定できない。そのことを香世子さんが理解していないはずがない。巧妙に仕組まれた罠。だけど標的は私じゃない。
母は香世子さんにひどいことをしたと言った。ひどいことってどんなこと? コルベス様がしたのと同じくらい? コルベス様はどうなったんだった? ヘンゼルとグレーテルは甘いお菓子の罠に飛びつき、悪い魔女に捕まった。私も甘い甘いお菓子に飛びついた。じゃあ、魔女は誰? コルベス様は何をした……?
「宝物の行方を知りたいのでしょう、貴女は」
そこで初めて、香世子さんは母と視線を合わせた。母はその眼差しを迎え打つ。おそらくそれは母の切り札なのだろう。
「……どこにあるの。見せて」
わずかに声が上擦っていただろうか。ゆったりとした口調ではあった。けれどそれがことさら自制をかけた末にも感じられた。必死を押し殺しているというべきか。
対する母は、なぜか伏し目となり、奥歯に物がが挟まったような言い方をする。
「ここにはないわ。……私もさっき気付いたばかりだから。持って来られない」
「どういう意味?」
香世子さんは、今度は苛立ちを隠そうともせず、詰問口調で訊いてくる。
しかし、母は答えなかった。その様子は焦らしているとも、嘘をついているともとれた。私があれだけさがしても見つけられなかったのだ、本当に母が『宝物』に心当たりがあるか疑わしく、香世子さんも後者として受け取ったようだった。
「言ったはずよ、宝物を持ってきてと。あれがないなら話にならない。帰って頂戴」
踊り場の母を覗き込むようにしていた香世子さんはガウンを翻し、二階廊下の先へと進もうとする。その背を母が追い、階段の最上段まで上がった。そしてソルトケースを突き出し、
「帰らないわ。貴女にこれを返すまでは」
「使用済みの品を返そうなんて、随分な礼儀ね。私に返したところで、あなたの娘がそれを使った事実は消えないのよ」
――使った事実は消えない。
香世子さんに断言され、私は少なからず動揺する。違う、そうじゃない。そんなつもりはなかった。今度こそ、そう声を上げて否定しようとした。なのに。
「そうね、使ったわ。私の娘は人殺しになってしまった」
母はあっさりと認めた。あんまりにもあっさり認めてみせる。パッチワークの図案だってもう少し悩むだろうに。香世子さんすら離れていても長いとわかる睫毛をしばたかせた。
私は人殺しをしたつもりなど全然なかった。
だって、あれはほんの少し集中力や思考力を低下させるだけと、副作用はないと言っていたから。その言葉を信じて、振りかけるフリをしただけ。香世子さんの言葉に従ったというポーズ。そう言ったのに、母は容赦なく娘である私を断罪する。かけるフリをして、本当にかけてしまうことを期待した――そんな、心の奥の奥の奥底見透かさなくったっていいじゃない。やっぱり、母は、私のことを。
「認めるの」
「ええ。悪意を持って他人を傷付けたなら、結果はどうあれ立派な殺人よ」
唖然とする。袖を引っ張っていた手を振り払われた心地だった。母はこちらを一瞥もせず、香世子さんを見上げたまま言う。
「だから、親としての責任は取らせてもらうわ」
止める暇があらばこそ。
母は持っていたソルトケースの入れ替え口を開け、その純白の毒薬を一気にあおった。さらさらとした粉は見る間に、細い喉へと流れ込み――母はゆっくりとくずおれる。
一瞬の静寂の後。
「おかあさん、おかあさん、おかあさん、おかあさんっ!」
私は狂ったように叫び、玄関のたたきから階段へと走った。つっかけを片方履いたまま上がってしまうが構っていられない。
階段を上がり、母を支えようとするが、苦しいのか身をよじらせて私を寄せ付けまいと大きく突き飛ばす。その力強さに、狭い階段でたたらを踏むがなんとか持ち堪えて母に飛びつく。
責任を取るって、だからってこんなこんなこんな! 罰を受けるなら、私でしょう? 激しく咳込み、ぐらりと倒れ込む母を、渾身の力を振り絞り支える。だけれど母は、もがき、暴れ、そして……座りこんで動かなくなる。
一斉に血の気が引いた。救急車を呼ばなくては。でも私は携帯電話を持っていない。母屋に助けを呼んで、父の会社に連絡して、学校にもしばらく休むと……
上滑りする思考の合間も私はただ、おかあさん、おかあさんと繰り返していた。と、肩が引かれる。
「キッチンへ行って、グラスに水を汲んできて」
香世子さんだった。一瞬、惚けて、平坦で黒々と美しい瞳を見つめる。早く、と囁かれて、我に返り階段を駆け下りてキッチンに駆け込んだ。
一階は何度も訪れているので間取りはわかっている。私はキッチンの戸棚にある大きなグラスを取り出し、水を入れて再び階段の最上段で蹲る母の元へと急いだ。
後になって思い出せば、私は多少慌てていたのだろう。いや、かなり。階段を駆け上がり、あともう一段というところで、身体が沈んだ。クロックスもどきを履きっぱなしだった左足が滑る。左足に痛みが走ると同時に、強かに顎を階段の段に打ちつけた。階段という斜面にうつぶせに倒れ込むという体勢になるが、それでもグラスからは手を離さず、中身もほんの少しこぼれるだけにとどまった。
あまりの痛みに、目の前に黒い紗が下ろされたように薄暗くなるが歯を食いしばって耐える。そのうちに捧げ持っていたグラスを香世子さんが受け取ってくれた。
と、二人の腕の間にもう一本腕がぬっと突き出される。とっさにグリム童話の墓から突き出された子どもの腕を連想した。吐き気と眩暈の中、まるで夢の中の光景に思えた。
腕はグラスをひったくると、一気に水を飲み干す。
おかあさん? そう呼べば、腕の主は呼吸を整えるように咳をして、あんたが揺さぶるから気管に入り込んだじゃない、とつっけんどんに返してくる。
「……砂糖ね」
母は半身を起こし、香世子さんにグラスを返しながら呟いた。香世子さんも受け取りながら呟く。
「いつから知っていたの?」
「十年前の、あの天気雪の日から」
わけがわからなかった。視野が狭くなると同時に、耳まで遠くなっており、もしかしたら聞き違えたのかもしれない。けれど二人の落ち着いた様子から、了解済みのことなのだとはわかる。
母は二、三度エプロンをはたき、立ち上がった。階段に伏せったままの私の眼前を、きらきら、きらきら白い粒が零れ落ちてゆく。その純白の結晶から目を離せない。というよりも、急速に意識が遠のき、自分の意志で瞼すら動かせなかった。
白い粒は矛盾の具現だった。毒薬であり、砂糖であり、偽りのバースデイプレゼントであり、なのにこんなにも白く輝き美しいなんて。
「……取り引きをしましょう、十年越しの」
頭上で誰かが呟く。取り引きはいけない。取り引きはいつだって悪魔が持ち掛けて善良な人を陥れる。
香世子さん、おかあさん、揺れる茶髪、離れてしまった幼馴染、同級生の女子たち、写真の送り主……
誰が悪魔で、誰が善良な人なのか。意識を失いつつある私にはもう何もわからなかった。
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