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 角砂糖を積み上げた城。

 小さな山を背に、田畑や住宅地を見下ろす高台に建てられたその家は、幼い私の目にそんなふうに映った。

 別荘として建てたのだろうか。〈城〉は半年かけて新築されたものの、完成後一年経っても誰かが入居する様子はなく、無言のままそびえ立っていた。だが、この辺りは休暇に足を伸ばすような景勝地でなければ、温泉が湧き出るような保養地でもない。

 ――一体、何様のつもりかね、ありゃ。挨拶も無しに、あんな場所に建てて。

 忌々しそうな母と祖母の声。当時、この町においてまだ珍しかったモダンな外観は、高台という場所も相まって近隣住民の目の敵にされた。今ならば、母たちの苛立ちがわからないでもない。閉鎖された土地。世代を超えた近所付き合い。切り取られた空間の中ですら自由に呼吸できないもどかしさ。

 とどのつまり、〈城〉は生贄だった。余所者の象徴。鬱憤のはけ口。共通の敵。それを受け止めて傷つく住人がいなければ、自然と陰口は表立ち、陰口こそが常識へと成り代わる。

 そんな大人たちを尻目に、私は見上げるたびに想像した。一体どんな人が住むのか。〈城〉の主たる人物。若いのか、年とっているのか、男なのか、女なのか。趣味は? 職業は? 家族は? 空想の細い糸が像を結び、音もなくほどけてゆく。私はその甘やかな一人遊びをこっそりと繰り返した。

 新学期、教壇の前で紹介された少女を見て、すぐに気付いた。

 ――あの子だ。

 ようやくやって来たのだと。引越しの気配はまだ無かったけれど、それでも私は直感し、断定した。奇しくも、二十年後、ショッピングセンターですれ違った彼女を見逃さなかったのと同じに。

 肩口で切り揃えられた黒髪。白いワンピース。上履き代わりのバレエシューズ。周囲の同年代の子どもたちとは明らかに違う風体の、小柄な少女。春の陽射しと埃と喧騒が充満した教室の中、浮かび上がった異質な存在。

 いつも考えていた。強く想っていた。一目でわかった。

 だからきっと、多分。私は、出会う前から彼女を知っていたのだと思う。


     ◇


「素敵なおうちね」

 やってきた彼女は開口一番にそう言った。

「でも、狭くって」

「これだけあれば十分でしょう。なんだか『森のおうち』みたいで、落ち着くわ」

 一週間後、私は香世子を自宅に招いていた。二階建ての小さな赤い屋根の家。美雪が生まれる際、実家の敷地内に造った離れで、現在は私と夫と美雪の家族三人が暮らしている。

 彼女のまんざらお世辞でもなさそうな口調に、私は笑みを返した。色々と文句をつけているが、実のところ、このこぢんまりとした家をなかなかに気に入っている。独り暮らしの経験が無い私にとって初めて手に入れた自分好みに染められる空間だ。窓辺に置かれた観葉植物もレ―スのカーテンも手作りのパッチワークも、ようやく手に入れたものだった。

「ああ、森のおうちといえば、」

 と、香世子はリビングに置いてあるソファに座り、白いコートを脇に、一緒に抱えていた紙袋をローテーブルの上にそれぞれ置く。紙袋に視線を落とすと、彼女はどうぞ、という具合に頷いた。

 中には一冊の赤い絵本が入っていた。黒髪の少女の顔が大きく映し出された表紙。髪の一筋、睫毛の一本、わずかにのぞいた歯並びさえも克明に描いてある。少女は、何かから逃れるように背後を気にして、正面を向いていない。

