言葉が響く彼方(三)

 * * *



 運命の日はいつもと変わらない日常とともに始まった。この数日間過ごしてきたように、まず武中が作ってくれた朝食を頂き、黒野の様子を見に行きつつ、ご飯を持っていく。

 いつもはベッドに寝ているだけの黒野であったが、今日はスーツを着て固い表情でリビングに現れた。

「黒野さん、まだ怪我が完治していないのに、スーツを着なくても。それに暑いじゃないですか」

「こっちの方が、気が引き締まる。好きでやっているだけだ。適当に上着は脱ぐ」

 一方、響香は制服ではなく私服であり、なるべく目立たないように暗めの色を着ていた。そして深めの帽子を差し出される。

「一応、軽く変装はしていけ。今日ばかりは連中も必死に探し始めるだろう」

「わかりました。むしろ力を使った後の方が、追ってくる気がしますが。もう使えないのに捕まったら、笑えませんね。……いつ覚醒するかは決まっているものなんですか?」

「ほぼ生まれた時間帯だ」

「そうですか。それじゃあ、お昼前ですね……」

 時計を見れば、あと一時間もない。理想としては覚醒直後に力を使うのが望ましかった。

 防弾チョッキを服の上に、動きやすい私服に着替えた武中に対し、黒野は目をやると首をしっかりと縦に振る。

「さて、行くか」

「あまり無理しないでくださいよ、黒野さん。別にいつも通りのことをするだけです。それじゃあ、車をマンションの裏手に停めるんで、五分後くらいしたら出てきてください」

 先に出ていく武中の背中を見ながら、響香は高まる緊張を抑えるかのようにそっと胸元にあるものを握った。そして少ししてから黒野が促した。

「では行こう。浦中総合病院へ」

「はい」



 * * *



 白の法団や黒の究団はいったいどこにいるのだろうと、首を傾げるくらい、その日の移動中も何もなかった。念のため遼平にも聞いてみるが、コンクール会場に姿を現してはいないと言っている。

 浦ヶ丘高校は午後半ばの時間帯に歌う。予定通り進めば、聴くくらいは間に合うかもしれない。

 浦中総合病院は、総合と銘打っているだけあって、様々な病気の患者が入院していた。そこに響香が助けたい人物は静かに眠っている。

 黒野を先頭にし、一般病棟から少し離れた場所にある個室の前に辿り着く。ドアに手をかけようとしたとき、不意に恰幅のいい中年の女性看護士に話しかけられた。

「あら、黒野さん、こんにちは。今回は少し日数が空いたわね」

「こんにちは。仕事が忙しく、あまり余裕がなくて。それにいつもここに来ていたら、目覚めたときに薫に怒られそうだから」

「本当にお兄さん想いのいい妹さんよね。……そちらの方は?」

「同僚とその妹さん。事情を話したら、お見舞いをしたいって」

「そう。少しでも早くみんなの想いが届けばいいわね」

 笑顔で言いながら、看護士は去っていった。それを横目で見つつ、静かに黒野たちは病室の中に入る。中は一定感覚で刻み続けている、人工的な音が響く。ベッドに近づき、顔を覗き込みながら、黒野は瞳を閉じている彼女に囁いた。

「薫、お客さんだ。もう少しだから、頑張って戻ってこい」

 三年も目を覚ましていない、黒野薫がそこで静かに眠っていた。響香が湖のほとりで会った時よりも痩せている。黒野のすぐ傍にまで歩き、そんな彼女をまじまじと見た。

「……いいのか? 薫に力を使うなんて」

「何度も言わせないでください。私が決めたことです。同情とかそういうのは一切ないです。それにここなら何かあっても病院ですから、最悪のケースは防げますよ」

 もっともそういう病院沙汰になった場合は、薫の病室で何があったかという詰問が待っているだろう。それはそれで黒野に迷惑をかけてしまう原因になってしまうが、ここまできたらしょうがない。

 ちらっと腕時計に目をやった。そろそろ正午になる。だがまだ体には異変は感じられなかった。それとも無意識の内に覚醒とやらは起こっているのだろうか。

 試しに言葉を出そうと思った瞬間、激しい眩暈に襲われた。すぐに異変を察知した黒野は響香を支えながら、座り込ませる。

 鼓動がどんどん速くなっていく。喉も熱くなり、まるで何者かの意思によって別の何かが出てきそうな勢いだ。暴れたいのを黒野が必死に抑える。

「落ち着け、落ち着け、自分を見失うな!」

 その言葉が上手く頭の中に入ってこない。激しく呼吸する息遣いが耳の中に入ってくる。だがそこに、微かに黒野の声がしてきた。

「誰でも通る道だ。ここで抑えられなくて、しばらく呆然として何もできなかった人や、命を落としてしまった人もいる。だけど響香なら抑えることができるはず。響香……歌いたいんだろう!」

