第四章 全人類を惑わす者は

 崖に洞を見つけて、ユニはそこにもぐり込んでいた。

 やっと人が一人入れるような小さなものだ。夜になって、気温が下がってきていた。

 膝を抱え込み、出来るだけ袖を伸ばして手を包み込むと、ユニは夜空を見上げる。そこには綺麗な三日月がかかっていた。


「月……ひさしぶりに見たなあ」


 一人でこんなに静かに月を見たのは、思えば初めてかも知れない。

 ユニの周りには、必ず誰かがいた。家ではマリア、学校ではルークやウィル達。マリアは何かとかまってくるので、部屋でゆっくり一人でいたことは、思い返してみればほとんどなかったような気がする。


 結局、助けを求める前に、ベルとルシとの電話は切れてしまった。ユニからはどうやって連絡をとればいいのかわからなかったので、とりあえず崖下で街の誰かの助けを待つことにした。


 どこか余裕があるのは、きっと誰かが来てくれるだろうという安心と信頼があるから。


 今までは、迷子になっても必ず誰かが探してくれた。

 どんなにわかりづらい場所にいても、必ず。それは期待ではなく、予測に近い。

 なので、ユニはそれまで体力を温存し、これ以上の窮地に陥らないようにしなければならない。怪我をしたり、衰弱でもしたらどうしようもない。

 誰かが来てくれると信じてはいるが、それがいつになるかはわからないのだから。


「お腹、すいたなあ……」


 鞄をさぐったら、朱典にもらった饅頭が底の方でつぶれていたので、それを夕ご飯代わりに口にする。食べるものはそれでおしまい。

 飲み物は、冒険を予測して持っていた水筒に入っていた水をほんの少し飲んだ。できる限り、水は節約したい。

 愛読しているサバイバルの本にも、食料よりも重要なのは水だと書かれていた。


「明日から、どうしよう……」


 自業自得であるが、誰にもここに来ることは行ってこなかった。はたしてこの場所を誰か見つけてくれるだろうか。


「明日、朝になったらもう少しあたりを見てみよう。上に登るところがあるかもしれないし」


 眠ろうとしたが、体を壁にもたせかけても、寒さと空腹と不安のあまり眠気はなかなか訪れてこなかった。

 それに何より、何も守るものがない中、暗闇の中にただ一人でいるというのは、何とも心細く恐ろしい。遠くから何かの鳴き声がたまに聞こえてきて、ユニはその度にびくりと身をすくめながら、洞の中で身を縮め、早く朝が来て欲しい。そればかりを願う。


 と、その時。


「ひゃっ!?」


 いきなりポケットの中の携帯が鳴り響いた。画面を見ると『ルシ』と出ている。


「えっ!? ルシ!?」


 慌てて受話ボタンを押す。少し緊張しているが、反面、安堵もおぼえていた。


「大丈夫かい?」


 スピーカーから流れ出る声に、ユニはほっと息をつく。会ったこともない人だが、暗闇の中で誰かの声を聞けるのが嬉しかった。

 それに、彼は自分の身を心配してくれている。

 嬉しさと安心で、涙がにじみかけて、ユニは慌てて目をこすった。


「……大丈夫」

「声が変だけど、もしかして泣いてる?」

「なっ、泣いて、ないから!」


 見透かされたことに声が裏返り、ユニはさらに動揺する。だが、そんな事は気がつかなかったかのようにルシは話を続ける。


『泣いてないならいいんだ。変な事言って、ごめん。君が無事に家に帰れたかなあと心配になって、かけてみただけなんだ』


「そっか……ありがとう。――うん、実は、ちょっと今困ってて。崖の上に上がれなくて、少し足も痛めたみたい。明日くらいには誰か迎えに来てくれると思うんだけどね。ほら、友達にバイクに乗れる子がいるからさ、それに乗っけてもらえばひとっ走りだし」

『えっ、君は一人で崖の下にいるのかい!? しかもバイクだって!?』


 ルシの声のトーンが若干変わったような気がした。状況にも驚いているが、バイクがあるという事にも驚いている。そんな感じだ


「え? うん、バイクだよ。それがどうしたの?」

『それは……すごいな。そういったものは全て失われたと思っていた』


「ルシのところにはないの? 友達のルークのお母さん、発明家だから、直せたのかもね。あのねその人、大昔の隕石が衝突する前にあった機械を掘り起こして、直してくれるの。だから、うちの街にはいまはもう作れないような機械がいっぱいあるんだよ。バイクとか、トラックとか、昔の映像が見られる機械とか!」


 ルシと話をできるのが嬉しくて、ユニははしゃいだ声を出す。色々な話を、ルシやベルとしたかった。ルシの住む街の話も、聞いてみたかった。


『――なるほどねえ。本当に君の住む街は、興味深い』


 そのまま、電話の向こうは何かを考えるように静まりかえる。

 どうしたのだろう。ユニが口を開きかけた頃、甘い声がユニの耳に滑り込んできた。


『ユニ、今度は私とお話ししましょう。じゃあね、ユニが最近好きなことはなあに?』


 ベルの声は、ねっとりと絡みつくようにユニの耳に入ってくる。


「好きなこと……そうだな――世界地図を見ること」


 今あるのかないのかもわからない世界の形を見て、色々な想像を巡らすのが、ユニのお気に入りだった。

 空想の世界では、たくさんの人がユニの訪れを待っていた。学校の授業で得た知識、自分で調べた情報、そして多くの妄想をくわえて、頭の中で理想の世界をこね上げる。


 色とりどりのつぎはぎの世界は、美しく冒険に満ちた優しい世界だった。

 まあ、と電話の向こうから笑みを含んだ声が届く。


『世界地図って、隕石落下前のものかしら? 今はそれとは地形が変わってるだろう事は、わかっている? なのに、地図を見るのが好きなの? 面白いわね』


「うん、好き。隕石の落ちた後の世界はわからないけど、きっと私たちの島みたいに、色々な場所で人々が暮らしてるんでしょう? 今まで誰にも言ったことはないけど、いつか世界を見て回りたいと思っているの」


 ベルの子供に言い聞かせるような口調に、ユニは顔をあからめた。言われなくても、その地図が今では無意味なものだろうという事はわかっている。


『それはすごいな。壮大な夢だね。応援するよ、可愛い冒険家さん』


 クスクスとからかいめいた笑みを含んだ、ささやかれるような声色に、ユニは顔を赤くして首をすくめた。


(予告なく代わるなんて、本当にびっくりする!)


 冒険家。

 それは、ユニの夢。ユニがずっとなりたいと望んでいたもの。


(応援するって、言ってくれた。ルシとベルはこの街以外の事をたくさん知っている。もっと色んな話を聞きたい)


 舞い上がったユニは、それに含まれていた揶揄するような響きには気がつかない。

 夢中になって、ずっと誰かに言いたくて、でも言えなかったことを吐露していく。


「この島を出て、世界を旅するのがずっと夢だった。でも、みんな私が街を出ることすら心配するから、きっと言ったら反対されるだろうって、誰にも話したことはなかったの」


 しかし、それを実行する機会がきたら絶対自分は世界を見にいくだろう。

 いや、機会がこなくても学校を卒業したら、この島を出て、広い世界に行く。

 それはこっそりと決めた、自分の夢だ。


『なぜユニは世界を見たいんだい?』


 ルシの問いかけに、ユニは考え込んだ。

 なぜ、とその理由を考えたことはない。

 逆に、なぜ生まれ育った街の外に広い世界があることをわかっているのに、それを見に行こうとしないのか、その理由こそユニにはわからない。


「なぜって言われると、難しいわ。生まれ育ったところはもちろん大好きだけど、この世界には色々な建物や、芸術品やびっくりするような自然があって、色んな人が暮らしているはず。本でしか見たことはなかったけれど、私はこの目でそれを見に行きたいの」


 しばし、沈黙がただよった。

 それは、何か問題があっただろうかとユニが心配になるほどの静けさだった。


「……ルシ、ベル、どうしたの?」


 おそるおそる尋ねれば、ようようのことで声が返ってきた。


『君の持っている資料――この世界の情報は、隕石が落ちる前の物だろう?』

「え? ええ、そうよ?」


 学院にある本や映像は、皆が瓦礫の中から掘り出してきたものだと聞く。

 ぼろぼろの本を皆で修繕して、映像はルークの母親が可能な限りサルベージして、修復して。隕石後に作られた本など、手書きで閉じ合わされた、学生会が作っている「学院便り」くらいなものだろう。


『あれは、世界を大きく変えてしまうくらい深刻なものだったの。今、その情景が残っているところなんて、どこにもないわ』


『今の世界はね、隕石の衝突の影響で巨大地震が起きて、地表はボロボロ。舞い上がった粉塵が地上に降り注いで、地面は真っ黒。昔の面影なんて、全くないよ』

『あなたたちの住む街なんて、奇跡のようなものよ。このあたりもね、昔はこの下に、大都市があったの。巨大なビルが建ち並んで、真夜中でも街の灯で、美しく輝いていた』

『今は、見る影もないだろう?』


 淡々と二人はユニに説明をしていく。ユニは愕然として、その話をただ聞いていた。


「あ、あの、それ、二人は、見てきた、の?」


 口を開くが、ショックが大きすぎてこう言うのがやっとだった。

 美しく、彩りに溢れた世界。

 様々な建築物や文化、壮大な自然も存在するはずだった。

 それは、もうどこにもないのだろうか?


