第一章 日常に近づく不協和音

日常に近づく不協和音(一)

 蝉の鳴き声がやかましいくらいに聞こえる中、ここ県立浦ヶ丘第一高等学校の廊下は、必要以上の人で溢れていた。落ち着かずにそわそわしている人や涼しい顔をしている人など、人により表情は様々だ。

 やがて予鈴が鳴り響くのと同じくらいに、先生たちが厚みのある茶封筒を抱えながら歩いてくる。それを見ると、目の色を変えて、生徒たちは教室の中へと入っていった。

 そんな生徒たちを横目で見つつ、二年七組の教室の片隅で響香は手帳に夏の予定を書き込みながら担任の先生を待っていた。手帳には部活の練習ばかりが書き連なっている。

 明日からはいよいよ夏休み。毎日、授業に時間を取られ、勉強を中心に過ごしていた学生にとっては、もっとも長く自分の時間を持てる長期休暇。始めはまだまだ時間があると言って、ぼんやりと過ごしていると、気が付けばあと一週間で終わりというのはよくある話であろう。

 だが、夢のような時間を想像する前に、一気に現実に突き落とす出来事があった。

 響香たちの担任である眼鏡をかけた三十代の先生が教室に入ると、話声は小さくなる。そして彼が教壇の前に立つと、教室を見渡して、淡々と話を始めた。

「さて、席に着いたか? それでは夏休みの諸注意から話そう。――ああ、そうだ先に言っておく。夏休み明けに実力テストを行うから、遊びすぎないように」

 その言葉を聞くと、まるで意図的に合わせたと言わんばかりに口を揃えて、「ええ!」と驚きをクラス内で表した。すぐに周りの人たちと文句を垂れながら、喋り始める。

 先生は特に害することなく、生徒たちを眺めていた。しばらくすると、手近にあった出席簿を教卓に叩きつけると、一瞬で静まり返った。

「君たち、今はお喋りをする時間ではない。それでは夏休みの諸注意を言うから、くれぐれも守るように。プリントを配るから後ろに回してくれ」

 普段は穏和でいい先生なのだが、怒りの沸点は低いようで、すぐにこのような行動に出る。こういった行動を取られたら、渋々大人しくするのが良好なのである。

 一通り話が終わると、そろそろ昼の時間帯、これで号令をかけて礼をすれば終わるはずだ。だがその前に最大の難関が待ち構えていた。

「それじゃあ――最後に通知票を配るぞ。出席番号順な。――浅野!」

 大きな声で呼ばれると、慌てて一人の男子が先生の前へと駆け寄っていく。

 通知表を受け取り、席に戻るとこそこそと中身を見始める。彼の落胆した様子を見ることなく、他の生徒も次々と呼ばれていく。自分たちの通知表を見て、落胆するもの、安堵するもの、顔には出さないものなど、多種多様に溢れている。

 響香も受け取り、ちらりと見たが、いつも通りの成績であった。特に顔色は変えずに通知表を閉じる。

「どうだったの、響香?」

 まだ呼ばれていない絵里がじろじろと見てくる。

「普通よ。期末で失敗した教科はあまりよくないけど……」

「そう言っているけど、私よりどの教科もいいくせに。数学なんて、どれだけできているのよ」

 それだけ言うと、呼ばれた彼女も慌てて通知票を受け取りに行く。受け取り、慎重に開くと、落胆した表情が広がった。その表情を見て、夏休みに時間があるときにでも、少しは勉強を教えてあげようかと響香は思うのだった。



 通知票も受け取り、ホームルームも終わると、いよいよ夏休み。

 響香にとって、今年の夏もほとんどが合唱部の活動で時間を割くことになり、そして去年以上に大きな山を迎えることになるだろう。一年前は先輩の背中をひたすらに追って、どうにか毎日を乗り切ることだけを考えていた。だが今年はそれだけではなく、先輩の背中をしっかり目に焼き付けることもするが、後輩にも積極的に指導を行うため、より神経を使って周りに気を配らなければならない。

 夏休みの予定を見てみると、八月の中旬から下旬にある合宿、そして今までの成果と夏の追い込みが試される、八月の末にあるコンクールの都道府県大会が二大関門。気の抜けない日々が続く一方、毎日を全力で音楽と真正面から向き合うことができる絶好の機会だ。

 手帳を眺め、お弁当のご飯を口に入れながら、これから始まる四十日のことを響香はぼんやりと考え込んでいた。

「響香、今からあまり考えすぎていると、あとで息切れしちゃうよ」

 向かい合う形でコロッケパンを頬張りながら、絵里はふっと笑みを浮かべた。

「そんなに心配することはないでしょ。例年通り、何事もなく終わるって。ねえ――」

「けど成績は去年以上のものは取りたい。常に上を目指すのがモットーな部活なんだから」

 そう言うと、絵里はううっと言葉を詰まらせた。

「県大会を突破できるか、できないかぐらいのレベルの高校だけど、今年は県大会を突破して、その上の支部大会に進出するだけでなく、そこで善戦して、いい成績を取りたい。年に一回のコンクール、全力投球しなきゃ」

