1-3
「〈……あの子を、森に連れ出しておくれ。二どと、みたくもない。あの子をころして、そのしょうこに、あの子の肺と心臓を、もってきておくれ〉
狩人は、お妃のいうとおり、姫をつれだしました。狩につかうナイフをひきぬいて、白雪姫の、なんのつみのない心臓を、つきさそうとすると、姫は、なきだして、こういいました……」
美雪は、香世子のお土産をことのほか喜んだ。迫力ある絵柄を怖がらないかと心配したが、まったくの杞憂だった。もしかしたら、子どもの方が『本物』を嗅ぎ当てる能力が高いのかもしれない。その晩、早速、読んでくれとせがまれた。
「ママ。どうして、おきさき様は、白雪姫にひどいことするの?」
すっぽりと首まで布団を被った美雪が尋ねてくる。
「白雪姫があんまり綺麗だったから、羨ましくて悔しくなってしまったのよ」
娘はまだ知らない。美しさとは異端だ。異端者は迫害される。美雪は、ふうん、とわかったようなわからないような声を上げた。訊いておきながら心は先へ先へと飛んでいるのだろう。促されて、私は続きを聴かせる。
〈ああ、狩人さん、命だけは、助けてちょうだい! あたしは、森のなかにかけこんで、二どと、もどってこないから〉
〈じゃあ、おにげなさい。きのどくになあ……〉
〈やがて、けものにたべられちまうだろう〉
狩人は白雪姫の美しさにくらみ、境遇に同情し、良心の呵責に耐え切れず、逃がしてしまう。
暗い暗い森の中、白雪姫はひとりぼっちで駆けてゆく。ようやく辿り着いた七人の小人たちの家で姫は新しい生活を始める。だけれど、白雪姫が生きていると知ったお妃が、飾り紐、櫛、林檎と、次々に恐ろしいプレゼントを抱えて、七つの山を越えてやってきて……
ふと気付けば、いつの間にか美雪は安らかな寝息を立てていた。私は微笑んで、めくれかかった布団を直してやった。
さて、洗い物を済ませてしまおうと立ち上がろうとするが、なんとはなしに動けない。赤い表紙の少女が私を捕らえて離さなかった。リビングからは夫が観ているスポーツニュースが漏れ聞こえてくる。もうしばらくは放っておいても構わないだろう。私は絵本の続きを読み進めた。
誰が来ても、ドアを開けてはいけない――小人の忠告を破り、白雪姫は変装したお妃がくれた林檎を食べてしまう。小人たちは死んでしまった彼女をガラスの棺の中に入れ、嘆き悲しむ。腐りもせず、清らかに、安らかに横たわる姫。そこに偶然、王子がやってきて、欲しいものはなんでもあげるから棺を譲ってくれと頼む。断る小人たち。だが王子は食い下がる。
〈では、お棺をくれないか。わたしは、白雪姫をみずには、生きていられない。きっと、姫を自分の恋人として、あがめ、たいせつにする〉
心を打たれた小人たちは、お棺を渡す。――ここからが物語のクライマックスだ。私はページをめくる。
『王子は、おつきの者たちに、お棺を肩にかついで、はこばせました。
おつきの者たちは、うっかり、やぶでつまずきました。お棺がきゅうにゆれたので、姫がのみこんでいた毒リンゴが、のどから、ぽんと、とびだしました。
まもなく、姫は目をあけ、お棺のふたをあけて、おきあがりました。白雪姫は、生きかえったのです。』
私は首を傾げた。こんな話だったろうか。違和感を覚える。白雪姫が勝手に起きてしまっている。記憶では、確か、王子様のキスで目覚めていたはずだが。
訝りながらも文字を辿る。そして、最後の一文まで読み終えて。
「なに、これ……」
そう、呆然と呟いた。
◇
「白雪姫が生き返る方法には、色々なバリエーションがあるわ」
薄暗い部屋の中、二人きり。語る友人の横顔は青白く光っていた。
「『白雪姫』はグリム童話集に収載されているけど、元々はドイツの民話よ。グリム兄弟は民衆の間に伝えられていた昔話を集めて童話集を刊行した。あとの研究では、民間の伝承だけでなく、書物からも採話されているとわかっているけど。
グリム童話の初版第一巻は一八一二年、第二巻は一八一五年。だけど、その後も版を重ねるごとに書き換えをしたの。現在、一般にグリム童話集と呼ばれているのは、一八五七年に出版された第七版ね」
澱みない口調に、少々気圧されながらも、私は尋ねる。
「じゃあ、王子様のキスで目覚めるのは、七版?」