『……ああ、見たよ。地獄だった』

『見ない方が、幸せよ』


 何も言えず、ユニは身体を岩肌にもたせかけた。気を抜くと、そのまま地面に倒れ込んでしまいそうだった。気が遠くなりかけていることに気づき、ユニは唇を噛んで、頭をひとつふった。


「そう、なの……」


 それだけを言うのが精一杯だった。

 右手から、携帯電話がこぼれ落ちそうになる。それに気づいて、ユニは受話器を握りしめた。手が震えている。


(大丈夫、私にはもう一つ、夢がある。片方が叶わなくても、そのために、自分は世界に行く)


「世界がぼろぼろでも、世界にはまだ人間が残っているのでしょう? たとえば、ルシやベルのような。私、その人達に会いに行きたいの」


 世界の事実を知れたのは、ルシやベルと会ったから。

 そう思えば、それを知ることが出来て、よかったと思う。


(だって、ルシやベルとお友達になれたんだもの)


 ボロボロで地獄のような様子だとしても、その中で暮らしている人に会いたい。会って話をしたい。

 しかし、受話器の向こうから漏れ聞こえたのは、押さえきれないといったようなベルの笑い声だった。

 はっきりとそれからにじみ出る嘲笑の響きを感じ取って、ユニの顔がカッと赤くなった。


「――何がおかしいの!?」


 自分でも驚くぐらい尖った声が出たが、ユニは開き直ることに決めた。

 失礼なのは、向こうの方だ。どう思われても、かまうものか。


『ああ、ごめんなさい。ユニは、本当に何も知らないで夢に溢れて生きているんだと思ったら――おかしくって』

『ベル、やめろ』


 ルシのたしなめる声も、空虚に響く。


「私が、何を知らないっていうの!?」

『この世界に、もう人はいないのよ』

「――え?」


 ユニは、ベルが何を言ったのか、わからなかった。

 人が、いない?


『生きていた人間は、全て隕石落下で死んでしまった。まず、最初の隕石落下の衝撃で、世界の十分の一の人間が死んだ。その後、舞い上がった粉塵が、地球を何ヶ月にもわたって多い続け、日の光が地表に届かなくなってしまった。その最中にも、物資の不足で大勢の人間が死んでいった』

『そんな状況で生き延びられる人間なんて、いないんだよ』


 淡々と、二人は隕石落下後の様子を見てきたように語っていく。ユニには、それを素直に信じることなどできなかった。


「……そんなはず、ないでしょう。だって、私や、ルークやウィルやマリアや、学校のみんなだっているもの。じゃあその私達は、どうやって生まれてきたの? 生き残った人がいるから、みんないるんでしょう? ルシやベルだって、他の街の人じゃない。ほら、シェルターとかあるでしょう?」


『シェルターはあったよ』

『あっても、人が生きていくには最低限、水や食料がいるのよ』

『数ヶ月やそこら食いつなげても、その後の地球は長い事、食べ物を生産できるような環境ではなくなってしまっていた』

『だからね』


 だから? だから、シェルターの中の人は、どうなったというの?


『だから』

『その人間たちは』

『シェルターの中で』


 二人はぞっとするほど無機質に、無感情に言葉を紡いでいく。低く低く発される言葉は、まるで呪詛めいて響き、ユニは息苦しくなった。真っ暗闇でこれ以上、二人の話を聞いていたくない。


(ルーク、ウィル……!!)


 ユニは無性に二人に会いたくなった。ずっと昔から知っている二人。誰よりも安心できる異性。身勝手だと思いつつ、ユニは二人が来てくれるように、渾身で祈る。

 その瞬間、ルシの口調ががらりとかわった。


『なーんてね。怖がらせちゃったかな? ごめんごめん』

「え?」

『こんな真夜中に、こんな話して怖かったよね。本当にごめん。ほら、ベルも謝って』

『ごめんなさい。つい、調子に乗っちゃった』


 先ほどとがらりと変わった声音で、ベルも謝罪をする。ユニも、ほっと息をついて、努めて明るい声をあげた。

 よかった、冗談だったんだ。

 本当に、よかった――。


「もう、びっくりしちゃったじゃない。街がぼろぼろとか、人が誰もいないとか。やめてよね、そんな冗談――」

『ああ、それは本当』

「え?」


 冗談かと思うような調子で軽く返された言葉は、訂正されることはなかった。

 言葉の意味の重さに、じわりじわりと心が冷えていく。それが真実だとしたら、自分の夢見たものは、全て砕けていたことになる。


 希望の光を見せられて、それを目の前で踏みつぶされてしまったような絶望。一番嘘であった欲しかった、本当の訳はないと思っていた事。

 そんなはずはない。そう思いたい。


「また、そんな事言って……」


 冗談だと言ってほしかった。だが、淡々と返される言葉は、悪意にも感じられた。


『本当よ。何も知らないお姫様』


 ベルの隠しもしない棘が、ユニをちくちくと指す。


『この世界は、貴方の想像するような世界ではもうない。荒れ果てた、寒々しい荒野。それがどこまでも続いていると思ってもらえば良い。建物なんて、もう跡形も残っていない』

「そんな……そんな事……」


 ユニは自分の街を思った。ユニが生まれる前に、街の人が瓦礫を片付け、緑を植えて住みやすいようにしたと聞いたことはある。だが、それが元は全くの荒野だったなんて事は、想像もできなかった。


『嘘じゃないわ。じゃあ自分で確かめてきたらいいじゃないの。だいたいね、他に人がいるのなら、今まで誰かあなたの街へ来ているはずよね? 貴方の街へ来る旅人は、今までいた?』

「そんなの……」


 思い返して、ぞっとした。

 誰も、自分の街へ来た人間など、いなかった。ただの一人も。

 ユニが生まれて、自分の島はそれだけで完結しているように、閉じている。

 誰も来ない、誰も出て行かない世界。なぜ皆広い世界を見に行かないのか不思議で、ユニは島から出て行きたくてたまらなかった。美しい建物、たくさんの人、色々な文化に触れたかった。


 ――でも、それがないとしたら?

 体の震えが止まらなくて、ユニは自分の体を抱きしめた。真っ暗な中で、こんな話を聞き続けていると、自分がどうかなってしまいそうだ。

 自分が夢見たものは、もうどこにもない。


 そう思うと、自然と涙があふれ出てきた。素晴らしいもので溢れていると思っていた広い世界は、粉々に壊され無残に荒れ果てている。考えただけで、胸が締め付けられるようだ。


「――人は、どうやって暮らしているの? 街はないの? 他の人間はどこに住んでいるの?」

『……人はね、街で幸せに暮らしていたよ。この世界でたった一人の未来ある少女はね』

「たった一人の少女?」

『そうだよ、僕のイヴ』

「――!?」


 受話器を通しているのに、耳元で直接ささやかれたかと思うほど、その息づかいは冷ややかにユニの耳をくすぐった。悪寒とも快感ともつかぬ感覚がユニの体を走り抜ける。


 そうしたユニの感覚をわかっているかのように、クスリとルシは小さく笑った。


『君は、この世界のイヴたる少女。君の他に、次代の人を産める女性はいない。君から、次の世界が誕生する。――素敵だね』

「……え? でも、ベルは……? それに、街には女の人は、たくさんいるわ」


 ユニは戸惑った。電話の向こうのベル、そして、マリアや、エレン。他にも、女性は街にいる。それを、ルシは知らないのだろうか?


『私は、子供は産めないの。私の事は放っておいてちょうだい』


 ぴしゃりとはねつけるように言った後、ベルの言葉は聞こえなくなった。ルシはその後を引きつぐように話を始める。


『君の街の女性か……。ひとつ大事な秘密を教えてあげよう』

「秘密?」


 これ以上何があるのか。

 滅茶苦茶な話を聞かされ続けて、ユニの思考能力は麻痺しかけていた。


『そう、大事な事。君の育ての親たち――街の奴らはね、人じゃないよ』

「人じゃ、ない?」


 理解を超える話に、頭がうまくまわらない。何を言っているのだこの男は。


「――人じゃないわけ、ないじゃない。じゃあ、何だっていうの?」


 そうとしか言えなかった。

 そもそも、さっきから二人はおかしなことばかり言っている。

 そう考えれば、今までの言動は全て嘘だと思えた。そうだ、やっぱり世界が壊れたなんて嘘だったんだ。みんなみんな、このおかしな二人の虚言だったのだ。

 そうだ、そうに違いない。


『もちろん、信じる信じないは、君の勝手さ。でも、冷静に考えてみて。何か、君の周りの人はおかしなところはなかったかい?』

「おかしなところなんてないわよ。みんないい人ばかりだもの」


 ユニはそう吐き捨てた。周りの人間まで侮辱するなんて許せない。友だちになりたいと思っていた。しかし今や、この二人にユニははっきりと怒りを感じていた。


『君にとって優しいには違いないだろうね。君をずっと育ててくれたんだもの。僕も、驚いた。でもね、それと人ではないことは別の話さ。さあ、思い出してみなよ。たとえば、君の育ての親は、ちゃんと君と同じように年をとっているかい?』

「……年をとって?」


 当たり前だ。マリアはずっと一緒にいて、私と同じように年をとって――。


「…………え?」


 そういえば。

 ユニは長年疑問だったことを思い出した。

 なぜ、自分を幼い頃から育ててくれたマリアは、見た目が変わらないのだろう。

 そもそも、育ての親がユニと同じ学校生活をおくるのは、妙な事ではないだろうか?


「女は化粧で誤魔化せるのよ。と、いうわけで私は永遠の少女だから」


 マリアって、いくつなの。そう尋ねたら、おどけてそんな風に返されて、ユニはそういうものだと思い込むようになっていた。

 だって、自分はそれが当たり前だった。


 エレンだって、他のまわりの大人達はみんなそうだった。

 でも、指摘されれば明らかにおかしい。

 ユニの知識として、人が老いるのだということは知っている。


 自分は、背も伸びて体はどんどん変わっていくのに、マリアは、いつまでたっても若く美しい少女のままだ。化粧だけのせいだとは思えない。

 それに、街の人達だって、時が止まったようにいつまでも変わらない。


 本当は自分も、心のどこかで思っていた。

 おかしいのは自分なのだろうか。自分も大きくなったら、成長が止まるのだろうかと、考えたときもあった。


 マリアもエレンも、高弥もレヴィも、ユニの幼い頃からあのままだった。なのに、皆は当たり前のように同じに学校に通ってユニと同じように授業を受けている。

 これは、明らかに変だ。


 自分はそれを薄々気づきながらも、深く考えようとはしなかった。

 その真実を知れば、自分の居場所がなくなるような気がして――。


(そういえば、ルークと、ウィルは?)


