白と黒の交錯(二)

 響香は黒スーツを着た男――黒野正に連れられて、そのまま電車に乗り込み、響香の最寄り駅から三つ先に進んだ駅で降りた。

 車内では一定の間隔を保ちつつ、しばらく会話はなし。どうやら知らない人を装ってほしいらしい。まるで誰かにこの二人が接触したという事実を知ってほしくないようだ。

 駅に降りると、後に付いて来いと視線で促される。まだ何も知らない相手であるので、気持ち距離を置きながら続いていく。降りた駅は、浦丘駅と比べたらあまり大きくなく、パチンコ屋の前や人通りが多くない商店街を歩いていた。

 全体的な建物が五階以下と低いためか、空がよく見える。しかし、空は雲で覆われており、午後は雨の予報だ。

 黒野の背を追いつつ、その通りをただ突っ切るだけだと思っていたら、急に横道に逸れた。慌てて早歩きでその道に入り込み、さらに別の道に入り込む。それが何度も続いたが、頭の中で地図を作製すると、ずっと同じ方向に進んでいるようだ。

 数十分しか歩いていないが、先が分からない状態では疲労が溜まりやすい。少し立ち止まって休憩を取りたいと思ったときに、二車線で車が行き交う通りの向こう側で、真っ黒な色の普通車が路肩に付け、誰かを降ろしているのが目に入った。その降りてきた人物を見て、響香は目を丸くした。

「どうして遼平が――」

 すると急に黒野が血相を変えて、響香に向かって駆け寄ってきた。あまりの豹変ぶりに下がろうとしたが、それよりも先に叫ばれた。

「伏せろ!」

 反射的に腰を落とした。

 頭上をすごい勢いで何かがかすめる。

 何事かと思い、かすめた先を見てみると、サッカーボールが転がっていた。それを見て、背筋がぞっとした。

 ボール自体は怖いものではない。だがあの速さの物が当たれば、気を失うかもしれないし、当たり所が悪ければ危険な状態になりかねなかった。

 立ち尽くしている響香を、滑り込むようにしゃがみ込んだ黒野は抱え込み、ボールが投げつけられた方向に睨み付けた。

 その先にはつまらなそうな顔をしている白スーツの男性――白鳥と、響香と遼平を襲った白い上着を羽織った少女が並んで立っていたのだ。

 二人は何らかの関係があると推察された。黒野は響香と一緒に立ち上がり、極力彼らの視界から響香を遮るようにする。それを見た白鳥は溜息を吐いた。

「彼女と先に会ったのは僕だ。そこをどいてくれないか、黒野」

「何を言っている。あんな乱暴なやり方で出会ったというのは、適切な表現じゃないと思うが?」

「傍観している、せめて写真だけと言ったのに、結局は彼女と接触している君に好き勝手言われたくない」

「夜の学校の廊下で追いかけたり、帰りがけの夕方に、急に襲いかかるようなことをするよりはマシだ」

 黒野の背を視界が大半を占めているため、白鳥の全体の姿を確認できていないが、響香は今のやりとりをしっかり聞き取っていた。

 ――この人たちは今までの一連の出来事に関係している? けど親しそうな関係ではないみたい。むしろ対立……?

 そんなことを考えたが、この張り詰めた空気の中、一人で推測をしても、誰も教えてはくれない。またこれから響香はいったいどういう行動を取ればいいのか、まったくわからなかった。

 白鳥が白い上着を羽織っている少女の耳元で囁いた。すると少女は一歩前に出て、両手を握りしめる。その様子を見た黒野は警戒心を強めた。

「君の職業はあくまで研究者。歴史にすがって、過去を遡るのは、君らしくないよ。――マギナ、黒野を倒して、彼女を捕らえろ」

「――はい」

 その小さく呟かれる感情のない声に鳥肌がたった。そしてあの夜の光景が思い出される。

 何もできずに傷つけられていく遼平。それが今度はこの人に受けるのか。

 だが危険な状況に立たされるだろう黒野は顔が強ばっただけで、それ以上は動揺している様子を見せなかった。むしろ顔を近づけ、響香に対して囁いてきた。

「合図を出したら、君はあの少年たちに向かって走れ。そしてここから逃げろ。あいつの狙いは、まず俺だ」

「でも、それじゃあ、あなたは……」

 会って間もない人ではあるが、心配でたまらなかった。しかし、それは自信に満ち溢れた顔によって一蹴される。

「俺は大丈夫。何も知らない一般人ではない」

 眼鏡の奥から薄い黒色の瞳で真っ直ぐに見つめられる。だが、その瞳を見る時間は数十秒も与えられず、マギナの言葉によって操られた、可愛らしい花が植えられた鉢が大量に飛んできたのだ。その攻撃対象は黒野だけでなく、響香も入っている。

