言葉が響く彼方(二)

 * * *



 合宿が終わってから三日後に車で移動をし、町へと戻って行った。始めに一同は響香のマンションに寄っていた。細心の注意を払いつつも、むしろ人が多く行きかう昼の時間帯に行ったのが盲点だったのか、特に追手が出てくることなく滑り込めたのだ。

 響香の母親と顔見知りの遼平も家に上げ、黒野を合唱部の卒業生として紹介した。そして、コンクールが終わるまでは一日中練習をし、夜も引継ぎ等に追われるため、家に帰っている時間がもったいないと母親に言いくるめて、どうにか数日間家を空けることを承諾させたのだ。また娘が家を空けることに対して、少し浮かない顔をしていたが、黒野の適切な受け答えにより、どうにか首を縦に振らせることができた。

 話をした後、響香は部屋に行き、必要な荷物を手際よく大きめのバックに詰め直していく。黒野からもらった中世ヨーロッパの本、楽譜、ノート、レターセット、筆箱、着替え等、気が付けばバックはいっぱいになっていた。それでもどうにか詰め込み、支度を終える。

 やがて家から出るときに、「コンクール、聴きに行くから、頑張りなさいよ」と言われてしまい、逆に胸が痛んだ。

 おそらくコンクールのステージ上に響香の姿はない。それを見た母親は自分の娘はいったい何をしているのだろうかと、疑問に思うだろう。無事に終われば、直前で喉を傷めたと言って謝る、もし無事に終わらなければ、母親に誰かから直接連絡が行く予定だ――。



 その後、遼平を部活に参加させるために、彼の家の近くで降ろし、他の三人は以前、響香を休ませたこともあるマンションへと移動していた。遼平が降りるときに、かなり機嫌が悪かったのは気付いている。事情は大方知っているのに、肝心のところで参加はできないのは、非常にやりきれない想いだろう。

 その状態に響香も歯痒く感じていたが、万が一、部員たちにもしものことがあった場合に遼平が傍にいてくれれば、何とか対処してくれるかもしれない、という淡い期待も抱いていた。

 響香が助手席で何気なく外を眺めていると、後部座席で楽な体勢になっている黒野が話しかけてきた。

「……傍にいて欲しいんじゃないのか?」

「どうしてですか。いつまでも私のことに構っていては困ります。遼平には遼平の生き方があるんですから」

「彼は頼ってほしいと思っているのに?」

「だから頼りたくないんです。そんなことしたら、決心が緩んでしまうじゃないですか……」

 黒野はそれ以上聞いてこなかった。ただ、少し困ったような顔をしているのはサイドミラーから見えていた。


 再びオートロックが付いたマンションに戻ると、黒野は馴れた手つきで番号を打ち込み、中へと入っていく。特につけられたような様子はないようだ。白の法団や黒の究団はいったい何をしているのだろうか、もはや響香のことは諦めたのだろうかと思ってしまうほど、気配がなかった。響香は出会った当初に寝かされていた部屋へと案内され、そこを使うように促される。

「今、白鳥や羽川が動いていないからって、油断はするな。必ず誕生日以降には動きがある」

「それはわかっています。きっと今は作戦をたてているんでしょうね」

「……それでだ、響香は誰かを助けたいと言っていたが、具体的には誰をどのように助けたいんだ?」

 響香が荷物を広げようとしている時に、黒野は話しかけくる。振り返り、少しだけ間を置いた。変な想いが入っては困るため、本当はギリギリまで話したくはなかったが、あまり迷惑を掛けてはいけない。呼吸を整えてから、口を開いた。

「――先に言っておきます。これは私の勝手な想いです。黒野さんだからというわけではありませんので」

「どういう意味だ?」

「私が助けたい人は――」

 予想通り、黒野は目を丸くしてその人物の名を聞いていた。

 成功する保証など、何もない。

 けれども、その人に響香の声が少しでも届くのなら、きっと可能だと思っていた。



 * * *



 部活には祖母の容態があまりよくないという理由で、しばらく休み通している。絵里から、心配そうなメールや電話が何度も来るが、謝りながら返すしかない。

 都道府県大会のコンクールには間に合わないだろうと、電話の最後に付け加えると、電話越しからも聞こえる深々とした溜息を吐かれた。

『仕方ないよね……、今回は。来年、いえ支部大会で頑張ろう。響香、あんなにコンクール頑張るって言っていたもんね』

「う、うん……、そうだね」

『それに残らないと、次期部長から三年生への言葉も響香からじゃなくて、次期副部長になっちゃう。部長も他の部員も、みんなが心配している。早く良くなるといいね、お婆ちゃん』

