第三章 暗闇へのフーガ

暗闇へのフーガ(一)

 黒野の指示通り、翌日から武中が響香を護衛というほどではないが、少し間を置いて監視をし始めていた。朝昼晩と遠目ではあるが、確かに誰かが付いてきているような気配はある。

 少し窮屈ではあったが、歌っているときはそんなことまったく気にならなかった。全身を使って言葉を歌に乗せる。

 とにかく、歌えるときに歌っておかなければ、いつか後悔するような気がした。白の法団に捕まろうが、黒の究団に保護されようが、どちらにしても伸び伸びと歌える空間ではない。

 そんな風に歌っている響香を見た遼平は顔を歪めつつも、心の中に想っているものを振り払うかのように、彼もまた歌っていた。



 * * *



 黒野たちと出会ってから合宿まで二週間近くあったが、その間、白の法団の動きはなかった。一方で、武中から随時そちらの状況を聞いていると、どうやら黒野が忙しく動いているらしい。

「ちょっと厄介なことになる前に、先手を打っているみたいだ。上手く行くかはわからないが……。とりあえず嬢ちゃんは自棄を起こすなよ」

「どうして自棄を起こすんですか。そんなことしませんから、心配しないでください」

 気丈な言葉を出して、その場をやり過ごした。

 そしてあっという間に二週間は過ぎ、いよいよ合宿の初日を迎える

 四十人近くもいる大所帯のため、移動は大型の貸し切りバスだ。

 バスに乗り込み、響香は絵里の隣に座ると、現部長から簡単な合宿の説明があった。だが揺れるバス、後ろまで声が届かないことなどから、聞こえていない人もいるようだ。ただの触り程度の内容だということで、すぐに話は終わり、続きは合宿所のホテルに到着してからと言うことになった。

「ねえ、響香」

「何?」

 窓際に肘を付いて、ぼんやりと移りゆく風景を見ていた響香は慌てて振り返った。

「何って、最近、様子がおかしいよ? 何かあった?」

「そう? ちょっと部活を頑張りすぎて、疲れているだけじゃないかな」

 曖昧な笑みを浮かべながら返す。だが絵里は鋭い視線で貫く。

「部活を頑張っているのはわかる。だけどその歌い方が気になるのよ。まるで自分は後がないのだから、とにかく今、頑張ろうって感じで」

 鼓動が一度だけ激しく波打った。

「何を焦っているの? 私たち、まだ二年だよ? ラストじゃないんだよ? 無理に歌ったら、喉を潰してしまう……」

「ごめん、心配かけて。……ほら、私、部長に任命されたんだから、少しでもよりいい歌声を出したいんだ。それが空回りしているみたい」

 そう言いながら、あどけない顔をした。

「ならいいんだけど……。もし何かに悩んでいているのなら、いつでも相談に乗るから。別に私じゃなくてもいい、遼平でもいいから。あまり無理しないでね」

 その言葉に思わず目頭が熱くなる。何も事情は知らないが、心配してくれているという事実が嬉しかった。

「大丈夫、何でもないから。さあ、合宿を頑張って乗り切って、一気にコンクールに突入しよう」

 無事にコンクール当日を迎えられることを願いながら。



 昼前にホテルに到着し、パートごとに部屋は分かれて、荷物を置いた。昼食後は、付属施設のホールに集まって、簡単な合宿の内容を説明してから、練習をし始める。

 ホテルは山の上にあり、アスファルトで覆われている市街地とは違い、自然によって適度な温度や湿度に保たれていた。ほんのり涼しいくらいの気温で、少し冷房を入れれば、歌うのによりいい環境となる。

 発声とパート練習をこなし、休憩に入ると、響香や遼平たちなど一部部員が食堂で用意している飲み物を運ぶことになった。ホールからホテルに戻る途中で、見覚えのある顔が目に入る。視線が合うと、軽く手を振られた。武中だ。

