言葉が響く彼方(五)

 今、黒野が何を言ったのか、即座に理解できなかった。

 その言い方は、響香を彼らに引き渡すということ。それは一番避けたいことであったはずだ。

 それなのに――。

「黒野正、俺たちのことを裏切ったのか!」

 遼平が目を見開いて、憎悪に溢れた表情で声を張り上げた。だがすぐ傍にいた白鳥の蹴りがみぞおちに入り、動かなくなってしまう。

 ふっと黒野が笑った。冷たく、寒々とした笑いを。

「別に裏切ってなどいない。そっちが勝手に付いてきただけだろう」

 思考が停止した。それに代わって、目から涙が止めどなく溢れ始める。

 ――嘘だと言ってほしい。嘘だって……!

「白鳥、羽川、どうだ? 悪い話ではないだろう」

「確かにそうだな。だが、どうしてそういう風にその娘を盾に取るんだ。信用できないだろう」

「信用されていないから、盾に取っているんだ。警戒を解けば離すさ。それに曲がりなりにも、彼女は言葉の力を持っている。こうすれば声など出せない」

 渋い顔を白鳥はしているが、黒野の視線に多少たじろいだのか、拳銃を腰へと戻す。その時、少しだけ首の拘束が緩んだ気がした。

 白鳥が銃を降ろしたのを見ると、羽川も銃口を地面に向ける。

「黒野、今まで散々と究団を放り投げていた割には、突然こちらには有難い話をするんだね」

「その時は薫があんなことになった後だからな、余裕なんてなかったさ。もし言葉の力で薫の意識を戻すことができるならと思って、彼女を追っていたが、無理だとわかった。だから言葉の力を解明することで、意識が戻るのなら、彼女を犠牲にしてもいいだろう。――その事実に気づくのが遅かっただけさ」

「やっぱり黒野にとっては、妹が一番だよね。何かをしでかす前に、そのことについて気付いてよかったな」

 含みのある笑みを浮かべる羽川。それを気味が悪いと思いつつも、溢れる様々な複雑な感情を抑えつつ、響香は周りをどうにか見渡した。

 周りは木々に囲まれており、少し走れば道路に出る。白鳥は銃をしまっているが、すぐに取り出すことも可能。その傍には動くにも動けない遼平が木に寄りかかっている。ならば、白鳥を彼から離すことが先決。

 羽川の手には依然として携帯電話が握られていた。

 そして黒野は今、響香の頭に銃を突き付けている。保身のためであるが、本気でなければそう躊躇いもなくできないはずだ。

 この三つの突破口をどう切り開くか。それはたった一回の言葉の力を使うしかなかった。

 しかし果たしてその一回で言葉の力と響香自身の体力が交わるところまで達するか微妙である。なら、もっと大きな事象を――。

 一方で、ただ自分が逃げるために言葉の力が底を付いてしまうのは、複雑な心境でもある。誰かを助けるのではなく、自分自身だけで終えるこの能力。それは望まれることなのだろうか。

「その小娘を究団に連れて行くのは決定だけど、この少年はどうするつもり? 事の詳細を知っているんだろう?」

「いや、知らない。確かに成り行きで、行動をしたことはあったが、それは本当に表面上のこと。あまり行方不明者を何人も出しても、法が味方してくれる白の法団とはいえ、面倒なだけだろう。――武中、彼を適当な病院に投げ入れておけ。何かを喋ったとしても、その時はもぬけの殻さ」

 その命令を受けた武中は、まだ緊張感で張りつめている白鳥の横を抜けて、呆然としていた遼平を担ぎ上げた。かなり体力が消耗しているためか、抵抗などしなかった。

 遼平を背負った武中は、その場からゆっくり離れる。彼は黒野に言われたことがかなりショックだったためか、ただ響香を見つめているしかできなかった。

 遼平を改めて見返すと、ふと首にかけてあるネックレスの存在を響香は思い出す。そこには昨夜、遼平からもらった音符が描かれている四角いネックレスが下がっている。それに触れることで自然と力を与えられた気がした。

 さっきよりも少しだけ呼吸ができる。小さな声ではあるが、言葉は出せるはずだ。武中に連れられた遼平が見えなくなると、頭にこれから起こすことを思い描き、深呼吸をして、一気に声を吐き出した。

「壊れろ!」

 小刻みにその対象が震えたかと思うと、次の瞬間に奇妙な音がした。

 羽川が持っていた携帯は手から零れ落ちるように、粉々になって地面に落ちていく。そして白鳥が持っていた拳銃も壊れようとしたが、違和感を察知して遠くに投げると、たちまち暴発してしまった。

 面食らった表情をしている黒野の拘束が緩んだところで、思いっきり引っ叩き、自由になった身で急いでその場から逃げた。

 自分だけでなく、他に人質を再び捕られる前に、どこかで言葉の力を解放して、この抗争を終わらさなければ――その想いだけが先行する。

「小娘、自分が助かりたければ、こっちがどうなってもいいのか!」

 暴発した銃を苦々しく見ていた白鳥は間髪入れずに、もう一丁の銃を取り出す。羽川も刺すような視線で、サイレンサー付きの銃を突き出した。

 瞬間、背後で激しい銃声と、静かな銃声が数回轟いた。右腿に激痛が走り、木の根に躓き、転んでしまう。起きあがろうとしたが、足から流れる出血のせいで思うように動けない。警戒しながら白鳥たちの方に視線をやる。

