第9話 冒険者だからだ



 視界の全てが赤で染まった沈黙の世界。怯える身体は一切動こうともしない。動けなくなった身体に纏わりつく赤い血。このまま自分という存在も吸い込まれてしまうのではないか。

 そんな何も聞こえてこなかったこの世界に、聞き覚えのある声がどこからか耳に飛び込んでくる。

 一体誰の声だっただろうか。快活で幼げな声ではあるけれども、まっすぐに芯の通った希望に満ち溢れた声。私は、知っている? この声が誰なのか。

 次第に、赤の世界に大きなヒビが入り光が漏れだす。恐怖で覆われていた心がその光に触れた瞬間、温かさに包まれていくのを感じる。


「――――………ヴァン、さん?」 


 いつの間にか眠ってしまっていたのだろうか、ふと我に返るとむせかえるような熱気に辺りが覆われていることに気付く。更にそれだけではなかった。ユウナの眼前には驚く光景が広がっていた。


「ん、やっと起きたのかユウナ……うお、あちちちち!」


 名前が呼ばれた方向に顔を向けてみると、燃え盛る火の海の中、見知った銀髪の少年が立っていた。どこからともなく飛んできた火の塊をすんでのところで避けている。


「起きた? ……私、今まで」


 少しずつ自分の置かれた状況を思い返していく。

 そうだ。私、ヴァンさんが忘れ物を取りに別れてから、男の人たちに捕まって、それで―――

 無残に殺されたゴロツキの事を思い出す。それと同時に、急激な吐き気が襲いかかる。時間が経つにつれありありと、首と胴体が離れたあの瞬間が脳裏に蘇った。


「大丈夫か?」


 その声に俯いていた顔を上げると、いつの間にか目の前にヴァンが立っていた。ユウナはその姿にはっと息を呑む。ヴァンの身体にはいたるところに傷が見え、出血しているところもあった。衣服は裂け、焼け焦げてしまっている部分もある。


「なんだよまたそんな気分悪そうな顔して……あ、あれだろ。フィーナの飯食いすぎたんじゃねぇか?」


 満身創痍といった身体に傷を負った人間から出る言葉とは思えない、平然とした口調で、むしろユウナをからかうような軽い口調で喋るヴァンにいまいち現実感を感じられない。

 目の前に広がる火の海といい、ひょっとすればまだ自分は、何か夢でも見ている最中なのかもしれない。


 ふと、そんな事が頭によぎったが、火の揺らめきから姿を現した殺気の固まりに、汗が吹き出しそうになるこの空間で背筋が凍る。

 先ほどの凍えるような冷たい殺気とはうって変わった、怒りに満ちた殺気を隠すことなく発する古傷の男。歩く速度こそゆったりとしたものだったが、獲物を追い詰めるかのような足取りに恐怖を感じざるを得ない。


「あ、あの人……」


 ゴロツキ達を慈悲の欠片もなく躊躇なく殺してみせた張本人がこちらに向かってきている。身体と心に刻まれた恐怖が急激に戻ってくる。震えが止まらない。

 ユウナの震える肩に手が置かれる。


「あのおっさんめちゃくちゃ強いけど大丈夫だ。俺に任せろ」


 ぼろぼろのヴァンはそう言ってから、剣を強く握り直した。ユウナの肩に置かれた手は、服越しからでも伝わる程熱く、所々に傷が見える。 

 

「もうやめてください! ……これ以上、私のせいで誰かが傷ついてほしくないんです」


 悲鳴にも似た声で立ち向かおうとするヴァンを引き留める。

 見ず知らずのはずである自分に、今日知り合ったばかりのヴァンがここまで力を貸してくれたことでさえ、感謝しきれないくらいの思いがある。これ以上、危険な目にあわせてしまうくらいならば、いっそのこと諦めて大人しく捕まった方が良い。そう口にしようとしたユウナを遮るようにして、ヴァンは真剣な眼差しを向ける。 


「……言ってたじゃねーかユウナ。俺は〈強い〉んだろ?」


 北のスラムを歩いていた時の会話を思いだす。過酷な環境をものともせずに逞しく生きるヴァンに、心の内を漏らすようにしてユウナが言った言葉だった。


「だったらもうちょい待ってろって。あいつをぶっ飛ばすからよ」


 そう軽く言ってからユウナの両腕を縛っていた紐を引きちぎる。その行為は、いつでも逃げ出せる準備をしておけ、と言われているような気もした。

 引き留める暇もなくヴァンは火の海へと走っていく。目前の敵に向かって。


「―――ほう、小娘を盾にでもするつもりだと思っていたのだがな」

「そんな事するわけねぇだろばーか!」


 勢いよく言ってみせたヴァンだったが、実際のところ打つ手を思いつかなかった。傷だらけの身体は疲労からか、明らかに動きが鈍くなっている。更に初めて間近に見る強力な火魔法にどう攻めていいものかわからない。時間が経てば経つほど周りを囲む火の勢いは増していくようで、このままでは体力がじわじわ削られてそのうち動けなくなるだろう。