 半袖にラフな恰好で、避暑地に来た客を装っているのだろう。遼平以外の人が先に行ったのを確認して、響香は武中に近づいた。

「すみません、わざわざこんなところまで……」

「構わないって。どうせ経費で落とせるから、むしろラッキーだ」

「お一人ですか?」

「今はね。黒野さんがこの近くで用事があるって言っていて、それも待っている。数日すれば戻ってくるさ」

「そうですか。教えてくださり、ありがとうございます」

「いちいちそう改めなくっていいって。――よく嬢ちゃんの歌声が聴こえるよ。上手いな」

 意外な人物からの感想に慌てふためく。武中など、芸術分野には疎いと思っていたからだ。

「いえ、私よりも上手い人なんてたくさんいますよ。誰かと聴き間違えたのではないのですか?」

「いや、嬢ちゃんだよ。力強い想いは、自然と声に出てくるものなんだぜ? 聴いているだけで、胸に突き刺さってくる感じだな」

「何だか嬉しいです。貴重な意見をありがとうございます」

「いいってことよ。まあ頑張って歌うのもいいが、ほどほどにな」

 絵里と同じようなことを言われながら、武中は離れて行った。そして入り口の近くでその様子を眺めていた遼平と合流して、食堂へと向かう。

「武中さん、俺たちの近くの部屋で寝泊まりしているらしい。本当に徹底しているな」

「そうね。なんだか申し訳なくなってしまう。けど、だからこそ、より頑張らなくてはと思えるわけだけど」

 目を伏せつつもはっきりと言い切った。

 嘘でも言葉として声に出せば、それは本音であると言えるかもしれない。言霊という熟語をそのまま訳すように、言葉には精霊でも宿っているのかもしれないのだから。



 パート練習後は先生の指揮に合わせてひたすらみんなで合唱練習。ミスが減るまで、何度も同じところを繰り返す。陽が沈むころには、ほとんどの人が疲れた表情をし、その日の全体練習は終わりとなった。

その後は、夕食を済まし、次の日のためのミーティングをして、あとは部屋ごとの行動となる。次の日も朝から早いため、夜更かしなどしてはいられない。早々に風呂や支度を済ませたら、寝るべきである。

 だが大勢の友人が同じ部屋に集まる合宿では、それがなかなかできないものだ。響香が所属しているアルトパートでも同様のことが起こっていた。

 パートごとに分かれたためか、始めは歌うのにまだ自信がない一年生が上の学年に歌い方の質問などをしている。しかし、それがひと段落すると、それぞれ思い思いにお喋りをし始めた。三年生のパートリーダーが溜息を吐きつつ、寝なさいと促したが、布団に入っても話は続いていた。

「ねえ、響香」

 隣で布団を被っている同学年の友達がニヤニヤしながら話しかけてくる。

 今日も何か起こらないかと周り気を配っていた響香は、精神的にも体力的にも疲れたため、横になるとすぐに眠気が襲ってきた。そのため、睡眠を妨げる彼女に対して、若干嫌そうな声を出しながら、視線を合わせず返す。

「何? この合宿、結構ハードだから、早く寝たいんだけど……」

「それじゃあ、探りはなしで聞くよ。響香って、平石君と付き合っているの?」

 周りのお喋りが小さくなった。どうやら他の人も気になる話題らしい。

 誰かと同じ、あまりのストレートな聞き方に、一瞬思考が停止した。そして絵里が言っていた、「その内、部に広まる」という意味を痛感したのだ。視線を変えぬまま、平坦な調子で返す。

「付き合っていない」

 それは事実である。特に響香と遼平の関係に、同じ中学で、親しい男友達以上のものはない。響香自身の秘密を共有してしまったという点では、別の意味で特別な人間であるが。

「嘘言わないの。最近平石君と一緒に帰ることが多いでしょう。みんな知っているんだから」

 それはさらに面倒な事態である。

「用事があって、たまたま一緒に帰っているだけ」

 あまりムキになって反論してしまうと、かえって追求されやすくなってしまう。ここは流した方が無難だ。

 探りに対してボロを見せない響香に、彼女はつまらなそうな顔をして、寝返りを打った。

「そうなんだ。なら平石君にアタックかけてもいいよね。友達にいるんだ、狙っている子」

 じらしから避けるかのように、目を閉じた。

「彼、まあ顔は普通だけど、優しいからね。気になる人も多いわけよ」

 そんなことを言われても、響香はどうにかする立場ではない。何も反応がないのに気に入らなかった隣の少女は、それっきり何も話さなくなってしまった。

 どこからかパートリーダーの声が聞こえてくる。電気を消すということだ。

 それぞれが返事をすると、明るかった部屋が一瞬で暗くなってしまった。

 徐々に聞こえてくる寝息。

 だが響香はまだ寝ていなかった。鼓動が速く動いている。その原因は薄々気付いてはいたが、それを考えようとするのを拒否している自分がいた――。



 * * *



 一日目も無事に乗り切り、二日目も特に白の法団からの動きはなかった。武中は相変わらず遠目から響香を監視しているだけで、特別な動きはない。彼の視線に関しては徐々に慣れていたため、いつも通りの日を過ごしていた。

 三日目の朝、少し早起きして響香はホテルの庭に出ていた。

 森全体がホテルを覆われている中、葉の隙間から光が漏れており、穏やかな雰囲気を漂わせている。まだ優しい日の光が、響香を照らし出した。

 合宿の内容は思うように進まないところがあった。課題曲は歌いやすい分、より完成度を高くしなければならないが、どうにか形にはなっている。だが自由曲は挑戦の意味も込めて、難易度が高いものを選んだため、未だに上手くまとまらない。それぞれのパートの強弱、流れるような歌い方ができていなかった。あと一週間と少しで本番。果たして間に合うのかが疑問だった。

