第三章 夢見る力のない者は、生きる力もない

「ここ、どう考えても降りるのは無理よね……」


 一昨日転がり落ちた崖を見下ろして、ユニはため息をついた。

 徒歩では絶対に降りられそうにない断崖絶壁。数メートルはあるこの高さから転がり落ちて、よく無傷でいられたものだ。そう思いながら、ユニはどこかから下に行けないか辺りを見回した。


「あそこに携帯電話があったんだから、どこかからあそこに行ける道はあると思うのよね。うーん、この持ち主は川からあそこにたどり着いたのかなあ……」


 ユニは携帯電話をおぼつかない手つきで操作し、なんとか操作できないか試行錯誤を繰り返した。

 昼にルークに聞いたり図書室で得た知識によると、携帯電話には電話番号やメールアドレスというものが登録されているものらしい。


「つまり、その電話番号やメールアドレスという固有のコードを使って連絡が取れるような仕組みになっているんだ。そもそも電話って言うのは声を電気に変えて電線に送ることによって」


 得意げに話すルークの言葉は後半はよくわからなかったが、ユニに大きな希望を与えた。


(つまり、その電話番号を見つければ、電話の持ち主の知り合いと話が出来る!)


 張り切っていくつかボタンを触ってみたが、まったく携帯電話は動かず、持ち主の手がかりは全く得られなかった。

 ボタンを押したり携帯電話を振ってみたり試行錯誤を繰り返したあげく、ユニが得た結論はといえば。


「落とした場所に行けば、もしかしたら本人が探しに来るかもしれないわよね」


 そこにメッセージを残しておけば持ち主と接触できるのではないか。

 そこから友達になれるかもしれない、という希望観測を出して、ユニはさっそくそれを行動に移すことにした。



「なあユニ、今日俺んちに遊びに来ない? バイクが直ったからさ、また出かけようと思うんだけど」


 終礼が終わるなりニコニコと話しかけてきたルークを

「今日、体調が悪いからごめん!」


 と、駆け足で振り切り、ユニは一路崖を目指した。

 残されたルーク、ウィル、高弥の三人が背後で


「……体調が悪い?」


 とつぶやくのが聞こえたが、それはあえて黙殺する。

 この崖まで、徒歩では結構時間がかかったが、それも友達になれるかもしれない出会いを得るためと思えば、ささやかな試練にすぎない。

 後は、あの崖下まで降りられればいいのだが――。


「駄目だ、これでは無理だわ。見通しが甘かった。ロープを引っかけられるようなところもないし」


 ロープを固定して下に降りるか、崖の岩肌から垂れ下がる蔦や木の根を利用して下ることが出来ないか、なんて考えてみたが、マリアや高弥のように異常に運動神経のいい人間ならいざ知らず、学舎の中でぶっちぎりに運動神経のわるい自分では、転がり落ちて怪我をするのがオチ、打ち所が悪ければ命の危険もある。そう現実的に判断して、ユニは次の手段を考えようとした。


(大丈夫、きっと手はあるはずよ)


 それに、こういうことを考えるのは、きっと将来の夢に役立つはずだ。

 ポジティブ思考に自分を持って行きながら、ユニは再び崖下を覗き込もうとした。足場が悪いので、気をつけなくてはいけない。


(崖下に落ちでもしたらシャレにならないし)


 気をつけながら下の様子を調べようとしたその時、急に携帯電話が振動をはじめた。

 緊張に尖っていた気持ちが、予期せぬ出来事に予想以上の衝撃を受ける。

 すくんだ足が、小石につまずいて滑るのを、ユニはスローモーションのように体験する。


「えっ?」


 体が宙に投げ出される。


(……私、死ぬの?)


 悲鳴を上げることも出来ないほどの一瞬の出来事だった。



「ん?」

「――?」


 ルークとウィルは、何かを感じたような気がして、辺りを見回した。


((気のせいか))


 同時にそう思い、二人ともにさらに足を速める。理由は、早く家につきたいからだ。変える方向が途中まで同じなため、不本意ながら一緒に帰っているという状況だ。


 長年一緒にいる割には、二人の仲はあまりよくない。はっきりと犬猿と言い切れる、そんな間柄だ。


 その理由として、ルークがいい加減すぎる、ウィルが口うるさすぎる、ルークが突拍子もない事をやり出す、ウィルが感じが悪い、などお互いに活発な意見交換がなされたが、決定的な理由は気が合わない癖に、ある一点では気が合ってしまう事が原因であろうと周りからは見なされている。


二人は先ほどから黙々と歩いているが、その沈黙に耐えきれなくなったルークが、口を開いた。


「なあ、ユニ、体調悪いって言ってたけど、ダッシュで帰ったよな。何なんだろ」


「知らん」


 とりつく島もないとはこの事だ。しかし、ルークはめげなかった。そういう対応になれているというのもある。


「ユニ、最近なんか変わったよな。何て言うか、ちょっと素っ気なくなったような」


「お前が嫌になったんだろう」


 ウィルの返答は氷のように冷ややかだ。くだらん事を聞くな。表情がそう語っている。折れそうになる心を励ましつつ、ルークは会話を続ける。


「いや、俺だけじゃなくて、みんなと遊ぶ時とか! お前は感じないのか?」


「気のせいだろ」


「えっ!? まさか俺だけ!? いやそんなはずはないそんなはずはない落ち着け俺」


 ぶつぶつと呟きだしたルークを一瞥すると、ウィルはため息をついた。

 そんな事、気づかないはずもない。

 今更気づいたことの方が驚きなのだ。


(俺は、ずっと見てきたからな)