 同じに成長して、同じに変化してきたと思ってきた。でも、本当にそうだっただろうか。考えれば、考えるほど、それはあやふやになっていく。

 初めて二人と会ったときは、どうだっただろうか。


『悩んでいるの?』


 ルシの声がユニの耳を撫でる。ルシに対しては怒りを感じてはいるが、その声はユニの体にしみこむようになじむ。抗えない何かが、ルシの声にはあった。それに気づき、ユニはぞっとした。


 これ以上感情をかき乱されたくない。ユニはそれを断ち切るように声を荒らげた。


「私は、あなたたちの言うことは信じない。もうこの電話も、いらないわ。じゃあね」


 電話の操作がわからないので、そのまま洞の隅に置こうとすると、『待って』と制止するルシの言葉が電話口から微かに耳に届いた。


『君は、街の人間よりも僕を信じるべきだと思うけどな』

「何を言っているの? そんなわけないでしょう?」


『だって、僕と――僕達と君は、どうしたって逃げられない種族の鎖でつながっているからさ』

「種族の鎖?」


『そう。僕たちは、一蓮托生の運命。全ての人間の業を負うべき存在。それが生き残った君のすべきことだ。そして、僕はそれを分かち合える相手。あの街の奴らは、そんな事はできない』

「何を言っているの?」


『君のいる街には、本がたくさんあるのだろう? じゃあ、あいつらの情報もあるはずだ。故意に処分されていなければね』

「情報?」


『あやかしについて調べてみなよ。あいつらを定義する言葉は色々ある。あやかし、怪物、悪魔、魔物――。それらについて書いてある本を読んでみるんだ。そうすれば、君の養い親達が人間にとってどういう存在だったかわかるから』

「そんな事……」


 あやかしなんて、初めて聞いた言葉だ。

 学舎ではありとあらゆる世界の言葉を教えてくれたが、あやかしだの怪物だのなんていう言葉は教えてくれなかった。


 ふと、ユニの脳裏にマリアや大人達から繰り返し聞かされた言葉が甦った。

 夜はね、人の時間じゃないんだ。それ以外のものが跋扈する――見つかったら、ただではすまないよ。


 人以外のもの。

 ルシとベルは、マリア達は人ではないという。

 なら、見つかったユニはどうなってしまうというのか?

 生まれた時からずっと一緒にいる、優しいマリア。

 強くて頼りになるマクシム。

 自分をいつも気にかけてくれる島のみんな。


 信じるべきはルシやベルではない。

 そう思い、ルシの提案を拒絶しようとしたが、その前に、口から勝手に言葉が転がり落ちていた。


「あなたは、人間なのよね? ――私と同じ」

『……そうさ、イヴ。僕は君と同じ、人間だ』


 ルシの声は、ねっとりと絡みつくようにユニの心を呪縛する。


「私と、同じ」


 何が真実なのか、ユニにはわからない。

 だが、街の人間と自分が違うということだけは、はっきりしていた。自分と同じもの。そんな存在がいるというだけで、安心している自分がいる。

 認めたくはないが、それは事実だった。


「……探してみるわ、その本を」

『――ああ、見つけたらまた感想を聞かせてほしいな。愛する僕のイヴ。僕達に会いたくなったら、またこの崖に来てくれたらいい』


 電話は切れた。無機質なツーツーという機械音を聞きながら、ユニはぼんやりと明けていく空を見上げていた。



 ウィルは街を駆け抜け、荒れ地を一直線に疾走する。

 気がつけば崖にたどり着いていた。その間の記憶はない。

 ずいぶん早くたどり着いたような気がするが、そんな事をいちいち考えている暇はなかった。崖下に降りる場所がない事に舌打ちをして、辺りを見回していると、聞き慣れた排気音が耳に届く。


 それは滅茶苦茶な速度でウィルの脇にを追い越すと、急ブレーキをかけた。

 勢いでバイクが大きく仰け反り、ウィリー走行のような格好になるが、ドライバーは意にも介せずウィルに向き直った。バイクが壊れるかと思うような大音声で前輪を地面に叩きつける。


「――ユニいた!?」

「いるように見えるか?」


 つい口をついた嫌みに、ルークは顔をしかめた。何か言いたそうに口が開いたが、無視を決め込み、ウィルは崖下を覗き込む。下へ降りる方法は、まだ見つけられない。


「行くぞ。乗れ」


 ルークにいきなり襟首をつかまれ、怒鳴りつけようと口をひらく間もなく、ウィルは後部シートに投げつけられた。座る前にバイクが機動をはじめる。慌ててシートにまたがると、それを待っていたわけでもなかろうがバイクは急発進した。


「ちょっ……!!」


 前方は崖。運転手は何の躊躇いもなく、そこに突っ込む。車体が大きく前方に傾いた。高所から落下するときの怖気の経つような感覚が身体をつつむ。

 中空でさらにアクセルを加速させるルークに、ウィルは思わず正気を疑った。衝動的に背中にしがみつき、口からは汚いののしり言葉がほとばしる。


「崖から突っ込むなら、言えよクソ野郎!! 自殺に俺を巻き込むな!」

「舌噛むから黙っとけ!!」


 宙に躍り出たバイクは、重力に従って水平落下する。


「わあああああ!!」

「大丈夫だ、エアバッグがある!」

「エアバッグが万能だと思うなよクソ野郎!!」


 いざとなったら衝撃の盾にするつもりで、ウィルはルークの背中をつかんだ。そんな事はおかまいなしにルークはスロットルを握りしめた。


「――おら、行けえっ!!」


 地面が目の前に迫っている。勢いが強すぎて車体は地面に着地すると共にロデオのようにはずみ、投げ出されそうになったウィルはルークの首にかじりついた。


「ぐえ!!」


 瞬間、屠殺される家畜のような声をルークはあげたが、ウィルは気にしない。

 運転手がぐったりと前のめりになったバイクは、大きくスピンをして停車した。

 その間、ウィルはバイクから飛び降りて無事着地を決めている。ルークはバイクのスピンと共にはね飛ばされ地面に転がったが、これもウィルは気にしない。


 大事なのはユニだ。ルークはユニを見つけた後で、様子を見に行ってやろう。

 走り出すと背後から、ルークの怒声が聞こえてきた。


「てめえ! 死んだらどうする!?」


 無事だったらしい。

(命冥加なヤツだ)

 ウィルは人ごとのように思いながらあたりを見回す。

 ユニはどこにいるのだろう。


「無視するなこの野郎!」

「ユニは多分、この辺りにいると思うんだが」


 そう言うと、怒気を引っ込めてあっさりルークはのってきた。


「やっぱり、お前もそう思うか? 学校と街中探し回ったんだけど、どこにもユニはいなくてさ。残るは、ここくらいかなって」

「お前はずっとユニを探していたのか?」


 ウィルは歩きながらルークを睨め付けた。

 自分は、ルークがユニの事を知ったずっと後になってから、情報が入ってきたらしい。その事に無性に腹が立った。


「昨日、マリアが俺の家に駆け込んできてさ。ユニがいなくなったっていうから、バイクに乗って色々まわってたんだ」

「……そうか」


(どうして、その時点で俺のところに連絡が来なかったんだ)


 苛立ちはつのるばかりだ。


「俺んちバイクとか、サーチライトとか色々あるだろう? だからマリアは真っ先に来たんだと思うんだ。母さんと、学生会の皆や高弥なんかと総出で探してさ、それでも見つからなくて――お前んとこはエレンが知らせにいったんだよな」

「――なんで俺にもっと早く教えなかった!? 俺だって、ユニが心配だ! なのに」

「最初はエレンが止めたんだよ」


 口ごもった後、ルークはつぶやくように言葉を続けた。


「言い訳に聞こえるかも知れないけれど、俺はお前に教えようとしたんだ。だけど、エレンがウィルは体が弱いから夜は外に出さない方が良いって。だから自分がウィルの分まで探すって」

「……そんなの、昔の話だ。今は体が弱いわけじゃない」


 ウィルの声から怒りが薄れ、かわって困惑が混じった。

 いつまで昔の話を引きずっているんだ。そういう思いが否めない。

 確かに昔は体が弱くて、ずっと館に引きこもっていた。だが今は人並みだ。ウィルはそう思っている。


「エレンはお前を心配したんだろ。何だかんだ言ってお前の保護者だし。そんな事より、今はユニだ。俺はあっちを見てくる」

「――ああ。じゃあ俺はこっちだ」


 これでその話は終わり、というようにルークはウィルから離れていく。ウィルもそれに異論はない。

 だが、心の中のもやもやは澱のように残っている。誰が悪いのではない。むしろ自分の事を考えてくれたゆえの判断だった。それはわかっている。


 だが、ユニの側にいるべきは自分。ウィルはそう感じている。

 なぜなら、自分はユニと同じ種族であるだろうから。

 誰を責めるべき話でもないのは自分でもよくわかっていた。

 ユニを探すルークの姿には、疲れが見えている。昨日は一晩中探していたのだろう。


(俺だって、ユニを探したかった。俺が彼女を見つけ出すべきなんだから)


 ウィルは唇を噛みしめた。

 そんな事を考える自分は最低だろうか。


(ユニが自分のものになれば、こんなことは考えなくなるんだろうか)


 黒い苛立ちの原因は、不安。それは、うすうすウィルにもわかっていた。

 もし、ルークがユニを探し出した事によって、ユニの心がルークへと傾いたら。

 愚かな疑心暗鬼が自分を苛んでいる。

 それを確かに感じ取りながら、ウィルは身の内の歪んだ感情をもてあましていた。



(何か機嫌が悪いよな)


 後ろを歩くウィルの尖ってどんよりとした気配を感じ取りながら、ルークは辺りを見回す。ウィルが短気なのはわかっている。


「それはきっとカルシウムが不足しているのよ。牛乳を飲ませるといいわね」


 そう昔母が言ったので、瓶に牛乳をたっぷり詰めてウィルに持って行ったことがある。


「大きなお世話だ」


 と殴られたが、ウィルはその後牛乳を持って帰って飲んだらしい。

 綺麗に洗って返された瓶を見て


「俺、殴られ損じゃね?」


 そう言ったら嫌な顔で睨まれた。


(要するに、こいつは俺より色んな事に気がついて、しかもそれを色々考えるタチなんだよな)


 一言で言えば繊細なんだと思う。殴られそうだから面と向かって言ったことはないが。


(ユニがいなくなったんだから、ごちゃごちゃ考えてないで探すことに集中して欲しいんだけどな)


 まあいい、とルークはウィルの事を考えるのをやめた。

 今はユニが何よりも最優先だ。


 昨夜、真っ青な顔でマリアが家に駆け込んできてから、ルークは家族総出で一睡もせずにユニを探し続けている。まずは学校、いつも遊んでいる場所、そんなところをしらみつぶしに探した。街中かけずり回った。だが、ユニはどこにもいなかった。


