第五章 言葉が響く彼方

言葉が響く彼方(一)

 あっと言う間にその日は過ぎ、研究所で抗争があってから二日が経った。つまり合宿の最終日を迎えていたのだ。

 時計を見ると、他の部員たちがホテルを出発してしばらく経っている時間だろう。二日間も歌えなかったことも辛いが、より団結力が増す合宿にすべて参加できなかったことに、歯がゆさを感じている。

 その後、黒野の怪我の治り具合から、もう一、二日だけ動かず、この家に留まることになった。その間、響香は部活の友達の家で追い込みをするから、もうしばらく帰らないと、適当に言い訳の電話を両親にしておいた。

 その必死な説得ぶりを見ていた黒野は、にやけながら眺めていた。通話を切った響香は少し不機嫌そうに見返す。

「何ですか、人が必死になっている姿を笑うなんて」

「すまん。あまりに必死過ぎて……。そこまでしなくても俺が適当に付け口するのに」

「黒野さんの手に掛けるほど、私は説得下手ではありません」

 毅然とそう言うが、空気がすぐに緩み、思わず二人で笑ってしまった。

 数日前よりもかなり打ち解けている気がする。かつては薫のことを負い目に感じ、それを響香にまで影を被せてしまっていた。だが、今は響香が先に進むことを選択したため、立ち止まっていた薫からは徐々に離れている。

 その日の夕方、遼平と武中が再びこの家にやってきた。遼平はどうにか部長に言い伏せて、みんなと一緒に帰ることを逃れたらしい。

 発せられる雰囲気から、若干、怒っている風にも見えて、少し気まずかった。だが武中が上手く取り持ってくれているため、剣呑な雰囲気は薄れている。

 夕飯は武中の手料理が振る舞われた。意外な側面を見た二人は驚いたが、出された料理を見て、さらに呆気にとられてしまう。

「なんだ、その顔は。悪いか、料理をして」

 出されたのはデミグラスソースがかかっている、ふわふわの卵で包まれたオムライス。どこかのファミレスに売っていそうな出来映えだ。

「いえ、とても美味しそうだなと、つい……」

 しかし筋肉質の体格ながら、エプロン姿が意外に似合っている。見かけだけでは人を勝手に判断してはいけないと響香は悟った。

「いいから、とっとと食べろ! 黒野さんが待っているぞ!」

「は、はい、わかりました……」

 追い立てられるようにして、食べ始める。味は見た目以上に繊細であり、お世辞でなく本当に美味しかった。本当はゆっくり味わって食べたいところだが、時間もないので、そうはいかない。急いで食べつつも、綺麗に食べ上げると、武中が満足そうに笑みを浮かべていた。

 そして片づけが終わると、黒野が寝ている部屋へと移動した。

 ある程度血色が良くなった黒野は起き上がって待っていた。椅子に座るよう勧められる。響香と遼平が椅子に座り、武中は入り口に近いところで腕を組みながら立った。穏やかであった空気が徐々に張りつめてくる。

 話を始める前に黒野は複雑な表情で遼平の方に目をやった。

「黒の究団に突入した後ではあるが、改めて問うけど、このまま俺たちと一緒に行動するのか? ……彼女には悪いけど、すべてが成功するとは限らない。最悪の状況になった場合、君はどう受け止める」

 まるで黒野が過去の自分に問いかけているようにも見える。遼平は背筋を伸ばして、躊躇いのない口調で返答した。

「最悪の状況なんて起こさせません」

「それはいい面しか見ていないだけの、子供の考えだ。その回答なら受け付けない」

「なら――、もう二度と響香のような犠牲者を出させません」

 その言葉に目を丸くして、遼平の顔を見た。曇りのない目で黒野を見返している。

 黒野が遼平を見るときは、どこか苦々しい様子だった。それはおそらく薫の力をどうにかしたかった、黒野正という人物と様子が似ているからだろう。だから、黒野が選んだ道と遼平が出した言葉に相関があったのは必然だったのかもしれない。

「……わかった」

 遼平の答えに対して、それ以上反論することなく小さく頷いた。

「さて、本題に移ろう。言葉の力には能力者自信の体に大きな負担がかかる。覚醒する前なら尚更そうで、覚醒後であっても使いすぎては危険だ。だから過度な力の使いすぎは、能力者の命に関わる」

 ほんの一瞬だけ薫の写真を見た。そして机に置いてあった紙にグラフ軸を書く。

「例えばグラフで表すと、言葉の力は使われると正の傾きとなって増加する。一方、能力者の体力は負の傾きとなって、減少する。これが交差した後の右側部分で、命の危険性がでてくるわけだ。そして俺はこの交点に注目した」

 何十枚かに束ねられている報告書を取りだして、二人の前に投げ出した。

「これは歴代の言葉の力を持つものたちの覚醒時期と力が無くなった時期をまとめたものだ。力は十七歳の誕生日前から、二十歳の誕生日まで続いている。たいていはその間に亡くなってしまうか、どうにか二十歳まで乗り切るかどちらかだ。しかし、その中に興味深い内容があってね、二十歳を迎える前に、亡くなりもせず、力を失っている人がいるんだ」

 何も知らない遼平にとってはそこまでの内容だけでもだいぶ驚いた顔をしている。おそらく一気に理解するのは難しいだろう。だが、黒野が持っている膨大な資料がその話は限りなく真である推測だということを、静かに物語っていた。事前に話を聞かされていた響香は特に顔色も変えずに、話を聞き進める。

「幸いまだ生きている人で、その件に関して直接話を聞くことができた。話によれば、彼女は十八歳になったころに力を失ったらしい。その理由は定かではないが、直前にかなり大がかりな言葉の力を使った。死も覚悟して使い、しばらく意識も失ってしまったが、その後目覚めてからは、言葉の力は使えなくなっていたんだ」