 おそらく、ルークが意識を向けるずっとずっと前から。


「お前――前から聞こうと思ってたんだけど……ユニのことどう思ってるんだ」


 言いづらそうに切り出されたその質問に、きょとんとした顔でルークは首をかしげた。


「……え? どうって――マイペース? たまに妙に行動的だったりするよな。後は、マリアの影響だと思うけど、肉や甘いものばっかり食べずに、もっと野菜を食べた方が」


「いやもういい。そんな事が聞きたかったんじゃない」


 げんなりしたようにため息をついて、ウィルは話を打ち切ろうとした。

 お前に聞いたのが馬鹿だった。

 ウィルの表情は雄弁にそう語る。


「何だよ、どう思ってるのか聞いてきたのはお前だろ」


 今の答えのどこが悪かったのか理解できず、カチンときたルークはかみつくように反論した。返事は無表情に返ってくる。


「それは俺が求めていた答えじゃない」

「じゃあ何が聞きたかったんだよ」


 納得できないように、ルークは言いつのる。


 せっかく真面目に答えたというのに、何が駄目だったというのだ。


「俺が聞きたかったのは――お前のユニに対する……気持ちだ」


 わずかにためらった後、ウィルはそれを言い切った。


「は?」


 ルークは何を言い出したのかというように、きょとんとした顔を見せた。


「気持ちって……そりゃあ好きに決まってんだろ。ずっと一緒にいるし、友達だし」


 あっさりと返すルークの口調には何の含みもない。

 こいつに聞いた俺が本当に馬鹿だった、とウィルは頭を抱えかけて、さらに歩く速度を速めた。阿呆なお子様には付き合っていられない。


「何だよおい、自己完結しやがって! 結局何がいいたいんだお前?」


 まだ理解できない様子で、ルークの声と足音が追いかけてきた。

 追いつくなり、ルークははずんだ息を整えながら、ウィルの目線にあわせてわずかに屈み込む様子を見せた。


 昔は自分の方が背が高かったのに、最近ルークは急に背が伸び出して、自分を追い越してしまった。その事に改めて気づかされて、ウィルは苛立ちながら言葉を投げつける。


「ユニが恋愛対象かどうかって事だ。この年なら、普通そういう考えになるだろう」

「普通? そうなの? マジで? って、じゃあお前はどうなの?」


 純粋に驚いたような態度がますます神経を逆なでして、ウィルは横に並んだ級友を殴りたくなった。


(こいつはいつもこうだ)


 自分の興味のあることしか、気がまわらない。

 でも、とウィルは考え直した。

 その方が、都合が良い。こいつがいつまでも、このままでいてくれた方が。


「――さあな」

「さあなって何だよ」


 そのルークの言葉は黙殺して、ウィルは足を速めた。

 ルークは運動神経が良い部類だ。

 だが、ウィルはルークより細身でやや体格が劣るにも関わらず、ルークよりも身体能力はすぐれていた。

 ウィルが本気でルークを引き離そうとすれば、ルークには追いつくことが出来ない。


「あっ、おい待てよ! 話は終わってないだろ!」


 後ろからルークの声が追いすがってくるが、ウィルはもう振り向かなかった。


(――あいつは、知っているんだろうか?)


 昔、同居人で保護者でもあるエレンが言った言葉が、未だにウィルの耳から離れない。



「ユニの事を、お前は知っているか? あの娘はこの世界でたった一人の、人間の娘なんだよ」

「なんの冗談だよ。――ならエレンやマリアはなんだっていうんだ?」


 動揺を隠しながら、つとめて冷静にウィルはそう返した。

 自分は人間であるし、周りもそうであると単純に思ってきた。そうでない状況など考えたこともなかったウィルにとっては、それは悪い冗談にしか思えなかった。

 では、ユニ以外の人間は? 自分はどうなんだ?


「女にあれこれ聞くものではないよ」


 さらりと流されて、ウィルは仏頂面になる。級友の前では冷静さを装っていられるが、保護者代わりの彼女の前では感情が隠せない。


(ユニは人間で――じゃあ他は?)


 考えてみれば、エレンやマリアの身体能力は、高すぎるのではないだろうか。

 大きくなれば自然とそれくらいの力はつくと思っていた。

 だが、三階の高さから飛び降りても平気な顔をしていたり、一抱えもある丸太を片手で担ぎ上げたり、そのようなことは未だかつてウィルには出来ていない。


 むろんユニやルークもである。

 他の者も、ちょくちょく桁外れの力を見せることがあり、それに慣れてしまっていたが、改めて思い返してみれば自分と彼らでは、身体能力が違いすぎる。


(なぜ、その事について今まで何の疑問も持たなかったんだ?)


 昔からそれが自分にとって『当たり前』だったからだろうが、言われてみればおかしな話だ。

 それが人間じゃないということなのだろうか。

 ふと、ウィルは別の事実にも思い当たった。


(そういえば、エレンや他の島の人間は、成長してないんじゃないか?)


 人という者は、成長し老いるものだ。いかに人がいないこの島でも、ウィルは知識としてそれを知っている。

 ユニは幼い頃から見ている。

 このままいけば綺麗な娘になるだろう、と若干のひいき目もありつつもウィルは断じている。


 しかし、島の他の人間は?

 昔からまるで外見が変わっていないのではないだろうか。


(いつまでも若々しいとか、そういう話じゃない)


 十数年以上、若く、美しく、強く、賢く――全く何も変わらない。

 その事に気づいた時、ぞっと背筋に寒気が走るのを感じた。

 ウィルの感情を読み取ったのか、エレンは苦笑を見せた。


「宿題、ということにしておこう。私やマリアや、他の奴らの正体はな」


 それで自分の話はおしまいだ、というような空気を醸し出して、エレンは楽しそうにウィルを見つめる。そのまま、部屋は沈黙につつまれた。


「――私がこわいか?」


 難しい顔で黙りこくるウィルに、エレンはそう問うた。

 少しの間考え、ウィルは首を振った。この感情は、恐怖ではない。


「なら、どうした?」

「……不安、なんだと思う」

「何が?」


 エレンの声はあくまで優しい。彼女は、昔からそうだった。ぶっきらぼうでありながら、自分に愛情を注いでくれる。それをわかっているから、ウィルはエレンが人間ではないと聞いても、嫌悪は感じていない。

