第二章 白と黒の交錯

白と黒の交錯(一)

 次の日の昼間、部活が終わった後に響香と遼平は学校の警備員室へと向かっていた。

 部活の休憩中、遼平に対して腕にできたあざの理由を聞かれているのを見る度に、響香は胸が締め付けられる思いだった。彼はただ階段から転げ落ちたなどと言い返しており、それ以上は他の人も追求してこなかった。

 昼とはいえ、夏休みの校舎は人が少ない。教室がある棟では三年生の補習が行われている以外は、ひっそりとしている。そんな中を先生や生徒とすれ違うことなく、警備員室へと辿り着いた。軽くノックをしてから入る。

「失礼します」

 ドアを開けると、幸運にも響香が追いかけられた日に校舎を巡回していた男性が座っていた。

「何か用?」

 警備員が視線も合さず、書類を捲りながら尋ねてくる。響香は単刀直入に聞いてみた。

「少しお伺いしたいことがありまして。……あの、夜に行われる校内の見回りについてなのですが、時間は毎日同じなのですか?」

「だいたいは同じだ。閉門する前後に一回ずつだが」

「では、下校時間が延長されている団体が使っていた教室の見回りは、呼ばれる前に行くことはあるのですか?」

「あまりに遅かったら行くこともある。ただ基本は待っているさ、二度手間は食いたくない」

「ありがとうございます」

 普通に返している様子から、嘘を吐いているようには見えない。念のためにもう一点質問した。

「それともう一つ聞きたいのですが、終業式の前日に、音楽室の施錠を、いつもより早く、こちらが呼びに行く前にしていたのは、どうしてですか?」

 これで少しは情報が得られるかもしれない。そう期待を持って聞いていた。だが返答は思ってもいない内容だった。

「いつもより遅かったから、行ったまでだ。三十分くらいか、遅かった」

 警備員がドアの真上にある、教室や音楽室などでよく見る丸い時計を指した。その時計は電波時計であり――容易にいじれる時計ではない。唖然としながら、言葉を紡ぐ。

「それは本当なんですか?」

「本当だ。さっきから一体何だい? 何か不満でも?」

 警備員の表情が徐々に険しくなっていく。その様子に先に気づいた遼平は立ちすくんでいる響香を無理矢理引っ張りながら、廊下に出ようとする。

「お忙しい中、ありがとうございました。失礼します!」

 何かを言われる前にドアを閉めた。そしてしばらく歩きが拙い響香を支えながら、光が入れ込んでくる廊下を歩く。

 遼平に引きずられつつも、じっと口を一文字にして考え込む。

 わずかな手がかりも消えてしまい、掴み所がない状態だった。そして予想外過ぎる返答に頭が混乱してしまい、突然道がなくなってしまった。

 ふと、誰かに見られているような気がした。立ち止まり、思わず振り返る。

 だが、そこには誰もいない。ただ、見慣れた廊下が永遠と続いているだけ。

「響香……、大丈夫か?」

「え、ええ……。気のせいみたい」

 そう笑いながら軽くやり過ごした。しかし不安は心の中に広がっていくばかりだ。

「……今日は帰るか?」

 その言葉に響香はゆっくりと頷いた。

 空を見れば、光が雲によって遮られつつも、わずかな隙間から漏れ出ていた。


 それからしばらくは、今までと変わらない日常が続いていた。午前中は部活動の練習に参加して歌い、時々午後まで活動をし、それから家に帰る。帰ったら、夏休みの課題をこなし、家族と談笑しながらご飯を食べるという、当たり障りのない日々。

 多少は登下校などに不安もあったが、遼平の気遣いにより、少しずつ取り除かれている。

 そして何気ない日々が、本当に幸せなことであると、つくづくと感じるのだった。

 たまに、あの時届けられた中世を題材にした世界史の本を、ぱらぱらと眺めることがある。あまり歴史に接していなかった響香にとっては、読み進める度に色々な発見があった。しかもイラストが多く読みやすいため、ページをめくる速度は早い。

 特に目を引いたのは、〝魔女狩り〟の記事。中世末期から近世初期にかけて起こった、ヨーロッパ史中ではかなり衝撃的な出来事だ。諸国家と教会等が異端者の撲滅と関連して、特定の人物を魔女と見なして糾弾し、裁判を起こした。だが、その裁判内容は一方的なものであり、魔女とされた人たちはなす術がなく拷問等を強いられ、最後は処刑されるのだ。

 眉をしかめつつも読み進めていた。途中で胸が苦しくなることもあったが、それでもなぜか読むのをやめることはできなかった。

 魔女と誤解された人々の末路――、魔女狩りの内容、そしてなぜそのようなことが起こったのかという仮説など――。現代に限らず、実際に目の当たりにしたら、とんでもないことだ。

