第四章 明日へ続くアナリーゼ
明日へ続くアナリーゼ(一)
車は数十分ほど走り続け、山の麓で木々に囲まれている小さな家の前へと到着した。通常使われている道からは外れているため、普通に歩いている人なら、まずわからない場所だろう。その家の裏手には一面に湖が広がっていた。
武中が黒野を支えながら、家の中へと連れて行く。寝室に行き、黒野をベッドの上に寝かせて、上着を脱がすと、ワイシャツの端が至る所に赤く染まっていた。無言のまま部屋の隅にあった小さなスーツケースを持ってくる。それを開くと医療器具が一通り入っていた。
「黒野さんも強運だな。あれだけの銃撃戦をやり合って、大方かすった程度で済んだんだから。ただ少し被弾範囲が広い。しばらくは安静にしていてくださいよ」
「そんなこと……お前に言われなくてもわかっている」
小さい声ではあったが、嫌みったらしく答えているところから、まだ状態はいいと言えるだろう。
その後、響香や遼平は武中に指示を受けながら、黒野の治療を手伝った。武中の言うとおり、そこまで酷い怪我ではなかったため、予想よりも早く終わった。
やがて黒野を寝かしつけてから、響香たちは一度リビングへと集まった。
「武中さん、慣れた手つきでしたね……」
「医学に関しては少しかじっているから、それなりにできる。黒野さんの方がもっと慣れているさ」
視線を上に向け、壁に立てかけられている時計を見た。
「もうこんな時間か。一度ホテルに戻るぞ、なあ遼平」
「……はい」
少し残念そうな顔で遼平は返事をする。響香は自分を指しながら、武中を見た。
「あの、私は?」
「嬢ちゃんは家庭の事情で先に帰ったことになっているらしい、羽川の手配で。それを利用させてもらって、しばらくはここにいるといい。合宿が終わった後のことはまた考えよう。――たぶん大丈夫だろうが、もし羽川たちが部員たちに何かしようとした場合を考えて俺たちは戻る」
「……すみません」
「いいってことだから。むしろ俺の方が謝らないといけない。まんまとあいつらの策略に踊らされたからな」
「策略?」
「嬢ちゃんが別荘に残っていることに気づかず、もう一人のお友達を乗せた車を追いかけてしまったことだ。尾行のために遠目からしか見ていなかったから、きちんと確認できていなかった。そのことに気づいて、慌てて戻ったときは、もぬけの殻だったよ」
「けどそれなら私だって、もっと注意していれば……」
相手が信用できるかわかっていないのに、迂闊に出かけてなどいけなかった。一人で行動してはいけなかったのだ。しかし武中は首を横に振った。
「それはしょうがないって。俺も羽川は見たことがあるが、久々に会ったら雰囲気ががらりと変わっていてすぐにあいつだと気付かなかった。見た目は本当にいいやつだ。中身も悪い奴ではない。ただ、自分の利益のためには手段を選ばないだけさ」
確かに響香と接している時は人が良さそうな青年ではあったが、目的のために響香を手にかけようとしたとき、それはつまり自分の欲望を果たそうとするときの、生き生きとした表情は忘れられない。思い出すだけでぞっとする。
「それなら私がここに残っているのは危険じゃないんですか? その、黒野さんだって怪我をされているわけですし……」
「確かに怪我はしているけど、何かあったときに対処くらいはできるはずだ。それにこの場所は非常に見つけにくい。疲弊している羽川や白鳥が探しに来るのは難しいだろうよ。それに――まだその時ではないらしいし」
「その時? またその言葉ですか?」
以前、黒野も〝その時〟と言っていた。非常に気になるところではある。
「まあ、俺は使い走りだからそれに関してははっきりと言えない。黒野さんが元気になったら話してくれるだろう。それじゃあ、しばらく黒野さんの看病よろしくな」
武中がぽんっと響香の肩を叩いた。遼平も名残惜しそうだが、武中に着いていく。
「……何か変なことがあったら、連絡する」
「ありがとう。遼平も気をつけてね」
そう言って、外に出ていく二人を見送り、厳重に鍵をかけた。リビングには遼平と武中によって事前に持ってこられた、着替えが入ったバックだけが残る。もう日も暮れかかってきたので、家の中にあるカーテンを閉めつつ、家の様子を確認した。リビングと寝室が二部屋あり、物は特に置いていない。別荘というには立地が悪いし、埃も溜まっていることから、空き家を黒野たちが利用していると考えられる。
最後に黒野が眠っている部屋のカーテンを閉じた。卓上にある電気スタンドは点いているので、部屋の中は真っ暗ではない。
よく眠っているようで、規則正しく、シーツが上下している。まだ黒野が起きる気配はなさそうだ。
しばらく様子を見守るため、近くの椅子に座り込む。その時、紙が潰れるような音がした。はっと思いだし、ポケットから一枚の写真を取り出す。今、目の前で眠っている人と同じ顔の青年、そしてその隣には彼と似た顔の少女が写っている写真を。
少女はいったいどうしているのだろうかと、思ってしまう。そして黒野もこんなに笑っていることなど、出会ってからあっただろうか。
この写真を撮った日から今までの間に何かがあったというのは、あの部屋の状況や黒野が発した言葉の欠片から、推測が付いていた。ただ勝手に想像を膨らませるのは本人たちに失礼だと思い、思い踏みとどまっている。
彼に聞きたいことはたくさんあったが、目覚めていない今、何もできない。
やがて急に全身に疲労が押し寄せてくる。あまりに力を使いすぎていたが、気を張っていたため、それがこの時まで表に出ることはなかったのだろう。
リビングにあるソファーで横になるために重い腰を上げて、部屋を後にした。
そしてソファーを見るや否や、横になってからはすぐに眠りについてしまった。
