8-4
薄いドアとミミタンとその仲間たちのベットカバー、そして分厚い羽根布団を通して、階段のきしみが伝わってくる。
「美雪、いるの? 大丈夫なの?」
ドアが開かれ、照明が点けられる気配がした。
「寝室がぐちゃぐちゃだけど、やったのはあんた? 泥棒が入ったわけじゃないわね?」
布団を被り、枕に顔を押し付けたまま身じろぎ一つしない娘に、いつも冷静な母の声音も心配の色を帯びた。
「気分悪いの? せめて着替えてから寝なさい。おかゆ作ってきてあげるから、ちゃんと薬を飲んで」
母がベッドの端に腰掛けたのだろう、ベッドの端が凹み、ダンゴ虫のように丸まった私の体勢がわずかに傾いた。背を撫でる感触が伝わってくる。そこで初めて私は自分が震えていたことに気付いた。
どうして、こんな時、優しくするの。一番頼りたくない相手なのに。何重にも重ねられた布の鎧を通しても、母の手は、母の手だとわかってしまうのだった。
「今日のテスト、そんなにできなかったの?」
「……やったの」
「ならいいじゃない」
「……ちがう。本当に、やっちゃったの」
噛み合わない、滑稽な会話。どう説明すれば良いかわからない。説明したところで理解してもらえない。私はやらかした。香世子さんにも、母にすらきっと見捨てられる。
「美雪?」
鼻を啜り、嗚咽を洩らし始めた娘の背を、母はしばらくあやすように撫で続けていた。情けなくも、いっそう優しい手を、私はふりほどけない。
ふいにその手が止まる。母が立ち上がったのだろう、ベッドのスプリングがわずかに揺れた。
「これ、どこから出してきたの」
くぐもった硬い声に 母の言わんとしていることが一瞬遅れて理解できた。被っていた何枚もの布を跳ね上げて半身を起こす。
母の視線の先――デスクの上には、寝室から持ち出し置きっぱなししたままの『白雪姫と七人の小人たち』があった。
そして、絵本の傍らには白いソルトケースが鎮座ましましていた。いっそ飲んでしまおうかと思いつめて凝視していたそれ。私の顔色に気付いたのか、母は目敏くソルトケースに手を伸ばす。母の骨張った手が白く艶やかな陶器を掴み、しばらくそれに視線を落とす。そして、呟いた。
「彼女に、もらったのね?」
端的で、ストレートで、えぐる言葉だった。
『彼女』が誰を指しているかは明白で、反射的に違うと叫びそうになり、違うと言い張れば言い張るほど疑いは彼女に向いてしまうと、馬鹿な私もさすがに気付く。じゃあ、どう言い繕えば良いの? 見当さえつかない無知加減に、愕然とする。
この期に及んで、私は香世子さんに嫌われたくなかった。罪を背負わされ、母に失望され、二度と手作りの品を作ってもらえなくなる子になろうと。
予想通り、母は溜息をついた。どうしようもない、失望のそれ。そして額に手をやり、頭痛に耐えるようにして言う。
「……まず、顔を洗ってきなさい」
――それから全部、話しなさい。
母は確かに私に失望したと思う。けれど、涙と鼻水と感情でぐちゃぐちゃの顔をした愚かで浅ましい娘を、決して見捨てはしなかった。
N西女のこと、大日向有加のこと、こうかんこした宝物のこと。そして、十五歳のバースデイプレゼントに贈られた毒薬のこと。
ここ半月ほどの出来事を吐かされた。母は言いよどむ私を促し、確認する以外は口を挟まず、悪魔に無理難題を突きつけられた王妃さながら顔をしかめて聞いていた。
母の表情はお世辞にも納得しているとは言いがたかった。まだ隠し事をしていることに気付いているのかもしれない。けれどさすがにファーストキスどころかサードキスまで済ませ、あまつさえその場面を写真に撮られたとは言い出せなかった。
一通りを話し終えると、母は身につけたエプロンのポケットにソルトケースをいとも無造作に放り込み、私が身を守るように被っていた布団を引っ剥がした。そして有無を言わさず、玄関まで私を引きずり、つっかけ――クロックスもどき――を履かせ、外へ連れ出す。
もう力の差はないどころか、追い越していてもおかしくはないのに、抗えない強さだった。十二月の外気は骨身に染み入るほど冷たかったが、母は受験生にコートを取ってくる猶予を与えず、自身も何も羽織ることなく、観念するしかなかった。
「どこ、行くの?」
「〈城〉よ」
同じくつっかけを履き、私の腕をかぎづめでがっちり固定したかのように掴んで離さない背に問えば、端的に答えてくる。向かう坂道を上がった先は一つしかなく、〈城〉が指すものは明白であったけれど、母がそういう表現を使ったことに驚きを覚えた。
「あんたは本当に大日向さんに毒薬を飲ませたの?」
坂を半分ほど上がったところで、母はこちらを振り返り、問うてきた。