 だがその視線上にいた人物を見て、驚愕した。

 黒いスーツ、少しボサボサな髪。

 どこか哀愁を帯びている背中越しから、振り返られた。

「……薫を頼む」

 そして静かにその場で仰向けに黒野は崩れ落ちた。どこか満足そうな表情をしながら。

 愕然として、立ち上がれなかった。一瞬でも黒野を疑ってしまったことが、恥ずかしいと思いつつ、彼から大量に流れ始めている血を見ていると震えが止まらない。

「まったく結局は小娘を逃がすための芝居か。まあこれで目障りなやつもいなくなるし、いいだろう。それに結果としてもう捕まえたも同然だ」

 倒れた黒野が握っていた麻酔銃を拾うと、白鳥はにやりと笑みを浮かべながら響香に視線を向けた。それを見ていた羽川はその白鳥に向かって、銃口を向ける。

「何だ、白鳥? 今は小娘を動けなくする方が先決じゃないか?」

「それはそうだが、ここで横取りをされたら、こちらも面白くなくてね。さっきの黒野の提案に乗るかどうか、確認するだけだ」

「あの提案か……。だがマギナと同種の人間を倉田響香から作った後、小娘はどうるすつもりだ?」

「それはこちらのものだろう。どうせ今よりも力は劣ってしまうが、被検体には変わりない。そう考えると力が限りなく尽きないマギナ似の者を得る方が、特だと思うけど?」

 まるで晩御飯は何を食べようかという調子であったが、中身を突き詰めれば一人の少女に対してとんでもないことをしようとしている話だ。しかしそれよりも目の前で起こっている方をどうにかしたかった。

 足を引きずりながら、倒れた黒野の元に寄った。息はあるが、撃たれどころが悪く、出血の量が半端ない。

「……響香……逃げろ」

「こんな時まで何を言っているんですか。ごめんなさい。私が無茶を言ってここに来てしまったのに、結果的に誰も自分の手で助けられなくて……」

「……助けたい気持ちは……誰でも持っている。だからそれを攻めるべきではない……。俺こそ、何もできなくすまん……。やはり言葉の力の因果は止められないのか……」

 言葉の力の因果――なぜ、そのようなものが生まれたのだろうか。

 しかし、そもそもの始まりであるセイレンが力を得てしまった理由がわからないのだから、追及することはできなかった。

 今、響香はまるで自身が魔女狩りの対象になっているような気分になっていた。白の法団と黒の究団に追われ続け、捕まれば一方的な扱いを受け、その上命など保証はできない。

 一度は好意をもたれた者と一緒に逃げたセイレン。だが再び捕まってしまったとき、彼女はどうやって彼を逃した――?

 気が付けば黒野の右手を取り、両手で握った。彼の苦しさが直に伝わってくる。

 ――自分よりも他人のために。そして究極的には自分の命より他人の命のために。

「響香……俺のことより自分のことを……」

「黒野さん、薫さんがいるのに弱気になってはいけませんよ」

 何がしたいのか、何をするべきなのか、唐突に感じ取った。

 黒野に対して、優しく微笑みながら、視線を少し上にする。

 そしてゆっくり深呼吸をして、想いをそのまま言葉に出し始めた。


「あなたはある人にとって 大切な人

 ある人はあなたにとって 大切な人――」


 何も深く考えずに続ける。


「大切だから お互いに気を遣い 距離を保つ

 自分が 苦しい立場になっている時こそ――」


 言葉に自然とリズムが付き、徐々に歌らしくなっていく。

 異変に気付いた白鳥と羽川が目の色を変えて、駆け寄ってきた。

 それにも構わず、響香は歌い続ける。


「傍にいるから 気付かなかった

 傍にいるからこそ 気づきたくなかった

 気づいたら もう後戻りできない気がするから――」


 響香の体全体が、不思議と温かくなってきていた。

 白鳥と羽川はなぜか数歩離れたところにいる。そして恐ろしいものでも見たかのように、立ち竦んでいた。


「そうして 気づいてしまった時

 私は 彼から離れなければならなくなっていた

 とても寂しいけど 離れなければならなかった

 それは 明日へ踏み出すための一歩だから――」

 

 ほのかに黒野の周りに光が集まり始めた。


「だから私は決めた

 あなたのために

 そして私のために――」


 黒野を包んでいた光が大きくなり、響香までをも包み始めた。

 歌に乗せた言葉は人々の心の中に、不思議な旋律と共に入り込んでくる。

 それは歌った響香も例外ではなかった。喉の奥が熱い。だがそれでも歌うのをやめなかった。


「さあ 想いを言葉として 声に出して歌いましょう

 その声を聴いた すべての人の心に響く歌声を

 その言葉を耳にした すべての人の心に届く想いを――」


 黒野が薄らと目を開けていた。そして歌っている響香を眺めていた。


「どんなに辛くても 私は言葉を紡ぐために 歌うことをやめない

 だからあなたたちも――」


 自然と響香の目から一筋の涙が流れた。


「一緒に 歌いましょう

 響きが 声に応じられるように

 あなたや私の言葉や行動に 私は応じましょう――」


 流れるように出し切った言葉とともに光が一面に広がる。

 徐々に薄れゆく意識の中で、響香は黒野がじっと見つめていることに気づき、小さく笑みを浮かべた。

 そして最後に聞いた言葉は響香自身の声でなく、黒野が呟いたものだった。


「一緒に歌おう 言葉の響応者――」




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