 魔女なんて、小説や漫画、ゲームの世界だけかと思っていた。確かに小説等の魔女と、現実の世界で起こった魔女狩りで出てくる魔女はまた種類が違う。けれど、不思議な能力を持っているかもしれないという点では通じるものがあった。

「自分と違うものを異端とみなす。それは現代と昔とでも、変わらないこと。ただ糾弾するやり方が違っただけというわけね」

 本を閉じると、「夕飯よ」という母親の声が聞こえてきた。



 * * *



 八月に入って夏休みも中盤戦となり、少しずつ合宿の日が近づいてくる。カレンダーに目を向ければ、合宿以上に大きな文字で書かれた〝都道府県大会〟という単語。三年生が主体として動いている部とはいえ、コンクールと同時に彼ら彼女らは引退であるため、八月の上旬あたりから徐々に引き継ぎも始まる。部長やパートリーダーだけでなく、合宿の幹事やコンクールの取り締まり、その他の細かいところも少しずつ二年生へとバトンパスされていくのだ。

 そこで正式に二年生へと引き継ぐために、引退する前の八月の第一週に、先生と三年生内で話し合って決まった次代の幹部を発表する日がある。それが今日だ。

 練習が終わり、集合の呼び声がかかる。前に出た三年生の部長の顔はいつもより少し強ばっているように見えた。

 響香も内心穏やかではない。何人か部長候補として挙げられているのを耳に挟んでおり、その中に響香も入っている。だが過度な期待をするのは、なるべくやめている。何もなかった場合のがっくりと項垂れる様子が、ありありと思い浮かべることができるからだ。

「では、まず次期幹事について発表したいと思います」

 静寂に包まれた池の中に一つの石が投げ込まれる。

「幹部は部長、副部長、会計、そしてそれぞれのパートリーダーで構成します。――では始めに部長ですが……」 

 視線が響香の方に向いた。

「……倉田響香さんにお願いしたいと思います」

 周りから拍手が漏れ出る。それに響香は軽く会釈をして答えた。そして次々と他の幹部が発表されていく。

 それ以降の発表をどこか浮ついた気分で聞いていた。皆に認められた嬉しさもあるが、これから統率という立場になることに対して、不安も出てくる。良くも悪くも慎重派であるため、何かことを起こす際には躊躇いが生じ、その時間の誤差が、何かに影響を与えるかもしれない。

 そして最も歴史の厚みを感じる重要な役職であるため、重圧に押しつぶされる可能性もあり、響香は押しつぶされないとは言い切れない。

 しばらくして近くで「はい」と聞き慣れた声が発せられると、拍手が湧き起こった。遼平がテノールのパートリーダーに選ばれたのだ。

 やがて任命が終わると、部長ははっきりとした声で改めて皆を見渡しながら言った。

「正式な交替はコンクールが終わった後となりますが、次期部長の倉田さんには簡単に挨拶をしてもらいたいと思います」

 かなりの不意打ちであった。ちゃんとした言葉はまだ後だと思っていたから、何も用意はしていなかったのだ。動かないでいると、絵理がさり気に小さな声で突っ込みを入れる。

「ほら、みんなが待っているでしょう。早く行きなさいよ」

「わかっているよ……」

「別に簡単でいいの。頑張ります程度でさ」

 背中を押されて、慌てて前に飛び出る。何十人もいる部員たちの視線が一斉に向けられた。

 ゆっくり見渡しながら、呼吸を整える。そして言葉は自然と出てきていた。

「このたび、次期部長に任命されました倉田響香です。拙い点も多くありますが、部を盛り上げるために、影ながら頑張っていきたいと思いますので、よろしくお願いします」

 自分の力でどこまでできるかはわからない。けれども、任命されたからには精一杯やりたかった。

 部を――守るために。


 その日、まだ太陽の光が燦々と照らしつけている時間に、響香は絵理と帰っていた。遼平は現テノールのパートリーダーの先輩に捕まって、引き継ぎや長話に付き合わされていた。最近は夜が遅く、彼と一緒に帰ることが多かったため、絵里との下校では話題に事は欠かなかった。

 高校から最寄りの駅、浦丘駅までは約十分程度。響香が乗る電車と絵理が乗る電車は、逆方向であるため、ホームまでの談笑となる。ほぼ彼女からの一方的な話となっていたが、何気ない日常の会話は素直に楽しい。響香にとって、最近は変わったことが多すぎたため、こういう風に心休まるときがなかったからだ。