 黒野が先ほど書いたグラフの交点にペンの先を当てた。

「つまり、この交点に上手く乗った時に、力と体力が相殺され、結果として言葉の力がなくなるという推測を導き出した」

「けどさ、それは一人の人間が偶然起こしたことだろう。言い切るには厳しいんじゃないか?」

 遼平が的確な質問をしてくる。多少難しい顔をしていたが、予想された質問であったためか、間を空けることなく黒野は答えた。

「資料だけだが、あと数人、そういう風にして力を無くしてしまった人はいる。それと以前、俺自身が言葉の力について調べていた時に、こういう話も聞いたんだ。『ある程度の力による体力の減少なら、再び体力は回復する。けれど、ある一定のラインを超えると回復などできず、そのまま体力が低下していくような状態に陥る』――その後、その人は意識不明の状態だ」

 聞いた瞬間、それが薫のことだとすぐにわかった。死の間際に自分のことを冷静に分析できるなど、本当にすごい人だと思う。

「――確固たるデータなんてない。それに危険な賭けであることはわかっている」

 声のトーンが少し下がった。もう少しきつい質問をしようと思った遼平は眉間にしわが寄っていたが、黒野の表情を見て思わず緩んだ。

「もしかしたら白の法団がもっと深いところまで調べていて、言葉の力を上手く使うことで、自然に無くなる方法を考えているかもしれない。もしかしたら黒の究団が響香自身をじっくり調べることで、力の根底が明らかになり、最終的には助かるかもしれない。――しかし」

 語尾が微かに震えている。滅多に見ない様子だったためか、視線を床にやっていた武中までもが思わず驚いた顔を向けていた。

 黒野の外見は落ち着いているように見えるが、その内から溢れる感情は響香たちの心に直接届いた。

「白の法団でも、黒の究団でも、どちらかに手を貸した人々の結末は見たものじゃない。だから今回も二つの団体に渡したくない。それはきっと皆、同じ考えだと思う。それなら三年間逃げ回ればいいという考えもある。だが、三年間も――青春の三年間を棒に振るということ、それがどれだけキツイことであるかは……わかるだろう」

 遼平に向って優しく語りかける。それを彼は歯を噛みしめながら聞いていた。

「遼平」

 隣から話しかけてくる響香に目をやった。

「私の気持ちはもう決まっているよ。賭けに出てみる」

「でも、もし失敗したら、どうするんだ! 響香の家族だって、そんなこと賛成しないだろう。もしものことがあったら、苦しむのは残っている俺たちだ!」

「わかっている。親より先にいなくなる子供がどれだけ親不幸なことだということも。けど、それは実際にやってみないとわからない。それに試すのは都会のど真ん中の予定。すぐに適切な処置をすれば助かるはずよ」

「そうだとしてしても……」

「知っている? 交通事故で死ぬ確率って、意外に高いんだよ。それはつまり、いつ、どこでも人は死ぬ可能性があるということ。明日生きている保証なんて、誰にもわからない」

 視線を合わせようとしない遼平に向って、はっきりと抱いている強い想いを伝える。

「この力を最大限に使って、それと私の想いを上手く乗せれば、必ず力は消えるはずよ。――そうしろって、私の意志が言っている」

 少し身を乗り出して、微笑んだ。

「それに私は今、歌いたいんだ。笑っちゃうでしょう。こんな状況になっても、歌いたいの。――青春に歌を捧げるって決めた。だから三年間を逃げるだけで終わらせたくない」

 躊躇うことなく正直な気持ちを伝えた。顔を上げた遼平は悔しそうな顔をしつつもゆっくりと頷いた。

「――そこまで言うのなら、力を失う過程として何をしたいのかは決めているんだろう」

「ええ、決めてある。ある人を救いたい」

「人を救うって……治療したり、そういうことまで言葉の力はできるのかよ」

「わからない。だからやってみる価値はある。助からないと思っていた人が、助かったとき、その人は家族を含めて、救われるはずよ」

 説得する言葉を出すのはとても難しいが、とにかく声に出すことは必要だ。しかしそれ以上に、想いを告げるには、それ相応の言い方も必要なのである。

「わかった」

 そう言われて、ほっとした。

「それなら俺もずっと響香の傍にいる」

「駄目よ」

「何でだ!」

 即座に返された声に対して、響香は冷静に返す。

「実行日は私の誕生日、都道府県大会当日よ? 二年生とはいえ、主要な人が二人もいなかったら、絶対に困る」

「そんなことどうだって――」

「私が自由に歌える状態になった時に、支部大会に残っていてくれたら、すごく嬉しい」

 自然と出た静かな笑顔で願望を伝えた。それを見た遼平は言葉を詰まらせる。さらにそんな遼平に対して、黒野はゆっくりと付け加えた。

「彼女にとって大切な部活動。その中に一人でも事情が分かっている人がいれば、何かあった時に、対処しやすいだろう」

「何か起こるんですか?」

「仮の話だ。今回は毒を入れることはハッタリだったが、次はわからない。あまり表だった行動はしないだろうが、手を付ける可能性はある。あっちにとっても誕生日が一つの転換点だ。こちらが行動していれば、自ずと動くだろう」

 黒野と響香に言いくるめられた遼平は、何も言い返すことはできなかった。

 その後、誕生日までの予定を話し合った。当たり前だが、これから一週間は基本的には身を潜める方針だ。響香も上手い嘘を作り上げて、家には帰らないつもりである。

 そして当日、言葉の力を限界まで使い、後は運に任せるのみとなる。詳細なことを話し合いつつも、一人だけ疎外されつつあった遼平の暗い表情を響香は見逃さなかった。

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