 先ほどのような小細工が二度も通用する相手とは思えなかった。それに、自在に操る火魔法は、時に高速で飛んでくる火球。また近寄ろうとすれば、意思を持った鞭のごとく不規則にくねらせた火の蛇に形を変えて、襲いかかってくるパターンもあった。接近戦しかできないヴァンと違って多様な攻撃に頭を悩ませる。

 どうすれば良い。どうすればこの状況であいつを倒せるんだ。


「ああ、全然わかんねえ……いくしかねえか!」


 考えてもわからないことは考えない。できることはただ一つ。決死の覚悟で攻撃すること以外なかった。

 そう決意し、走りだそうすると、どこからか〈声〉が聞こえてきた。

 

〈―――ここまで愚直な戦いをする奴もなかなかいないねぇ―――〉


「ん、誰だ?」


 まるで頭の中に響いて聞こえる程に近いと思ったが、辺りを見渡す限り声の主は見つからない。代わりに魔法で創り出された炎が辺りを覆いつくしているだけだった。

 気のせいか。そう気を取り直してから、息を吸い込み前傾姿勢で火の海の中駆け抜ける。


 傷の男は待ち構えていたかのように全力で駆けてくるヴァンに向かって手のひらをかざす。ちょうど人間の頭サイズの火球が高速で打ち出された。

 ぎりぎりの所で足を踏ん張り右前方に躱す。足を止めない。まず近づかないことにはヴァンからは攻撃することすらできないのだから。

 その考えを読んでいたのか、傷の男は火球を今度は連続で打ち出す。一発、二発、三発とぎりぎりの所で躱していく。少しずつだがその距離を近づけていく。四発目を躱したところで傷の男との距離は目前、あともう少しで剣が届く。


「馬鹿め、灰になれ小僧」


 近距離戦であればどうにかなるとでも思ったのか―――どこまでも考えが甘い小僧よ。

 猛烈に燃え上がる炎の壁が突如ヴァンの前に立ちはだかる。

 流石に急停止せざるを得なかった。一旦、距離を取ろうとするが、背中にちりちりと熱い風を感じて振り返る。


「まじかよ……」


 炎の壁がヴァンを閉じ込めていた。その高さは助走なして飛び上がれるものではなかった。さらに円形の炎の壁はじりじりとその範囲を狭め、ゆっくりと襲いかかる。

 次第に呼吸が辛くなっていることに気付く。炎の壁が燃やし尽くす前にこのままでは呼吸困難で死んでしまうのではないか。


 ちくしょう、完璧に閉じ込められた。どうすりゃいいんだよこんなの―――ああ、もういちいち考えてられねーか。いちかばちか、やるしかねえ。

 じりじりとにじり寄ってくる炎の壁を睨み付ける。この壁の向こうにあの男がいる。どうなるのかわからなかったが、いちかばちかの可能性に賭けた。ヴァンは額の汗を拭うことも忘れて炎の壁に向かって突進する。


「うおおぉおおお―――」

〈―――かはっ。本当にどこまでも愚かだね。まあ、愚直なガキは嫌いじゃあない―――〉


 またもや頭の中で響き渡る笑い声。少し低く感じるが女性の声で間違いない。その声の主が喋っている間は何故か時の流れがゆっくりと感じた。ただ身体はもう止まらない。


〈―――ああ、そのまま愚直に突っ走ればいいさ。悪い頭を使おうとせずに思い切り振ってみな。あんたにゃそれしか出来ないんだろう?―――〉


 その声に操られたかのように無心に剣を振るった。魔法で創られた迫りくる灼熱の壁に。

 何の音もしなかった。ただ、手には確かに何かを斬った手ごたえを感じていた。

 燃え盛る赤一色だったはずの景色が左右に開かれ、驚愕に染まった男の表情が見えてくる。


「―――ば、馬鹿な!」


 幾戦の戦闘を経験してきた傷の男だったが驚愕に声を上げる。

 火の魔法を他の属性魔法で相殺するでもなく、薄い布でも裂くように錆びた剣で斬ってみせたのだから。

 普段ならば多少のイレギュラーであろうと、冷静沈着に対処出来たはずだろうが、今回ばかりはあまりの驚きに身体と思考が一瞬硬直する。

 身体に残った全ての力を振り絞ったヴァンは一瞬の風になる。わずかな時を稼げればそれで充分だった。


「うおおおお―――!」


 腹の底から声を上げ、駆ける速度の勢いを殺さず全力で剣を振りぬく。

 避けるどころか、防御することも間に合わず強烈な一撃が胴に直撃した。

 剣とは名ばかりの鉄の棒と化しているそれは、切れ味などもちろん皆無であったが、刃は胴にめり込み傷の男の身体を吹っ飛ばす。巨体が嘘のように飛んでいき、工場の壁に打ちつけられ、爆発音にも似た音を鳴らしてからようやく止まった。