 最後に、ふとこの場所を思い出す。

 拾った携帯電話。それを見つめるユニ。

 その時の光景が、いくつも思い返された。


(あの時から、ユニは何か隠していたような)


 ――だったら、ユニがいるとしたら、ここしかない。


 なぜか強い確信のようなものがわき上がってきて、ルークはバイクに跨り、全速でこの場所に来ていた。そして、ウィルと出会ったというわけである。


「ユニがいるとすれば、あの落ちた場所の近くじゃないか?」


 半ば独り言としていった言葉だったが、ウィルは無言でついてきた。

 さくさくと土を踏む音に、ルークはそっと後ろを振り返る。ウィルはまだ何事か悩んでいるようであるが、ユニを探すという本来の目的は忘れていないようだ。


(あーあ、考えながら歩くから、何もないところで蹴躓いちゃって)


 ウィルは普段クールで理知的に振る舞っている分、不調の時の落差が痛々しい。

 とりあえずそっとしておこう、とルークは前へ向き直った。

 辺りを見回すと、崖に折れた木の枝が下がっているのが見えた。切り口はまだ新しい。


「――あそこだ」


 いうなり、ルークは走っていた。


「え? ……何だよ?」


 わからないながらも、ウィルは後をついてくる。

 そこは、三人が落ちた場所からほど近い。近づくと、崖に小さな洞があいているのが見えた。


「ユニ!!」


 名前を呼びながら、ルークは飛び込んだ。ウィルもそれに続く。

 そこは、人ひとり入れるほどの、小さな洞だった。正面には大きな岩が鎮座するように立っており、まるで扉のようだ。湿った土の匂いが、むっと二人を取り囲む。


(嫌な匂いだな)


 ウィルはふっとそう思った。

 まず目に入ったのは、黒い長靴に包まれた細い足。ふわりと広がった制服のスカート。そして、しっかりと握りしめられた白い携帯電話。

 ユニはその洞の中で、眠るように倒れていた。


「――ユニ!? しっかりしろ!」

「ユニ! 大丈夫か!?」


 口々にユニに駆け寄り、ルークは手を取り脈を調べ、ウィルは状況を確認してユニの額に手を当てる。


「脈……ある!」

「あたりまえだ。呼吸もしっかりしている。見たところ外傷もないし、熱もなさそうだ。眠っているだけのようだな」


 二人はほっと息をつき、ルークがそうっとユニを横抱きにした。途端、かくりと首が流れて、ユニが目を開く。


「――んん? ルシ……?」

「「――ルシ?」」


 二人は同時にその言葉をオウム返しにして、顔を見合わせた。


「ルシって男の……名前?」


 ルークが思わずといったようにつぶやいた台詞に、ユニの顔がしかめられる。


「その名前はいわないで」


 それを聞いた、ウィルの動きが急に強ばりはじめる。ルークも、ぽかんとユニを見つめる。


(何があった、その男と!?)

(ルシって……誰?)


 そんな二人の様子は知らぬげに、ユニはルークの腕の中から降りて、握りしめていた携帯電話をポケットにしまった。


「ユニ、その携帯電話、まだ持ち歩いてるの? 持ってても使えないだろうに。 ていうかルシって誰だよ?」


 ウィルは興味がなさそうな顔を装いつつ、ルークの質問にぐっと拳を握りしめた。

 脳内で「よく聞いた!」とサムズアップをしていたことは本人だけの秘密である。

 聞かれたユニの反応はというと、一瞬口ごもり、


「……内緒」


 と顔をそらすと、二人の間をすり抜けて洞の外へ出ていってしまう。

 慌ててルークとウィルはその後を追う。


「内緒ってなんだよ! まさか昨日の夜はそいつと会ってたんじゃないだろうな!? みんなユニがいなくて心配して探し回ってたんだからな!」

「逢い引きなのか? いったいどんな奴なんだ!」


 口々にまくし立てるふたりに眉を下げて、ユニは困ったように笑った。


「……別に、逢い引きじゃないわよ。探してくれてたことは、悪かったと思ってるし、迎えに来てくれたことは嬉しいけど」


 もごもごと歯切れ悪く話すユニを、ルークとウィルは困惑の目で見つめる。

 こんな事態は、今までなかった。

 ユニが男と逢い引きなんて、想像もしなかった驚天動地の出来事である。


「でも、男と二人で会ってたのなら、そう思われても仕方がないだろ」


 ルークの言葉で三人の間に沈黙が降りた。言ってから考えるたちのルークは、その反応に自分の発言を後悔する。


(なんだよこの沈黙……。気まずすぎる)


「二人で会ってた訳じゃないの。私はルシと、ベルって言う女の子の三人で話していただけ。――逢い引きとか、そんなんじゃないから」


 言いながら、ユニの表情はさえない。


(何かあったんだろうか)


 ルークは珍しくそれに気づくが、そのような詮索を拒絶する雰囲気をユニは発していた。


「……その二人はこの近くにいるのか?」


 ウィルは辺りを見回すが、ユニは無言で首を振る。


「えっ、じゃあそいつら、ユニを置いて帰ったの?」


 ルークの言葉にも、ユニは眉根を寄せて首を振った。


「……ルシとベルは、会って話してたわけじゃないから」

「じゃあ、どうやって――」


 ウィルの問いかけは途切れる。何かを察したように、ルークはユニのポケットに目を落とした。


「その携帯、もしかして使えるの?」


 ユニは体を強ばらせた。まるで、それが気づかれてはいけないことだったように。逡巡した後、ユニは小さく頷いた。

 全く歯切れの悪い彼女の様子に、ウィルは嫌な予感がした。


(いつもだったら、もっとはっきりした態度をとるはずなのに)


 何かを隠している。

 直感的にウィルはそう思うが、無理にほじくり返すと、ますますユニは口を閉ざしてしまいそうだった。


(ここは、様子を見るべきだ)


 重い空気が漂う中、それをやぶったのは、うわずったようなルークの声だった。


「その携帯、貸して! 俺も一度使ってみたい! どうやって使えるようになってるんだ? もしかして、この辺りに電話の基地局ができたのかな? あっ基地局って言うのは電話を使うための設備で――」


 好奇心に目を輝かせてユニの携帯に手を伸ばすルークを、ウィルは脊髄反射でしばいた。


「空気読め! 今重要なのは電話が使えるようになったことじゃないんだよ!!」

「何だよ、いってえな! ちょっと借りるだけだろ! この暴力男!」


 口げんかを始める二人の前で、ユニは無言でバイクの方に歩いて行く。そうしてサイドカーに乗り込むと、ことさらに明るい様子をみせた。


「二人とも、喧嘩はやめて街に帰ろう。心配させちゃって悪いから、早く帰らなきゃ。二人とも、探しに来てくれてありがとうね。色々、ごめん」


 そう言われると、二人は喧嘩をやめざるを得ない。どちらからともなく顔を見合わせると、並んでバイクまで歩き出した。だが、この間、二人の脳裏には疑問がいくつか浮かんでいる。


 ルシとベルとは、誰なのか。ユニとどのようにして、知り合ったのか。

 あの携帯電話は使えるのか。

 ユニの雰囲気がたった一晩で変わってしまったように見えるのは、なぜなのか。

 彼女は、何を隠しているのか――。



 ユニは椅子の上で膝を抱え、じっと画面を見つめていた。

 「資料閲覧責任者」と手書きで書かれたプレートを手慰みに弄びながらレヴィは微かな笑みを浮かべてその横顔を眺めている。


 ここは、学院の図書室。

 小さな窓と扉以外、一面に部屋に備え付けられた棚が圧迫感を誘う。

 その棚には、皆が廃墟から発掘した本や映像資料がびっしりと収められていた。所々土に汚れ破損している資料は、授業に使用されたり、ルークやユニなどに機械技術や冒険譚を求めて気紛れに借り出される以外は、ひっそりと本棚の中で眠っていた。


 島の人間は本をあまり読まないのである。

 なかなか授業にユニが出てこない事を不審に思ったルークとウィル、高弥が部屋をのぞきに来る。

 ユニは物憂げに資料を繰っていた。


「……何を読んでいるんだ?」


 言いながら、ウィルはユニの手元を覗き込んだ。

 それは、ひとくちでいえば世界の悪魔や怪物について記された本であった。

 聖書――古の宗教書にも記された悪魔の逸話から、世界の魔物について詳細な情報が記されている。


「今まで知らなかったけど、世界には色々な怪物がいるのね」

「そうだねえ。でも、それらは人間の空想の産物として扱われているよ」


 いつの間に近づいたのか、レヴィは細く長い指で、ユニの読んでいた本を指した。


「ほら、これなんて荒唐無稽すぎてさ」


 指の先に記されていたのは、レヴィアタンという悪魔の名前だ。


「口から火を吐いて、鼻から煙を吹き出して、『彼が立ち上がれば神々もおののき取り乱して、逃げ惑う』『彼の進んだ跡には光が輝き深淵は白髪をなびかせる』なーんて、笑っちゃうよね」


 ありえないよね、とさらりとした白銀の髪を揺らしてレヴィはいつもの真意の読めない笑みを見せた。


「すげーな、神さまもびっくりするようなものすごい悪魔なんだな」


 素直に感心するルークとは違って、ウィルは純真にレヴィの言葉を受け入れることが出来なかった。

 ユニもそうであるのか、曖昧な表情でレヴィの様子をうかがっている。


(――どうしたんだ)


 以前なら、ユニもルークのような反応を見せたはずだ。彼女は心躍らせるもの、冒険譚が大好きだったはず、とウィルは眉根を寄せる。


「――私は、これなんか信じられませんね」


 いつの間に来たのか、ウィルの横から一本の腕が出て机の上の本を取り上げた。表紙の一部に鬼、という文字が読める。

 腕の主、朱典は無造作にページをめくると、おもむろにユニ達に本を掲げて見せた。


「これなんて、現実味がないこと極まりない。桃から生まれた子供に退治される! 小指ほど小さい子供に退治される! 子供に退治されまくりのちょろいあやかしかと思いきや、酒呑童子たる鬼の頭領は、日ノ本一の凶悪な妖怪! 都一の勇将、渡辺頼光と相まみえ、丁々発止の大立ち回り。危うし酒呑童子!」


 ベベン! と口三味線を唸る朱典に、高弥は白い目を向けた。


「酒呑童子は大酒を飲んで眠り込んだ所をやられたんだろ……」


「つまり何の話なんだ?」


 ルークの疑問ももっともである。


「鬼はものすごく恐ろしく強くて格好いい妖怪だという話です」

「……ちょっと話がめんどくさくなりそうだから向こうに行ってなよ」


 レヴィから出された酒を受け取った朱典は、素直に身を翻した。顔が嬉しそうだったのを見て、高弥はちょろいのは間違いないな、とため息をつく。

 朱典のせいで中だるみしたような妙な空気を一掃するように、レヴィが口を開いた。


「で、君は最近妖怪やら悪魔やらに興味があるのかい? そんなのばっかり読んでるよね」

「……今まで知らなかった事を知りたくなっただけよ」

「知らなかった事、ねえ……」


 つい、とレヴィは一冊の本の表紙に指をすべらせた。

『人と化生の関わりについて』

 レヴィの弄ぶ本は、ウィルも見たことがあった。この島の人間が二人だけだと知った時、人外の知識を得たくなったのだ。


(ユニも、何か聞いたのか?)