 しかし響香にとってはそれ以上に問題となっていることがある。

 このまま無事にコンクールに出られるのかということ。そしてこれから、自分はどのような立場になってしまうということだ。

 もしかしたら今回のコンクールで最後になるかもしれないと思うと、喉を潰していいとさえとにかく思って歌い続けていた。

 一方、黒野に力は使わないように指摘はされていたが、力の加減がわからないのではいざとなった時に使えないため、ほんの些細なことだが想いを込めて声に出していた。

 物を動かすという基本的なこと、それは簡単にできた。独りでに動くか、誰かがそれに気付いて持ってくるなど、何らかの行為を通じて、動かすことはできた。

 冷たいものが飲みたいときや、ご飯は何がいいかなど言葉に出せば、不思議とそうなっていた。それはただの偶然かもしれない。だが偶然にしては続きすぎている。

 そっと喉に手を当てた。仄かに以前より熱を帯びている気がする。そして全身を巡る血も、活性しているように感じた。響香の中に、魔女と呼ばれた人の血が混じり合い、それが表面に出てきているような感じである。

 まだ太陽が昇ってから間もない時間帯。本当に自分が特別な力を持っているのかを確認するために、やってみたいことがあった。

 黒野の言葉を簡単にまとめてしまえば、響香が持っている力は魔法みたいなもの。それならば、よくゲームであるような四大元素を操ることだって、造作はないはずだ。

 少し肩幅くらいに足を広げた。肩の力を抜いて、そっと握った両手を胸の前に持ってくる。一番集中しやすい立ち方――歌うときの立ち方を、自分なりにアレンジした。

 軽く目を閉じ、周りの雰囲気に対して感覚を研ぎすます。

 穏やかな空気の中に、少女の周りだけ張りつめた空気になる。

 風が吹いていない、無風の状態――。

「――風よ――、木々を大きくざわめかせよ」

 言葉を紡ぎ終わると同時に、音を立てて、木々が激しくざわめき始めた。緑溢れる木が、必死になって葉を離すまいと必死になる。響香の髪も風によって乱れ、立つのも困難な突風が吹き荒れた。

 その出来事は数分もかかっていない。何もせず心の奥底でただ願っているだけだが、徐々に鼓動が速くなる。やがてはっとして目を見開くと、一瞬で風は止んだ。

 不意に目眩が起こり、座り込む。目を開けたときから、呼吸が激しくなっていた。そして全身から汗が噴き出す。

「な、何? いったい……」

 ただ言葉を想いに乗せて、声に出しただけなのに、この全身への影響は――。

 そして今起こった現象は偶然なのか、それとも響香の力によるものなのか、もう一度、もっと現実的にあり得ないことを試してみなければわらかない。

 おぼつかない足で立ち上がろうとしたが、いっそう激しい目眩が響香を襲う。為す術もなく、倒れそうになった。

 だが、急に現れた力強い腕で支えられた。その人の顔を見ると、思わずバツが悪そうな顔をして視線をそらす。

「何やっているんだ」

 明らかに怒っている声色。今の現場を見られていいのは彼だけ、しかし見てほしくなかったのも彼であった。

 立っているのも辛い状態であったのに気づいたのか、彼はゆっくりと響香を引きずり、近くにあったベンチに腰をかけさせる。

「武中さんもまだ起きていない時間だ。無闇に一人で出歩くなと言われているのに、……しかも、いったい何をやっていたんだ、響香!」

 支えていた手が強く握りしめられ、響香の腕に痛みが走る。それを力任せに押し退けた。

「遼平には関係ないでしょう!」

 悲痛な声で言い、目の前の少年の顔を見ると、傷つけられたような顔をしていた。それを見て、泣きそうになった想いを踏みとどまる。

「関係ないって、俺は……!」

「だって、関係ないでしょう。これは私自身のこと。遼平はただの一般人なんだから!」

「一般人でも、俺はお前が――」

 誰かの気配がし、それを察した遼平は口を噤んだ。

 むすっとした表情で立ち上がり、響香に背を向ける。そしてぼそっと呟いた。

「――慣れないことをすると体力に負担がかかるのは当然だ。ゲームだって魔法は無限大じゃない、術者によって限りがあるのを覚えておけ」

 それだけ言うと、振り返りもせず歩いて行ってしまった。ぶっきらぼうな言い方だが、そこには遼平の想いが詰まっていた。優しさを突っぱねてしまったことを途端に後悔する。彼を追いかけたい衝動に駆り立てられたが、先ほど言ってしまったことが、思わぬ枷となってしまい、何もできなかった。

 だから聞こえないとわかっていても、言葉をこぼしていた。

「ごめん……、ありがとう」

 遼平と入れ替わりに武中が響香に駆け寄ってきた。ひどく焦ったような顔をしている。

「倉田君、今、突風がして、目を覚ましたんだが……」

「そうみたいですね。すみません、私も驚いて、つい外に出てしまいました」

 にっこりと微笑みながら、嘘を連ねる。納得のいかないような顔をしていたが、笑顔の響香に対して、武中は渋々頷くしかなかった。

 ある程度、鼓動が落ち着いたところで、ゆっくりとした足取りで歩き始める。

 ふと、誰かの視線が響香に向けられているような気がした。振り返ったが、それと同時に気配はなくなる。疑問に思いつつも、ホテルの中へと入っていった。

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