暗闇へのフーガ(三)

 * * *



 ――大丈夫だよ、私のことなら。

 どこからか聞こえる、あどけない声。背伸びをしている少女の声だ。

 ――だって、お兄ちゃんの仕事場なんだから、安心できるよ。

 自信を持っていう口調は、兄に対して絶対的な信頼感があるようだ。

 ――もしこれで何か発見できれば、それこそ凄いことじゃない。最近までただの一般人だった私がよ? 表にはあまりでないかもしれないけど、歴史的発見になるわ。

 ようやく霞の中ではあるが、視界に少女の姿が現れる。顔はよく見えないが、紺色の制服を着ていた。そしてその脇には、スーツ姿の男が立っている。

 ――だからそんなに心配しないで。内容を見ている限り、そこまで凝った検査じゃないんだから。それが終わったら、ケーキ買ってね、誕生日ケーキ。ね、お兄ちゃん?

 スーツ姿の男――少女の兄は軽く頭を振った。

 ――わかった。一緒に十七歳の誕生日を祝おう。だから無理はしないでくれよ。

 ――うん、ありがとう。

 兄の声が一瞬思考の片隅で引っかかった。

 誰だろうと考える前に、響香の視界は暗転した。



 * * *



 目を覚ますと、響香はベッドに横たわっていた。体を動かそうとするが、若干のだるさが残っている。特に脳内が目覚めていないようだ。

 真っ白なシーツ、真っ白な布団、そしてものが見あたらない部屋――。

 その異質さに気づき、慌てて起きあがった。部屋全体を見渡し、目を丸くする。

 本当に何もなかった。ベッドが部屋の真ん中にある以外は、何もなかった。窓すらない。出入り口は真正面にあるドアだけ。

 前に黒野に保護されて、寝させられた部屋とは全く違ったのだ。生活感が一切ない。

 気味が悪くなった。なぜ、あの部屋で意識がなくなったのかという原因すらわからない。

 混乱する脳内だったが、冷静になっている部分から警鐘の声がかかる。

 ――ここにいてはいけない。

 ベッドから飛び降り、ドアに駆け寄る。そしてノブに触れて、動かすと回った。心の中でガッツポーズをし、ドアを引く。

 逃げられる――本能的にそう思ったが、開いた先には人が立ち塞がっていたのだ。

 嘘偽りのないような、優しい顔だった青年。だが今は含みのある笑顔の青年――羽川が立っていた。

「どこに行くのですか、倉田さん?」

 一歩、部屋に入っていく。それにつられて、響香も後退りする。

「部屋で意識を失っていたので、病院に連れてきたのですが……」

「嘘よ!」

 反射的に声が出ていた。羽川は怪訝な顔をする。この人もこんな表情ができるのだと響香は思った。

「何が嘘なんですか?」

「ここは病院じゃない。それに意識を失ったのだって、あなたが仕組んだことなんでしょう!」

 歯を食い縛りながら、黒野の言葉が思い出される――。

 ――いつか無理矢理にも君を連れ去る人がいるかもしれない。そういうことがないように、こちらも気を付けるけど、君も十分用心してくれ。

 羽川はずっと響香を連れ去る計画をしており、一人になったのを見張らかって睡眠薬をアイスティーに入れたのだ。

 もしかしたら、すべて仕組まれていたことなのかもしれない。護衛が希薄になりがちな、合宿という大勢の人がいる場。そこで合唱団に所属していると言えば部としては受け入れる算段が高い。その上で、今日、響香は絵里と一緒ではあったが、二人の性格を利用して、別々の行動を取るようにし向けたのだろう。

 もし本当だとしたら――この人は、なんて響香の周りを調べ尽くしているのだろうかと思い、ぞっとする。

 相手がどういう人であれ、逃げるべきだ。怯えているように見せかけて、羽川がドアから離れるよう、後ろに下がる。

 だが、ある程度ドアから離れたところで、羽川は動かなくなった。

「まったく、まだ薬の効果があるはずなのに、こうも脳内を回転されては、こちらとしても分が悪すぎる。――言葉の力を、自分自身に使ったのかい?」

 警戒信号が最高点に達した。

 力について、知らないことが多すぎ、リスクも高すぎるが、今こそ使わない手はない。

「――地に伏せ――」

「黙れ!」

 急に大声を出されて、次の反応が遅れた。

 羽川は一瞬で響香に駆け寄ってくる。

 逃げようと背を向けて走るが、すぐに追いつかれた。

 頭を捕まえられて、ベッドの上に倒れ込まされる。そして大きな手が口を覆った。

「んー! んー!」

 必死に叫ぶが、言葉にならない。

 逃れようとばたつくが、馬乗りにされて動くこともままならなかった。

 そんな様子を羽川は涼しい顔で眺めている。そして薄らと背筋が凍るような笑みを浮かべた。

「これで君はもう何もすることはできない。言葉を出したものが現実になるとは言っても、出さなければ怖くない。そして君は所詮ただの女子高校生――力で男に敵うと思っているか?」

