明日へ続くアナリーゼ(三)
* * *
話をしていた黒野はだいぶ無理をしていたらしい。昼過ぎに、響香は様子を見に行ったが、未だに眠り続けたままだった。心なしか昨日よりも表情が緩んでいる気がする。そんな彼の布団を掛け直した。視線を窓に向けると、太陽の光を燦々と浴びている湖が見える。そこに思わず惹かれて、この窓から見える範囲で行ってみることにした。
携帯電話と最近常に持ち歩いている防犯ベルをポケットに入れて、玄関を出た。冷房の効いた室内にいたが、外に出るとすぐにあまりの暑さに汗が流れ出てきてしまう。だが、木が日陰を作っているおかげで、アスファルトに囲まれた都会の暑さとはまた違ってくる。
湖までは本当にすぐ傍であり、歩いて三分もしないうちに、畔まで辿り着いた。そこまで大きくなく、この場から湖の逆側まで目を凝らせばどうにか見られる。湖全体は木々で囲まれており、葉に覆われていない隙間から、光が差し込んでいた。
空を見上げて、話の中にあった崖を探そうとしたが見当たらない。もしかしたら薫は全身全霊の力を使って、黒野の怪我を治し、着水時の圧力を抑えただけでなく、遠くに流れるよう風でも呼んだのかもしれない。そんなことを一瞬で考え付くとは、同じ年代から見れば、すごい、の一言しか出てこなかった。
しゃがみこみ、水に手を触れてみる。冷たいが、むしろこの気温では心地よいとまで感じられるほどだ。
――薫さんはどんな想いでこの湖に入っていたのかな。
助かると思ったのだろうか。しかし何度か力を使っていけばわかるはずだ。この力は能力者に大きく負担を掛ける。まだ響香は覚醒していないから使いこなせていないと言っていいかもしれないが、誕生日を迎えて劇的に変わるとは思いにくい。
――死ということを、覚悟していたのかもしれない。
今の響香にはそんな考えをしろと言われても無理だった。他の部員たちが危機に晒されるかもしれないと言われて、大人しく羽川の後に付いていったが、自分が死ぬかも知れないと言われて、逃げ出したのだ。
手を喉のあたりに触れた。想いを言葉に出すために必要な声帯がある。正直、この声帯に何か特別な力を持っているとは言い難い。響香自身でさえ、力がなかった時と得た時の違いがわからないのだから。それゆえ、羽川は力を持っている人を捕まえて、生物学的な観点から暴こうとしているのだろう。
――私、これからどうなるのかな。
より気持ちが下降気味になる。十七歳の誕生日を楽しみにしていたのに、その日は偶然にもコンクールの都道府県予選だと言うのに、もはや先のことなど何も考えられない。このまま白鳥や羽川たちの追手から毎日怯えながら、逃げなくてはいけないと思うと、憂鬱以外何もなかった。
「どうして、私なの……」
ずっと想っていたことを言葉に出してしまった。顔を両手で覆いながら、限界に達して溢れた出した涙を流し始める。静かな森の中で響香の泣き声だけが響き渡る。
何度思ったことだろう。どうして響香にこの力が与えられてしまったのか。
他の人だったら、今頃は部員たちとともに切磋琢磨に歌っているはずだった。そして次期部長として心の持ちようを上げていく日々だった。
それなのに、現実は残酷なもので――。
どれだけ流しても涙が止まることはない。
「もう駄目だ……。私はもう歌え――」
湖に何かが触れる音がして、言葉を飲み込んだ。顔を上げてみると、人が立っていた、湖の上を。
「え?」
驚きのあまり涙が止まってしまった。足元は霞がかかっていて見えない。少しずつその人を下から上へと見ていく。膝に付くくらいの長さの真っ白なロングスカート。肩は露わになっており、黒髪は肩の上くらい。首からは音符の形をしたネックレスをかけている。そしてにっこり笑っている、同年代くらいの見たことがある顔の少女だった。
「黒野薫さん?」
そう尋ねると、首を縦に振った。間違っていなく、胸を撫で下ろす。だが一方で、顔が引きつった。
「ゆ、幽霊ですか?」
「精神体って言った方が、しっくりくるかな」
普通の人のように返され、驚きすぎて叫びそうになったが、どうにか飲み込んだ。
「私、霊感とかないはずなんですけど……」
「ないけど、言葉の力はあるでしょう。呼んでくれたじゃない」
腰に手を当て、怒ったような口調で言われる。このはっきりと物事をいう雰囲気は絵里に似ていた。
「呼んだ覚えもないはずですが……」
「どうして自分が選ばれたかって、言っていたじゃない。それは私がそうしてもらうようにしたからよ」
「ど、どうして!」
反射的に上ずった声を出す。震えつつも、薫に射るような眼差しを向けてしまう。
「恨みたい気持ち、よくわかる。こんな私でよければ、憂さ当てくらいにして構わない」
「そんなことどうでもいいです! どうして私なんですか!」