首を横に振る。違う、という意味ではない。わからないという意味だった。誰もいない図書室で、確かに私はソルトケースの蓋を跳ね上げ、大日向有加のお弁当箱の前に立った。
――貴女は絶対に大丈夫。何もかも上手くいくわ。……私たちには絆があるもの。
香世子さんの言葉は絶対で、香世子さんの言う通りにしていれば間違いない。もし大丈夫ではなく、負けてしまうことがあれば、それは香世子さんの言う通りにしなかったということで、香世子さんの言葉を信じなかったということになる。私は、私の裏切りが香世子さんにばれてしまうのが、何より恐ろしかった。
好きな相手に相談を持ちかけ、アドバイスに従うというプロセスは甘い毒だ。自分のためになり、相手には可愛いところを見せられて、親愛の情は深まる。恋愛においてとても有効な手段。けれど、そのアドバイスが自分の価値観や倫理観とずれてくると、手痛いしっぺ返しが待っている。
ぎりぎりまで香世子さんの言う通りに実行し、実際には振りかけず、やってみたけどうまくかからなかったみたい、と言い訳するつもりだった。私のために薬を用意してくれた香世子さんに誠意は示したかったのだ。お妃に白雪姫を殺したと偽り、猪の臓物を差し出した狩人と同じに。
けれど大日向有加は原因不明の腹痛で倒れた。振りかけたつもりはなかったが、ほんの少しこぼれ落ちた可能性は否定しきれない。お弁当を食べ終えた大日向有加は、夕刻、図書室を出るまで特に変わった様子はなく、妙な話だけれど私は安心していたというのに。
母は足を止めて、考え込む素振りを覗かせた。夜を背景に、自宅の敷地外で母を見るのは随分久しぶりだった。奇妙な心地になり、ずっと訊きたくて訊けなかったことが口をつく。
「香世子さんとは、友達だったの?」
蒼い月の下、母は神経質そうに片眉を跳ね上げた。細面が一層尖って見える。
「……友達だったことなんて一度もないわ。ひどいことをしたから」
「ひどいこと?」
「おきざりにして食べられてしまった。何より大事だったのに」
吐き捨てるように言って、母は歩みを再開する。
ひどいことをした――誰が、誰に。おきざりにした――どこに、どうして? 食べられてしまった――一体、何に? いくつもの問いが新たに湧いてくる。けれど高台の白い邸はもう目の前で、その泉には蓋をするしかなかった。
邸に着くと、母は息つく間もなく門扉を開き、アプローチを辿り、インターホンを押した。窓からは灯が漏れて出ている。外から見やるにおそらくはバルコニー横の部屋、香世子さんの書斎の明かりだろう。しかし、応答はない。
初瀬さん、初瀬さんと呼びかけながら母はドアを叩き、しまいにはドアノブをガチャガチャと揺らす。数時間前の自身と同じ行動を、私は数歩後ろからひとごとのように眺めていた。
そのうちに、母はドアノブから手を下ろし、後ろずさりするようにして私の横に並んだ。諦めたのだろうか。見捨てられたような、安心したような複雑な心地にさせられる。けれど、それはすぐさま早とちりだとわかった。
母は邸を仰ぎ見て、なにやらうずくまり、次に大きく腕を上げて振りかぶった。カンっと硬質の音が夜陰に響く。流れるような動きの残像が目に焼きついた。
「なにしてるのっ」
一瞬遅れて私は叫んだ。母は落ちていた石を拾い上げ、邸の窓に投げつけたのだ。幸い、さきほどの一投で窓が破損することはなかったが、母は早くも第二投を打ち放とうと構えていた。
「居留守を使われたら、こうするしか手がないでしょう」
わからなくもないけれど、躾に厳しい母の振る舞いらしくなくうろたえた。せめて第二投が放たれる前にと、慌ててインターホンへと向かう。二三度呼び鈴を押して、マイクに呼びかけた。
「香世子さん、香世子さん、お願い返事をして!」
「……どちら様?」
拍子抜けするほどあっさりと声が返ってきた。その僥倖に私は飛びついた。
「私、美雪。お願いだから開けて、香世子さん!」
ええ、もちろんよと朗らかな声。続く言葉もまた歌うような調子だった。
「貴女が本当の美雪ちゃんという証拠を見せてくれたらね。宝物を持ってきてくれたのでしょう、美雪ちゃん?」
今度は私が黙り込む番だった。証拠がないなら開けられないわ、とそれきり声は途絶える。私は立ち尽くすしかなかった。
「証拠ってどういうこと、美雪?」
母は険しい表情をしていたが、もう手に石は持っていなかった。
私は『狼と七匹の仔山羊』めいたやりとりを簡単に話す。そして、幼い頃、おもちゃの指輪と『こうかんこ』したという宝物の存在を。
「……本当に思い出せないの?」
