暗闇へのフーガ(二)

 朝の一件後、響香と遼平は距離を置くようになっていた。

 黒野と出会うまでは、響香は自身の周りで起こっていることに対して頭がいっぱいであったため、周りの気配を感じようとしなかった。だが、注意深く観察してみると、前より視線が集まっている気がする。それは興味といった、ただの好奇心によって――。

 そして今日の視線はいつもより、奇異な視線が多い気がする。普通に振る舞っているが、変なところでボロが出てしまったのだろうか。

 休憩時間にぼんやりと椅子にもたれ掛かっていると、絵里が誰かの様子を見つつ近寄ってきた。

「なんだか、疲れきっているように見えるけど……」

「そろそろ後半戦だからかもね」

 本当は朝の疲労がだいぶ残っている。歌うだけでも体力は使うのに、さらに余計なところで使ってしまったせいだ。

「そう……」

 すると急に耳の近くに顔を持ってきて、小声で喋ってきた。

「平石と何かあったの?」

「え?」

「え? じゃないわよ。明らかにおかしいでしょう、朝から」

 肩をすくめながら、絵里は溜息を吐く。

「周りの様子もおかしいって気づいていないの?」

「うん……、なんとなく」

「なんて鈍感な。朝、二人で言い合っているところを見たって言う人がいるんだけど、覚えはないの?」

 それを聞いて、眉をひそめる。かなり朝は早かったはずだし、部員たちが泊まっている部屋とは真逆の方向で、しかも目立たないところで響香は試していた。

 だから誰かが見ているなどあり得ないはずだ。そういえば、一瞬だけ誰かの視線を感じた。その人物だろうか。早起き過ぎる部員がいるものだと思った。

「響香、やっぱり思い当たる節でもあるの?」

「別にないって。何かの見間違えじゃない? 確かに早く起きて散歩はしていたけど、誰にも会っていないって。噂より、私の言葉を信じてくれないの?」

 なんて卑怯な言い方だろうか。そんなことを言ったら、友達はみんな、頷くに決まっている。思わず考えもなしに言ってしまったことに、すぐに後ろめたさが心の中に現れた。絵里に申し訳なさそうな表情をされた。

「うん……、ごめんね、変なことを聞いて」

「いいよ、気にしてないから」

 なるべく笑みを浮かべながら、気遣わせないようにした。絵里の表情は依然として曇ってはいるが、既に仕方ないかもしれない。

 微妙な雰囲気の中で、彼女は急に話題を変えて、今度は嬉しそうに話し始めた。

「そういえば、たまたまホテルに泊まっている人にプロの合唱団に所属している人がいるんだって。しかもすごくカッコいいらしいんだ!」

「よくもそんな情報を入手したね」

 爛漫と顔を輝かせている絵里に対して、若干引き気味に答える。

「私が情報源じゃないわ。ソプラノパートの先輩が、今朝たまたま話しかけられたのよ。『君たち、合唱部なのかい?』って。あまりに素敵ボイスすぎて、一瞬で噂が広まっているわけ」

「プロって相当の腕前よね。そんな人が話しかけてくるなんて、幸運なこと。それで名前くらいわかるの?」

「うん、名刺をもらったらしくて、確か、は――」

 絵里の続きの言葉が、黄色い声援によってかき消された。入り口付近にいた女子たちが誰かを囲んで騒いでいるのだ。

 その方向を見ると、絵里が頬を赤くしながら、指を伸ばした。

「あの人よ。羽川圭。嘘、こんなところまで足を運んでくださるなんて! 私も混ぜて!」

 響香を放り投げて、絵里も一目散に羽川の元へと駆け寄る。あっと言う間に彼を囲む輪は二、三重になった。カッコいい人見たさの女子や、ただの興味でじろじろ見ている男子などで構成されている。その様子を残った人々で唖然として眺めていた。

 羽川は絵里が騒ぐように、男に疎い響香でもカッコいいと思える人だ。身長は軽く百八十は越しているだろう。ささやかに茶色に染めた少し長い髪をゴムで留めている。顔は凛々しい部類に入り、笑顔がとても素敵であった。白いワイシャツを着こなした、素敵な大人の好青年と言ったところだろうか。

 ふと白鳥のことを思い出したが、彼は裏を隠しすぎて、好青年とは言い難い。

 笑顔を振りまいている羽川が、響香がいる側に向かってニコリと微笑んだ。その素敵な笑顔を見て、一瞬だけ鼓動が速くなる。しかしその行為は思い過ごしであったかのように、すぐに羽川の視線は群がっている人々へと向けられた。

 ――いい人なのかな。

 最近、出会った男性で、こんなにも第一印象がよかった人はいない。ささやかながら、幸せな気分であった。


 合宿中は自分の歌声の質を高めるだけではなく、現部長の補佐も度々していた。始めは次期部長という重圧に、上手く行動できない時もあったが、三日目ともなると、段々と周りが見えるようになってきた。

