言葉の響応者

桐谷瑞香

プロローグ 始まりを導く足音

プロローグ 始まりを導く足音

 さあ、想いを言葉にして、声に出して歌いましょう。


 その言葉を耳にした、すべての人の心に届く想いを。


 その声を聴いた、すべての人の心に響く歌声を。


 どんなに辛くても、私は言葉を紡ぐために、歌うことをやめない。


 だからあなたたちも――――。




 * * *




 その日も、この部屋では様々なざわめきや歌声が飛び交っていた。どことなく緊張感が漂う中、それぞれが自分たちの世界に入り込んでいる。そこにセーラー服を着た高校生の少女が手を二、三回叩くと、小気味のいい乾いた音が部屋中に鳴り響いた。その音によって、一同のざわめきは小さくなる。

「それでは、本日の練習はこれで終わりにします。明日も引き続き課題曲のパート練習をしたいと思いますので、そのつもりでお願いします。――本日はお疲れ様でした。ありがとうございました!」

「ありがとうございました!」

 元気よくみんなで挨拶を終えると、ざわめきはさらに激しくなり、楽譜を手にした三十人近い生徒たちは帰る支度をし始めた。ついさっきまで部屋を覆っていたピリピリした雰囲気などはもうなくなっている。

 そんな彼女、彼らの様子を、音楽室の前方で一同を解散させた少女は眺めていた。淡い赤色のネクタイが生える水色の襟のセーラー服を着ている。ふと手元にある、たくさん書き込まれた楽譜に目を落とすと、小さく溜息を吐いた。

「お疲れ、響香。突然頼まれた部長代理、大変そうだな」

 はつらつとした少年の声が彼女の背中越しから耳に入ってくる。倉田響香は肩に掛かるくらいの黒髪を振り払いながら、彼の方に向いた。

「一、二年生ぐらいなら、大丈夫。さあ早く帰る支度しないと、校門閉まっちゃうよ。支度ができたら、遼平は窓の施錠の確認をお願い。その間に私は警備員さんを呼んでくる」

「ああ、よろしく」

 半袖のワイシャツを着て、指定の紺色のズボンをはいた平石遼平は響香より一回りも高い背中を向けると、まだ部屋に残っている部員たちを帰るよう促しながら窓に近づいていく。外は既に日が沈んでおり、真っ暗な闇の中に家々の明かりが見える。彼の行動を一瞥すると、響香は足早に部屋を出た。

 冷房が効いていた音楽室と違い、七月中旬の真っ暗な廊下は蒸し暑い。肌が汗でべとつくのを不快に思いながらも歩き始める。

 今日は部を引っ張っている三年生が揃って進路指導の話を聞いているため、二年生の代表である響香がこの合唱部をまとめていた。二年生は十人以上いるし、響香以上に歌うのが上手い人はいるが、特に熱心に練習に参加している点を評価されて、代表となっているのだ。

 もう学校の下校時間は過ぎている。だが特別に許可をもらっている部活動だけは、少し遅くまで活動できるのだ。ただし活動終了後には警備員に報告をする必要がある。そのような理由のため、響香は足早に警備員室へと向かっているのだ。

 廊下に一人分の足音が響く。廊下の電気は消されているが、外灯からの光が漏れており、程よい明るさがあるため、いつも通りの足取りで進むことができる。階段を三階から一階まで降りながら、ふと呟いた。

「今日も予定通りに進まなかった。これで、コンクールに間に合うのかな……」

 自分で呟いた内容に対して憂鬱になりつつも、歩調は落とさなかった。

そんな中、視界に一瞬強い光が入った。すぐにその方向に顔を動かし、窓の外を見る。だがそこにはこれといって特別なことはなく、ただ木々が並んでいるだけだ。

 首を傾げながらも歩き続け、ようやく警備員室に辿り着いた。ドアを開けると蛍光灯の光が飛び込んでくる。だが部屋の中を見て、目を丸くした。いるはずの警備員の姿が見あたらないからだ。