困ったような顔をしながら、薫はなかなか口を開こうとしない。それに対してつい言葉を押し付ける。
「言えないのですか? こんな目にあった理由をどうして教えてくれないんですか!」
「……だって私の我がままだから、言ってもあなたの心の中は何も変わらない」
「そんなの聞いてみなければわかりません」
平行線を辿るように、お互いの言葉を言い放つ。だが折れたように、薫は息を吐いた。
「恨むのは私だけにして。――お兄ちゃんのためよ」
風が木々を揺らしながら吹いた。
「お兄ちゃん、私が植物状態になったのは自分のせいだと思っている。実際はそんなことないのに。だからどうすればその想いを薄ませられるかと考えたら、私のような人を自分の手で助け出すことだと思ったの。だから見つけやすいように比較的お兄ちゃんが住んでいる場所に近いところで、条件に合う人を探したら、あなただった。三年後に十七歳の誕生日を迎える、音楽関係に触れている人――」
何かを言ってやろうと思ったが、言葉が思いつかなかった。薫は目を伏せながらも続ける。
「予想通り、お兄ちゃんは次に力を持った人をどうにかしようと動いていた。そして三年が経って、白鳥の動きを見ていて不審に思ったみたい。そこであなたが現れて――今に至っているわけ」
「けど確かに何度も助けてもらい、どうにか難を逃れていますけれど、それは一時的なことで……」
「いいえ、時間の経過を待たずに言葉の力を断ち切る方法を、おそらく推測だけれども、お兄ちゃんは気付いている」
「嘘でしょう?」
この数分のやり取りで幾度となく驚いたが、今回の驚きは他と違っていた。疑うように探る一方で、信じたいという思いが出始めている。
「嘘かどうかは、本人に聞いた方が早い。そうでなければ、あなたのことを今すぐにでもどこか絶対に安全だと思う場所へ連れて行っている。けれどまだ離れていないのは、それなりの理由があると思うから」
「確証はあるんですか?」
「ないけど、兄妹よ? 考えていることはだいたいわかる。わかりにくそうで、実はわかりやすい人なのよ、黒野正は」
そう言われても出会って一か月も経っていない響香にとってはよくわからない。気が付けば薫がすぐ傍にまで寄ってきていた。
「最後にいいことを教えてあげる。あなたが持っている力は何?」
「言葉に出したことが実際に起きる……」
「その通り。それなら迂闊に弱気なことを言っては駄目。前向きになることを言った方が、結果としていいに決まっている」
ずっと硬かった薫の表情が緩んだ。すると少しずつ彼女の周りに霞がかかっていく。まるで現代と他の世界とを切り離す霞のようにも見える。
そして彼女の右手が響香の首付近に触れたような気がした。
「……お兄ちゃんをよろしく」
言い終わると突風が吹いた。
目を閉じなければならないほどの突風が響香を襲う。
木々は激しく揺れ、湖も音を立てて、波が起こる。
やがて風が治まり、目を開けると――薫の姿はどこにもいなかった。湖が小さな波を立てて揺れている。視線を落とすと、そこには先ほどまで彼女が掛けていたネックレスが波打ち際に流れ着いていた。
それを拾って、両手で握りしめる。そして、自分に言い聞かせるように言葉を出した。
「私はずっと歌い続ける。どんなことがあっても乗り越えてみせる」
* * *
家に戻り、黒野の部屋に行くと、起き上がって何やらメモを書いている。響香の存在に気づくと顔を上げた。
「さっき、すごい風が吹いたな。窓まで激しく叩くから、つい起きてしまった」
「確かにすごい風でしたね……」
薫が去り際に黒野へ挨拶をしていったのかもしれない。
彼女が言ったとおり、黒野はこれから響香に希望ある未来を開く考えを本当に持っているのだろうか。若干、緊張しつつ近づく。
「何か良いことでもあったのか?」
「どうしてですか?」
「目に力が入っている。さっきまでの表情は昔、絶望していた俺を見ているようで、辛かった……」
安堵の表情で言葉を漏らす。その言葉を聞いて、少しだけ恥ずかしくなった。自分のことだけしか考えていなく、周りのことを全然気にかけていなかった事実に気づいたのだ。
休んだためか、多少は血色が良くなった黒野にさっき拾ったネックレスを差し出す。それを見ると、目を丸くした。
「この音符のネックレスは……」
「湖に流れ着いていました」
手を伸ばされたので、黒野の手に乗せてあげた。鑑定しているかのように、じっくりと見る。そして裏返すと、口元が笑っていた。
「拾ってくれて、ありがとう。これは薫が飛び降りる直前までかけていたものだ」
「わかるんですか?」
「ああ。ここに掘ってあるだろう。薫が嬉しそうに掘ったんだ。これでこれは世界で一つだけのネックレスになる、って言いながら」
裏には拙いがはっきりと彫り込まれていた。
TからKへと。
つまり正から薫へと――。