 パートリーダーや先生とのやりとり、後輩の指導など、上手く時間を作らなければ、自分の歌が疎かになりそうだ。時折、現部長は気を使ってくれて、アドバイスもくれたりした。

「私の行動をよく見て、部長としての行動をまねするのもいいけど、二年生が一番伸び伸びと練習できる時期。そっちの方も悔いのないようにね」

 その言葉を有り難く受け取ることにし、歌の練習の時は精一杯頑張った。ひたすらに歌い続けることで、遼平や言葉の力に対しての雑念も減る。何かに集中することが今の響香には必要だった。

 三日目の午後は自由時間だ。その前に少しでも無心に練習して、短時間でより向上する必要がある。

「いい歌声をしているね」

 パートに分かれて、練習をしているときに、急に羽川が近寄ってきた。彼はあの後、暇を見て生徒たちの歌の指導をしている。男女、学年関係なく、頑張っている人たちを見ると、つい教えたくなってしまうそうだ。

「ありがとうございます。でも私より上手い人はたくさんいますから」

「そんなに謙遜しなくてもいいよ。君と他の人では、徹底的な違いがある。それが歌にも表れているよ」

「違いですか?」

「そう、違い。きっとささやかだから、たいていの人はわからない」

 首を傾げる響香に対して、羽川は笑顔で流す。

「そうだ、午後、少し付き合ってくれないかい?」

「私ですか?」

 思わぬ申し出にきょとんとする。

「そう、君に。そんなに時間はとらせないから。参考になるかはわからないけど、今までの合唱コンクールで金賞をとった高校が歌っていた自由曲の楽譜を何冊か持っているから、次期部長である君に渡しておこうかと思ったんだ。今後の練習曲にでも使えるかもしれないし」

 いったい誰が響香は次期部長ということを話したのだろうか。お喋り好きな人がたくさんいるものだ。楽譜を入手すること自体は難しいことではないが、羽川からの好意である。拒否する理由はない。笑顔でにっこり微笑んだ。

「是非、よろこんで」

 そんな様子を、遼平は遠目からじっと見ていた。



 午後は自由時間といっても、ただ単に規定練習がないだけだ。ホテルがある山の麓まで降りて、買い物をする人、疲れて寝ている人、自主練習をしている人などでだいたいが分かれている。他方、幹部の大部分で夕方にはミーティングを開く予定であった。

 響香は羽川の車に乗り込んで、彼の別荘に移動している。特に心配されることでもないが、事前に武中にも言ってあるため、とりあえず安泰ではあった。気がつけば、絵里も付いてきており、車中はその二人で適当に話が弾んでいる。

 ホテルから車で三十分ほど離れたところに別荘はあるらしい。後部座席でぼんやり外の風景を見つつ、ほっと一息を吐いていた。

「羽川さんは、いつからお歌われになっているのですか?」

「中学からだよ。高校ですごく厳しい先生に指導を受けたことで、思いもかけないくらい成長していって。まあ僕はプロと言っても、兼業だから、そこまでの実力じゃない」

「何と兼業されているのですか?」

「本職は研究者だよ」

「まあ素敵! きっと素晴らしい研究者なのでしょうね」

「それはどうだろう。僕の研究は少し特別な個体を扱っているから、その個体がないと研究はできない。だから今は比較的暇なんだ」

 羽川が理系の研究者という事実に少し意外な気がした。人は見た目や第一印象とではだいぶ違うようだ。

 絵里と羽川の談笑が続く中、車は山の麓に降りて、森の中を走り続けていた。やがて道に少し入ったところで、一件の別荘が見えてくる。そしてその前にゆっくり停車した。

「散らかっているけど、よかったら上がって」

「ありがとうございます!」

 絵里の弾む声と共に二人は車から降りた。二階建てのベージュ色を基調とした新しい別荘。ガラスの窓にカーテンが内側からかけられていた。

 響香はちらっと後ろを振り返る。武中がここからだと見えないぎりぎりのラインで、車を停車しているのが見られた。

 羽川に促されて中に入ると、彼が言うほど散らかっていなかった。居間の机の上にプリントなどが出ている以外、むしろ何もない。

 簡単に片づけられた居間のソファーに座るよう進められ、紅茶を持ってくると言い、羽川は居間から出ていった。あまり見るところがない部屋をとりあえず見渡す。

「なんだか本当に素敵。シンプルっていうのも、またいいわよね」

「そうなの、絵里? 私にはよくわからないな……」

 綺麗すぎて、生活感があまりにもなさすぎる気がする。積み上げられている楽譜を見ながら、ここの家主である羽川がいる台所の方にも視線をやっていた。

「当たり前だけれども、第九もあるわ。合唱と言ったら、これよね!」

「そうだね……」

 適当に相槌を打っていると、絵里が響香の顔を覗き込んできた。

「どうしたの? いつもよりノリが悪いけど……」

「ご、ごめん。ちょっと他の楽譜にも思考が行っていたから、つい」

「そう、ならいんだけど」

 今回は上手く返せたのか、少しほっとしたような顔をされた。まだ朝のことを気にしているのだろうか。響香としては、誤魔化せたと思っていたが、絵里はなかなかしつこいようだ。