 逃げられない――そうはわかっていても、気丈に振る舞おうとしている自分がいた。

 これからどのようなことが起こるかわからないが、諦めたら後はない。目に力は入れたまま、必死に考えを巡らせる。そんな響香の様子を見て、羽川は若干肩をすくめた。

「まだ、どうすればこの現状を打破できるかと考えているようだね。諦めという言葉はないの? 君にはもう選択肢はないっていうのに」

 羽川はポケットから小型のテレビを取り出した。そこに映っていたのは――残って練習をしている生徒たちがいるホールと現部長がミーティング前に先生と話し合っている部屋だった。見る見るうちに顔色が変わっていってしまう。

「いい部員をお持ちのようだね、次期部長さん。もしこのホテルの食事に妙なものが混ぜられたら、どうなるだろう。そしたら次の日の新聞に載るかもしれないね。これで一躍時の人さ」

 冷酷な目で見降ろしてくる。それに対しての答え方は、抵抗するのをやめるだけ。悔しさが心の中で煮えたぎっているのとはとは裏腹に、体は脱力しきってしまった。

 もはや選択肢はなかった――。



 猿ぐつわを咬ませられながら、響香は羽川の後ろに付いて廊下を歩いていく。

 真っ白な壁の廊下は、電灯を間隔を狭くして設置してあるため、全体的に眩しく感じた。そして白のみという異質な空間は、部屋にいたときと同様に調子が狂いそうである。

 言葉に出せば、それが実際に起こるという能力――それを回避するためには、言っている途中で遮るか、始めから言わせない状態にすればいい。だから今、響香は言葉を発せられない状況にされている。

 この強制的なやり方、白の法団の人だろうか――。男にしては少し長めの髪を縛っている羽川の背をじっと見た。

「そんなにじっと見ないでくれ。殺気で行動がバレバレだよ」

 優しい人だと思っていた頃の声色を出され、一瞬気が緩みそうになったが、すぐに自分を律した。

「君は幸運な人だよ。存在するだけで、価値を見いだされる。何も努力しなくても――。まあ、最終的には僕の力量次第だが」

 何かを含んだ言い方がどことなく引っかかる。この特別な能力が他に使える人がいなければ、確かに存在価値はあるかもしれない。しかし、羽川の力量次第というのは、どういう意味だろうか。

 廊下を歩き、階段を下って、ひたすら進んでいく。途中ですれ違う人々は羽川を見ると、丁寧に挨拶をし、それを彼は軽く受け流す。そこから彼はこの組織では立場が上なのだろうと予想が付く。私服、スーツ、白衣など様々な格好をしている人が通り過ぎていく。割合的には白衣の人が多いようだ。

 やがて人気がなくなってきたところで、羽川は立ち止まった。視線の先には比較的大きな左右に分かれている扉。その右側だけ押して、中に入った。

 部屋の中は暗く、足下だけを僅かに照らしている光を頼りに歩いていく。進んでいくうちに、何も見えないことへの恐怖もあるだろうが、異常に胸騒ぎがしてきた。

 このまま先には進んではいけない――と。

 しかしここで羽川に対して背を向ければ、部員たちの命の保証がない。

 やがて立ち止まると、羽川は振り返った。

「さて、時間もあまりないし始めるとしようか」

 一斉に明かりが点いた。瞬間、目が眩んでしまったが、光に慣れてきた時にまず視界に入ったのは一つのベッドだった。

 それは寝室にあるようなベッドではなく――病院にあるような可動式のベッド。その周りには見慣れない医療機器。

 そして左右に広がる奥には、様々な大きさのホルマリン漬けが棚に入れられていた。そこから、ここがどんな場所であるか勘付いてしまう。

 これから何が起こるのまでも悟ってしまい、信じられないような表情で羽川を見た。

「そんなに怖い顔をしないでくれ。君は貴重な研究材料。大丈夫、成功すればせいぜい声が出なくなるだけだ」

 抑えていた理性が吹っ飛んだ。

 部員のこと、今後のことなどを考えるよりも、走り始めていた。

 だがすぐに目の前に現れた白衣の男に手を捕まれ、羽交い締めにされてしまう。羽川ですら動けなかったのに、この男性はさらにその上の力を持っている。

 羽川はしゃがみ込み、響香の猿ぐつわを外した。

「いきなり、何よ……」

 武器となる言葉を今、なぜ解放したのかはわからない。

「怖い顔をするんだね。呼吸が辛そうだったから、外してあげたのに」

「あなた、いったい何者なの?」

 ずっとそれだけ聞きたかった。それ以外は興味などない。

「そうか、ちゃんと自己紹介をしていなかったね。僕は黒の究団の羽川圭。言葉の魔女と呼ばれた子孫に関する研究の最先端を行っている者だよ」

 今の内容が瞬時に理解できなかった。黒の究団は、響香を白の法団の追っ手から助けてくれた、黒野が所属しているところ。

 彼は言っていた、極力普段通りに生活できるよう手配すると。それが急展開して、研究対象になるなど聞いていない。

「白の法団ではないんですか?」

「白の?」

 羽川の顔が険しくなる。

「あんな下世話なことしができない集団と一緒にしないでほしい。あいつらは言葉の能力については知っているが、その理由も突き詰めようともせず、ただその場で使いたいだけの、自己中心的な集団さ。僕たちは今後のために役立てたいと考えている、高尚な集団だ」