 それだけは譲れない想い。高校生活のすべてを歌に捧げるのなら、徹底的にやりたい。入学して一年も経つと、より欲望が出てくるものだ。

 頑なな表情をしていると、絵里は静かに微笑む。

「あまり無理しないでね。響香は何でもかんでも突っ走るタイプなんだから」

 短い言葉であるが、それは彼女なりの優しさ。響香にとっては有り難い言葉であった。

 お昼を食べ終え、練習が始まるまで時間はあったが、早めに行って音楽室の様子でも見ることに決めた。鞄に筆箱などを詰めて支度をしていると、ドアの近くで他クラスの女子が困った顔で教室内を見渡している。誰かを探しているのだろうか、一番近くにいたので響香は声をかけてみた。

「誰かお探しですか?」

「あ、はい。ちょっと伝言を頼まれまして。倉田さんってこのクラスですよね?」

 彼女の発言に目を丸くする。倉田というのは響香の名字なのだ。伝言とは何だろうか、先生からの呼び出しだろうか。だが呼び出しをされるような行動はしていないはず。とりあえず、状況が分からないため、素直に返答する。

「私ですが……、何か?」

 そう言うと、彼女はほっとしたような顔つきに変わる。そしてじろじろと響香のことを見てきた。

「本当ですか? よかった、すぐに会うことができて。詳細はよくわかりませんが、応接室に来て欲しいと言うことです」

「応接室? 今すぐに、ですか?」

「はい、なるべく早くして欲しいようなことは言っていました。では、確かに伝えましたからね。よろしくお願いします」

 軽く一礼をすると、背を向けて、廊下を走っていてしまった。首を傾げながら、その後ろ姿を眺めていた。

「どうしたんだ?」

 ちょうど教室に入ろうとした遼平が、ドアの前で突っ立っていた響香に対して、心配そうな表情で顔を覗き込んでくる。

「なんか妙な呼び出しが……」

「妙?」

「私って、先生に呼び出されるようなことはしていないよね。何だろう……」

 先週起こった夜の事件は担任と生徒指導の先生には一応報告しておいた。二人とも、施錠がほとんどされた夜の学校に対して不審者が進入したという内容に、驚きつつ、眉をひそめていた。

 まさか、その関係だろうか。警察とかそういう類だろうか。

 それならなぜ生徒に伝言を頼んだのかは、疑問に残る。外部の人間なら、先生に話を付けてから呼び出しをするのが一般的だからだ。謎に包まれた呼び出しに対して、徐々に不安が入り混じってきた。

 だが、誰が呼び出したというのは非常に気になるところだった。

「一緒に行くか?」

 難しい顔をしていると、思いもかけない言葉を投げかけられて、目を見張る。言った本人は明るい口調だった。

「中に入るのは厳しいかもしれないが、応接室の外で待っているから。叫べばすぐに駆けつける。だから行って来たらどうだ?」

「……そうね、ありがとう」

 顔を伏せながら、有り難く返事をした。



 応接室は教室がある棟とは別の棟にあり、音楽室などの特別教室が並ぶ棟の一階にある。昼間とはいえ、もう夏休みに入るためか、廊下にはほとんど人はいない。

 やがて喧噪があまり聞こえないところまで来ると、〝応接室〟と書かれたプレートが目に入った。普段は電気がついていないが、今は点灯しており、誰かがいるのは一目瞭然だ。

 遼平は響香に目を配ると、数歩下がり、少し離れたところにある壁に背をつけた。

 そして響香は深呼吸をし、逸る想いを落ち着けてからドアをノックした。中から男性の声が返ってくる。それを聞くと、ゆっくりとドアを引いた。部屋の中には微笑を浮かべ、白スーツを着込んだ薄茶色に髪を染めている青年が座っており、その横にサングラスをかけた黒スーツの男性が二人構えていた。

「失礼します。お呼び出しの方を受けました、倉田響香です。――まずはお話を伺う前に、どちら様ですか?」

 入る前にこのような質問を出すとは、不躾だとはわかっている。だが、警戒するのに越したことはない。白スーツの青年は響香を見て、さらに後ろへと視線を流した。そして穏やかな声で返す。

「やはり警戒しますよか、突然このような呼び出しがあったのなら。しかも夜に襲われかけた後というのに」

 思わぬ発言に響香は驚きを顔に出してしまう。ドアを開けた状態で言われたため、遼平の耳にも入っていた。彼でさえ携帯をいじっていたのをやめ、それに反応して視線を上げてしまったのだ。

 その様子を見ると、青年はニヤリと笑った。

「後ろにいる彼も知っているようだ。手間を省くためにも、一緒に話して上げよう。さあ、お入り。何かあったら、警察でも何でも呼んで構わないから」

 堂々とした様子で青年は手を拱いた。信用できるかどうかは話を聞いてからでも遅くはないだろう。そしてここは学校の中、声を上げればすぐに人が駆けつけてくれる。そう考え、遼平と共に部屋へと踏み入れた。