「……白雪姫と七人の小人たち?」

 意外に思い、ページをめくる。表紙同様、いわゆる子ども向けの絵本とは一線を画した精緻な絵柄。私は感嘆の声を漏らした。

「随分、本格的ねえ」

「そのイラストレーターはコールデコットオナー賞も受賞しているのよ」

 聞き覚えのないその賞は、アメリカで出版された絵本の中で、優れた作品の画家に贈られるものだという。

「ほら、子どもの頃に読んでもらった本って、いつまでも覚えているじゃない。それならやっぱり『本物』が良いでしょう?」

 娘には過ぎた贈り物にも思えたが、香世子が気遣ってくれるのは嬉しい。私は丁寧に礼を言って受け取った。

 その後は軽い昼食をすませて、お茶を飲みながら――今日も香世子はあのソルトケースを持参していた――、他愛ないおしゃべりに花を咲かせた。

 二時間ほど過ぎた頃、私はお茶を淹れ直すためにキッチンへ立った。と、背中越しに香世子が訊いてくる。

「美雪ちゃんは何時ごろ帰ってくるの?」

「二時過ぎぐらいよ。もう少ししたらお迎えに行かなきゃ」

「そう。なんだかいつもすれ違いだわ」

 美雪は今、幼稚園に行っている。一方の香世子は、この後、仕事の打ち合わせがあるそうだ。心底、残念そうな声音の彼女に尋ねる。

「忙しいんだ?」

「そういうわけじゃないの。ただ少し、気苦労があるというだけで……」

 そこでふっつり声が途絶えた。しばらくして湯気の立つカップが載った盆を携えてリビングに戻れば、香世子はソファの背に埋もれるように身を預け、目蓋を下ろしていた。

「香世子?」

 眠ってしまったのだろうか。明るいリビングの中、見下ろす彼女は身じろぎひとつしない。私は静かに盆を下ろし、彼女の前に屈み込んだ。

 白い肌に翳を落とす長い睫毛。ローズレッドの唇。散らばる黒髪はいっそう濃く匂い立つ。ローテーブルの上には、赤い装丁の『白雪姫』。逃げる姫君。魔女の呪い。

 それは、なんと象徴的、暗示的、叙情的な――

「直美ー、おらんの?」

 独特のイントネーションに静寂が破られた。

 返事をする間も無く、玄関を開け、閉め、どたどたと廊下を踏み鳴らす音が響き、

「あれ、誰かみえてるの?」

「お母さん」

 入り込んできた人物に、私はとがめる調子で呼びかける。

 外には香世子の車が、玄関には靴が置いてあるのだ、来客を察せられないはずはない。もっとも母は実際に見なければ納得しないたちで、遠慮とは無縁の人だ。この離れを建てる費用を両親が半分負担したこともあってか、自宅の延長と考えているふしもある。

 母の不躾な視線を諌める前に、眠っていたはずの香世子が背筋を伸ばして立ち上がった。

「お久しぶりです。覚えていらっしゃいますか? 直美さんの同級生の初瀬香世子です」

 ちょっとの間、母はぽかんとして、

「初瀬の娘さん? まー、綺麗になって。いつこっちに戻っとったの」

「去年の秋に。挨拶が遅れて申し訳ありません」

「いくつになったの」

「今年、三十二です」

「直美の同級生ならそうだわねえ」

 からからと笑う母。控えめな微笑を湛える香世子。一見、和やかなやりとりの手前、口も挟めず、私は二人の間で立ちすくむ。

「そうそう、良かったら、うちの野菜持っていかんかね?」

 妙案を思いついたというふうに、母はポンっと手を打った。そこでようやく、しかし慌てて私は言い返す。

「お母さん、いいって。香世子、これから仕事に行くところだから」

「車でしょ? なら、荷物が増えても大丈夫だねえ?」

 まだ新しいフォルクスワーゲンに、泥のついた葱やら白菜やらが積まれる様子を想像して、絶望的な気分になる。だが、

「はい、いただいていきます。ありがとうございます」

 香世子がそうにこやかに答えると、母はちょっと待っとってね、と止める暇もなく出て行ってしまった。

 先ほどまでの清澄な空気は、すっかり霧散してしまった。聖域を土足で踏み荒らされた苛立ち、母が出て行ってくれた安堵、香世子に対するすまなさ。様々な感情が交じり合い、私はどうにもいたたまれなくなった。