 ふと一呼吸置いていると、絵理は顔を覗き込んできた。あまりの近さに慌てて後ずさりする。

「急に何?」

「それはこっちの台詞よ。何を考え込んでいるの?」

「別にたいしたことじゃないよ」

「ふーん、てっきり平石のことでも考えているのかと思った」

 一瞬の沈黙の後、響香は間抜けな声を出した。

「へ?」

「へ? じゃないわよ。最近、私を出し抜いて、二人で帰る日が多いじゃない!」

「それは偶然だって。たまたま夜遅くなったから……」

 手を横に振りながら、慌てて弁解しようとする。だがその必死さが逆にあだとなった。

「そんなに否定するなんて、やっぱりあんたたち、できていたんだ!」

「ち、違う! それは違う!」

 全力で否定したが、妙に顔が火照っている気がした。それを見た絵理は、にやつきながらますます面白がる。

「前から他の男友達より、親しい関係だって言うのはわかっていたわ。けど、そこまで発展していたなんて!」

「遼平とは同じ中学だから、よく話をしているだけだって、何度も言っているでしょう。それで二人とも音楽部に入部したものだから、他の男子よりも話しやすいのは必然じゃない?」

「いいのよ、そんなに必死になって隠さないでも。まあ部内に広がるのも時間の問題ね……。あら、そういえば今日は一緒に帰らなくていいの?」

「だから、ただの友達だって!」

 どう言い返しても、絵理はまったく意に介さなかった。深々と溜息を吐き、しばらく彼女の中でことが収まるまでは、なるべく遼平と接触するのは、やめようと思った。

 県内でも古くから賑わいを見せている商店街を通り抜けると、駅前にあるロータリーに着く。そこを横目で通り過ぎながら、駅の中へと階段を登り、改札を通ってホームへと出た。電光掲示板を見ると、先に絵理が乗る電車が来るようだ。アナウンスとともに、電車がホームに滑り込んでくる。

「それじゃあ、また明日。そろそろ合宿ね。楽しみだわ、響香をいじるのが」

「本来の目的を間違えないで。集中して練習をするために行くんだから。――それじゃ」

 手を振り合いながら、絵理が車内へと入っていくのを見届ける。平日の昼間なので、通勤ラッシュ時とは違い、比較的空いている。ドアが閉まると、響香も自分が乗る電車のホーム側に並んだ。時計を見ると、あと数分で来るようだ。おもむろに携帯電話を開きながら、メールの確認をした。

 そんな中、会社間の移動だろうか、黒いスーツを着た男性が左に並んだ。特に気にすることもなく、届いていたメールを読み込む。

「……香」

 不意に囁き声が聞こえた。携帯電話から顔をあげて、軽く左右を見渡す。

「倉田……響香」

 今度ははっきりと聞こえた。右に向いていた視線を左に移そうとしたが、今度はその声によって止められた。

「こっちを向くな。……楽しい話をしてくれる可愛らしいお友達に害を起こされたくなければ」

 響香は目を丸くして固まった。

 ――まさか絵理と一緒にいる時から、ずっと付けられていた?

 淡々とした男性の声はどことなく怖い。首は動かさず視線だけをゆっくり動かしたら、男性の左手には真っ黒い携帯電話が握られていた。

「……危害を加えるつもりはない。ただ話をしたいだけだ」

「そんなことを言われても、すぐに首を縦に振ると思っているのですか?」

 しばらく何もなく、その上、昼間だから、すっかり油断をしていた。彼は終業式付近で起こった、あの妙な事件の関係者なのだろうか――。一気に警戒心を強める。

「大人しく従ってほしいから、あまり取りたくない方法を使っている。もし従わないのなら、さっきの彼女を再びこの駅まで連れてこようか? 私の部下が同じ車両に乗っている」

 心拍数が一気に跳ね上がる。これが本当なら、響香にとって選択肢はない。

 視線は下がり、歯を噛み締めながらじっと線路を見つめる。

「ただ話をするだけだ。むしろ情報を与えることになる、これから君が起こることに関してだ」

 電車がホームに来るというアナウンスが聞こえた。

「君は自分でも予想していなかった運命を突きつけられる。何も知らないでいるより、いいと思うが?」

 ゆっくりと顔を上げて、隣にいる人物を見る。ひょろりとした体格に細い黒縁眼鏡をかけた、全体的に地味という印象を受ける二十代後半の青年。そんな彼の表情は真剣そのものだった。

 あの白鳥のような、何かを隠しているような表情ではなく――。

 鼓動は少しずつ収まりつつあり、彼の話に興味が沸いてきた。その一方でもう戻れない橋に渡りかけていることにも気づきつつある。だが、心が、直感が付いていけと言っている気がしたのだ。

 真正面から視線を合わし、硬い表情だがしっかりとした声を出した。

「絵理に何かをしたら許さない。私自信のことなら、私だけにして」

 ホームに電車が入り込んできた。風で髪が棚引く。

 そうして黒スーツの男は笑みを浮かべた。

「いい心意気だ。さすがと言ったところか。その言葉に二言はないな」

「ありません」

 電車によって声がかき消されたはずなのに、その言葉は確かにその二人の中で響き渡った。

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