「いいえ。棺運びに憤慨した召使が殴った拍子に毒林檎を吐き出したり、おまじないが効いたり、様々なパターンがあるけど……グリムでは王子は白雪姫にキスはしない。それは多分、ディズニー映画の影響だわ」
「ディズニーって、あの、ハイホー、ハイホーの?」
香世子は頷く。映画には、愛する人の口づけが解毒方法であるという設定があるのだと、彼女は付け加えた。言われて私は遠い昔に観たビデオを思い出す。なるほど、花に囲まれた姫に、悲しみに暮れた王子がキスをするシーンがあった。
「ディズニー独自の脚色か、何かを参考にしたかはわからない。グリムでも『いばら姫』では、王子のキスで目が覚めるから、いいところをミックスしたのかもしれないわ。ともかく、
「詳しいんだ?」
「前にグリム童話に関する記事を書いたことがあるから」
香世子はさらりと言ってのける。私自身も短大の児童文学の講義でグリム童話は一通り読んでいたが、とても香世子の知識には追いつかなかった。こんな話ができるのは、周囲の友人で彼女ぐらいだろう。
と、にわかに闇が濃くなった。同時に、正面に垂れ下がっていた赤いビロードのカーテンがゆっくりと開いてゆく。私と香世子は、ショッピングセンターに併設されたシネマ・コンプレックスを訪れていた。先日の香世子の疲れた様子、そして母とのやりとりが気になって、気晴らしにと誘ったのだ。忙しいなら無理しないでと前置きしておいたが、ちょうど観たい作品があったのよと香世子は快く応じてくれた。
平日の午前中、上映期間終了間近の作品ということもあってか、席には私たちしか座っていない。スクリーンに予告が投影され始める。
「……して、」
ビルの爆破音――ハリウッドのアクション大作だ――に、香世子の言葉が掻き消される。
「え?」
「どうして、改竄された物語が
ラブストーリーに切り替わり、今度は容易に聞き取れた。
「映画の方が、印象に残りやすかったから?」
しばし考えた後に出した答えに、彼女はそれもあるかもしれないけど、と呟く。そしてどこか厳かな口調で続けた。
「私は、美しかったからだと思うわ」
確かにビデオは輸入菓子を彷彿させるカラフルな画像で、これが戦前につくられたなんてとひどく驚いた覚えがある。だが香世子はそういう意味じゃなくて、とわずかに首を横に振り、
「物語としての整合性よ」
ディズニー映画の白雪姫はキスによって目覚め、
一方、グリムの第七版では、白雪姫と王子はまったくの赤の他人。しかも、直接、白雪姫を目覚めさせたのは王子ではない。これで一緒になろうだなんて、現代の結婚観においてあまりに無理がある――そう香世子は淡々と話す。
「人は、苦みばしった
――だから、多くの『白雪姫』では本当のラストが語られないの。
続いた潜むような声音に、私はぎょっとした。盗み見た香世子の視線は正面に向けられたまま。その瞳には、目まぐるしく変わるスクリーンが映し出されている。
本当のラスト。私は眠ってしまった娘の傍らで読んだ絵本を思い出す。
お妃は、白雪姫と王子の結婚式に招待される。しかし、若い妃が白雪姫だと気付き、恐れ慄くお妃に用意されていたのは――
『けれども、もうすでに、鉄の上ぐつが、炭火のうえで、まっ赤にやいてありました。上ぐつは火ばしでつまんでもってこられ、お妃のまえにおかれました。
お妃は、赤くやけた上ぐつを、むりにはかされました。そして、たおれて死ぬまで、おどらなければならなかった、ということです。』
物語はここで幕を下ろされていた。
白雪姫は自分への仕打ちを忘れていなかった。華々しい人生最大のイベントと同時に、黒々と陰惨な復讐を遂げていたのだ。光に溢れた結婚式と対比して描かれた、暗い地下へと繋がる 階段。それは直裁に表現されていない分、むごい
美雪は毎晩寝しなに読んでくれとねだるが、変に几帳面なところがあって、必ず冒頭に戻らせる。そうすると必ず途中で眠ってしまい、幸いというべきか未だ最終ページまで到達していなかった。
「……どうして?」
音響の関係か、耳に入る自分の声がぶれて聴こえた。
香世子は
「知っていて欲しかったから」
「え?」
「本当のことを知っていて欲しいから。あなたには」
美雪ではなく、私に?