「巡回中かな? でもいつもはこの時間帯にはまだいるのに……。しょうがない、荷物を持ってからまた来よう。とりあえず書き置きだけでも」

 手近にあった紙とペンを取り、簡潔に内容を書いて目立つ場所に貼っておいた。

 警備員室を出て、再び暗闇の中へと足を踏み入れて、階段へと真っ直ぐ歩いていく。だがその時、響香の足音のみであるはずの空間で、微かに他の音が耳に入ってきたのだ。

 誰かの足音。しかし生徒のものとしてはおかしい――静かすぎるのだ。しかも複数いる。校舎の中とは言え、その不気味さにぞっとしてしまう。

 思わず足を速めて、遼平たちがいる音楽室へ急いで向かおうとした。だが、響香が足を速めた途端、複数名の足音も小刻みに動き始める。少し速度を落とせば、その分ゆったりとした音になった。

 ――ちょっと待って、いったい何よ!

 あまり考えたくもないが、この足音の持ち主は響香の後を付けているのかもしれない。そう意識すると同時に、急に心拍数が飛び上がった。

 階段を一階分上がって廊下を進んでも、足音は耐えることはない。もはや意識をしなくても、足音は丸聞こえだ。

 気が付けば、足音は後ろからだけでなく、前方からも聞こえてきた。その事実に対して、響香の顔は真っ青になった。挟み撃ちにでもする気なのか。

 ――よくわからないけど、追いかけられて、捕まえられて、いいことなんてあるはずがない。逃げなくちゃ!

 震え始めた手を握りしめつつ、目を凝らして近くにある部屋を確認した。右には美術室や書道室などの特別教室、左にはトイレと外を見下ろせる窓がある。何とも言えない場所にさらに難しい顔をした。

 教室に駆け込むのが一番いいかもしれないが、たいてい特別教室は鍵がかかっている。しかし、このまま立ち往生していれば、すぐに追いつかれるのは、わかりきっている。不安で鼓動が速くなる中、響香は思い切って決断した。

「お願い、どこか空いていて……!」

 響香は一番近くにあった美術室ではなく、その奥にある書道室の手前のドアに手をかけた。そして――ドアを開けられたのだ。

 思いがけない幸運に目を丸くしたが、すぐに中へと飛び込み、ドアを閉めた。

 雑多に並んでいる椅子や机。机の上には大きな半紙に書きかけの立派な文字が並んでいた。隠れる場所はないかと必死に探し回る。

 だがもたついているうちに、足音が書道室の前で止まった。冷や汗が流れつつも、急いで近くの机の影に隠れた。

 そしてドアが開けられた。複数の足音とともに、人が中に入ってくる。息を殺しつつ、神経を研ぎすませながら人々の気配を感じ取った。その人たちは教室内に散らばっており、おそらく響香をくまなく探し始めている。