 だとしたら、あまり良い聞き方ではなかったに違いない。

 明らかに憔悴して不安を感じさせる様子は、真実以上に何か良からぬ事を吹き込まれたとウィルに確信させた。


(だとしたら、あの本はあまり良いとは言えないな)


 世界の主だった怪物やあやかしの奇譚を集めたというその書物は、殆どの場合において人が危害を加えられるか、魅入られてひどい目にあっていた。

 人は、妖物にとって極上の餌であり興味の対象である。


 一貫してその姿勢でまとめられた本は、今のユニにとって恐怖や不安を助長させるものでしかないだろう。

 偶に良い話があるが、人外との恋愛譚や、人と妖精の友情譚は、人が裏切ったり欲をかいた結果、その関係は壊れるという逸話が多く、人と化生の関係は脆く儚いものでしかないと痛感させるようなものばかりだった。


(俺だって信じたくないけど、そんな話ばっかりだもんな)


 逆に人外と人間との関係が上手くいったと感じさせるようなものは、人が攫われて行方不明になったままで、人間視点で見ると本当にめでたしめでたしで終わっているのが甚だ疑問であった。


(何せ寿命も生き方も違う同士だ。幸せになるなんて、難しい話なんだ。そもそも何が幸せかなんて当人以外にはわからないし――)


 沈黙の中、ウィルは思いをめぐらす。ユニは俯いて黙りこくっていたが、ふいに顔をあげた。


「……人でない者は、良い者と悪い者がいるんでしょう?」

「良い者? 人にとってという話かな。悪い者って例えばどういう?」

「人を……襲ったり、食べたりとか。騙して奴隷にしたりとか……」


「まあ、襲うにも理由があるよね。人は一気に地に満ちて、人外の住む土地を荒らした。なら、あの人間達は目障りで邪魔だって事になるよね。人同士でも、それで戦争が起こるなんてザラだっただろう」


「人を食べるのは、明らかに悪でしょう?」

「そうは言っても、種族が違うからさ。人が鳥や牛を食べるのは悪?」

「……鳥や牛からしたら悪かもしれないわ」


 何かに思い当たったようにユニは悲痛な顔をした。ウィルも言葉を無くす。

 そもそも、人と人ならざる者達は種族が違うのだ。襲おうと食べようと、それは人が動物に対してどうこうするようなものなのだろう。


 人は、ただ楽しみだけのために狩をすることもある。趣味で魚を釣り、釣った後、弱り切った魚を半ば捨てるように放流することもある。

 動物を捕まえて食べる。愛玩して可愛がる。飼っていた動物を手に負えなくなれば捨てる人間もある。


 動物から見れば、人は明らかに害なす存在だろう。

 ただそれに文句を言えないだけで。

 そう思えば、人と人外が交流し、恋愛をするなんてむしろ希な出来事なのだろう。人と怪物では、見た目からして異なるものばかりなのだ。


「じゃあ、人じゃないものが人間を育てる事は、あるの? あるとしたら、なぜそんな事をするの?」


 直球と言って良い質問に、ウィルは体を強ばらせた。レヴィの笑みが深くなる。


「ううーん、個々に色々事情はあるだろうけど、昔からないことはないよ。英雄や、次代の世界のためになる者を育てたりねえ。可愛いからって気に入って攫って育てる事もあるし……ああ、これは悪と見なされるのかな?」


「育てて、どうするの? 食べるの? 利用するの?」

「君は何か勘違いをしているよ」


 レヴィがユニに一歩身を進めた。ユニが明らかに身を固くしたのがわかった。ウィルは反射的にユニの前に立ち、その身をかばうようにした。

 おや、とレヴィはウィルを見下ろした。ウィルは低くはない。だが、長身のレヴィと対峙すると体格的にやや見劣りする。おまけに、レヴィの存在感は明らかにウィルを圧倒していた。


「ユニが怖がってる。唐突に近づくのはやめろよ」


(――くそ、位負けってやつか)


 レヴィが明らかに強く底知れない存在である片鱗を感じたようで、ウィルは内心歯がみした。自分は、ユニを守らなくてはいけないのだ。


 睨み上げれば、微笑ましいような顔をされた。敗北感でいっぱいの気持ちだが、ウィルはそのまま目を逸らさず睨み続ける。

 負けんな頑張りー、と小さく高弥の応援が聞こえるのもいたたまれない。と、隣に誰かが並んできた。

 横を見ると、微笑んでいるのはルークだった。


「……何で来た」

「いや、なんか加勢した方がいいかなって。ユニも怖がってるっぽいし」

「別にいらん」

「そんな事言わずに、素直になれって。正直に助かったって言ってみろよ」

「素直な気持ちを言ったまでだ!」


 漫才始まったん? という高弥の言葉が聞こえる。何で余計な事しか言わないのか。


「で――なんなんだ、いったい? ユニは最近どうしちゃったんだ?」


 ルークの疑問は簡潔で直球だ。


「悩んでるよりさ、気晴らしにみんなで遊びにいこうぜ。この前森の中で面白い奴に会って」

「気晴らしが出来る気分じゃないの。それに、今はあまり誰にも会いたくない」

「なんで? 絶対ユニが面白がるような人だぞ」


 ユニは口をわななかせ、声を絞り出す。


「人、じゃないでしょう。この世界には、人間はもう殆どいないんだって。――この世界には、人間よりも人間じゃない者達の方が多いんだって」

「え? うん、大災害が起きて人がものすごく減ったんだもんな」

「そうじゃない」


 あまりのルークのお気楽な様子に、ウィルは口を挟んだ。


「世界には、もう人間はいないんだ。この島にいるユニと――あと一人の男以外は」


 高弥があちゃーと呻いたのが聞こえたが、黙殺する。

 ルークは目を白黒させた。


「は? え? あと一人? え? じゃあ何? あと一人以外は何なんだよ?」

「だから」

「怪物、なんだって」


 ユニの声はかすれきっていた。ルークは目を見開いた。


「あとね」


 途切れ途切れにユニは声をあげる。それがあまりに苦しそうで、ウィルは見ているのが辛くなる。


「世界の人間は、この島だけじゃないの。あと二人、いるの」

「は!?」


 高弥が顔色を変えて割り込んできた。


「――それは、誰から聞いたんや。そんなはず、ない」


 険しい目で、高弥は苛立ったような声をあげた。

 怒りの矛先はそのユニに余計な情報をあたえた者にだろう。

 そう理解して、ウィルはその相手を推測する。


(――ルシとベルって奴か)


 以前ユニが口走った名前。

 何者なのだろう。ユニの事を、どこまで知っているんだろうか。

 この世界でたったひとりと言われる、人間の少女。


(それを重ね合わせると、偶然拾った携帯から、たまたまユニと知り合ったなんて事よりは――)


 最初からユニを狙って仕組んだと思った方がいいのではないか、とウィルは思考を巡らせる。

 ルークに目を向けると、机に座り込んで、理解が追いつかないように難しい顔をしている。

 何を思っているのかはわからないが、この状況に納得がいっていないことだけは明らかだった。質問をしてこないのが不思議なくらいだ。


「教えてくれたのは、ルシと、ベルよ。その人達はね、人間なんだって。――私と同じ」

「それは、ほんまなん? そんなわけ――ないやろ。この島以外の人間なんて」


 全く信じていないように高弥は吐き捨てた。

 ルークが目を丸くする。無理もない。高弥は、この島以外に人間はいないと言い切ったも同然。そして、それらが人間ではないとも言外に伝えている。


 ――人間?


 ウィルは高弥ほど、島外の人間の存在を否定できる根拠を持っていない。何しろ情報が少なすぎる。状況が不明すぎる。

 ウィルの拠り所はただ一つ、養い親のエレンの言葉だけである。


(この世界の人間は、ユニと俺――たったひとりの男だけじゃなかったのか?)


 俺、と思いかけて、ウィルの臆病な心はたったひとりの男と修正をかける。

 内心、それがまだ自分の希望的観測だということはわかっていた。

 だが、その確立は自分とルークの二分の一。最近は分があると思い始めてきた矢先、そんな事を聞くなんて、まさに青天の霹靂だった。


(まさか、人間の男は俺やルーク以外の可能性もあるってわけか?)


 それは、ユニが全く知らない男のものになるということ。

 耐えがたい想像が頭をよぎり、ウィルはその考えを無理矢理振り払った。

 ルークは凍り付いたように動かない。


「世界は、人はほんの少しだけ。その他は、人ではなくなっているの」


 ユニだけが、その止まったような時の中で、皆の目を一身に集めながら高らかに声を張り上げている。


(――鮮やかだ)


 ふとウィルは思った。

 彼女は、人間だ。そう思ってみれば、なるほど周りの『女性』とは一線を画す何かがユニには備わっていた。

 エレンもマリアンジェラも、もちろん美しい。だが、彼女たちの美は変化しない鉱物のような種類の美しさだ。ユニのように、刻一刻と移り変わる、儚げで色に満ちあふれた美質とは全く違うのだ。

 自分がユニに惹かれた理由の一つは、きっとそういうところにあるのだろう。


(――なんて、美味しそうな)


「この世界の人間は、もういないも同然なの!」


 一瞬呆(ほう)けかけていたウィルは、ユニの大声でハッと我に返った。


(何だ? ぼんやりしていた。疲れているのか?)