* * *
響香が目を覚ますと、だいぶ時計の針は進んでいた。短針が真下を向いていたはずなのに、今は真上を向いている。起きあがろうとすると、何かがずり落ちた。タオルケットだ。自分で被った覚えはない。つまり他の誰かがやってくれたということ。その事実に気づき、慌てて、黒野の部屋へと飛び込んだ。
そこには黒野が横になりながらも、愛おしそうに一枚の響香が持ってきた写真を見ていた。
「もう起きたのか。被せた意味がなかったな」
いつもよりテンポは悪いが、黒野の言い方である。
「むしろありがとうございます。すみません、気を使わせてしまい。あの……それ……」
気まずそうに黒野が持っているものを、ちらちら見る。寝ているときに手からこぼれ落ちたのか、黒野の部屋に置いてきたのかは忘れたが、どちらにしても響香が落ち着かない状況にあるのは変わりない。
「……これ、どうしたんだ?」
少し低めの声を出される。隠しても追求される雰囲気だ。仕方なく本当のことを話した。
「私が閉じこめられていた部屋に落ちていたものです。男性の方が黒野さんに似ていたので、つい拾ってしまい……」
「似ているんじゃなくて、俺だ。そうか、まだこんなものが残っていたとは」
目を細め、ただじっと少女のことを見つめている。これはしばらく一人にさせた方がいいようだ。過去を思い出している人に、知らない人が介入するべきではない。静かにベッドから離れた。
「黒野さん、私、これで今晩は失礼しますね。何かあったら言ってください」
「それはこっちの台詞だ。何かあったらすぐに叫べ。台所や風呂とか、適当に使っていいから」
「ありがとうございます。では、おやすみなさい」
笑顔でそう言い切り、素早く廊下に出る。ドアを閉めると、そこにもたれ掛かった。光を発している蛍光灯をぼんやり見ながら、肩をすくめる。
あの黒野の哀愁漂う表情は今まで見たことがない。常に率先して指示を出し、きりりとした表情で導いてくれている黒野。だが、あの時の彼にはただ妹の笑顔を懐かしむ、兄としての顔しかなかった。
* * *
翌朝は冷蔵庫に入っていたベーコンとチーズを乗せたパンを焼いて、食べていた。冷蔵庫内にある品の多さから、しばらく人が滞在していたことがわかる。昨晩の言いかたぶりから考えると、おそらく黒野がここにいたのだろう。
今日は合宿の四日目。いよいよまとめに入らなければならない時期に、響香は参加できずに、ここにいた。大勢の人数が入るのだから、一人欠けてもどうにか合唱自体は成り立つ。ただ今まで休むことなく、歌い続けてきた響香がいないことに対し、部員たちの中で多少の動揺が走るかもしれないが。
「私、これからどうなるんだろう……」
白の法団の白鳥にも、黒の究団の羽川にも置われる立場。どちらに捕まっても、今後は思うように歌うことはできなくなるだろう。だが逃げ続けるとしても、先が見えない。
そんな中でも、来週に迫った合唱コンクールのことを考えてしまうのは、いけないことなのだろうか。
もし、いつか捕まるのなら、最後に歌って終わりたい。あと一年も歌える保証がないのなら、今度のコンクールだけでも――。
ぼんやりと考えながら、バッグに詰め込んでいた楽譜を取り出した。そして一人で軽く口ずさみ始める。
微妙なクレッシェンドや息継ぎの入れ方など、修正点は多々あった。そして他のパートとも合わさるとなると、さらに問題点が浮き彫りになってくる。一人で歌っても最終的な合唱までいけないのが、辛いところだ。
そろそろ黒野も起きたかなと思い、ペットボトルの水を片手に部屋へと向かった。
中に入ると、予想通り目をうっすらと開けている。
「お水、飲みますか?」
「すまない」
コップに水を注ぎ、起きあがった黒野の手に渡した。それをゆっくりと飲み干していく。
「食事は……」
「机の引き出しの中に、ゼリー状の健康食品があるから、それを出しておいてくれればいい」
言われたとおりに、引き出しから¥健康食品を取り出し、蓋を開けて黒野に渡す。それをゆっくりと吸い始めた。
「よく飲んでいるのですか?」
「最近、忙しかったから。時間がないとつい頼ってしまう」
そういえば、黒野のことをしばらく全然見ていなかった。武中に護衛をしてもらっているとはいえ、その間にまったく会わなかったのも疑問が残る。
「何か聞きたそうな顔をしているな」
ぼんやりと考え込んでいたため、とっさに嘘の表情を作り出すことができず、眉をしかめている顔を黒野に向けてしまう。
「図星だな」
「……すみません」
「まあ聞きたいことはおおよそ予想が付く。いつかは言わなければならないことだろう。――時間が大丈夫なら話すが?」
「それより体調の方は大丈夫なのですか?」
お互いに疑問を言い合う。だがすぐに両方とも大丈夫だと認識した。
響香は近くにあった椅子を持ってきて、腰をかけた。
「疲れたら、中断していいか?」
「構いません。こちらこそ無理を言っているわけですから」
黒野は枕を背に当てて、半分壁に上半身を寄りかかりながら、ベッドの脇にあったあの写真を手に取った。
「どこから話したらいいか、わからないが、まずはこの写真の人物について知りたいだろう」
素直に首を縦に振った。
「この写真は三年前に撮ったもの。俺の隣に写っているのは、八歳離れた俺の妹だ」
「……妹?」
口調からして、いいことがあったとは考えにくい。
「そう、妹、薫はずっと病院で寝たきりで、目を覚ましていない。この写真を撮り、しばらくして迎えた十七歳の誕生日から――」
まだ心が癒えていない黒野は、悔しそうな顔をしながらぎゅっと写真を握りしめた。
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