 それに気づいた黒野は響香を抱えながら、その場から逃げだした。激しい音を立てて、植木鉢はコンクリートに叩きつけられる。

 どこからか女性の叫び声が聞こえた。そして何事かと思った人々が建物の外に出てくる。

「――まったく町中で突然事を起こすとは、白鳥も何を考えているんだ。どうせ権力で握りつぶすんだろうが」

 黒野は涼しい顔をしている白鳥を睨み付けながら、忌々しく吐き捨てる。

「いきなり君がいる前で攻撃を仕掛けてくるとは思わなかった。まったく適当なものだな、なるべく傷つけてはいけない体なのに。予定は変更だ。まずはここから離れる。――体力に自信は?」

「大丈夫です。走るのは好きですから」

 はっきりとした声で言い返すと、ニヤリと笑った。

「よし、わかった。――この通りを十分くらい走れば、開発予定地として空き地がある。そこまで行くぞ」

「わかりました」

 マギナの第二撃が来る。手には大量の針が乗せられていた。

「針よ、針よ、あの者――」

「黙れ!」

 黒野の怒鳴り声によって、マギナの声が遮られた。少女の口がヘの字になる。その隙に二人は白鳥たちに背を向けて走り始めた。響香の頭の中では遼平のことはもはや片隅に追いやられていた。ただ今は全力で走るのみ――。

 通りの向こう側で立っていた遼平は、その光景に目を丸くして見ていた。そして響香が走り去っていくのを見ると、慌てて共に車から降りた男性に声をかけて再び車に乗り込み、後を追いかけ始めた。



 響香は黒野に言われた通りに、ひたすら前に向かって走り続けた。すぐ後ろでは黒野が追ってくる白鳥とマギナに対して何かを叫んでいる。その内容は言ってしまえば、単語の類であるが、それを叫んだことによってか、マギナからの攻撃はあまりやってこない。あったとしても、以前、遼平に飛び掛ってきた靴よりも量は少なく、脅威というほどではなかった。

 正直認めたくはなかったが、ここまで不可思議なことが起これば、認めざるを得ない。

 マギナが発した言葉によって、その物体が動くと言うことに――。

 そんな理論は現実世界で聞いたことがなかった。これがゲームの中なら、“魔法”と言い包めてしまうのだろうが、ここは科学技術が発達した現代。そんなことあるわけがないはずだった。だが――何かが頭の隅に引っかかる。本当に〝魔法〟というものは、この世に存在しないのかということに。

 しばらくして前を見れば、対向車線から一台の乗用車が走っている。看板を見れば、もう少しで開発予定地に辿り着く。

 少しだけ上の空で走っていると、急に黒野に手を引っ張られた。思わぬことに前に倒れそうになる。だが倒れそうになる前に黒野は力いっぱい響香を引き寄せ、抱きしめ、荒い呼吸の中で、横に飛び退いた。

 なんと響香たちがいた場所に、前方から見えてきた乗用車が突っ込んできたのだ。運転手は驚愕の顔をしながら、必死になってハンドルを握りしめていた。だが、それに逆らうのかのように、ハンドルは勝手に動いている。

 乗用車は電柱にぶつかる前に急ブレーキをかけ、逃げた響香たちを見つけると、再び勢いを付けて、轢き殺そうというくらいに突っ込んできた。

「おいおい、これじゃあ、死んでもいいって言っているようなものじゃないか」

 黒野の顔から冷や汗が流れ出ている。だが、険しい表情をしつつも視線は乗用車だけでなく、その後ろにいるマギナたちにも向けられた。

 彼女は白鳥に寄りかかるように立っており、どことなく様子がおかしい。

「相当体力を使ったみたいだな。これは逃げなくても、意外にあっちが先に力尽きるかもしれない」

 少し余裕でも出てきたのだろうか、薄らと笑みを浮かべている。その表情はもう少しだから――そう言っているようだった。しかし、一瞬できた油断が隙を与えることになる。

「響香、上!」

 どこからか叫ばれた遼平の声に反応し、頭上を見上げる。

 そして目を疑った

 十階ほどの高さである建設途中の屋上から、大量の鉄鋼が落ちてきているのだ。

 黒野が焦って手を取って逃げようとするが、落下する方が速い。

 ――私、死ぬの?

 死を目の前にして、脳裏にその言葉が流れる。だが、一方で誰かが心の中に叫んできた。

 ――叫んで。あなたの思いを言葉に込めて!