 ウィルが心配なのは、周りの事ではない。


「じゃあ、自分は何なんだろうって、思ったんだ」


 当たり前に人間だと思ってきた。今でも思っている。でも、もしかしたら――。

 その疑念が、頭の中で大きくなっていく。

 エレンはそれに答えず、微かに笑んで言葉を続けた。


「で、私の話はここからが本題だ。今まで言ったのは女に関してだが、男について言えばだな」


 エレンの目が細まった。唇が大きく弧を描いてゆくのを、ウィルは黙って見つめていた。


(なぜここで笑えるんだろう)


 化生の笑み。その表情をみれば、エレンはまさに人外の者だった。


「この世界にも、当然男の人間はいる。そして、その男も世界でたった一人なんだ」


 エレンの口の端で、犬歯がぬらりときらめいたような気がした。ウィルは声も出せない。

 たった、一人の男?

 ウィルはあえぐように口を動かした。だが、言葉は何も出てこない。

 それは、自分に決まっている。だって自分には、奇妙な力なんて何一つない。

 そのはずだ。


(なら、ルークが人間ではないのか?)


 普通に闊達で、普通に趣味に邁進し、科学を愛し、アクションやSFフィルムを愛好し、機械に情熱をかたむける少年。

 なんの変哲もないあいつが、人ではないということなのか。

 ――自分が人であるなら、その結論しかないはずだ。


(そうだ、そうに決まっている。そのはずだ。――そうだと、言ってほしい)


 何も言えずに立ちつくすウィルに、エレンは笑むような、それでいて憐れむような目を向けた。


「私の口からはこれ以上の事は言えない。後は、お前らで事実を確かめることだな。この地上に残された最後の――アダムとイヴを」



 アダムとイヴ。

 思い返す度、その言葉にウィルは押しつぶされそうになる。

 それは地上に生み出された、人間の始祖。

 結ばれるべき一対。


「自分は人間だ」


 そうウィルはつぶやいてみる。

 だが、もしそれが違ったら――?

 ユニの面影が脳裏をよぎった。


(俺は、彼女と結ばれることは、ないのだろうか)


 知らなければよかった、とウィルは歯を食いしばった。

 何もできずに、ユニがルーク――あるいは他の誰かと恋に落ちるのをただ見ているのは嫌だった。

 ――じゃあお前はどうなの?

 軽く問いかけられたルークの一言は、ウィルにとってはたやすく答えを返せないほどの重みを持っていた。


(俺のユニに対する気持ちなんて)


 誰のものにもなってほしくなくて、誰かを心にかけてほしくなくて、その目に誰かを映すことも、誰かに触れることも嫌だ。


 ――自分以外は。


 そんな感情をなんと表現したらいいのか。

 はっきりと言葉にしていいのかわからない。

 綺麗か汚いかで言えば、きっとこの感情は汚い。いびつで、後ろ暗く、意のままにならなくて、自分でも持て余すくらいだ。


(俺は、どうするべきなのだろうか)


 自分が、もし人ではなかったとしたら。

 この感情を、なかったことにするのか、それとも、それを認めて何者であっても、思いのままに突き進むべきなのか。


「――人間の男というのは、いったい誰なんだ?」


 エレンに幾度聞いても、答えは得られなかった。


「秘密だよ。秘密なんだよ。でもな、一つ良いことを言ってあげよう」


 そうして、彼女は慈愛に満ちた眼差しでウィルを見つめた。


「君やルークが何者であっても、彼女を手に入れるのは間違いじゃないと言うことさ。我々は何があっても受け入れるだろう。――ほら、安心しただろう?」


 安心は出来なかった。

 未だに、怖れと不安が澱のようにウィルの胸にわだかまっている。


「だからさ、私がいいたいのはね」


 エレンの言葉が今聞いたことのように、一言一句たがわず脳裏に蘇り、ウィルはめまいがしそうだった。


「種族がなんであれ、それが恋の邪魔になるべきではないからさ、もし彼女が誰を好きになったとしても、それは許されてしかるべきなんだよ。この世界には『アダム』だけではなく、何人かの『男』がいる。彼女はその中の誰と恋におちてもおかしくないのさ。だからね、頑張れよ、若造」



「あ、痛たた……」


 少し気を失っていたようだ。ユニは、顔に落ちた小石で目をさまし、ゆっくりと上体

を起こした。腰が痛むが、打ち身以上の傷は受けていないようで、ほっと息をつく。

 目を上げると崖の中程に半ば折れて垂れ下がった木の枝が見えた。切り口はまだ新しい。


 きっとあれがクッションになって、落下の勢いが弱められたのだろう。

 体をぎこちなく動かしながらダメージがそれほどない事を確認して、ユニは辺りを見回した。


 この前三人で落ちたところは、もう少し先のようだ。見覚えのある木と川の様子を見て、ユニはあたりをつける。


 ゆっくり立ち上がると、途端足首に痛みが走った。

 思わず尻もちをつくように地面に倒れ込み、その拍子にポケットの携帯電話が飛び出してしまった。飛び出した勢いでカラカラとすべっていく携帯電話に手を伸ばそうとしたとき、電話が鳴った。


「音が……出た!?」


 今までは振動だけであったが、見たことのない携帯電話の動作にユニは目を丸くした後、慌てて携帯を拾おうとした。


「いったあ……!」


 右足を踏み出した拍子に足首に鈍い痛みが響く。顔をしかめながら、ユニは携帯を拾い上げた。携帯は、ユニを待つように鳴り続けている。


「これ、どうすれば……」


 画面には『ベル』と記されている。

 それは、何なのか。

 今まで携帯を触ったことがないユニには、何を表しているのかさっぱり見当もつかない。


 本体を見ると、ここを押せと言わんばかりに、一つのボタンがチカチカと点滅を繰り返していた。ままよ、とそれを押すと、微かに何かが聞こえてきた。


「えっと……あっ!! そうだ、確か映画ではこうやって……」


 映像で見たとおりに、携帯電話に耳をあててみる。


『――し? もしもし?』

「わっ!!」


 いきなり声が聞こえてきてユニは驚きのあまり携帯を取り落としてしまった。慌てて拾い上げ、おそるおそる耳に当てる。


『もしもし? 聞こえてる? 電波が遠いのかしら?』


 聞こえてくるのは、少女の声だった。柔らかく、甘い、耳にからみつくような声。


(人の声だ! 知らない人――やっぱり、私たちの他にも人間はいたんだ!!)