「ごめん、本当」

「どうして? 野菜をいただけるのは助かるわ」

 座り直した香世子はさらりと言ってのけるが、本心ではないはずだ。

「うちの野菜好きじゃないでしょう? 無理しなくて良かったのに」

 無理をしなくては収まらない状況だったのだ、今更言っても詮無いこと。そんなのはわかっている。けれど、友人を助けられなかった情けなさと、身内を恥じる気持ちが、私をぼやかせた。だが、当の香世子はきょとんとして、次に苦笑してみせる。

「いやだ、もしかして、まだ覚えていたの?」

「…………」

 私は無言でもって肯定した。 

 香世子がやってきて一月半ほど経った頃。都会からやってきた転校生は、予想に反して内向的で、周囲の子どもとも、近所の人たちとも、馴染めていなかった。

 私たちが通っていた小学校には、地区ごとに班になって集団で通学する制度があった。香世子と私は同じ班で、毎日、並んで歩いていた。香世子は口数が少なかったが、長い登下校を共にしていたおかげか、級友たちに比べて私は大分打ち解けていた方だったと思う。

 そんな折のある土曜日の午後。その頃、小学校はまだ週休二日制ではなく、土曜日は半ドンだった。当然、給食は無く、昼食は各家庭で食べる。

 高台の〈城〉は、私の家より学校から離れていて、帰り道、私の家の前で別れるのが常だった。バイバイ、と手を振ろうとしたその時。偶然、玄関から母が出てきて、香世子を認めると

「せっかくだから、お昼食べていきなさいよ」と誘ったのだった。

 実家は代々農家で、父は公務員だったが、祖父母はずっと農業を営んできた。昔に比べて田畑は随分減らしたが、今でも家族が食べる米や野菜は作っている。当然、その日の昼食にもそれらがふんだんに使われた。

 そして、祖父母と、母と、妹が加わった食卓で。

 虫がいる、と言って香世子は食べたものを嘔吐してしまったのだ。

「あの日は、朝から体調が悪かったのよ」

 香世子は思い出を懐かしむように目を細める。

 私の家族は〈城〉を良く思っていなかった。けれど、そこに住む人々の個性を嫌っていたわけではない。母の申し出は、彼女なりの歩み寄りだったのかもしれない。

「でも、誘ってもらえて、嬉しくて、無理をしたんだわ」

 だが、結果は惨憺たるものだった。口では皆、香世子の心配をした。しかし、この一件が、たかだか小さな虫一匹で騒ぎ立てるなんて大袈裟なという呆れ、自分たちが出した食事をけなされたという腹立ちを生んだのは確かだった。

「虫がいたっていうのは、きっと、何かの見間違えよ」

 加えて大人は『子どもらしい子ども』が好きだ。香世子の折り目正しさ礼儀正しさは、感心するというよりも違和感を与えた。私は鮮明に覚えている。ズックやサンダル、農作業用の長靴が並んだ土間。その端に縮こまるようにちょこんと揃えられた小さな革製のローファーを。

「あなたのお母さんって好きよ。明るくて、大らかで。……うちとは違ってね」

 香世子は手付かずになっていたカップを、温もりを味わうように両手で包み込む。その口調には嫌味は感じられない。面持ちも穏やかだった。

 しばらくして、母が大きな紙袋を持って戻ってきた。白菜、大根、葱、小松菜、蕪、そしてなぜか強烈な香りを放つ水仙までもが顔を出している。生ぬるいような、濁ったような、甘ったるい、家特有の匂い。

 香世子は礼を言って受け取るが、それは彼女が纏う幾何学模様のワンピースという垢抜けた装いにまったく似合わず、奇妙な不協和音を奏でる。

 私は見送りのために外へ出たが、最後まで袋を抱えた友人を正視できなかった。

 

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