「ありがとう、絵里。いつも心配してくれて」

『当然でしょ。それに遼平も響香がいなくて、すごくテンション低いんだから。早く戻ってきなさいよ』

「……わかった。じゃあ、みんなによろしく」

 そう言って複雑な想いで電話を切った。嘘を吐いているのもあるが、あそこまで支部大会に進出するから頑張ると言われても、響香がその舞台に立つことができなかった場合を考えると、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

 カレンダーを見ると、明後日が都道府県大会のコンクールであり、響香の十七歳の誕生日だ。

 おもむろに、ずっと保存したままのメールを開く。まだ宛名は入れていない。簡潔な文だけ本文に書いてある。

 カレンダーと携帯の画面を行ったり来たりしながら、ようやく宛名を入れて、送信した。

 ベッドに深く座り込んだ。送ってしまったという気持ちと、送って良かったという気持ちが入り交じる。ドキドキしながら待っていると、すぐにその相手からメールが返ってきた。恐る恐る携帯電話を開き、その回答を見た瞬間、少しだけほっとしたのだった。



 * * *



 黒野が借りているマンションの開発地域には、触れ合いの広場として、中央に噴水が設置されている公園があった。昼間は子供たちが元気に走り回っているが、夜はあまり人気もない。たまにカップルがいるときもあるが、基本的にはこんな開発地域に足を踏み入れる人はいないため、比較的閑散としている。

 誕生日も前夜に、響香は黒野と武中を何とか言い倒すことに成功して、その公園のベンチに座っていた。もちろん武中の監視下はあるが、しばらく屋内での生活だったため、風に触れると心地よく、新鮮な感じがする。

 何かあったら、叫ぶこと、それが条件でどうにか外に出てきた。中でも良かったが、なるべくなら黒野が傍にいてほしくない。彼の推論に水を差すようなことをしたくないからだ。

 やがて時計の針が真上を向いたときに、待ち人は来た。立ち上がり、彼に向かってそっと微笑んだ。

「数日ぶり?」

「……そうだな。あの合宿の帰り以来か。いやに日が経つのが遅かったよ」

「そうね。何かに一生懸命打ち込んでいるときは、そんなこと全然感じないのに」

 響香は近寄ってきた遼平に一通の手紙を差し出した。

「急にごめんね。手短に終わらせたいから。――これ、何かあったら部長に渡しておいて」

「何かあったらって、どういう意味だ?」

「……もしも声が出なくなったり、しばらく日常生活に戻れなくなった場合……」

「……退部届か」

 その言葉に対して、ゆっくりと首を縦に振った。手紙に触れようとした遼平の手がするりと抜ける。それに対して、響香は目を丸くした。

「……って、そんなものを受け取るなんて、できるか!」

 声を押し殺して、吐き捨てる。抑えていた遼平の感情がふつふつと表れ始めた。それを抑え込むように、響香ははっきりと言い切る。

「遼平にしか頼めないことなの」

「そんな風にしか俺が使えないのか!」

 間髪入れずに、声が返ってくる。そして動揺している隙に、遼平に抱きしめられた。

「なっ……!」

 顔が一瞬で赤くなる。大きな手で抱きしめられ、身動きが取れない。だがその一方で小刻みに震えていることが、直に伝わってきた。

「俺は何もできないのか……?」

「遼平?」

「どうして……響香なんだよ……」

 一言、一言が心に重くのし掛かってくる。もしかしたら響香以上に辛いのは彼だったのかもしれない。

「俺は見守ることしかできないなんて、悔しい。響香と同じ境遇を分かち合えたらって、何度思ったことか」

 ――それ以上、言葉を出し続けないで。ずっとせき止めてきた想いが流れ出してしまいそうで、怖い。だから、もう言わないで――。

 そう願いつつ、必死に離れようとするが、決して彼の腕が響香を離すことはなかった。そして口がゆっくり動く。

「平気そうに振る舞うなよ。見ていて、こっちが辛いんだよ。怖いって言えよ……」

 消え入るような遼平の声が、響香の心の奥底に付いてしまった。

 せき止められていたダムのように、一気に想いが放出され始めた。涙が――意思とは反して、流れ出る。ぎゅっと遼平の服を握りながら、言葉を紡ぐ。

「……辛いよ、怖いよ。嘘だって、言ってほしいよ。こんなことは嘘、ただの悪い夢だって。そう何度思ったことかな……」

 けれど、それを肯定することはできなかった。言葉の力について、知れば知るほど、道は一本に絞られていく。

「黒野さんはああ言ってくれたけど、不安はすごくある。成功する確率なんて、かなり低いかもしれない」

「それなら逃げたっていいじゃないか、三年くらい。今後の人生に比べたら……」

 遼平は手を強く握りしめてくる。この人は本当に心配している。響香自身以上に心配している。だから不安という想いを伝えて、さらに憂えさせたくなかった。けれどもそれだけでは何も進まない。だから、これ以外に抱いている想いを伝えようと思った。