 年の近いだろうその声に、ユニは勢い込んで口を開いた。


「あっ、あの、聞こえてる!! 私、この携帯電話を拾って……」

『ああ、よかった』


 受話器の向こうの声は、明らかにほっとしたようだった。


「えと、これ、拾ったんだけど、返そうと思ってて、それで、ええと、できたら会って渡したいなって、」


 動揺のあまり、ユニはたどたどしく要件を伝えるので精一杯だった。

 この携帯電話を返したら、その時にこの少女と会える。そうしたら友達になれないだろうか。期待が先走って、頭の中がまとまらない。

 その時、クスリと微かに笑い声が耳に届いた。


(笑われてしまった……!)


 赤らむ頬を押さえ、しまった、とユニはうずくまる。

 もっと落ち着いてしゃべればよかった。ええと、どうしよう。

 初めてしゃべる同年代の少女に笑われてしまい、ユニは動揺と後悔で混乱してしまった。

 しゃべることをまとめようと思っても、それがうまく出来ない。


『もしもし? どうしたの? ……ええと、もし私が笑ったのが気に触ったならごめんなさい。あのね、とても可愛らしい人だなって思っただけなのよ』


 つづく沈黙を破って、少女はユニにそう謝罪をした。


(可愛らしい……)


 単純な質のユニは、それだけで動揺から立ち直り、


「いやいや、可愛いとか全然そんな事なくて! 普通、普通なの!」


 と真っ赤な顔で相手に見えないのにもかかわらず、腕を振る。


 自分の美醜について考えたことは今まで特になかったが、可愛いと言われるのは照れるものだ、とユニはそんな事を改めて思った。


(そんな事を言う人なんて、私の周りにいなかったものね。マリアくらいかなあ)


 同世代の女の事の会話に胸をときめかせながら携帯を握りしめていると、


「……本当に可愛いね」


 と落ち着いた声が電話口から響いてきた。


「――えっ!?」


 声が変わったことにユニは目を丸くする。今まで話していたのは、甘い少女の声だったが、今度は優しげな少年のような声だ。

 ささやくように言われたその言葉に、ユニの心臓が跳ねる。


『ああごめん。君の声を聞こえるような設定にしてあったから、つい、出てきてしまった。初めまして、携帯を拾った人。僕はルシ』


「は、初めまして。私はユニ」


 思いがけない展開に、ユニは動揺しながら挨拶を返した。


『話せて嬉しいよ』


 電話の向こうの声は、本当にそう思っているように笑み混じりの声である。


「あっ、私も。――街の人以外と話す事なんてないから、本当に、嬉しいの」


『まあ、本当に? じゃあ、私たちが街の外から来た最初のお友達になれるかしら。私はベルよ。よろしくね、ユニ』


「――! よろしく、ベル」


(やったあー!)


 最初の友達。

 その言葉が、ユニは踊り出したくなるくらい嬉しかった。


(あれ、そういえば、ベルってさっき……)


 それは、先ほど画面で見た名前だ。


(そっか、あれ、名前が出るんだ!)


 それがわかったことも嬉しい。返却するとはいえ、これはユニに初めての同性の友達をもたらしてくれた魔法の道具のようなものだ。


「ええとね、早速だけどこの携帯電話を返そうと思っているんだけど、近くに川の三角州がある崖の下、わかるかな? この携帯をそこで拾ったから、持ち主の手がかりをつかもうと思ってここに一人で来てて」


 その時に崖から落ちて足を痛めたみたいで、出来たら助けて欲しい。

 そう言おうとした矢先


『まあ』

『ああ』


 ほぼ同時に二人の声が響き、何かを考えるように沈黙が降りる。再び口を開いたのは、ルシだった。


『その携帯は、返すに及ばないよ。持っていてくれたら良い』

「――えっ!? いいの? でも、大事なものなんじゃ」


 驚きのあまり、思わず助けを求める事も頭からふっとんだ。

 昔は機械製品は世に溢れていたようだが、今の時代は、ささやかなおもちゃでも機械製品は貴重な品だ。まず、それを作れる資源がない。


 だから、大昔の骨董品をルークの母親のような機械に詳しい技術者が修理して、大切に使っているというのが現状だ。なにせ物がないので、手作業に変わった技術も多くある。洗濯や掃除は昔は機械で出来たと言うが、今は時間のかかる大仕事になっている。


 そんな現状で、この携帯電話は人においそれとあげられるような代物ではないはずだが――。


『それは、ぜひ君に持っていて欲しいんだ。もちろん大切なものには違いない。でも、ユニと友達になれたっていうことは、それ以上に僕たちにとって大事なんだ』

『ええ。それがあれば、いつでもユニとお話出来るでしょう?』


 ルシとベルの言葉は、甘く柔らかく、ユニの疑問や戸惑いをからめとる。


「なんでそんな、いきなり会っただけなのに、そこまで――」


 同年代の少女の友達が欲しいと思っていた。そうして出会ったベルと仲良くなれて、しかも新しい友達がもう一人増えた。

 そんな彼らが自分と友達になれたことを大事な事だと思ってくれる。それは、喜ぶべき事なのだが――


(でも、なんで?)