 それを横目で見ながらも、響香はまだ手を付けられていない後方のドアに近寄った。記憶が正しければ、内側からは簡単に鍵を解除することができる。

 その人たちが響香を探し出すのが先か、響香が逃げきれるかはもう運任せであった。

 ――どうか、逃げきれますように。

 声には出さないが、唇を動かしながらもしっかりと祈りを送った。そして屈んだまま、ゆっくり進み、ドアの近くにまで着いた。

 この鍵を開ける瞬間が一番危険だ。ちらっと後ろを見て、人々の視線がドア以外の方に向いていることを確認し、瞬間的に鍵を開けて、一目散に廊下に飛び出した。

 さすがに探していた人たちもその音と行動に気づき、再び追いかけ始める。

「お願い、誰か、助けて……!」

 息も切れ切れになりながらも、必死に走る。目の前には音楽室のすぐ脇に登れる階段が見えてきた。とにかくこの階から離れなければ――その一心だった。

 だが、追いかける足音はすぐそこまで近づいている。

 本当に階段まであと少し。だが、なぜかその距離がとても遠くに感じられた。

 その時、また別の足音が前方から聞こえてきた。仲間だったらどうしようかという、不安が一気に頭の中を駆け巡る。

 だが、その足音の主が月明かりに照らされて顔が見えると、響香はその人に向かって叫んでいた。

「遼平!」

 そしてその勢いのまま、彼に抱きついた。途端に全身に震えが渡り始める。その様子に遼平の響香を支える手に力が入った。

「響香、いったいどうした?」

「だ、誰かに追いかけられて……」

 迫る足音による恐怖で胸が押し潰れそうになりそうだったが、気が付けば響香を追っていた人たちの足音は遠のいていた。しかし鼓動はなかなか落ち着こうとしない。

「誰かがいた気配はあるな。……何があったんだ?」

「わからない……、警備員室を出たら誰かにつけられて……」

 息をゆっくり吐き出すことで、震えは徐々に収まっていく。振り返れば、誰もいない廊下が続いていた。もうあの人たちはこの場にいなくなったようだ。

 視線を上げると、浮かない顔をしている遼平の顔がすぐ近くにあった。慌てて彼から離れ、一歩下がる。

「ご、ごめん、急に……」

 顔を俯かせ、両手をぎゅっと握りながら、視線の在処を探す。それを見た遼平は少し寂しそうな表情をしながらも、そっと手を伸ばそうとしたが――。

「響香に遼平!」

 廊下に響き渡るソプラノトーンの声と人工的な光によってその行為は妨げられた。目を細めながら、階段を見上げる。階段から降りてきたのは、長い髪にパーマをかけた、ペンライトで響香たちを照らしている同級生の少女。やや鋭い目が特徴的で、今は口がヘの字に曲がっていた。

「響香、こんなところで何しているの? 警備員さんのチェック終わったわよ」

「ちょっと待って、絵里。警備員さんが来ていたの?」

「そうよ。わざわざそれを知らせるために、携帯に連絡を入れたのに、響香ったら出ないんだから」

 そう指摘されて、慌ててポケットから音符のストラップが付いた携帯電話を取り出す。『宮永絵里』という不在着信とメールが届いていた。逃げるのに必死で気づかなかったらしい。

 両手を腰に当てながら、絵里は肩をすくめた。

「気づかないときもあるわよね。まあいいわ。早く帰りましょう。荷物取ってきて」

「うん……、わかった」

 再会もほどほどにして、一刻も早くこの場から去りたかったため、響香は大急ぎで階段を登り始める。それに続いて遼平も後ろに付いてきた。絵里に申し訳なさそうな表情をしながら、足早に横を通り過ぎた。音楽室の前に着くと、ふと疑問に思ったことを遼平に尋ねる。

「ねえ、どうして階段の下まで来ていたの?」

「それは絵里の連絡に、響香がまったく反応しなかったのが少し気になって」

「それだけ? 何だか迷惑をかけたみたい、ごめんね……。でも、ありがとう」

 微笑みながら軽くお礼を言うと、荷物を持ち、踵を返して絵里のもとへと向かった。

 腕を組みながら待っていた彼女にどうして遅くなったのかと追求されたが、警備員を探していたと嘘を言っておいた。本当のことを言えば、この勝ち気な少女はその犯人を捕まえようなどと、響香が望んでもいないことを言うかもしれないからだ。

 絵里と遼平が先に歩き、響香はその少し後ろを歩く形で正門を出た。少しだけ振り返り、明かりもなく闇に包まれた校舎を見る。

 いったいさっきの人たちは、何者だったのだろうか。響香を付け回す理由など、自分自身何も思いつかない。

 しかも学校という公共の場。夜は事務室の脇にあるドアしか出入りはできないはずだ。そんな危険を冒してまで、何をしたかったのか。 

 疑問が渦巻く中、無理に話を振ってきた絵里に対して、愛想笑いをしながら、適当に受け流した。

 今は考えてもしょうがない。そんなことを考える余裕など無くなるほど、忙しい日々がもうすぐそこまでやってくる。そう割り切ることで、あの恐怖を脳内の奥に追いやることにした。

 やがて絵里から出された流行の話題に食いつき、遼平を脇に置いて、会話に華を咲かせ始める。

 それを見た遼平は少しだけ安堵の表情を浮かべていたのだった。


 だが、一方でそんな響香の様子を後ろかじっと見つめている人々がいた。

 そのことは――彼女たちは知らなかった。

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