そのネックレスを見ても、薫のさっきの言動を見ても、これだけは言えることがあった。
「薫さん、お兄さんが大好きなんですね……」
「年も離れていたからな。お互い、大事にしていた」
響香は椅子に腰を下ろし、大事そうにネックレスを握りしめる黒野を眺める。ほんの少しであるが、彼にも活力が戻ってきているようだ。逸る想いを抑えつつも、そっと過去の事件の知識を得るために、話を促す。
「黒野さん、もしよろしければ話の続きをお願いできますか?」
「ああ、大丈夫だよ。もう少し君には知っておくべきことはあるしね」
ネックレスを置き、少し考えてから、口を開いた。
「――言葉の力を持つ人物が現れたのは、魔女狩りが始まった中頃、十七世紀頃だ。ヨーロッパの田舎町で、その少女は暮らしていた。名前はセイレンと言い、歌うのが好きな普通の少女だった。十七歳で力は発生したが、しばらくは見つからずに穏やかな日々を過ごしていたそうだ。そんな彼女に二人の少年が恋をしていた。活発な少年と大人しい少年。それぞれ近づこうとするが、なかなか彼女に構ってはもらえなかった。やがて二十歳になる頃、彼女は狩りの対象となり、捕まってしまった。そしてその裁判をした裁判官は活発な少年の父親だった」
好きな人を裁かれて、どんどん見るに耐えない姿になっていく。彼女を好きであるといいながら、父親の命にそぐわないことはできない。ただたまに父親の用事で顔を一緒に見に行くことだけが、彼の唯一の楽しみであった。
「一方、大人しい少年も彼女が裁かれているのを遠目から見ていた。けれども、彼はやがて処刑される日が迫った頃に、勇気を振り絞って、彼女を脱獄させて、逃げたんだ」
その光景がぼんやりと思い浮かぶ。逃げるが、追っ手が途絶えることはない。行く宛などなくただ走り続ける。追いかけてくる大量の足音は増えていくばかり。
「明らかに人数差がありすぎて、完全に追い込まれるのは時間の問題だった。そして程無くして追い込まれたとき、彼女の力によって救われたんだ――彼だけは。その場で彼女は捕まり、すぐに処刑された。だがその表情はどこか満ち足りていたと言われている。その後、活発な少年は父親の後を追うように司法の道へと進み、大人しかった少年は事故で両親を亡くして身よりがなかったが、両親は秀でた科学者であり、その影響もあってか科学者の道へと進んだんだ」
法を司る者と、研究に費やす者。
それを聞いて、響香は目を見開いた。
「やがて言葉の力について、追求したいと思った彼らは、ある団体を創立した。〝白の法団〟と〝黒の究団〟と。時代の変化によって、かなり縮小はされたが、今もヨーロッパや日本を中心に細々と活動はしている。――それが今、君を取り合う団体の発足わけということだ」
「だから、始めから相入れない関係となっていたわけですね」
「今の時代ではそもそも君を求める理由が違うからな。交わることは絶対にないだろう。だが、そのアプローチの違いから、幸いにも言葉の力に関する資料はたくさん残っていた。その隙間を縫って、俺は一つの仮説を立てて、可能性を導き出すことができた」
黒野の目は力強く、その瞳が薫と似ていた。さすが兄妹と言ったところだろう。そんな彼の目を響香は見返した。
「――歴代の能力者を調べる中で、力が無くなる条件が推測できた。一つは二十歳の誕生日まで待つこと。これはセイレンが三年で亡くなったことに関係があるだろう。二つ目はその前に命を落とすこと、力の使い過ぎも含めて。死んだら力は無くなるのは当然だな。そして三つ目は――」
指が一本、一本立ち、三本目が立った。
その内容を聞いた瞬間、予想外の途方もないことに、思わず眉をしかめ、黒野の顔を見て、本当なのかと確かめてしまったほどだ。
あまりに確率が低すぎるし、推論と言っても、確証例がなさ過ぎる。そしてその上、一歩間違えれば危険なことではあった。
しかし、響香はその内容を聞いた瞬間から、それを実行しようと思っていた。三年間も白の法団と黒の究団から、逃げきるのは無理と言っていいだろう。そして捕まれば、一つ目の条件で力を失う前に、二つ目の条件――つまり命を落とすことによる消失が高い可能性があるからだ。
だから可能性が低くても、三つ目を選ぶ。
黒野の表情はまだ躊躇っているようであったが、薫の言葉とともに信じることができた。
きっと響香が救われれば、黒野の心の中も救われるはずである。そして、これからのためにまた新たな道が開けてくるはずであるから。
何かを言おうとしている黒野に対して、響香は笑顔で優しく言葉を出した。
「それをやりましょう。可能性はゼロではないです。信じてやれば、必ず成功します」
過去を分析した結果、明日が来るかは、今にかかっている――。
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