 なぜそこまで自分にしてくれるのか、そんな疑問がユニに湧き始めていた。


『ああ、そんな事を心配していたの? それはね、君は僕にとって――いや、僕たちにとって大切な人だからだよ』

「大切な人?」

『そうよ』


 ベルの声が重なる。


『なぜなら、僕は君と同じ人間だからさ。仲良くしよう――僕のイヴ』



「ちぇ、何だよ、みんなして」


 道すがら、灌木の枝をぽきぽきと折り取りながら、ルークはとぼとぼと家路をたどっている。

 つい最近まで屈託なく遊んでいたと思ったら、このところだんだんとユニとウィルの態度が変わりはじめていた。


 落ち着かないような、そっけないような、それでいて目を離せないような――。

 それを肌で感じているから、ルークはその事に対して、置いてきぼりにされたように戸惑うばかりだった。


 くわえてユニは、どこか遠くを見ているように、物思いにふけることが多くなった。


 周りの変化にルークは戸惑うばかりで、現状を受け入れきれない。

 ユニもウィルも、どうしてしまったんだろう。


(なのに、俺は変わらない)


 ――いや、変わりたくないのだ。

 変わってしまえば、何かを失ってしまうような気がして、ルークはそれが嫌だった。


「みんなは、そう思わないのかな。ずっとこのままでいたいって」


 この街で、皆と楽しく笑いあい、好きな機械をいじって、ユニやウィルと遊びに行って。

 この街の人はいい人ばかりだと思う。ずっと自分はその人達から、色々なものをもらって過ごしてきた。

 だから、今度は自分がその人達に恩を返す番だとルークは思っている。


(自分が得意なのは機械いじりだ。母さんからそれは教わっている。きっとそれが、みんなの役に立つときが来るだろう)


 今はまだまだ失敗ばかりだけれど、いつか母さんのような立派なエンジニアになって、皆の使う機械を修理したり、母さんがやるように大昔の技術を掘り起こしてもっともっと、皆の役に立てるようになりたい。

 ルークはそう思っている。


「でも、ユニやウィルは違うのかな。……違うんだろうな」


 同じ幼なじみでも、高弥は不思議なほどに変わらない。だが、彼はいつも一歩引いたところから自分達を見ている。そんな感じだ。

 なので、自然ルークとウィル、そしてユニの三人の絆が強くなっている。

 それを一生のものだと信じていたルークは、その読みの甘さに今更ながら途方に暮れている。


「……俺は、どうするべきなんだろう」


 鍵の一つは、ウィルの言葉にあるような気がしていた。


 ――お前はユニをどう思っている?

 ルークは、ユニとずっと一緒にいたかった。もちろん母親も、ウィルも、高弥も、マクシムやレヴィなど、街の皆ともだ。


「……でも、それだけじゃ駄目なのかな」


 きっとそれはウィルの求める答えではないように思う。


「あー、わっかんねーな」


 いきなり難しさを増した人間関係に、ルークは頭を抱えた。胸がもやもやする。

 どう言ったらいいのか、この気持ちは、言葉で表しようがない。


「くっそう、ウィルの野郎! 難しいこと言いやがって! ――ぶっへ!」


 いきなり目の前に現れた藪に顔をめり込ませ、木の枝が何本か顔に突き刺さる。痛みのあまり顔を押さえると、手のひらに何かがべっとりとはりついてきた。

 それは、かなりの大きさを持つ芋虫だった。


「――っ!! ギャー!!」


 ルークの苦手なもの、それは足のない虫である。


 全力で振り払い、ルークは顔や髪をはたきながら、藪のない方向へ足早に進んでいく。

 これはほとんど無意識のレベルであり、ゆえに自分がどこを進んでいるのか、ルークはそれを全く知覚できてはいなかった。


 少し開けた場所に出たルークは、ようやく周りの景色が見慣れたものではない事に気づいた。

 四方を深い森が囲んでいる。鬱蒼とした、という言葉がこれほど似合うところもないだろう。


「やっべ……。どこだよ、ここ」


 早く引き返そうと視線を返せば、いつの間に現われたのか、ルークはそこに見慣れぬ男が立っていることに気づいた。


「――んん?」


 ルークはこの街の人を全て知っている。なにせ、小さい街だ。そして、ルークが知る限り、この街に外から人が尋ねてきたことなど、皆無だったように思う。


「あんた誰?」


 思うままに発せられた直截な質問は、特徴のない穏やかな声によって返された。


「ああ――。驚かせてしまったかい? すまないね。なにせ、旅をしてきて人を見ることなんてそうそうなかったものでね。つい君の姿を見つけて、後をつけてきてしまった」


 そう言って、男はややかすれたような深い声で、重ねて謝罪をしながら頭を下げる。


 深々とかぶっている帽子のせいで、顔は鼻先と口元しか見えない。

 色のあせた緑の外套を羽織り、黒のゆったりしたズボンを焦茶の長靴に押し込んでいる。持ち物は、砂色の背嚢一つ。

 一見して、奇妙な男であった。


「旅人!? どこから来たの?」


 ルークにとっては、生まれ育った街の外から来た人間がいるなんていうことは、驚天動地の出来事であった。

 本の中でしか見たことがなかった、よその土地。


(この街以外に、本当に人が住んでいるところがあるんだ)