 

「……はぁ……はぁ、おっしゃあぁ―――あれ?」


 大きな声を上げて飛び跳ねようとしたが身体のいうことがきかない。そのまま後ろに身体がゆっくりと倒れていく。


「―――きゃ」


 景色が反転するのが止まった。後頭部に固い地面との衝撃が走ることもない。むしろ固くはなく、柔らかさとほのかな温かさを感じる。


「な、なんとか間に合いました」


 天井を見上げる形となったヴァンの目の前に、涙に眼を潤ませるユウナがいた。擦り傷の見える頬は熱さのせいかほんのりと赤い。ヴァンの後頭部が地面と衝突する寸前に滑りこみ、足をクッション代わりにさせたのである。


「おーユウナ。お前、あの火の中よくここまでこれた……な?」


 足をクッション代わりに寝転がったまま辺りを確認すると、さきほどまで辺りを支配していた火の海はどこにも見当たらず、焼け焦げた鼻につく匂いと、全体的に煤がかった地面が見えるだけだった。

 

「火、消えちまった。はぁー魔法ってやっぱりすげえな!」


 ダメージに動かない身体などお構いなく、今まで戦っていた相手に称賛の言葉を贈るかのように心から感動の声を上げる。そんなきらきらと光る眼をしたヴァンの頬に、そっと手のひらが添えられる。


「ん、泣いてんのか?」

 

 ぽたり。またぽたりと、大粒の涙がヴァンの額に落ちてくる。


「……こんなに、ぼろぼろじゃないですか。どうして……どうしてこんなにまでして?」

 

 ―――見ず知らず同然の自分を助けてくれたのか。

 どこを見ても傷だらけのヴァンを間近に見て、止めどなく溢れる涙と共にユウナの表情は崩れる。

 言葉にしようがない罪悪感に苛まれるユウナだったが、その問いかけに対する返事は変わらない。

 

「決まってんだろ。俺は冒険者だからだ」


 屈託なく笑ったヴァンを見て、少し驚いてからつられるようにして笑ってしまった。 





「―――な、ななななな、なんてふしだらな格好をしているんだスクラップボーイ! は、離れろ、今すぐにユウナさんから離れるんだ!」


 いつの間にか近づいていたアルガ。ユウナの太腿を枕代わりにして寝転がるヴァンを見て、この世の終わりを目にしたかのような顔で叫ぶ。


「おう、そういえばお前も居たんだっけな。いや離れろって言われても全然身体が動かねえしさ」

「ああっ、いいからとにかく離れるんだ! スクラップボーイの分際で精霊様のような美しいその白い肌に触れることは俺が許さん!」


 けたましく叫び声を上げているアルガに唖然としていたユウナだったが、急いで涙を拭い感謝の言葉をかける。


「あの、アルガさんも本当にありがとうございました。弟さん達にも後でお礼を言わせてください。」

「は、はいぃ! いや、そんな俺なんて何の役にも立ちませんでしたし、イルガとウルガなんて地面に転がってただけなんで、そんなそんなお礼なんて勿体ないですし、ユウナさんが無事であればそれで何もかも万事解決と言いますか……」


 一切視線を合わそうとしないアルガは顔を真っ赤にさせて早口で喋る。「勿体ない、勿体ない」を連呼しながら手をぶんぶん振って応える。今にも爆発しそうな顔は実にまんざらでもない。


 工場内が火に包まれ始めた頃、アルガはあまりの恐怖に気絶してしまっていた弟たちを外に引きずり出していた。力になれるかどうかはわからなかったが、急いで中に戻ろうとすれば激しく燃え盛る火が入口を塞いでしまっている。

 中を覗くことすら出来ずに足踏みをしていると、工場全体を震わすもの凄い音が聞こえたと思えば、入口を塞いでいた火は跡形もなく消えていた。恐る恐る中に入ってみると二人が密接していることに気付き慌てて近づいたのである。


「なあ、あいつ……本当にやったのか?」

 

 そして、恐怖の権化と思えた男が、壁にぐったりともたれかかっていることに遅れて気付いた。 


「ああ、たぶんな」

 