 むしろ彼だから伝えないといけない――。

「――そう言ってくれてありがとう。でもね、やっぱり辛いと言って、何度考え直しても行き着く答えは同じだった」

 少しだけ遼平の腕が緩む。ただ淡々と思ったことを言葉に出して述べる。少しずつ涙は乾き始めていた。

「どの選択が最も良いかなんて、今の私にはわからない。もしかしたら間違った選択をしているかもしれない。けど、選択肢のうちのすべてのことを体験しなければ、はっきりと間違った選択であったと言えるわけがない」

 不条理を受け入れること、入れないことも選択するということ。今の響香の立場だってそうだ。

「そんな中で最上の道を選ぶのなら、今と明日、そしてこれからのことを考えることによって、道が導かれる気がする。そうして選んだ道は、きっと後悔なんてしない。後悔したとしても、それは自分の責任。だからどんなことがあっても真正面で受け止めきれる」

「けど、もしも――」

「私、明日助けたいと思っている人は、何年も前から意識が戻らない人なの」

 弱気な言葉を出させる前に、優しく言い重ねる。ゆっくりと遼平の腕の中から出て、顔を少し上げて真っ直ぐ見つめた。

「その人を助けることで、私や他の人に少しでも道が開けられるかもしれない。その可能性に賭けてみたい。これは誰かがやらなければならないこと。それにね、この世の中って、意外と無理と言えるものは少ないんだよ」

 少し茶目っ気ぶりに言うと、微かに遼平の頬が緩んだ。

 そして最後の想いを伝える。

「私、歌うのが好き。この想いだけは譲れない。そして一番好きなのが、みんなで歌声を重ねること。あの広いホールで伸び伸びと歌うことが好きなの――」

 怖いけれど、どういう結末が待っているかはわからないけれど、歌うことが響香にとっての支えとなるのなら、その想いは最後まで裏切らないだろう。

 遼平は真剣な目で響香を見返していた。揺るがない真っ直ぐな目は、知り合ってから数年経つが、最近になってとても頼もしく見える。

「響香……」

 気が付けば、遼平の顔がすぐ目の前に近づいていた。そしてさらに顔を寄せると響香の唇を塞いだ。それに驚いて一瞬、身を竦ませた。

 ほんの数瞬――長いようで短い時間が過ぎて、遼平は顔を離した。

 まだ仄かに温もりが残っている。顔が火照っているのが薄々気づく。

「するなら言ってよ。初めてだったのに……」

「俺もだ。これなら言葉がなくても、お互いの想いを伝えられるだろう」

 その言葉に再び涙腺が緩みそうだ。もし声が出せなくなっても、彼は傍にいてくれると言ってくれているのだ。けれども一緒にいるのなら、色々なことを話したいし、一緒に歌いたい。そう思いつつ、彼を見返すと、目に力が入っていた。

「明日の夜は誕生日祝いと支部大会に進んだお祝いをみんなでするから、予定を空けていろよ」

「……うん、もちろん」

 遼平は今ではなく明日に関することを最後に言ってくれた。それが響香に対して、明日を生き抜くための活力となるだろう。

 時計を見れば、もう予定の時間も過ぎてしまっていた。別れの挨拶して、足早に武中の元に戻ろうとするとき、遼平が手を引き、手のひらの中に小さな袋を乗せた。

「あとで開けてくれ。一足早いけど、誕生日プレゼントだ」

「ありがとう……。じゃあ、また明日ね」

「ああ、また明日」

 普段通りの会話で締めくくり、見送られつつ、公園の脇に止めてあった車に乗り込んだ。

「もういいのか?」

 テレビを見ていた武中が響香を見ることなく言ってくる。

「大丈夫です。また明日会えますから」

 視線を外に向けがら言うと、武中は顔を緩ませてから相槌を打つ。そしてゆっくりと車を出しくれた。

 空は星で光輝いている。暗闇の中でもしっかりと輝くことができると主張しているように――。

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