彼女の呟きに、重ねて問い質そうとしたその時。
スクリーンがふつり暗転し、館内が静まり返った。予告が終わったのだ。闇が、もう一段、深くなる。と、シートの肘掛に置いた手に、ひんやりとした感触が覆い被さった。染み込んでくる皮膚の質感、温度。まるで電流が流れたように身震いが走る。
「始まるわ」
相変わらず香世子はスクリーンを見据えている。
一方の私は、凍えるほどに白く整った横顔から目が離せなくなっていた。
天上の音楽が流れている。それはサティ。いや、ロードムービーの感想を吟じる声音か。
「……ストーリーは悪くなかったわ。主人公たちが途中で出会ったあの老夫婦。彼らの思い出がスライドしていく様子は良く出来ていたと思う」
光に満たされた白い部屋、甘い香り、暖かな空気。映画が終わった後、私と香世子は『Sun room』に場所を移していた。香世子はカプチーノの真っ白な泡に、例のソルトケースを振りながら、
「でも子役がイマイチだったわね。美雪ちゃんのほうがずっと可愛いわよ」
「そうかな」
私は曖昧に相槌を打つ。実のところ、映画の内容などほとんど覚えていなかった。上映中、香世子の言葉に、香世子の横顔に、香世子の手の感触に、ひたすら上の空だったのだ。
〝本当のことを知っていて欲しいから。あなたには〟
あれは一体どういう意味だったのか。少し気を抜けば、その台詞が脳内でリプレイされてしまう。何度も尋ねようとしたが、無邪気に映画の話をする彼女になかなか言い出せずにいた。
香世子は片肘を突き、窓の外に視線を巡らせる。つられて私も目を向けた。実りの無い冬の田地は荒漠としているが、正面には薄青い山の稜線、左右には家並みが連なり、鎧戸が下ろされた箱庭にも似ている。広くて狭い、矛盾の空間。それはこの町を象徴しているかのような景観だった。
「町内に映画館が建つなんて考えもしなかった。昔は電車に乗ってN市まで行かなくちゃならなかったのよね。今の子どもは遊ぶ場所が多くて羨ましいわ」
平成の大合併で「町」は「市」に昇格していたが、いまだに住民の意識は追いついておらず、依然として「町」単位で物事を測る。合併当時すでにいなかった香世子には、尚更、実感がないのだろう。ともあれ、ショッピングセンターを筆頭に、本屋、ゲームセンター、レストラン、衣料品店などが、ここ数年、急激に増えたのは事実だった。
「私たちが子どもの頃って、外で遊ぶことが多かったわよね。学校、公園、児童館……あとは神社とか。今の子はどう? 外に行く?」
「美雪は、基本的に家の中で遊ばせているかな。まだあの子、小さいし。おてんばで目を離すとすぐどこかに行っちゃうし」
「そうね。物騒な事件、あるものね。美雪ちゃんぐらい可愛いと心配よね」
と、香世子は積もるほどに白い粉を降らせたカプチーノのカップを両手で持ち、じっと私を見つめる。人を凝視する癖でもあるのだろうか。無意識なのか自覚があるのか、彼女といると時折こんな視線を感じた。自然と顔が火照り、身体が硬くなる。こちらが耐え切れなくなる寸前、香世子は再び外に目をやった。
「こんな日は、いつも皆で遊んでいたわね」
空は快晴、光の矢が降り注ぐ。気温は低いが、そのぶん澄み切った日和だった。
「学校が終わって、集合場所を決めて、ランドセルを置いて。かくれんぼ、缶蹴り、氷鬼……ああ、あと長縄跳びとか」
――おじょうさん、おはいんなさい、って。節を付けて香世子は小さく歌う。
ふいに、香世子の後ろ背が脳裏に浮かんだ。今のではない、二十年前の少女のそれ。ワンピースの裾がもじもじと揺れている。勢いよく回る縄に、尻込みし、立ち往生しているのだ。私はタイミングを計ってその背を押してやる……
「私は陰気で愚図で引っ込み思案だったから、なかなか遊びの輪に入れなくて。ぼんやりしていて、しょっちゅう集合場所も間違えていたわね」
――そんな時は、必ずあなたが捜しに来てくれた。ひとりごちるように香世子は呟く。
たった一人、ポツネンと蹲っていた少女。無言のまま、無表情に、無心に見上げてくる、漆黒の兎の眼。差し出した手に重なる、白い手。ついさっき、映画館でのそれと重なり、二十年という月日を飛び越える。
「あの頃と同じね。あなたは私を連れ出してくれる」
胸の裡で思っていたことに頷かれて、心が震えた。
「たった一年だったけれど、私には忘れられない思い出だわ」
……それは、私にとっても。
うっすらとした微笑に、夢見るような言葉に、そう応えたいはずなのに。
カプチーノのカップに口をつける香世子を前に、私の胸は封され、何も言えなくなってしまった。
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