 おまけに何を考えたのか、忘れてしまったほど呆(ぼ)けているらしい。ウィルは、気を引き締め直して目の前の二人に視線を向ける。

 すると、ルークが大声をあげた。


「いなくなったって、何なんだよ!? 俺やユニや、ウィルや高弥や、それは人間にカウントされないってのかよ? ちょっと落ち着けよ」


 ルークはあくまでユニが錯乱したせいでそんな事を口走っていると思っているらしい。


「落ち着いてるわよ、ルークが何もわかっていないだけ! いい、ちゃんと聞いて」


 ユニはルークにつめよった。気圧されたようにルークは口を閉じて、ユニを見下ろす。


「この世界の人間はね、もう絶滅寸前なの! その一人が私! そして――他の生き残りが、ルシとベルなのよ!」

「――ほう」


 今まで石のように微動だにせず二人を見ているだけであったレヴィが、興味深そうな声を出した。


「それは、面白い」

「何やって? 人間の生き残り? 何もんや、そいつら! この世界に人間は、たった一組だけのはずや!」


 思わずそう口走った高弥は、思い出したようにウィルとルークに目をやって、唇をぎゅっと噛みしめた。


「人間が、たった一組?」


 ルークは、目を丸くして、今の話が理解できなかったように固まっている。


(無理もないか)


「おい、ルーク」


 とりあえずウィルは声をかけたが、なんと説明していいものか、言葉を探しあぐねていると、ふいにルークが口を開いた。


「ユニ、何言ってるの? そんなわけないだろ」

「……ルーク、お前」


 ウィルは言葉に詰まってがしがしと頭をかきむしった。

 なぜ信じない。

 いや、そんな荒唐無稽な話を簡単に信じろというのが無理な話なのかも知れないが、今までの人生で、少しは疑問に思ったことはないのだろうか?


(明らかに俺ら以外の人間は年をとってないし、色々とおかしいだろうが!)


 ルークはくるりと後ろに向き直ると、ウィル、高弥、レヴィと次々指を指していく。


「人間って――こんなにいるだろう? 一体そいつらに何を吹き込まれたのか知らないけど、なんでそんな与太話をユニは信じるわけ?」

「……なんでルークは私の話を信じないの?」

「そんな話、信じろって言う方が無理だろう?」

「ちょっと落ち着こう。ルーク、まずは話を聞け」

「ウィル、お前もそんな話、信じられないよな?」


 割って入ったウィルは、ルークにそう話を向けられて目を白黒させる。


「……いや、だからな」


 何から話したものかと、ウィルは目を彷徨わせる。理解させるのは、骨が折れそうだ。

 気がつけば、レヴィは姿を消していた。

 ユニに向き直ると、ぼんやりした顔で一冊の古ぼけた革張りのノートを抱えていた。それは、確か先ほどまで机の上にはなかったはず。


「それ何?」

「レヴィのおすすめだって。課題図書だって言われたわ」


 ユニは、困惑した顔で本を眺めている。

 ノートの表紙には『気の狂った日々』と記されていた。



 まったく訳がわからない。

 ルークは枝をポキポキと手折りながら、家路を歩いていた。悩んだ時の相変わらずの行動である。


「世界に残った人間の男女はもうほぼいないだって? 冗談も大概にしてくれよな」 

 ユニの発言を補完するように、ウィルは噛んで含めるごとく、この世界の成り立ちをルークに説明してくれた。

 隕石の落下で、人間は死滅したこと。

 世界に残されたのは、たった一組の男女だということ。

 それを見守る者達は、人ならざる存在であること。

 すなわち、人の少女であるユニともう一人の男以外、この街に人間はいないということ。


「そういうわけだ。わかったか? とりあえず、ルシとベルやらの話は、保留だ。真実かどうか判断がつかないからな」 


 ウィルの言葉を反芻するように口内で繰り返したあと、ルークは顔をあげた。


「みんなで俺をハメて、笑おうとかそういう企画じゃないよな?」


 そう言ったら「そんなわけあるか」とウィルに殴られた。

 理不尽だと思う。

 どう考えても、簡単に信用できる話じゃない。


「つーか、言わせてもらうけどそれが本当だとしたら、俺かお前、どっちかは人間じゃないじゃん。何お前、人間じゃないの?」

「なわけあるか。俺は人間だ」

「えっ、じゃあ何だよ、俺が人間じゃないって事?」

「俺が人間なら、そうなんだろ」

「いやそれは違うだろ。俺、人間だし。特に今まで普通じゃない力とかそんなん出たこともないし」

「機械にとりつく化け物とかじゃないのか? とにかく俺は人間だぞ」


 そんな堂々巡りの後、ウィルと喧嘩別れをしてルークは家に帰ってきた。

 本当に、全くわけがわからない。


 皆が年をとっていないというのも、言われてから、そうだったのかと思った。

 ウィルには気づかないお前がおかしいと言われたが、気にならなかったんだからしょうがない。

 あと一つ、ウィルに指摘されてブチ切れた事がある。


「たった一組の男と女なんだぞ。お前、親がいる時点でそれにあてはまってないだろう。じゃあ、お前の親は何者だって話になるじゃないか」

「――母さんは人間だ!! 人外みたいに言うなよ!」

「だからお前は人外を失礼な言葉みたいに言うな! 世界は人外だらけなんだよ!」


 何をどう受け入れればいいのかわからなくなって、ルークは走って帰ってきてしまった。 


「だいたい、何だよ世界最後の男女って。じゃあその男女はどうやって生まれてきたんだよ。隕石が落下したのは百年以上も前だろ? ユニにも親がいたはずだろ。そんな話を鵜呑みにしろっていう方がおかしいって」


 ブツブツと思考をはき出していると、幾分気持ちが整理されてきた。

 どう考えてもその話はおかしい。

 ユニもウィルも、騙されているんだ。

 そもそも人外ってなんだよ。アンドロイドかよ。人工生命体かよ。


 自分はどうにかして真実をつきとめて、ユニを騙すルシやベルとかいう奴らにも話をつけて、二人をその与太話から解放してやろう。


「そうと決まれば、善は急げだ」


 まずは自分の出生を親から聞いて、自分の生まれを証明しよう。

 ルークは機械いじりが好きで日がな一日工作作業に精を出す、しっかりものの母親の顔を思い浮かべた。


 あの人が、学院の奴らの妙な冗談に話を合わせるとは考えにくかった。言っていい冗談と悪い冗談はわかっている。そういう母親だ。


「ユニもウィルは、親がいないからそんな冗談に惑わされちゃのかな。そういう二人を騙すなんて、最低だよな」


 考えるほどに義憤がつのってきて、早く二人の目を覚ましてやらなければと、ルークはいきり立つ。


「ただいまあ!! 母さん、いるー!? ちょっと話があるんだけど」


 家に入るなり、開口一番ルークはそう大声をはりあげて家中を見回した。

 広いリビングの向こうは母親の工作室。そこから明かりが漏れている。

 なんだそこにいるのか、とルークは勢いよく工作室に飛び込んだ。


「母さん、変な事聞くけどさ、俺たちってさ、人間だよね」


 当たり前でしょう。何を馬鹿な事を。

 ルークはそんな返事を予測していた。

 聞くまでもない当たり前のこと。それが、ルークの認識だ。

 だが、返事は予想もつかない形で返ってきた。


「どうしたの、いきなりそんな事」


 不思議そうに母親から言われたルークは、照れたように頭をかいた。


「変な事聞いちゃってゴメン。ちょっと学校で変な話を聞いたからさ。うん、俺たちがフツーに人間だって事はわかってるんだけど」

「違うわよ」


 コトリと音をたてて握りしめていたスパナを机におくと、母はそうはっきりと言った。

 何に対して違うのか、まずルークはそれが理解できなくて黙り込んだ。頭の中は、たくさんの疑問符が舞い踊っている。


「え? 違うって、何が?」

「――そうね、あなたにも、もう言っても良い頃ね。いつ言おうか迷っていたのだけど」


 沈黙のあと、口を開いた母の顔には、静かな覚悟のようなものがみえた。


「……何言ってるの? 母さん」


 嫌な予感がふくれあがって、乾いた唇を無意識に舌で湿しながらルークは母と床の間で、視線を振り子のように彷徨わせる。

 やばい。

 直感的にルークは思う。

 とんでもないことを聞かされる。そんな予感がひしひしとした。

 これを聞くことによって、人生が変わってしまう。そんな恐怖が、ルークを苛みはじめる。


「ルーク、よく聞きなさい」


 ルークは後ずさった。なぜか、鼓動が早くなっている。したたり落ちる汗を拭うことも出来ず、ルークは突っ立っている。

 この世界で男女はたった一組。

 唐突に図書館で聞いたその言葉が脳裏に浮かんだ。


(俺は、人間……じゃない?)