二人して門扉の前へ戻り、センサーライトの元、私たちは香世子さんの書斎を見上げていた。
母の問いに力なく頷く。母はいつもの額に手をやる仕草をしてしばし瞑目した。その時間が一瞬と言うには長くて、不安になる。母に見捨てられたら、私はもう。
「初瀬さんとはいつもどんな話をしていたの」
「え?」
「何かヒントがあったかもしれないでしょう。あんたが気付いていないだけで」
それは自分ならば理解るという自信の表れか。私の不満を、母は闇夜の中でも正確に嗅ぎ取った。奇妙なほどに。
「単に歳月の差よ」
嘆息混じりににべもなく言われ、見えないとわかっていても血が昇った顔を下に向けた。そうして、顔を伏せたまま母に香世子さんと交わした会話を列挙していく。実際、自分自身も一度行った手順ではあった。
――『Sun room』のショートケーキ。N西女。アミュレス・アミュレット。三回忌。宝石箱。忘れ姫。グリム童話。香世子さんはどの話が好きと言っていた? 忠臣ヨハネス、杜松の木、子どもたちが屠殺ごっこをした話……原本は改竄される。どうして? おそらくは生き良いように。千匹皮。娘に求婚した父王。真っ白なソルトケース……キスについては話せない。
しばし考え込むように黙していた母だったが、いくつか質問をしてきた。
「彼女は、〝宝物〟は元々宝石箱に入っていたと言ったのね?」
頷く。
「宝石箱はどんなふうだったの?」
両手を広げて大きさを示しながら、私はたどたどしくも説明する。
「黒くて光っていて、多分、螺鈿細工で。蓋を開けると『星に願いを』が流れるオルゴールで、中は紅いビロード張り……アミュレットはその中にシルクみたいな布に包んであって……」
母は再び黙って俯いた。センサーライトが眩しかったせいかもしれないが、同時に母が呟くのが聞こえる。
「……杜松の木」
それはとても小さな声で、いつも明瞭な母のそれとは違っていた。だったら聞き逃しそうなものなのに、違うからこそか、私の耳は拾い上げる。怯えのようでもあり、諦めのようでもあった。
どこかからホゥーっと奇妙な音が夜を震わせた。鳥だろうか。このあたりに夜鳴く鳥などいただろうか。木立がざわめき、影が揺らぎ、闇夜が膨れ上がる。そして何よりいつもと違う母の雰囲気に、逃げ出したくなる。おばあさんに化けた狼。中途半端に賢い私はその可能性に気付く。
その予感を振り払いたくて、あえて私は母の袖を引こうと手を伸ばした。けれど母は娘の手をすり抜け、再び玄関に向かう。
「初瀬さん、初瀬さん」
呼び掛けながらインターホンを鳴らすが、応答はない。始めのうちはゆっくり、けれどそのうちに間隔が短くなり、嫌がらせのように連打する。いくら高台の一軒家とはいえ、誰かに聞きとがめられて通報でもされるのではとないかと気が気ではなかった。
そのうちに母は諦め、門扉のところまで退がり、白い邸――母曰く〈城〉――を見上げる。ラプンツェル、ラプンツェル、お前の髪を垂らしておくれ――センサーライトを一身に浴びたその姿は、乞い願う王子さながらの佇まいで。
しかし、当然ながら母は王子ではなかった。唐突にしゃがみ込んだかと思うと素早く立ち上がり、一直線に白い邸に向かう。そして一階の窓辺に近づき、少しのためらいもなく、振りかざした手を下ろした。
がしゃん、と。漆黒の冬の夜そのものを割ったかのような硬質の音が響いた。しゃがみ込んだ時に石を拾い、打ち付けたのだろう。
――お母さん。驚き、喉元まで出掛かった叫びは、続く母の台詞にせき止められた。
「――
今、なんと言ったのか。香世子? いや、確かに、母は『かめこ』と。
しかしその疑問を呈す隙を与えないまま、母は割ったガラス窓から吹き込むように叫ぶ。
「聞こえているんでしょう。娘は覚えていないようだけれど、私は知っているわ。こうかんこしたという宝物の行方を。あなたがどうしても取り戻したいのはそれでしょう? 今すぐ出てきなさい。さもないと、」
言い終わる前に。カチャン、という金属音が響いた。オートロックの解除音。
母はさっさと身を翻し、玄関へと回る。私も慌てて後に続いた。
ドアは苦もなく開き、母を前にして私たちは邸へと入り込んだ。玄関ホールは寒々として外気とさして変わらない温度だった。玄関の照明は消されたままだったが、薄明るい。続く階段上からぶら下がる雫型のランプには明かりが灯っていた。
母はつっかけを脱ぎ散らし、お邪魔しますの挨拶もなしに上がり込む。私はどうしたものか、縫い止められたように玄関で立ち止まった。と。
「……珍しいお客様ね」
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