 押し殺した声で叫ばれた言葉によって、急速に吐く息が治まり始める。失いかけていた我が戻ってきた。やがて落ち着いていく様子を見た黒野は汗を拭きながら、安堵の表情を浮かべた。

「大丈夫か?」

「大丈夫です。ありがとうございます」

 足元が若干ふらつきながらも立ち上がった。それを見た黒野は渋い顔をした。

「やっぱり直後は体力的にキツイ。時間を置いてからでも……」

「けど薫さんはそんな状況で黒野さんを助けたのでしょう? ……時間がないのは同じです。呼吸が治まったら、やります」

 椅子に腰を掛け、そっと薫の手を取った。血は巡っているためか温もりはある。だが、どことなく冷たく感じるのも確かであった。

「薫さん……」

 緊張感により心拍数が上がっていく。それと共にゆっくりと集中し始めた。

 しかし突然黒野が待ったをかける。

「待ってくれ、遼平から電話だ」

 その人物の名前を聞いて、ピクリと動きが止まった。黒野は慌てて廊下に出て行ってしまった。

 一度薫の手をおろし、黒野が戻るのを待つ。その時、急に不安が溢れ始める。特別なことがない限り、遼平は電話などしてこない。白の法団か黒の究団が接触してきた可能性が高かった。

 しかし意外とすぐに黒野は戻ってきた。一方で、その顔は若干強張っている。

「黒野さん、何かあったんですか? 白ですか、黒ですか?」

「……コンサートホールの外や中で、白鳥と羽川を目撃したという連絡だ。特に動きはないが、やはり響香が現れると思って、来たのだろう」

「行かなければ、何も行動を起こさないですかね……」

「わからない。もし、万が一――」

 言っている途中で再び黒野が持っているポケットに振動が走った。着信は遼平から。今度ばかりは一緒に部屋の外に出て、静かな場所で、ともに耳を澄まして通話内容を聞き始めた。

 だが電話に出ると、ただ雑音がするだけだ。こんな時に何をしているのだと思ったが、よく聞けば誰かの声が聞こえてきた。黒野が目を細めながらも通話音量を大きくする。

『……宮永さん、お久しぶり……』

 聞き取れたのはそれだけだが、よく考えればその声は羽川のものだった。

『羽川さん……こんにちは……今日はどうして……』

 絵里の浮ついた声が入ってくる。それを聞いて、妙な緊張感が走った。

 遼平側が携帯電話をポケットから出したためか、少し声がクリアに聞こえるようになった。

『近くを通ったから来てみたんだよ。頑張っているかい?』

『はい、おかげさまで。先日は本当にありがとうございました』

『いやいや。……そう言えば、倉田さんは元気?』

 その質問に絵里は少し黙りこくった。

『実はお婆さまの容態がよくならないらしくて……』

『全然会っていないの?』

『はい。合宿の途中から会っていません』

『それは残念だ』

 このまま響香が合唱部と接触しないだろうと思い、引き下がってくれれば少しは余裕ができるだろう。だが響香には他にも家族や友クラスの達といった大切な人がたくさんいる。これを乗り切ったとしても、まだ油断はできない。

 その時、ごつんと携帯電話が何かに当たる音がした。一気に緊張感が高まる。

『あれ、君は僕が学校で話をしていたときに、あの娘と一緒にいた――』

 遼平に対して話しかけてくるのは白鳥の声だった。

『白鳥さん……ですよね。お久しぶりです。いったいどうしたんですか、こんなところで』

『ここに来れば、彼女がいるかなって。少し話したいことがあってね』

『響香は祖母の看病に行っているため、部活は休んでいますよ』

『そうか。それは無駄足だったみたいだな』

 白鳥の残念そうな声が聞こえてくる。このまま退いてくれと、一心に願った。

『ところでさ……』

『何でしょうか』

『その電話、どこと繋がっているんだい?』

 背筋に戦慄が走った。次の瞬間、マギナが淡々と言葉に出す。

『花瓶よ、花瓶よ、彼を襲いたまえ』

 それを聞いて顔から血の気が引いた。今すぐにでもその電話の向こうに行きたい衝動に駆られる。だが黒野はそんな響香の想いを踏みつぶすかのように、通話ボタンを切ったのだ。それを信じられないような顔をして、黒野を睨み付ける。