 現実味のない情報が形を持って現れたようで、好奇心に目を輝かせながらルークは旅人を見つめた。その視線に照れたように旅人はうつむく。


「……僕は、アーカンジェルっていうんだ。人を探して旅をしていたのさ」

「へえ、格好いい名前だな。俺はルーク! よろしくな」


 嬉しそうな声を受け止めて、アーカンジェルは笑った。


「ああ、こちらこそよろしく。ルーク、君はこの辺りに住んでいるのかい?」


 言いながら、アーカンジェルは疲れたように木によりかかって腰を下ろした。長旅で疲労がたまっているのだろう。そう思ったルークは、


「うちに、来ないか? お腹空いてるだろう? なんなら、泊まってくれても」

「ああ、ありがとう、でも大丈夫だ。僕は、ここで少しやることがあるから」


 木によりかかったまま、アーカンジェルは微笑みを浮かべる。

 ルークはアーカンジェルを伺った。元来お人好しなたちであり、この旅人ともっと話したかったということもあり、ここを立ち去りがたかったのだ。


 この場にユニやウィルがいないことがつくづく残念に思えた。

 この旅人に会ったなら、二人は何というだろう。会わせてやりたいと、ルークは思った。


「本当に大丈夫か? 何か頼みたいことがあったら遠慮なく何でも言ってくれよ」

「ありがとう。平気だよ。ではもし良かったらだけど、君はまた僕に会いに来てくれるかな? しばらくこの森のあたりに僕はいるつもりだから」


「――! もちろん! 友達も一緒に連れてきていいかい?」

「ああ、いいよ。一人で旅をしていると、人と話す事なんてないから、嬉しいよ」


 木にもたれたまま、アーカンジェルは本当に嬉しそうにルークを見上げている。

 顔の半分しか見えないが、笑みの絶えない口もとと、わずかに弾んだような口調がそれをうかがわせた。


「うん! じゃあ、今日は暗くなってきたし、母さんが心配するから俺、帰るよ! また友達連れてくる!」


 そう言うと、ルークは笑顔で手を振り、踵を返した。その後ろ姿を微動だにせず見つめながら、アーカンジェルはぽつりとつぶやく。


「神様……今日は素晴らしい出会いをありがとうございます」


 そうして祈るように手を組み、アーカンジェルは顔をふせた。祈り終わった後も、アーカンジェルの顔はうつむいたままだ。


「母さんか……。順調に復活が行われたのか? ――それとも」


 声はふつりと途切れ、アーカンジェルの体は力尽きたようにもたれかかっていた木の幹を滑り落ちて地面に横たわる。


「この体もそろそろ、限界だな。あいつらを見つけるまで、持てば良いが」


 仰向いたまま空を見上げると、木々の隙間から月が見えた。

 この月の下でまだ人が生きて生活している。そう思えただけで、泣きそうに感傷的な気持ちになれた。長い長い旅をしてきたことは無駄ではなかった。


「……綺麗だな」


 その誰にも届かないつぶやきは宙に溶けて、静かにアーカンジェルは目を閉じた。


 眠れなくて、ウィルはしんと静まりかえった夜の中、そっと外に出た。

 エレンとウィル、二人で住むには広すぎるこの館は、普段あまり足を踏み入れないところも多い。


(エレンは帰ってきただろうか)


 エレンは昨夜も学生会の集まりとやらで帰りが遅かった。

 このところとみに帰宅が遅くなっているのが、ウィルはずっと気にかかっていたが、理由を聞いてもはぐらかして答えてはくれなかった。

 それが子供扱いされているようで腹が立つと同時に、自分が蚊帳の外に置かれているようで不安もある。


 自分が人であるか確信の持てなくなっている今、人でないからその理由を教えてもらえないんだろうか、というようにウィルの思考はネガティブな袋小路に陥っている。


 考えても答えの出ないことを考えるのにほとほと疲れ果て、ウィルは気分転換のために、新鮮な夜の空気がすいたかった。


 寝間着にカーディガンを羽織ってゆっくりと庭の小道を歩いて行くと、ひやりとした空気が顔を撫でて、頭がキンと冷えるようだ。


 ウィルはその冷たくて透明な空気を味わいながら、散歩を続ける。

 ウィルは夜の空気が好きだ。


 月明かりだけでもわりと夜目が利く方なので、夜の散歩にも何も問題はない。月が中天にかかり、静かに夜を歩いていると、まるで自分が世界の底に落ち込んでしまったような気持ちになる。でもその底には、草や木や花々が昼間とはまるで違った顔を見せてウィルを待っているのだ。


 いつしか気が軽くなって、ウィルの足取りもだんだん速くなっていく。

 気がつけば、家を通り過ぎ、滅多に足を踏み入れたことのない家の裏まで来てしまっていた。


(そういえば、こんな方まで来る事なんて、なかったな)


 昔はウィルは体が弱かったので、専ら家にこもった生活をしていたが、なにせ森や草原と同化しているような広い家だ。

 こんなところがあったなんて知らなかった、とウィルは興味深く散策してまわる。

 と、ただの草原だと思っていたそこに、何か人工物があるのが目に入った。


「……廃園?」


 その場所は、元々は花園だったようで、壊れかけたアーチに枯れた蔓薔薇が黒くまとわりついて、寒々しく無残な様子を見せている。


「エレンは庭いじりが好きなのにな」


 家が広すぎて手がまわらないのだろうか。


(家の前に大きな庭園があるしな。ここまで手入れする余裕がないのかもしれない)


 そう思いながらウィルは廃園をのぞく。中は雑草が生い茂り、花と言えば名もわからないような野の花ばかりだ。


 その様子に興をおぼえて、ウィルは壊れたアーチをそうっとくぐり、廃園の小道に足を踏み入れた。


「タンポポ、菫――あれは、クローバーかカタバミか……」


 草木にはそれほど詳しくないが、昔ユニやルークと草原で花を摘んで遊んだことをウィルは思い出した。意外に野の花に一番詳しかったのはルークだった。


「母さんが花が好きだからさ、色々教えてもらえるんだ。このツクシっていうのは、食えるんだぞ」


 得意げに言っていたルークを思い出して、ウィルは仏頂面になった。何にせよ、負けているものがあるのは、例えそれが雑草の知識だとしても面白くない。

 ここで、ウィルはふと気づいた。


「この世界で、人間はたったふたりしかいない。――なら、ルークの母親は――何なんだ?」


 ルークが人間であるとすれば、その母親も当然そうであるはずだ。しかし、それではエレンの言ったこととは数が食い違ってしまう。

 この世界の人間の女は、ユニだけ。そして、人間の男も、たった一人だけ。


(――なら、やっぱり)