 自分にはどう足掻いても倒せなかった。倒そうなんてことを考えることすらおこがましくなるほどの、圧倒的な力の差を感じざるを得なかった。その男を倒してしまったヴァン。


「ふん、だからってお前を認めたわけじゃないからな」

「んあ、認めるってなんの話だよ?」

「だからあれだ……やっぱりスクラップボーイごときが冒険者になれるわけないって話だ!」

「んだと、この野郎!」


 にらみ合う二人に見かねたユウナは間に入る。 


「あ、あのお二人とも、落ち着いてくださ……――――あ、ああ!」


 悲鳴を上げるユウナの視線の先を二人も追いかける。まさかとは思ったが、その視線の先には先ほどまでぐったりと壁にもたれかかっていた男が立ち上がっていた。

 ぎらり、と鋭い眼光が再び殺気を放つ。  

 

「おぉ、おっさんまじでタフだなぁ」

 

 称賛と落胆の混じったいささか元気の無い声がヴァンから漏れる。


「そんな……嘘だろ」


 殺気にあてられて力が抜けてしまったアルガはその場に座り込む。恐怖はまだ終わっていなかったのだ。

 既に満身創痍である三人を見てから、傷の男は不敵に笑う。

 

「まさか、魔法を斬られるとは思わなかった。小僧、貴様は一体何者なのだ」

「だからさっきも言ったじゃねえか。俺はヴァン……冒険者だ!」

「冒険者か……口の減らない小僧だ。貴様を殺した後で、その小癪な剣を調べるとするか」


 魔法を斬ってみせた錆びた剣。どこからどう見ても、もう鍛え直しようのないガラクタにしか見えない。だが、傷の男の強烈な斬撃を幾度も耐え、放った魔法を斬ったのはまぎれもない事実。

 ゆっくりと近づいてくる傷の男を見て、ヴァンは力の入らない身体を鞭打つ様にして立ち上がる。だが、剣で自分を支えながら立っているのが精一杯だった。


「む、無理だスクラップボーイ。早く逃げるぞ!」

「ユウナを連れて逃げろ。俺は残ってあいつと戦う」


 ヴァンの言葉に二人は驚く。そのぼろぼろの身体で一体何ができるのかと。


「な、何を言ってんだよ? あいつだって少しはダメージを食らってるはずだ。今だったら逃げられるかもしれないだろ。頼りないけど自警団の所に逃げ込めばいくらなんでも無茶してくることはないはずだ。だいたい俺たち子供が敵うような相手じゃなかったんだ。おい、聞いてるのか」

「いいから行けって!」


 ゆっくりとだが、確かな足取りで近づく傷の男にはまるでダメージを感じさせなかった。このまま逃げようとも自警団の所はおろか、工場内から出ることすらできないかもしれない。

 

「ヴァンさん逃げましょう。もしそれが無理であるなら私が……」


 狙いはユウナであることはわかっている。どう見たって疲弊しきっているヴァンがこれ以上戦うのは無謀に思えた。であれば、狙いである自分が囮になればヴァン達を見逃してくれるかもしれない。そう思ったユウナは震える足で前に出ようとする。


「ギルバートにもこんな時があったんだ」


 前に出ようとするユウナの腕を掴んで止める。


「仲間を助ける為に、一人で残って最後まで戦って……んでもってぼろぼろになりながら、なんとかぶっ倒して仲間の元に帰ってくるんだ。そんなの最高にカッコいいだろ?」


 最初に出会ったときと変わらない並びの良い白い歯を見せて、ユウナの前に出る。


「ほう、身代わりにでもなるつもりか小僧。最後に認めてやろうその愚かな心意気。あの世で思う存分永遠に旅するがいい」

「――――――そこで何をしている!」


 なけなしの力を込めてヴァンが剣を構えようとした時だった。

 入口から数人の男たちが入ってくる。軽装ではあったが、皆揃えて帯刀している。


「……エレイン!」


 数人の大人たちに混じるようにして、ぬいぐるみを抱えた少女の姿があった。駆けよってくる兄の姿を見つけてエレインはその場で泣き始めた。

 数人の男たちは、警戒しながらも凶悪な風貌をした傷の男を取り囲むようにして動き始める。


「邪魔がはいったか。小僧……いや、ヴァンとやらだったか。次、俺の前に姿を現した時はその命は無いと思え」


 そう言い残すと、突如現れた巨大な炎の壁が傷の男を覆い隠す。取り囲もうとしていた者達は一切近づこうとすることができなかった。

 そして、その炎が消えた頃には、男の姿は跡形もなく消えていた。

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