「どうして切るんですか!」

「履歴でばれるだろうが、繋がりっぱなしよりマシだ」

「けど遼平が!」

「落ち着け、響香!」

 両肩に大きな手が乗せられる。思わず黒野の目を見ると、彼自身も葛藤している様子がすぐに見て取れた。

「いいか、ここで慌てれば、あいつらの思う壺だ。今は俺たちがやらなければならないことをしよう。力を使いきっていたら、響香が狙われる心配はない」

「そうですけど……」

「遼平は君を守りたいんだ。だから彼の行為を無碍にするようなことはやめろ」

 すがるような視線を向けられて、響香は抵抗するのをやめた。そして黒野に促されながら、再び薫がいる病室へと戻った。

 先ほどと同じく心拍数を伝える音だけが、病室の中に響いている。

 響香は薫の横に来たが、気分が浮ついているため、思うように集中ができない。それでもどうにか座って手を握った。

 遼平の元に駆けつけるためには、言葉の力を持った響香では足手まといになる。あの研究所で黒野が傷つけられたのは、その力を守るためにされてしまったことだ。

 誰かが足早に部屋から出ていく音がする。おそらく黒野が再び電話に出ているのだろう。つまり遼平の携帯電話は白鳥たちに捕られてしまったのだろうか。

 ――あなたの本当の願いは何?

 唐突に浮き上がるもう一人の響香が問いかけてくる。

 ――伸び伸びと生きて、歌い続けたい。言葉を出して、歌い続けたい。

 ――本当にそうなの?

 返された言葉にすぐに反論することができなかった。いや、むしろ躊躇っているという事実を浮き彫りにさせたのだ。

 ――心の奥にある本当の想いは?

 力を得てから、いやそれより前の出来事が脳内を駆け巡る。

 楽しかった日々、笑った日々、悔しかった日々、そして泣いた日々。

 多くの人との出会い、時に励まされ、叱咤しつつ、勉強が嫌になったり、音楽に触れるのが苦しくなったりもした。

 そして部長を引き受けようと思ったときの理由が脳裏をかすめた。

「――私は、自分を慕い、認めてくれた人たちに対して、感謝をしている。だからその人たちを守りたい。私のせいで何かあったら、歌い続けられても嬉しくない!」

 ぱっと薫から手を離し、入り口で立っていた武中の横を通り過ぎて、さっきの場所で携帯電話に耳を当てている黒野を見つけた。

「だから何度も言っているだろう、倉田響香は俺の元にはいない。白の法団がお前を法から守っているとは言っても、限度があるだろう。もうやめろよ。明らかな警察沙汰になったら、逃げきれるのか。……何だと、そこまで言うのなら試すだと? お、おい――」

 電話に夢中の黒野から、無理矢理携帯電話を抜き取る。目を見張った黒野を横目で一瞬見て、すぐに携帯電話に向かって口を開いた。

「今からそっちに行くから、ホールの裏口で待っていなさい。みんなに手を出したら、許さない!」

『やはり黒野と一緒にいたか』

 嘲るような声が耳に突き刺さってくる。だが響香は怯むことなく、眉を吊り上げた。

『話が早くて助かるよ。この少年や部員が満足にコンクールに出てほしいのなら、すぐに来ることだ。いいか、妙な真似はするなよ』

「それはこっちの台詞。公共の場ではあまり騒ぎを起こさない方が、今後のために無難ですよ」

 そうして一方的にこっちから通話を切った。ふうっと大きく息を吐く。しかしすぐに、横から怒鳴り声を出された。

「何を勝手にやっているんだ! あれだけ言っただろう、遼平がどんな想いでやっているかと……」

「遼平の気持ちが大切というのなら、私の気持ちも考えて下さい!」

 勢いをそのままに、きっと睨み付けた。

「黒野さん、私は薫さんではありませんが、薫さんがお兄さんを大切に思ったように、私は遼平を始めとして部員たちを大切に思っています。私は責任を持って、守りたいんです。仮に今持っている力で状況を打開できるのなら、しなければならないんです!」

「響香……」

「未だにこの力を得たことは恨んでいます。だけど、その力を理由にして逃げ回って、周りに迷惑をかけてしまう自分が情けない。だから今、行かなければならない。……黒野さん、すみません、薫さんを助けられなさそうで」

「いや、それはいいんだ……」

「私の最後のわがままを聞いて下さい。ホールまで連れていって下さい。言葉の力を巡る争いは、言葉の力で押さえつけます」

 意識はしていないが、想いをそのまま声に出していた。言葉の力が少しずつ漲ってくる。

 もし響香自身に何があっても、この選択は自分で決めたことなのだから、決して後悔はしないはずだ――。

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