 次の行為は、無意識だった。腹の底から空を見上げて叫んでいた。

「来ないで……。私はこんなところでまだ死にたくない!」

 言い終えると同時に、目を開けるのも困難なほどの突風が上空に吹いた。鉄鋼の落下位置が微妙にずれる。

 黒野は立ち尽くしている響香を抱え込んで、地面に俯せた。

 次の瞬間、激しい音を立てて、鉄鋼が地上に叩きつけられ、埃が舞う。

 遼平は車内から出て、真っ青な顔でその光景を見つめていた。

 一瞬のことだがつい目を閉じていた響香は、音が止むと、ゆっくりと目を開ける。何かがのしかかってきたという痛みは特にない。一方ですぐ近くから激しい呼吸音がした。黒野がぎゅっと響香のことを抱きしめていたのだ。

「く、黒野さん……?」

 もしかして響香をかばって、黒野の身に何かがあったのではないか。揺すると、彼も目を開けた。

「大丈夫ですか? 怪我は……」

「大丈夫、君のおかげで助かった。俺も怪我はしていない」

「よかった……」

 黒野に促されて、体を起こす。一部始終を見ていた遼平が泣きそうな顔で駆け寄ってきた。鉄鋼は――響香たちがさっきまでいた三メートルくらい先で、かなり大きい円を描くように落下していたのだ。

「響香!」

 走ってきた遼平は響香を強く抱きしめた。周りの目もあるため、少し困った顔をしてしまう。だが歪んでいる表情を見てしまっては、引き離す気は起きなかった。

 あの風が吹かなければ、このように抱きしめられることなく、死に繋がったかもしれないから――。

 再会と無事に危機を脱出したという、感動的な場面ではあったが、その人たちは待ってくれなかった。

 涼しい顔をした白鳥がすぐ傍にまで歩いてきていた。マギナは顔を俯きながら、さっきいた場所でうずくまっている。

「さあ、追いかけっこはもう終わりだ。彼女を引き渡してもらおう」

 黒野は立ち上がり、睨み返した。

「そっちが終わりだ。もう逃げるのを妨げることはできないはずだ。大人しく俺たちがここから去るのを見届けていろ」

 そう言い捨てたが、白鳥から突きつけられるものを見て、眉をひそめる。

 黒々とした銃口が黒野の体に向けられているのだ。距離にして二メートルほど。この中身が発射されれば完全に避けるのは非常に難しい。

「逃げられるのかな?」

「お前、こんなところでそれを使ったら、すぐに――」

「馬鹿だね。もみ消すのは僕の十八番だろ?」

 明らかに劣勢に立たされた。響香はどうにか状況を変えようと頭の中を回転させるが、急に疲れが出てきたため、思考が鈍る。

 まだ体力に余力はあるはずなのに、それに反して頭が動かず、遼平にもたれ掛かってしまう。

「可哀想に。さっきので彼女は疲れきっているじゃないか。さあ、僕たちが介抱してあげるよ」

「ふざけるな! お前がそういう風に仕組んだくせに!」

「まったくうるさいよ。殺すには惜しい頭脳だが、その口はいらない。後任はまだいる。黒野正、ここで消えろ」

 引き金がゆっくりと引かれる。黒野はじっと銃口を見たまま、動かなかった。

 だが引いている途中で動くのが止まった。そして眉間にしわを寄せながら、何度も何度も同じ行為を繰り返す。しかし、それ以上は動かなかった。

「どうして動かない、どうしてだ!」

 動揺している白鳥の隙を付いて、黒野は一瞬で間合いを詰めて銃を蹴り上げ、腹に向かって一蹴り入れこんだ。うめき声を上げながら、白鳥はうずくまる。

 そして丁度いいタイミングで遼平を乗せていた車が回り込んできた。窓から体格のいい精悍な顔立ちの男が顔を出す。

「黒野さん!」

「わかっている! 中に乗り込め!」

 響香は遼平に支えられながら、やっとの思いで後部座席に乗り込む。黒野は白鳥の銃を遠くに蹴りとばした後に、急いで助手席に乗り込んだ。そして勢いよくアクセルを踏まれた車は慌てたように走り出した。

 すぐに追ってくるかと思ったが、白鳥は何もせず、悔しそうな顔をしながら、車を睨み付けていた。

 痛みによって動けないのだろうか。それとも予想外のことが起こって、悔しがっているのだろうか。どちらにしても、もう安全なのだろう。安堵と共に、遼平の肩に寄りかかりながら、目を閉じた。

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