 確信を得たような気がした。ウィルは拳を握りしめ、一言一言、かみしめるようにつぶやいた。


「俺が、この世界でたったひとりの人間の、男なんだ」


 そうして、ユニの伴侶になるべき男。

 歓喜が背を這い上った。

 ルークが何者かなんて疑問は、すっかり頭の中から飛んでしまっていた。

 自分が正統なユニの相手。アダムなのだ。

 悩みがすっかり消えた気になって、ウィルは庭園をそぞろに歩き回った。

 目には何も映っていない。ただ、胸の内の喜びを噛みしめながら、ウィルは興奮を抑えきれずに前へ前へと突き進む。


「楽しそうだねえ」


 声がかけられたのは、その時だった。思いがけない出来事に、ウィルはぎくりと体をすくませる。エレンの声なら、まだわかる。ここはエレンと自分のすむ館の内だ。

 しかし、その声は全く聞いたことのない男の声であり、しかもその声の主は、どこにも見えなかった。


「……幽霊? なんて、まさか」


 焦ってきょろきょろと辺りを見回していると「ぶふっ」というこらえきれずに吹き出したような音と共に、雑草の向こうで「ここ、ここ」とウィルを呼ぶような声が続く。


 その声のする方にいくと、そこには小さなレンガ造りの建物があった。

 いや、建物というには小さすぎる。

 ウィルが見た物でこれに一番近いのは、学校の焼却炉だ。幅はウィルが両手をのばしたほど。高さはウィルの身長もない。小さな黒い扉が正面につけられ、そこには銀であろう、黒ずんだ十字架が取り付けてある。


「まるで墓みたいだ――って、やっぱり幽霊なのか!?」


 嫌な連想にたどり着き、ウィルは気味悪そうに後ずさってそこから離れようとした。その時、ガタンと黒い扉の向こうで何かが動くような音がした。


 思わずウィルは息を飲む。

 ギギギと重く軋んだ音を立てて、ウィルの目の前で扉が開いていく。


「やあ、ここを開けるのは久しぶりだな」


 呑気な声と共に骨張った男の手がそこから現われる。

 顔をのぞかせたのは、闇に同化するような漆黒の髪と神秘的なアイスブルーの瞳の驚くほどに整った顔の男だった。


「――あれ、いやな気配が近づいてくるぞ」


 顔を出したと思ったら、鼻をひくつかせて男は開口一番そうのたまい、あっという間に引っ込んだ。ついで扉もぴったりと閉ざされる。


「……え?」


 予想外の展開に、ウィルはあっけにとられた。


「悪いけど、また来てよ。じゃあ私は、また籠もるから」

「えええええ!? なんだそれオイ!」


 あまりの事に、反射的にウィルはこちら側のドアノブをつかみ、ガチャガチャとまわそうとするが、それは微動だにもしない。


「それ、そっちからは開かないから。じゃあ、おやすみ、ウィル」

「――――?」


 意地になって無理矢理開けようと力任せにノブを回していたウィルは、男の声が自分の名前を呼んだことにしばらく経ってから気づいた。


「なんで俺の名前を知ってるんだ……?」


 その問いに答えはない。静まりかえった廃園で、ウィルは険しい顔で黒い扉を睨む。

 この中のモノが、人間でないことは明白だ。その正体の知れない何かが自分の名前を知っていることは、気分が悪い。


(せっかく自分が人間だって、自信を持てていたところだったのに)


「絶対、こいつの正体を暴いてやる」


 拳で扉を殴りつけ、ウィルは固く決意する。

 と、気づけば足音が二人分、近づいてきていた。


「――エレン? ――レヴィも?」


 エレンが制服のまま、息せき切って走ってくる。その後からぶらぶらとやってくるレヴィの姿も見えた。


「どうしたんだよ、こんな夜中にそんなに慌てて」


 こんなに焦った様子のエレンをウィルは見たことがない。レヴィはいつも通り――いや、むしろ何かを楽しんでいるように口の端が上がっている。


「寝ていなかったのか。夜はちゃんと寝ろと言っているだろう。体調を崩したらどうするんだ」


 エレンの言葉はまず説教から始まった。げんなりとウィルは応対する。


「俺が体が弱かったのは昔だろ? 今は健康なんだよ。で、どうしたんだよ、そんな全力で走ってきて。何かあったのか?」

「ユニがいないんだ」

「――え?」

「まだ家に帰っていないらしい」


 あっさりと言ったレヴィを睨み付け、エレンは声をかすれさせてそれだけを言うと、ウィルに険しい顔を向けた。


「まさかとは思うが、何か知らないか?」


 よく見れば、エレンの顔は憔悴している。これほど弱り切ったエレンを見るのは、ウィルは初めてだった。


「――知らない……。いないって、どういうことだ!?」


 エレンの動揺がうつったように――いや、さらに驚愕の様子をみせて、ウィルはエレンの肩をつかみ、揺さぶった。エレンはうるさそうにそれを払いのけ、苦い顔を見せる。


「まあ落ち着きなよ」


 レヴィはいつもの張りついたような笑みでそう言うと、廃園にふと目をやって、意味ありげに口角を上げた。

 が、その顔は、すぐ二人に向き直り、ウィルもエレンもその表情には気づかなかった。


「そうか……ここにもいないか。もしかしたらうちに来ているかと思ったんだが……」

「皆は心配しすぎだと思うよ? 十六にもなれば、無断外泊くらいするようになるさ」


 全くみんなは過保護すぎるな、とレヴィはわざとらしい仕草で首をふる。


「お前はもう少し心配しろ! お前と一緒にするな!」


 エレンはレヴィを怒鳴りつけた後、ウィルに向き直った。そうして自分を落ち着けるように大きく息をつき、話し始める。


「学生会の仕事で私やマリアの帰りが遅いのは知っているだろう。それで、マリアも夜帰ってしばらくユニがいないことに気づかなかったんだ。で、あまりに気配がないから部屋をのぞいてみたら、ベッドは空っぽ。それどころか学校から帰ってきた形跡もないというわけだ。昨日、彼女に何か変わったことはなかったか?」

「変わったこと――」


 今日は、体調が悪いと言いながらユニは学校を飛び出して行った。

 おかしいとは思ったが、一人になりたいときもあるのだろうとあえて止めなかった。それが、こんな事になるなんて――。


「……昨日は、ユニは一人でどこかに行った。あまり俺たちには一緒にいて欲しくないようだった。だからユニの気持ちを優先しようと思って――」


 馬鹿だ。

 ウィルは手の裏で額を抑える。

 ユニは世界でたった一人の人間。

 ならそれ以外は?