 茶髪の青年の正面に来ると、二人で並んで座る。そして名刺を差し出された。

「それでは改めてご挨拶を。初めまして、警視庁機密管理局の白鳥彰と申します」

「警視庁?」

ついつい目の前の人物の言葉に対して目を見開いた。響香は名刺を手に取り、それと白鳥を見比べた。

 警視庁ということは、この人たちは教室を出る際に予想した警察関係の人。白スーツで茶髪の刑事など非常に珍しい、本当に警察なのかと疑ってしまうほどだ。一方で、機密管理局というのはいったい何なのだろうか。気になる単語であった。

 一瞬で溢れ出てきた疑問が表情に出ていたらしく、白鳥が尋ねてくる。

「何かご質問でも?」

「あの、機密管理局とはいったい何なのでしょうか?」

「それは公にしたくない情報を管理している局です。私はテレビに出てくるような刑事のようなことはしません。基本的にデスクワーク専門ですよ」

「それならば、どうして私を呼び出したのですか?」

 先日の不審者の件で話でも聞きにきたのかと思ったが、少し勝手が違うように感じられた。彼をじっと見ながら、返事を待つと間を開けずに口が開かれた。

「――それは不審者と遭遇した事件について気になるところがあり、是非ご本人からお話を聞きたいと思ったんだ」

「たかが一個人の不審者相手に、機密管理局とやらが出てくるものなのですか?」

「その不審者が機密対象者かもしれないんですよ」

 白鳥は極めて穏やかな表情で響香を諭した。警戒心を薄れさせたいのだろう。

「よろしければお話をしてくれませんか?」

「どこまでお話を聞いているかによりますが……」

 あまり気は進まないものの、仕方なく事実を淡々と、簡単にあの夜のことを説明した。けれどあの僅かな時間で、かつ真っ暗な闇の中であったため、不審者のことをまともに見られる状態ではない。話しても役立ちそうな情報はないだろうと思いつつ、話していく。

 それにも関わらず、手帳を広げながら、白鳥は熱心にメモを取っている。話を終えると、難しい顔をしながら、顔をノートから離した。

「ありがとうございます。何はともあれ、ご無事でよかったです。それ以後、不審なことは起こっていませんか?」

「はい、特に誰かに尾けられるということは、ありません。夜道はなるべく一人で歩かないようには気をつけていますし」

「そうですか、わかりました。引き続き警戒を怠らないでください。彼らはまたあなたと接触してくる可能性がありますから。ではほかに何か質問は?」

 その言い分が不意に引っかかった。遼平も気づいたのだろう、その違和感に。響香の様子を横目で見ながら、彼は促してくる。

 ――全面的には信用するべき人ではない。

 そう思い、特にそ知らぬ振りをして、違和感の表面上の疑問を投げかける。

「白鳥さんは、その人たちが誰か知っているのですか?」

「そうでなければ、ここに私が直接来ません。ただの不審者なら、別の課にでも頼みます」

「そうですか。では彼らはいったい――」

「倉田さん」

 響香が話している最中で割り込まれる。白鳥は薄らと顔を緩ませていた。

「そろそろ部活の練習が始まるのではないのですか? 遅刻してはいけないと思いますが」

 そう言われて、ちらりと部屋にある時計を見る。あと十分で集合だ。そしてそれを急かすように、白鳥は立ち上がり、響香たちを部屋から追い出そうとした。

 その行動に若干の不快感を出しながら、歩を進める。今の彼の様子だと何も聞き出せそうにないからだ。

 ドアの前まで来ると、くるりと振り返った。一瞬、無表情の白鳥が見えたが、すぐに笑い返された。

「何かありましたら、遠慮なくご連絡ください。また襲われた場合には、普通の警察よりも私に連絡したほうが後々の都合はいいかと思いますので」

「それは私のためですか?」

 数瞬、間が空いた。

「……もちろん、倉田さんのためですよ。本日はお忙しい中、ありがとうございました。ではまたの機会に」

「……失礼します」

 そして遼平とともに廊下に出た。静かにドアを閉めて、振り向きもせず、足早に荷物が置いてある教室へと向かう。

「響香……」

 何かを言うのを躊躇いながら、声をかけてくる。

「なぜだか知らないけど、私、調べられているわね」

 心配そうな声を出す遼平と裏腹に、小さい声ながらはっきりとした発音をする。

 そして生徒でざわめく廊下の寸前で立ち止まり、遼平を真っ直ぐ見つめた。

「……さっきのことは誰にも言わないで。しばらくは様子を見ていよう」

 そう言って、胸の鼓動が速くなり、不安な気持ちでいっぱいになりつつあるのを隠すかのように、無理に笑みを浮かべた。

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