 氷がグラスに当たる音が聞こえる。羽川がアイスティーとクッキーを何種類か、お盆に乗せて持ってきた。

「ごめんね、あまりいいものがなくて」

「いえ、こちらこそすみません。余計な気遣いをさせてしまって」

 年上のカッコいい人と同学年の男子との会話で絵里が使う言葉使いが違いすぎる。思わず心の中で響香は苦笑してしまった。羽川は響香たちの右脇でお盆を持って、机の上に積み上げられた楽譜を示した。

「ここに積み重なっているのが、有名どころの曲。合唱コンクール関係などは上にあるから、少し待っていてね」

 そう告げられると、きびすを返して、二階へと上がっていった。

 絵里が机に乗っている楽譜を見ながら、見終わったのを別の場所へ積み上げていく。その途中で、一枚のチラシが目に入った。どうやらそこら辺にあった紙類も一緒に積んでしまったのだろう。それを横目で流していると、絵里は歓声を上げた。

「わあ、お土産屋さん通りですって! かなりのお店がありそうだわ。ホテルから一時間かからないとはいえ、知らなかった。これは是非とも行きたいわ」

「そんなところが……」

 あまりお金も持ってきていないし、買い物まではあまり乗り気がしないため、目を逸らし気味に返す。それに絵里には関係はないが、響香を始めとする現幹部と次期幹部で、夕方から合同ミーティングが開かれる。遠出などしたら、戻って来られない時間だ。

「もう、またノリが悪い返事ね」

「だから違うって。夕方に用事があるから、そんな遠くまで行けないの」

 ひたすらそのようなやりとりを繰り返していると、やがて床が軋む音がし、羽川が降りてくる。そして響香たちの前に十冊ほど楽譜を抱え込んで現れた。

「お待たせ。合唱曲以外にも、すぐに練習用として歌える物もあるから、よかったら、どうぞ」

「ありがとうございます!」

 これには響香も絵里と同時にお礼を言った。そしてにやにやしながら、お互いで顔を見合う。

「そうそう、ちょっとこれはあげられないけど、僕の合唱団のCD、聴いて行くかい? ……あ、それはお土産通りだね。いいところだよ、特に女の子たちは気に入る場所だ」

 チラシに目をやりつつも、にっこりと微笑んだ。お土産通りの話よりも、歌の方が響香は気になった。歌を聴くだけなら、時間に融通が利くし、ミーティングにも間に合うだろう。

「もしここに行きたかったら、送っていくけど? そこからホテルの近くまでバスも出ているから、帰れるだろうし……」

「是非、行きたいです! お願いします!」

 絵里が元気に返事をする。羽川の視線が響香に向く。多少躊躇いつつも、自分の意見をはっきり言った。

「いえ、私はそれより歌の方が聴きたいです。ご迷惑ですか?」

「構わないよ」

「すみません、ありがとうございます」

 嫌な顔一つせず、快く快諾してくれた。

「では、楽譜は倉田さんに頼んで、まずは宮永さんを送っていこう。倉田さん、あそこにあるオーディオプレイヤーを使って、その隣に積んであるCDを適当に聴いていて構わないから。――ああ、飲み物が少なくなっているね、足しておくよ」

「いえ、別に……」

 断ろうとしたが、その前に羽川は行動していた。そしてよく冷えた紅茶のポットを持ってきて、響香のグラスに注いだ。ポットの中身はちょうど空になった。

 早々に支度を終えた絵里が立ち上がり、今か今かと待っている。買い物に関しては、いつもせっかちな部分がある彼女だ。

 羽川は車の準備をすると言って先に出ていく。その背中を追いつつも、絵里は響香をちらりと見た。

「それじゃあ、また後で」

「うん、楽しんで行ってきてね」

 軽く手を振って、絵里を見送った。

 そして、響香は羽川に言われたCDを見て、早速聴こうと思ったが、その前にわざわざ入れてくれたアイスティーを飲むことにした。

 暑さが続く中での冷たい飲み物は何よりも美味しい。体全体が潤うようであった。

 グラスを机に置き、オーディオプレイヤーに近づく。

 不意に足下がふらついた。まさか朝の疲労がここにでてしまったのか。膝を付き、必死に自信を押さえようとした。

 だが、朝起きた状況とは体の様子が違っている気がする。朝は全身に疲労が覆い被さってきたが、今は体の力が抜ける感じなのだ。

 数分も経っていないのに、体はもう脱力しきっていた。

 やがて為す術もなく、響香の意識は遠のいた――。

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