日常に近づく不協和音(三)

 * * *


「本当にこの程度の消毒と冷やすくらいでいいの? せめて保健室に……」

「いいって。見た目ほど酷いものじゃない。それにどうやって事情を説明するつもりだ? そっちを考える方が面倒だ」

「遼平が大丈夫って言うのなら、いいんだけど……」

 太陽に代わり月が出てきた時間帯、学校から少し離れたところにある公園のベンチで、街灯に照らされながら、響香は薬局の袋を持って遼平と並んで座っていた。水道で濡らしたタオルを彼の右腕に巻き付け、左腕に一直線に伸びた切り傷を消毒したりしている。

 先ほどの少女からの攻撃で、上履きだけが激しく遼平を叩いていただけでなく、ガラスなども若干混じっていたのだ。明かりの下で遼平の体を見たときは、あまりの怪我の具合に息を呑んでいた。

「上履きだと思って油断した。すごい力だった。腹に一発入れられたときなんか、意識飛ぶかと思ったし」

 飄々と話しているが、状況はそんな優しいものではない。響香は視線を下げ、両手をぎゅっと握りしめた。

「……ごめん」

「だから響香のせいじゃない。お前も十分被害者だろ。これくらいの怪我、すぐに治るから。合宿までには必ず治すから」

 服によって隠れている遼平の体は、見える範囲以上に酷いのかもしれない。それがまた居たたまれなかった。

 視線を合わせず、握りしめている小さな手に視線を落としていると、大きな手が覆い被さってきた。そして軽く握られる。急なことに、鼓動が速くなった。

「響香が怪我をしなくてよかった。俺は適当に喧嘩とか言って誤魔化せられるけど……。もし響香が……」

「それとこれとは違う。何度も言っているけど、あの子は私を狙っていた。私がいなければ、遼平は怪我をしなくて済んだのに……」

「そうか? 俺としてはあの状況で、これくらいの怪我で済んでよかったと思っている。何事も考え方次第だろ」

 顔を上げると、遼平は屈託のない顔をして笑っている。あの少女の気紛れで攻撃をやめなければ、あと少しで命に関わる怪我をしたかもしれないのに、そんなことを微塵も感じさせない顔だった。

「それより、今後のことを考えよう。まずは状況の整理からか? ここ二、三日でおかしなこと起こりすぎだろう」

 急に切り替えられて、戸惑いもしたが、言葉を選びながら適切に返す。

「そうね、どういう経緯かは知らないけど、色々な人が私の周りに現れ始めている」

 夜の学校で、響香を追いかけた人物たち。

 昼に応接室に呼び出されたときに出会った、機密管理局の白鳥晶。

 そしてさっき襲ってきた真っ白い上着を羽織った少女。

 その人たちの共通点を見つけることは、現時点ではわかない。敢えて言うのならば、響香に対して接触をしてきているということだろう。

「それ以前に何か特別なことは?」

「ないね。試験や部活で忙しかったけど、それ以上のことは何も」

「そうか……。とにかく始めに起こった、夜の学校で誰かに追われたってことが鍵となるのか?」

「あれがきっかけだったとするのなら……。せめて顔くらい見て、雰囲気でも掴めれば良かったけど、真っ暗だったから手がかりはないわね。まさか学校の廊下に歩いているときに、追いかけられるなんて、思ってもいなかった」

 そう肩をすくめながら言うと、遼平は目を瞬かせた。

「そもそも、そいつらどうやって入ったんだ?」

「非常ドアとかあるじゃない。まだ警備員さんが戸締まりの確認をする前だから、一人くらい忍び込んで、中から開けるっていうのは有りだと思う」

「なるほどな。そういえば、警備員の巡回、いつもよりかなり早かったよな、変じゃないか?」

 遼平の言うことは一理あった。いつも警備員が巡回する時間よりも、あの日は三十分ほど早かった。

「誤差っていうのもあるかもしれないけど、気になるよな」

「ええ。音楽部が終わる頃を見計らって、わざわざ来るなんて今までなかった。むしろ呼びに行くのが当然なのに、どうしてかしら」

「明日の昼にでも、話を聞いてみよう」

 まずは気になったところから調査しようと、頭の中でメモをする。

 正直あまりにも情報がなさ過ぎて、考えてもすぐに底に着いてしまう。変わったことが連鎖のように起こり始めている印象を受けていた。果たして、一体これから何が起こるのか――。

 響香は視線を少しだけ横に向けて、自分の鞄を見た。その中にある手帳に、白鳥から受け取った名刺が入っている。そこには連絡先も書いてあった。

 それが一番手とり早い情報収集の仕方だろう。だが、何か引っかかっているのだ。信用できるかどうかということが。遼平もその名刺の存在に関しては勘付いているようだが、そういう素振りは見せていないのは、同様の考えを持っているからだろう。