 人を殺すかもと言いながら、自らのことを高尚と言っている姿に唖然とし過ぎて、返す言葉が見つからない。自由になった口で外の新鮮な空気を吸いながら、羽川を睨み付けた。

「そんな怖い顔をしないでほしい。君は――」

「私から離れて、何もしないで!」

 そう言い放つと、勢いに押されてか、言葉によるものかはわからないが、羽川は数歩下がった。

「放しなさいよ!」

 羽交い締めにしている男に対して言うと、手が緩んだ。その隙に自らの体をねじり出す。その光景を見ていた羽川の眉間にしわが寄っている。

「君は部員のことを考えていないのかい?」

「考えているわよ!」

 挑発に乗ってはいけない。夕食まではまだ時間があるはずだ。その前に戻れば、事情を話して、何とかできるだろう。

「――こんな空間なくなってしまえ!」

 一斉にヒビが入る音がする。次の瞬間、激しい音を立てて、ガラス類は砕け散った。器具類は変な方向にひしゃげながら床に落ちる。置かれていたパソコンのディスプレイも粉々に割れた。

 今、使った言葉の力によってか、呼吸が苦しくなってきていたが、気力を振り絞れば走れる。羽川が目を見開いたまま、一瞬で惨劇の状態になってしまった部屋を見渡している隙に、ドアへと向かって走り始めた。追いつかれても、言葉でねじ伏せられる自信はある。

 だが突然電気が消えた。驚きつつも、感覚だけを頼りに前へと進む。暗闇にも慣れ、もう少しで出口と言うところ絵、何の前触れもなく電気は点いた。

 これには眩んでしまい、たまらず足を止める。必死になって進むが、後ろから殺気がした。

「もう――お遊びは終わりだ」

 振り返る前に、後ろから口を手で覆われる。もう片方の手で、しっかり体を押さえつけられてしまった。疑問が激しく渦巻く。予定としては、もう羽川は響香を触れたり、邪魔はできないはずなのに――。

「君ね、力がいつでも万能なわけではない。能力者が心を乱せば、力はなくなるものだよ」

 電気の切り替えという、間接的な方法によって響香の心は動揺してしまったのだ。

「もういいだろう。君の今の行為のおかげで生々しくも素晴らしいデータが取れたよ。さて、部屋を移動しようか。本当の実験室はここではないからね」

 次々と明らかにされる事実に驚きを隠せず、見る見るうちに顔色が青くなっていく。響香の能力を試すために、すべて仕組まれていたなんて――。

 呆然としている響香を羽川は軽々と持ち上げる。そしてさっきまで羽交い締めをしていた男が、抱えて歩いてくる彼に対してドアを開けた。

 ――もう無理なのかな。

 研究材料――良くて声を失うなど、どれだけ恐ろしいことをするのだろうか。その先にあるかもしれない、最悪の場合など考えたくない。

 それに声を失ったら、もう歌えない。それは歌うことが好きな響香にとって、どれだけ辛いことか。

 羽川が進むに連れて、響香は絶望に打ちひしがれていく。ふと脳裏をよぎったのは、今朝喧嘩した少年だった。

 ――謝るくらい、声に出して伝えておけばよかった。

 まもなくして実験室の部屋に辿り着いたのか、あるドアの前で立ち止まった。仕えていた男がドアに手を触れる。

 だが、突如、廊下内をけたたましいサイレンの音が鳴り響いた。頭をつんざくような音に、ぎょっとしてしまう。

「おい、どうした!」

 羽川がドアに背を向けて、大声で怒鳴った。彼にとっても予想外のことなのか。

 一人の女性研究員が血相を変えて慌てて走ってくる。

「大変です、羽川様!」

「そんなことはわかっている。原因を言え!」

 おろおろしながらも、女性は声を振り絞って言った。

「――白の法団が侵入してきたんです!」

「何?」

「入り口の警備員は何人か殺されました。抵抗しなければ、何もしないとは言っています。ただし――」

 女性の視線が響香に向く。その意図を汲み取った羽川がにやっとする。

「そうか、この子を引き渡せと言うのだな。声をなくしてしまった言葉の能力者など使いものにならないからな。しばらくは様子見だったが、今回ばかりは強行突破をしたというわけか」

 そして静かに低く重い声を出す。

「――わかった。白鳥、わざわざ本拠地に果敢に乗り込んでくるのなら、覚悟もあるのだろう。丁重に出迎えてやろう」

 もはや殺気で声など出せる状態ではなかった。

 ――私はどうなるの!

 心の中の叫びは誰かに届くのだろうか――。

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