 信じていたことが、揺らぎそうだった。


「前から話そうと思っていたの。母さんはね」


 無意識に、ルークは後ずさりし続けていた。壁に背中をぶつけて、その事に気づく。


(俺は――)


 この世界でたった一組の男女。

 それがもし本当で、その男女がユニとウィルならば、自分はどうなるんだろう。

 自分は、何者なんだろう。


「――この星の生まれじゃないの」


 その母の言葉を理解するまで、ルークはしばらく時間がかかった。


「この星の人間じゃ、ない?」

「母さんの生まれ故郷の星でも、この星と同じような天変地異が起って、ここに逃げて来たの」

「この星の方達は、私を温かく迎え入れてくれてね。私は、この星のために出来ることはないかと力を尽くした」

「そんな中、お前を産む事ができて、私は本当に幸せだった」


 他にも何か色々母親は言っていたようだった。

 それは、親からの愛に溢れた言葉だった。普段のルークだったら、はにかみながらも喜んで聞いていただろう。


 だが、今のルークにはそれを受け止めて返す余裕がなかった。

 断片的に受け入れる情報、それは、ルークの今までを覆すようなものだった。

 ――つまり人間じゃないのは、俺か。


 気づけば、ルークはその部屋を飛び出していた。どうしていいかわからない。

 走って走って、いつしか森の入り口にたどり着いていた。息を切らせてルークは手近な木により掛かる。


 自分が信じていたことが根本から覆されて、頭の中がぐちゃぐちゃに混乱している。

 夢なんじゃないだろうか。

 ルークは木を殴った。腕を走る痛み。皮膚が裂けて血が滲み出ている。


「夢じゃない――か」


 ルークはポケットから手探りでハンカチを取り出した。それはいつも母が持たせてくれる。その事に気づいて、ルークは乱暴に腕を拭った。へたり込むように木の下に腰を下ろすと、ルークはため息をついた。


(俺、こんなに弱かったのか)


 ダメージを受けている自分に、ルークはさらにショックを受ける。

 母親はもちろん好きだ。

 だが、今は家族の事実は受け入れがたかった。


 崩れるように地面に身体を横たえ、ルークは空を仰いだ。青く晴れ渡った空に、ちぎった綿のような真っ白な雲が浮かんでいる。

 昨日と何も変わらない、その光景。

 これを、この星の人間はずっと見続けてきたのだろう。


「他の星の人間っていうことは、俺は宇宙人ってことなのか? 火星人が攻めてくる話を昔見たことがあるけど――奇跡的にこの星と似通った姿形を感謝すべきなのか?」


 正直、他の人間と何が違うのかわからない。

 今までユニやウィルと何か違う所があるなんて、感じたことはなかったのだ。


「こういう時は、ポジティブシンキングだよな。ほら、他の星の出身でも、人間は人間だろ? あ、でも寿命とか違ったりするのかな。ある年齢からは老化しなかったり――って、映画の見過ぎだろ」


 黙っているのが耐えきれない。勝手に言葉を紡ぎ続ける口を、ルークは半ば人事のように感じていた。

 今すぐ家に帰って、母親からもっと詳しく話を聞くべきだ。

 自分の理性はそう告げている。

 そうすれば、ユニとの間にはなんの障害もないかもしれない。いや、多少の相違があっても、障害にはならないかもしれない。


「……何考えてるんだろ、俺。ユニは、関係ないじゃん」


 ただ、ユニがどう思うか。

 ルークはそれが恐ろしかった。

 昼間見たユニは、人外に対し明らかな忌避感を抱いていた。

 ずっと一緒にいた幼なじみ。


 一番大切でずっと側にいたいと思う女の子。

 もっと考える事もあるのではないかと思うが、ユニが受け入れてくれれば、それでいい。

 たとえ自分が化け物だとしても。


「――ん?」


 ルークは困惑した。

 なぜ、自分はユニの事ばかり考えてしまうのだろう。

 もっと考えるべきことはたくさんある。そのはずだ。

 それに、ユニの言葉を信じれば、この島にもう一人人間の男がいるらしい。

 自分でないのなら誰だというのだろう。


「……ウィル、か?」


 同じ種族、たったひとりこの世界に残された男と女。結ばれるべくして結ばれる二人としか、いいようがない。

 そう思えば、比喩でも何でもなく胸が痛んだ。ただ同じ人間だというだけで、ユニを手に入れる権利を持っている。

 自分も、ずっとユニの側にいたのに、これからも一緒に居続ける事は許されないのだろうか。


 それに、気になるのは『ルシ』と『ベル』という存在だ。


「だいたい、ユニをあんなに苦しめているなんて、絶対ろくな奴らじゃない! 俺は認めない!」


 憔悴しきったユニを、助けたい。その人間の男が、ユニを苦しめるなら、絶対にルークはそれを許すことが出来ない。


「ルシは男、でベルが女? どういう関係なんだ? なんでわざわざユニに声をかけにきたんだよ」


 この世界に、残された人間は男と女、たった一組。

 高弥の叫びが、脳裏に甦った。

 あの真に迫った様子は嘘だとは思えない。

 はたして本当なのか。自分はどうするべきなのか。

 ユニは、誰を――どういう道を選ぶのか。


「俺――自分の問題なのに、さっきからユニのことばっかり考えてるな。なんなんだこれ?」

「……ユニって、女の子?」

「わあ!!」


 いきなり頭上から降ってきた声に、ルークは驚いて飛び起きた。

 聞き覚えのある声。

 振り向けば、案の定見知った姿がそこに立っていた。


「――アーカンジェル……」


 先日、森で出会った不思議な旅人。相変わらず帽子を目深に被り、その表情はうかがい知れない。


「好きな子の事を考えてたの?」


 詳しく話をしたわけではないのに、アーカンジェルは妙に自信たっぷりにそう断言する。


「好き……?」


 いきなり言葉を突きつけられて、ルークは目を白黒させた。


(好き? 確かに、そうだけど。ユニはずっと一緒にいたし――)


「さっきから、その名前ばっかり言っているよ」

「まあな」


 確かにそうだった。いつからこの男はいたんだ。

 そんな疑問が浮かびながら、ルークはそれに納得する。


「友達だしな」


 ルークの発言に、プッとアーカンジェルは吹き出した。

 アーカンジェルの身体は丸まり、その背中は小刻みにけいれんしている。明らかに、笑っているのを全身で隠している体だ。


「何がおかしいんだよ!!」

「い、いやおかしくない。思春期っていいものだなっていうことを久しぶりに思い出してね。いや本当に、初々しい恋だ」

「コイぃ?」


 ルークは思いきり顔をしかめる。そんな浮ついた感情は、ユニと自分の間には、ないはずだ。


「ユニって、女の子なんだろ? それって恋なんじゃないかな? 君はその子のことばかり、考えてるんだろう?」

「そ、そんなの違う!」


 真っ赤になってルークは否定した。決めつけられるのが不快だった。

 恋――なんて、そんなわけはない。


「普段はユニのことばかり考えているわけじゃない。ちょっと、事情があったからだよ!」

「へえ、どんな?」


 アーカンジェルは面白がるような様子で、手近な切り株に腰を下ろした。


「――言えない」


 ルークは黙り込む。こんな重大な問題を、通りすがりの旅人なんかに話せるものか。だいたい、言ってもわかってもらえないに違いない。

 いや、しかし念のため一つだけ聞いておかなくてはいけない。


「なあ、変な事を聞くかも知れないけど、アーカンジェルって……人間?」


 本当に世界に二人しか人間がいないのなら、高確率でアーカンジェルは人外だろう。だが、街の外から来た者が、その事についてどういう情報を持っているか参考になるかもしれない。いかんせん、情報がルークには足りなさすぎた。


「変な事聞くなあ。――人間だよ」


 答えはあっさり返ってきた。しかも、予想外な方向に。


「それ、ホント?」


 想像した答えとは大きく外れていたため、ルークは何も言葉が出てこなかった。

 アーカンジェルが、人間? じゃあ、世界でたった二人の人間ってのは、ユニとアーカンジェル? ルシとかいうのが人間なんて、嘘だったのか? それとも、世界で人間がたった二人っていうこと自体が、間違った情報なのか?

 色々な疑問が頭の中でせめぎ合い、ルークは二、三度口を開閉させた。


「本当だよ。君は、何をそんなに悩んでいるの?」


 いたわるようにアーカンジェルは声をかけてくる。まるで家族のように。

 その声に混じる掛け値のない優しさに、ルークは張り詰めていた気持ちが緩むのを感じた。途端に、堰を切ったように言葉が溢れてくる。


「俺、人間じゃ……この星の人間じゃないかもしれないんだ。今日母さんが、自分はここじゃない別の星から来たっていきなり告白してきて。って事は俺も別の星の人間って事だろう? どうしていいかわからなくて、話の途中で逃げて来て、俺」


 うずくまるルークに近寄り、アーカンジェルはそっとその頭を撫でた。


「びっくりしたんだね。……大丈夫。大丈夫だよ」


 何が大丈夫なんだよ。

 そう思った。だが、口も目も言うことを聞かない。静かに滴り落ちる涙を拭いもせずに、ルークは唇を引き結んでなすがままに頭を撫でられていた。


「人間じゃなかったら、やっぱり友達とかさ、今まで通りにはいかないかな? だってさ、ずっとみんな普通に人間だと思ってきたんだ。そしたらさ、今日いきなり、それは違うんだって言われたんだ。人間はもう世界に一組しかいないんだって言われて。その二人の他は、人間じゃないんだって。もう、どうしたらいいか、わからなくて俺……」


「そうなんだね」


 極めて穏やかに淡々とした調子で、アーカンジェルは相づちをうつ。

 ただルークの話に集中しているだけのようでもあり、そんな事はたいして重要ではないと感じているようにもみえる。そのことにルークは少しだけ、ほっとした。


 だから、ルークは落ち着きを取り戻しはじめ、口に出せなかった事も、徐々に口から出るようになっていく。


「アーカンジェルはさ、自分と同じだと思ってた奴が、実は自分と違ってたら、嫌になるよな?」


 臆病な動物のように項垂れて、ルークは視線を合わせずそう尋ねる。


「なんでそう結論が決まった聞き方なんだい? そもそも、君の話からすると、人でないものばかりなんだろう? 今までずっと仲良くやってきたんだろうし、これからの生活にも問題はないんじゃないか?」


「だってさ、得体が知れないものが自分の側にいたらさ、怖いだろ?」

「じゃあ君は、その幼なじみや友人が、実は自分と違った生きものだったら怖くなるの?」

「――……」


 ルークは考え込んだ。

 人ではない生き物というのが、どんなものであるのかわからない。その得体のしれなさがこわい。

 だが、ずっと一緒にいた仲間達が人ではなかったとしたら?


