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 少女時代、香世子はあまり笑わなかった。

 とても美しい家族だった。大学教授の父親。美人で若い母親。清らかで賢い子ども。〈城〉にふさわしい、非の打ち所がない、夢見た通りの。私は引っ越してきた一家に憧憬を抱いていた。

 だが内部から覗けば、あっさりとほころびが見つかるものだ。その頃〈城〉には、週に数回、家政婦が通っていた。今ほど個人のプライバシーが声高に叫ばれていなかった時代だ。私は何度か、家政婦が近所の人と立ち話をしているのを見ている。恐らく彼女が漏らしたのだろう。母親が継母であるということを。

 家政婦の善し悪しはともかく、家政婦を雇う、という行為そのものに、近隣住民はまず悪感情を持った。外に働きに出ているわけでもないのに、あすこの主婦は何をしているのだ、と。

 怠惰で享楽、お金目当ての後妻。高台の〈城〉にそもそも反感を抱いていた近隣の住民達は、我が意を得たりと、ますます非難を高めた。嫌われていたから付き合わなかったのか、付き合わなかったから嫌われたのか、初瀬家は現在にいたるまでほとんど地域行事に参加していない。

 その一方、継母への義憤が香世子への同情にスライドすることはなかった。だが負のイメージだけは降り積もり、きっちり子どもへ伝播する。閉鎖された土地において、大人と子どもの社会は驚くほど似た構造を成しやすい。転校生という存在は、特別尊敬されるか、毛嫌いされるか、どちらかに偏りがちだ。高台の城、家政婦の噂、異なる装い・口調・物腰――当然、香世子は後者だった。

 担任教師はそんな状況を見兼ねて、私に香世子の面倒を見るよう言いつけた。女子にしては活発で、生徒の中で最も家が近かった私は適任だったのだろう。

 〝皆と一緒に、長縄の練習しようよ〟

 〝学校終わったら、西公園に集合ね〟

 〝やっちゃんちに遊びに行こう〟

 教師を後ろ盾に、私は常に香世子と連れ立った。休み時間には話しかけ、遊びには必ず誘い、他の子たちとの橋渡しをした。

 けれど、どんなに馴染ませようと腐心しても、香世子を輪に加えた途端、空気が変わってしまう。周囲に埋没せず、何者にも染まらず、どこにも落ち着けず、白く浮き上がる少女。無視され、嘘を吐かれ、持ち物を隠され、給食を引っくり返され……直接的な暴力こそ無かったが、彼女は悪意の風にさらされ続けた。

 香世子自身は何もしていない。だが、彼女に原因があるのも確かだった。彼女は明らかに他の子どもたちとは違う。子どもにとって『違う』ことは、個性として認められない。それすなわち『変』『おかしい』と同義だ。出る杭は打たねばならない、それがルールであり、正義。私には他の子の気持ちも理解できた。しかし皮肉なことに、辛い境遇はますます香世子を白く、儚く、透明に磨き上げてしまう。香世子への仕打ちは、両者ともに何も得るものがない虚しい行為だった。

 幼く、当事者であった香世子には、なぜ自分が迫害されるのかわからなかっただろう。美しさを妬まれた小さな姫のように。あの、戸惑うばかりの汚れなき瞳。

 町の中、学校の中、城の中。居場所が無い少女は逃げ出そうとする。深くて暗い森の中、とがった石を飛び越えて、茨を駆け抜け、奥へ奥へと進んでゆく。

 だけど待って、森はこんなにも危険なのに、そんな細い手足で走り切れるはずがない。

 木の根に足を躓かせ、鋭い梢で肌を裂き、毒の蝶が撒く鱗粉に肺を灼く。

 おじょうさん、おはいんなさい。生臭い息を吐く獣が口を開けて待ち構えている。

 足はもつれ、泥だらけ、傷だらけ、もう一歩も動けない。ならばいっそ森の中に隠れてしまえば良い。暗がりに、茂みに、樹のうろに。怖いお妃様に見つからないように。

 でも、ほら。どんなにじっとしていても、縮こまっていても、あの子は白く浮かび上がってしまうから。

 お妃か、狩人か、獣か、気配を感じて振り返る。なびく黒髪の隙間、漆黒の瞳が訴えかける。

 ……助けて。

 振り返る少女の唇がわずかに動いた。助けて。助けて。助けて。繰り返される哀願。

 なら、どうして、逃げ出したの? 私から離れては助けられない。差し伸べた手も、必死の叫びも届かない。少女は囁く。

 ……本当のことを知っていて欲しいから。

 本当のこと? それなら知っている。結局、あの子は助からない。食べられてしまう。消えてしまうのよ。黒い髪、白いコート、赤いマフラーは、あまりに目立ち過ぎるもの。


 ――違う。狼に食べられてしまうのは赤頭巾でしょう?


 途方もない落下感に揺さぶられ、私は目を覚ました。

 夫の帰りを待ちながら、ダイニングテーブルで雑誌を読んでいたところ、うたたねしてしまったらしい。動悸がする胸を押さえながら上半身を起こす。

 ヒーターの低い唸りだけが夜のしじまに響いていた。明かりはダイニングにしか点いておらず、繋がった先のリビングは暗い。だが、わずかな気配を感じて私は目を凝らした。

 ……闇にじわり、浮き上がる、白。それは。

「ママ?」

 金縛りにあったように硬直し、次の瞬間、どっと全身から力が抜け出る。暗がりから出てきたのは、どこか焦点が定まらない美雪だった。

「どうしたの。おしっこ?」

 動揺を悟られないよう、私は努めて優しく尋ねた。美雪はお気に入りのうさぎのぬいぐるみを引き摺り、ごにょごにょと何か呟いている。どうやら寝ぼけているらしい。トイレに連れて行ってからもう一度寝かしつけようと、私は立ち上がり、美雪の空いている手を引いた。

「寒いから、早くお布団に戻ろう?」

 小用を済ませた美雪に呼び掛けるが、なぜかしんしんと冷える廊下で足を止めて動かない。わずかに開いたピンクの唇。愛嬌程度に隊列を乱した歯並び。お節の黒豆を彷彿させるつやつやした瞳。覗き込んだ娘はいともあどけない。だが、彼女の目線は私を通り過ぎ、道路に面した窓の外に注がれていた。

「だれかいるよ」

「え?」

 夫が帰ってきたのだろうか。しかし、車のエンジン音が聞こえてこない。駅から離れたこの立地では、徒歩で帰宅するなんてありえない。窓の外、家の敷地に繋がる道路に目をやる。

 我が家は隣家と接していない。田舎特有の広々とした間をとっており、周囲は閑散としている。その寒々しい空気の中、たった一本佇む街灯が闇を突き刺す針のような鋭い光を放つ。その研磨された明かりを逃れ、何か、一瞬、白い影が過ぎったような……

 瞬間、私は自分の視たものを否定した。私自身、寝ぼけているのかもしれない。ついさっき、奇妙な夢と混同して、愛娘にぎょっとしてしまったのと同じに。

「おきさき様、のぞきにきたの?」

 だから、小首を傾げて呟く美雪に、見間違えよと返すことができなかった。

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