 人じゃない者。

 化け物。妖精。あやかし。怪物。悪魔。


(人ならざるものが彼女に害を及ぼさないなんて、言い切れるわけじゃない)


 まだ自分はこの世界の事を何もわかっていない。

 それに気づくと、ウィルは自分の浅はかさに反吐が出そうだった。


「じゃあ、ユニの意思でどこかに行ったかなあ。どこ行ったんだろうね」


 笑みを絶やさず、レヴィは遠い空を見上げた。事態の深刻さがわかっているのかいないのか。それともどうでもいいのかも知れない。

 ウィルはふらりと歩き出した。


「探しに行かないと」


 最近、ユニの様子は確かにおかしかった。何か興味を引かれる事ができたのだろうか。好奇心の強い彼女の事だ。色々な事に首を突っ込んでは、騒ぎを起こす事がよくあった。今までは笑って眺めている事が出来た。

 自分が側にいたからだ。

 でも、今はユニの側に自分はいない。

 だから、行かなくては。


「――どこへ行く気だ、ウィル」


 それを睨み付けて、エレンはウィルの肩をつかむ。肩に指が食い込み、時折、骨の軋む音が聞こえる。普段は押さえているが、今はそれをセーブするゆとりもないのだろう。エレンの人並み外れた力を、ウィルは改めて感じる。


(この人は、本当に人ではない)


「――エレン、ウィルの体が壊れる」


 レヴィの言葉はのんびりとしていたが、エレンの目を覚まさせるには十分だった。

 エレンはウィルの身体を忌々しげに突き放すと、ウィルを怒鳴りつける。


「阿呆! ユニがたった一人の人間だってことを忘れたのか! それはユニが皆と違うということだけを言いたかったんじゃない! 人は、狙われやすいんだ、我々、夜の生きものに!!」


「――――夜の、生き物?」


 ユニが、狙われる?

 エレンの話を全て把握する前に、ウィルはその言葉に弾かれたように駆けだしていた。

 ユニに、もし何かあったら。


「……そんな事は、断じてさせない」


 させてなるものか。

 全力で走るウィルの背中に、焦ったようなエレンの声がぶつかった。


「おい、どこに行くんだ!?」

「ユニを探すに決まってるだろ!」


 待て、とかやめろ、とかいうエレンの声が聞こえたような気がするが、ウィルはそれを振り切って駆けていく。


「この街にも、学園にもユニはいないよ。いるとすればそれ以外、この街の外だ」


 なぜか、遠くにいるはずのレヴィの声が、さほど大きな声でもないはずなのにはっきり聞こえた。だが、その事について考えるゆとりもない。


(――この街の外)


 ふと、ウィルは三人で墜落した崖下を思い出した。

 最近出かけた街の外といえば、あそこだ。そういえばあの日から、どことなくユニの様子がおかしくなっていたような気がする。


「……何があったんだよ、ユニ」


 ウィルはひたすらにユニを探して走る。その後ろ姿を、エレンとレヴィは静かに見つめていた。


「あの子も、頑張るねえ」

「……頑張ってもらわないとな。あれは、私の希望だから」


「ふうん、丸くなっちゃってまあ。私はどっちでもいいんだけどさ。いや、どっちと言わず、ユニが全く知らない奴を連れて来たとしても、それはそれで面白いんだけどさ」


 レヴィはくしゃりと笑い、瞬間、その白い体が鱗に覆われたように硬質に燦めいた。

 だがそれは一瞬のこと。それが幻だったかのように、レヴィの体はいつもの様子を取り戻し、エレンはため息をつく。


「お前の性分は知っているが、騒ぎを起こすようなことはしてくれるなよ。言葉通りそっと見守りつづけていろ」

「見守っているよ? 私はいつでも人間を見守っている。ただ、人間の望みを察知して、提案をするのが得意なだけだ。いつも、選ぶのは人間。彼らは自ら騒ぎに身を投じているんだよ」

「提案するな。何もするな。接触もするな。むしろ見守るな」


 吐き捨てるような言葉に、レヴィは大げさに身を震わせた。


「ひどいなあ。君が今もここにいるのは、私が縁を結んだおかげなのに」


 言いながら廃園に目をやるレヴィを、エレンは殺意のこもった眼差しで見上げた。


「……そうだったな。お前は全く素晴らしい縁結びだった。いつか礼をせねばな。……あの人と同じように」


 そう言ったとき、エレンの口調に少し苦いものが混じる。


「お礼? 嬉しいなあ。いつでもいいよ。待っているから」


 不穏な気配には気づかないように、レヴィは心底嬉しそうな様子を見せた。エレンの目に針のような光が宿る。さすがにそれは無視できなかったようで


「剣呑、剣呑」


 と、おどけたように言いながら、レヴィは去って行く。エレンはその背中を目を眇めながらしばし見送り、その後廃園に視線を流した。何かを思い出すように目線が止まる。


「あなたは今更……出てきて何をしようというのですか」


 それは普段の雄々しい口調とは違い、空気にかすんで溶けていくようなつぶやきだった。

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