「……そうだな、ユニや、ウィルが実は人間じゃなかったとしたら、それがどういう生きものなのか、聞くかな。怖い……とは思わないかも。だって、ずっと一緒にいたから、性格は知ってるし。俺に害を与えるようなことなんか――ウィルは暴言は吐くけど」

「暴言、吐くんだ」


 アーカンジェルは苦笑交じりの笑みをみせる。ルークの目に落ち着きが戻ったことに気づくと、安心したようにルークの肩をぽんぽんと叩いた。


「暴言を吐かれても一緒にいられるようなら、その友達もそうなんじゃないの? ずっと一緒にいたんでしょう?」

「そっか……」


 気持ちの上昇に従って、ルークの目線も上向きになる。


「まずはさ、お母さんに話をして、聞いてみなよ。自分がどういうものなのか。それから悩んでも遅くないよ」

「――ああ、ありがとう! 聞いてもらったらすごく楽になったよ!」


 単純だなあ……。

 その言葉をこみあげる笑いと共にかみ殺し、アーカンジェルは


「いいや、僕も、相談にのれてよかったよ。人の相談にのるなんて事が、再び出来るようになるとは思わなかったから」


 そう言いながら、帽子を目深に被り直して立ち上がった。


「あ!」


 ルークは思わず声をあげる。


「そういえば、アーカンジェルは人間なんだろ? 俺の友達は、世界に人間は二人だけ、なんて事言ってるんだけど、アーカンジェルがいるなら、そんな事ないよな? 他にも人間ているんだろ?」


「――さあ……あいにくだけど、僕もわからないんだ。人間がたった二人なのかは知らないけど、未来につなげることが出来る人間がとても少なくなっているのは確実だろうね」


「未来につなげることができる? それってどういう――」

「さあ、僕はそろそろ行かなくちゃいけない」


 ルークの質問を断ち切るように、アーカンジェルは声をあげた。ふわりと、風がないのに外套がなびく。


(やっぱり……人じゃない? いや、俺の考えすぎか?)


 思わず息を飲んだルークに、アーカンジェルは笑ってみせる。口だけしか見えないその笑いは、どこか寂しそうに見えた。


「君と会えて嬉しかったよ。その友達にも会いたかったけど、ぐずぐずしている訳にはいかない。僕は人を探しているんだよ」

「友達? 俺も一緒に探そうか?」


「いいや、気持ちだけで十分さ。ありがとう。――少し……いや、だいぶ厄介な奴でね。僕以外の人間が接触すると、害を与えられる危険がある。だから駄目なんだ」

「――そいつ、悪い奴なのか? 人間?」


 複雑な事情を察し始めたルークは、困惑した口調で質問を重ねる。

 アーカンジェルは淡々と


「人間だよ」


 とため息のようにつぶやいた。


「人間……か」


 眉根を寄せたルークは、あることを思い出す。


「そういえば、俺の友達――ユニが、最近人間に会ったんだ。そいつに会ってから、ユニはだんだんおかしくなっていって。名前は、確かルシと……ベルって言ってたかな」

「ルシと……ベル?」


 今にもその場を去ろうとしていたアーカンジェルは、その名前に驚いたように動きを止めた。


「本当だよ。俺の友達は、そいつに悪い影響を受けている……と思う」

「なるほど、そうか……」


 口の中で何事かをつぶやいて、アーカンジェルはルークの手をとった。ひやりと石のように冷たい手が、なぜか心地が良い。


「悪いけれど、僕をその友達のところへ連れて行ってくれないか」


 アーカンジェルの口が強く引き結ばれた。


 ベッドの上で、ユニは転々と寝返りをうっている。

 あまりの顔色の悪さに高弥がマリアにユニを託した後は、強引に家に連れて帰られ、大量のミルク粥とお茶と共に部屋に押し込められた。


「食べられるだけ食べればいいからね。ゆっくり休みなさい」


 その言葉だけ残して、気遣わしげにマリアは部屋を出て行く。

 カーテンは閉められ、スタンドの淡い光だけが部屋を照らしている。サイドテーブルのミルク粥に口をつけるが、ほんの二口でユニは匙を置いた。そのまま倒れるようにベッドに横たわる。

 まるで色々な事を知る前のようで、ユニは泣きそうな気持ちで笑った。


「マリアは人じゃないんでしょう」


 硬い声でぶつけた言葉も


「ええ、そうよ。正体が知りたいなら、いつでも教えてあげるわ」


 と笑って受け止めていた。

 前から覚悟が出来ていたのだろうか。

 ユニはため息をつき、レヴィから進められた本をぎゅっと抱きしめる。

 ――『気の狂った日々』

 嫌がらせかと思うような本のチョイスだったが、中身は一人の少女による、極めて真面目な手記であった。

 少女は出会う。人ならざるもの。人間の生き血を吸う怪物に。

 ――その怪物の名は、吸血鬼(ヴァンパイア)という。



 少女は、何も好んで吸血鬼と出会ったわけではなかった。

 美しいと近隣の村々で評判だった少女は、金持ちの老人のところへ大きくなったら嫁ぐことが決まっており、あきらめと共にそれは受け入れていた。


 母は早く死に、父の後妻は少女を疎んでいた。老人だろうが、まだ嫁に行った方が大事にされるかもしれない。

 あえてそう希望を持つようにして日々を過ごしてきた。だが、ある日事態は急展開する。


 狩に来た地方の領主が、エレンを見初めたらしい。ここまでなら、ハッピーエンドの童話のようである。しかし、その領主は加虐趣味の持ち主として有名であった。

 意に染まぬ受け答えをした小間使いを館の三階の窓から突き落とす、気に入った娘を呼び寄せては飽きたら森に放置する、など枚挙に暇がない。


 領主から下賜された金に目のくらんだ後妻は、あっさりとエレンを領主に引き渡すことに決めた。その時、エレンの心も決まった。

 ――この家から逃げよう。

 だが女の足で逃げ切れるわけもなく、追い詰められたエレンは森の崖から転落し――怪物と出会った。


「生きたい?」


 川に突き出た岩の上で、真夜中にそう問いかけてきた男を、少女は悪魔に違いないと思った。


(人が、こんなところにいるわけはない)


 果たして、男は水の上を歩いてきた。

 キリストでもあるまいし。

 虫の息でそう思ったのを少女は覚えている。

 男は、少女の腕をつかみ、川から引き上げると、再び問いかけてきた。


「強くなりたくない? 弱いからって、いいようにされるのは腹が立たない?」

「何でそんな事を言うの?」


 少女はもう、何もかもどうでもよくなっていた。

 帰るところはない。なら、死んだ方がいいかもしれない。生き延びても、きっと辛くて大変な事しか待っていないだろう。


「僕は、逃げる君を見ていたよ。領主の玩具になりたくなくて、逃げて来たんだろう? 君に起ったことは、僕から見ればとても理不尽な事にみえる」

「……世の中って、そういうものよ」


 あきらめきった答えは、男のお気に召さなかったようだ。


「ねえ、食い物にされる側から、する側にまわりたくない?」


 その言葉に、ほんの少し心が動くのを少女は感じた。男はさらに畳みかける。


「君をこんな風にした奴らに、復讐したくない?」

「……復讐?」


 今まで考えてもみなかった言葉に心がざわめいた。何もかもあきらめきって、ずっと物わかりのいいふりをしていた。

 だけど、心の中に押し込められていた何かはその言葉に強く反応している。


「復讐を……」


 少女はその言葉を噛みしめた。

 男は少女に向かって手を伸ばす。

 少女は力を振り絞って男の手をとった。

 男は、微かに笑ったようだった。


 ――その後、領主と村の女、そして山狩りに参加した数名の村人が、体から血をすっかり抜き取られた状態で発見された。犯人は未だにわからないまま、悪魔の仕業とみなされて、しばらくは近隣の村はその話題で持ちきりだった。


 美しい女の悪魔を見たと、まことしやかに吹聴する者もいたという。

 そうして吸血鬼として生まれ変わった少女は、全てを成し遂げた後、こころにわだかまる思いを抱えながら生き続けている。


 心まで怪物になるものだと思っていた。

 だが、心は未だ人間の時の情動を捨て切れていない。

 人の生き血をすする自分を嫌悪し、どうしようもない思いに迷わされる。

 男は、少女に自分を親だと思うように言った。


「僕は、闇の世界での君の保護者」


 それは間違いではない。

 吸血鬼として生まれ直すことが出来たのは、この男のおかげだ。

 男は何百年も生きているらしい。

 しかし、男はそれほど年が違うように見えない。

 妖物としては比類ない強さを見せる男は、普通の生活になじみがないと言っては、てんで生活力というものを持ち合わせていない。

 外観と広さだけは立派な、埃だらけで荒れ果てた男の館を住んでも問題ないまでに整えたのは少女の手腕だった。

 少女の手を煩わせることを頑なに固辞していた男は、ついに少女のセリフに折れた。


「私は貴方を復讐のために利用したのだから、貴方は私を利用し返す権利がある」


 日記のように記された少女の言葉はなかなかに勇ましい。

 少女は男の垣間見える頼りない部分を可愛いと思うようになり、彼女はそんな自分を必死に戒める。その部分だけでノートの三分の一を占める。

 馬鹿馬鹿しい、と切って捨てるには生々しく微笑ましい少女の葛藤があった。

 少女は記す。


「なんで私はこのような人ならざるものを愛してしまったのでしょう」


 時に拗ねるように。嘆くように。満足するように。

 幾つも記された同じ言葉は、どれとして同じニュアンスで発されたものはないだろう。

 人間だった少女は、怪物を愛した。


「貴方は何百年も生き続けることを不幸だと私に言うけれど、私は貴方と生き続けられることは幸せな事にしか思えない」

「結局貴方が何であろうとも、私は貴方を好きになってしまうんだろう」


 少女の思いは情熱的で率直で、読んでいて居たたまれなく感じることもある。

 男の気持ちはわからない。だが、ノートにあった数々のエピソードから、憎からず思っていたのではないか。そんな事も伺える。


(何で私は、この手記に共感を覚えてしまうんだろう)


 元々は人だったということもあるだろうが、人ならざるものであるにもかかわらず、その感情は驚くほどに人間くさい。

 ユニは読むほどに、人外の者に対して持っていた得体の知れない不安や恐怖感が、変質していくのを感じていた。


 怪物も誰かを愛する。

 その様を、ユニは丹念に読み込んでいく。

 ノートの最後に記された作者の署名に目を通して、ユニはため息をついた。

 ルヴィは何を思ってこのノートをすすめてきたのか。


 ノートに記されていたのは、エレン。

 ――ウィルの養い親の名前だ。



 日が落ちきって、空に星が瞬く頃、そっとユニの様子を見に来たマリアは、彼女に代わってベッドの上に置かれた手紙を見つけた。

 呆然とそれを手に取ったマリアの髪を、開け放された窓からふいてくる風がなぶる。

 そこには見知ったユニの文字で


『大好きなマリアへ 今まで本当にありがとう 

 勝手に家を出て行くこと、本当にごめんなさい 

 探さないで下さい ユニ』


 と、たった三行で書き残されていた。


「――ユニ!! どこ? ユニ! ――ユニ!!」


 叫ぶマリアの声に応える者は誰もいない。

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