 考え込んでいると、急に遼平は鞄を持ちながら立ち上がった。その様子を呆けて見ていると、眉をしかめられる。

「ほんの少しの情報じゃ、整理できないだろう。もう帰ろう。今日も家の近くまで送っていくから」

「大丈夫だよ。私の家、駅からの大通りを歩けば着ける場所だから」

 遼平と響香のそれぞれの最寄り駅は、三分ほど離れた一つ違いの駅。同じ方角にあるとはいえ、響香の家まで彼が付き添ったら、時間が多くかかるのは目に見えている。

 響香は鞄を持ち、ワイシャツが汚れてしまった、歩き始めた少年の後に付いていく。

「……何かあってからだったら、遅いだろう」

「でも何もない可能性も大いにあるでしょう?」

 ただでさえ、自分のせいで怪我をしてしまっているのだ。響香の方こそ、遼平に何かあってからでは遅すぎる。

 突然立ち止まると、遼平は視線を下げる。そして振り返ると、真面目な顔で言い放った。

「俺が付いていきたいって、言っているんだから、それでいいだろう!」

 目を丸くしている響香の鞄を引たくると、大股で歩いていってしまう。所持品を取られ、ほんの少し驚いていたが、慌てて返してもらうために、駆けて行った。

 暗くてよく見えなかったが、遼平の頬はほんのり赤みが入っていた気がした。


「ここで大丈夫。今日はありがとう」

 響香が住んでいるマンションの前に辿り着くと、笑顔を向けた。それによって遼平も顔を綻ばせて受け答える。

「これからも遅くなるときは送っていくから」

「そういう場合になったら考える。でももう夏休み。そんなに遅い時間までいないはずよ」

「そうだな。ただ一人でなるべく出歩くなよ。特に夜とか」

「過保護ね。まあ気を付けるようにする」

 そこまで言われると、もはや娘を心配する父親のようでもある。適当なところで受け答えをし、別れを告げて、マンションの中に入った。

 しばらくして振り返ると、遼平も自分の家に向かって歩き始めている。

 その後ろ姿を眺めていると、申し訳ない気持ちでいっぱいになっていた。だが、今は何も手の打ちようがない。強がりを言ってしまったが、不安なのは隠しようがないため、彼の好意についつい甘えてしまうのだ。

 肩をすくめながら、響香はポストを開き、中身を取り出し始めた。ダイレクトメール、マンション売却のチラシなど、それらの紙を取り出すと、厚みのあるA4サイズの茶封筒が残った。

 母親宛への通販カタログだろうか。手を伸ばし、取り出すと、宛名は響香であった。

 特に心当たりもなく、差出人を確認しようとしてひっくり返したが、何も書いていない。

 首を傾げながら、それを握りしめたり、振ってみたりした。その感じでは、本が一冊ほど入っているようだ。

 じっと見つめていたが、何もわかるわけがない。逸る想いとともに封筒を抱えながら、エレベーターに乗り込み、家へと着いた。

「ただいま」

 鍵を開けて中に入ると、台所にいるであろう、母親に聞こえるくらいの大きさで挨拶をする。

「お帰り。ご飯までまだ時間があるから、できたら呼ぶわ」

「ありがとう」

 そして玄関の近くにある響香の部屋にすぐに入っていた。鞄を床に置き、引き出しからハサミを取り出して、封筒を開け始める。そこから本を一冊抜き出した。同時に紙が一枚床に落ちる。

 その本は、中世の世界史を概略的にまとめたイラスト付きの本だった。

「歴史の本?」

 予想外のものに、思わず拍子抜けする。もっと機密的な何か、または怪しいものだと思っていたのだ。

 こんな学生にとっては真っ当すぎる本を送ってくれる人など一体誰だろうか。しかし、世界史ではなく、地理選択をしている響香にとっては、そのまま高校の勉強に繋がる内容ではなかった床に落ちた紙を拾うと、こう書いてあった。

〝いずれ役に立つ内容です。よろしければ、一読しておいてください。〟

 それだけだった。あまりの淡泊で一方的な内容に戸惑いを感じる。新手の詐欺などの一種だろうか。そう思ってしまうほど、この本の存在が理解できなかった。

 とりあえず本を机に置き、制服から部屋着に着替える。そして鞄から楽譜や手帳などを取り出し、本の上に積み重ねた。

 あっという間に、本の存在は思考の隅へと追いやられる。

 ふとカーテンを閉めていないことを思い出した。カーテンに手をかけると、道路に止めてある黒い車が視界に入る。さして珍しいことでもなかったので、気にすることなくすぐに閉めた。

「まったく……、どうして私が追われなければならないのかしら」

 深々と響香は溜息を吐いた。目下の悩みはそれ一点につきそうだ。

 もう今日のようなことがないことを願いながら、響香は夕飯まで、明日の部活のことについて考え始めていた。

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