第五章 愛は万人に
最近、ろくにルークは睡眠をとっていない。
ユニが消えてしまった。
それを聞いた時、ルークはアーカンジェルとユニのところへ行くところだった。知らせに来たのはウィルだった。
「おい大変だ! ユニがまたいなくなったらしいぞ!」
「ユニが? ――またあの崖の下なんじゃないか?」
驚きつつも、ルークはそう推測してみせる。十中八九そうだろう。ユニの足では、あのあたりまで行くのが限界だ。
「かもしれない。書き置きがあったらしい。ユニは最近不安定だから、それも心配だ」
(もしかしたら、ユニはルシとベルって奴らと一緒にいるんだろうか)
そう思えば、いても立ってもいられなくてルークは勢いよく踵を返した。ウィルが慌てて後を追いかける。
「おい、待てよ! どこに行くんだ!? 心当たりでもあるのか!?」
「家にバイクを取り行くだけだから、アーカンジェルと待っててくれ!」
「アーカンジェル? この人か? てか、この人誰なんだよ!」
ウィルの声を背中で聞いて、ルークは家にエアバイクを取りに走る。とりあえず、自分の出生の話は後回しだ。
自分の母親が宇宙人なんて、簡潔にまとめきれる自信がない。
いや、ひとくちに説明できる余裕がない。
――今は何よりもユニが最優先だ。
「そのルシとかいう奴に会って、もうユニには近づくなってガツンと言ってやる! 後ろに乗れ! アーカンジェルはサイドカーに!」
言い切ってルークはガレージのバイクに飛び乗ろうとしたが、アーカンジェルはそっと身を引いた。
「ああ、私はここから別行動にさせて頂きます」
「え?」
「ウィルくんに会いたかっただけだったので」
「俺? ……何か俺に話でも? と、いうかお前紹介しろよ。誰なんだ」
いぶかしげにウィルはアーカンジェルを見つめた後、ルークを睨み付ける。
「えっと……通りすがりの人で……えっと……人間……で……旅人?」
「説明になってない! よくわからないのに連れてくるなよ! 怪しすぎるだろうが!! 本当に人間なのか!?」
「大丈夫、人間だよ。それで、君たちの味方。話はないんだ。君が何なのか、見たかっただけ」
「何!? 俺が何だっていうんだ!? 何なんだお前!」
「ごめんごめん、他意はないんだ。確かめたかっただけ。大丈夫――君は、僕と同じだった」
のほほん、とアーカンジェルは言い切って、それじゃあ、と踵を返そうとした。
「アーカンジェル、どこへ!?」
「――人間の負の遺産をかたづけにいくんだ。これからの世界には不要なものだからね」
「は……?」
アーカンジェルは、最後に笑ったようだった。引き留めようとしたルークの手が、ウィルにつかまれる。
「ほっとけ! 俺も気にはなるが、今はユニが先だ!」
「――そうだな」
ウィルはもう後部座席に跨っている。
ルークはスロットルを全開にした。加速度的に速さが上がっていくが、気が急いているルークには遅くすら感じられた。
(ルシとベルと会ってから、ユニはボロボロだ。――相手が何だろうが、絶対そいつらとこれ以上会わせちゃいけない)
「ちょ、おまっ、速度落とせ馬鹿野郎!!」
「一刻も速いほうがいいだろうが!」
「事故を起すよりはマシだ!」
相手が黙っていないタイプなのが救いだと、ルークは思う。
無言でいると、嫌な事ばかり考えてしまいそうだった。
軽口で胸のモヤモヤをはき出してしまいたい。
加速と共に風になぶられていくルークのジャケットが激しくはためいていく。流れる景色は、何度も見た崖までの道。
青々と生い茂った草木が道端に揺れるのを横目に眺め、ウィルは考え込んだ。
何が本当で何が嘘なのかウィルには判断がつかない。
こんな牧歌的で平和な景色の中にいると、世界が一度終わり人間が殆どいない死んだような世界だということが嘘のように思えてくる。
――エレンの言葉を信じていたが、それが違っていたら?
案外、世界には人が溢れているのかもしれない。
この地球と呼ばれた星には七十億からの人がいたという。それをウィルは授業で聞いたことがあった。
なら、どこかにまだ人が集落をつくっていてもおかしくないのではないだろうか。
二人の人間というのは、エレンや、島の者達の勘違いなのかもしれない。
そう思うと、ウィルは安堵のような、不安なような何ともいえない気持ちになった。
自分が人間で、ユニも人間だとしたら、二人は結ばれる事が約束されたようなものだと思っていた。
だが、人がたくさんいるということは、選択肢が増えるということだ。
当然ユニは、別の人間を選ぶこともある。
「なあ、そういえば言っておかなきゃいけないことがあるんだ。この際、今言っとこうと思って。いいか?」
「――なんだ?」
ルークの改まった口調に、ウィルはいぶかしげな声を出しながらルークの背中を見すえた。
運転席のルークの表情を知ることはできないが、その口調はいつになく真剣で重々しい。
「あのさあ、人間がどれだけこの世界にいるか、俺にはわかんないんだけどさ。つまり――この島には人間が一組――男と女が一人づついるんだろ」
「そう……聞いている」
「あのさあ、俺……その人間じゃなかったみたいだ」
「――え?」
ぽつりと落とされた言葉は、あまりに小さくて風の音でかき消されてしまいそうなほどだった。かろうじて聞き取れたそれは、ウィルにとってあまりにも重大な報告であり、聞き取れたにもかかわらず、ウィルは思わず聞き返してしまう。
「だからさ、俺――」
ルークは言い淀んだ。ウィルの胸はざわざわと落ち着かなくなる。
そうだと良いと思っていた。
自分が人間で、他の者はそうでなければいいと。
だが、実際そうだと知るのは、ウィルをひどくいたたまれない気分にさせた。
普段ルークとはいがみ合っていながらも、自分の立場になって考えてみると、それは受け入れるにはあまりにも辛い事だ。
(自分だったら、耐えきれない)
ユニの事があるなら、余計だ。
(――そもそもこいつ、自分で気づいてるのかな)
ずっと一緒にいたウィルは、それを見ていた。
皆で遊ぶとき、ルークが一人だけ女の子であるユニには特に気をつけていることを。
ユニが元気がないと、慌てふためいて一生懸命元気を出させようとすることを。
誕生日の贈り物に、徹夜までして作り上げた不気味な機関人形(からくりにんぎよう)を、困惑したような顔で受け取られて、後でへこんでいたことを。
ユニに触れられた時は、顔を赤くして、それでも少し嬉しそうな顔をすることを。
(それって、好きってことじゃないか)
無自覚ほど、怖いものはない。
長い沈黙の後、ルークはまたぽつりと、口を開いた。
「俺の母さん、この星の人間じゃなかったんだって。だから、俺、宇宙人ってことにさ、なるんだ。だから」
たどたどしい言葉が、本人の心の痛みを表しているようで、ウィルは唇を噛みしめた。
宇宙人。
それがどういう存在かウィルにはピンとこない。
荒唐無稽すぎて冗談だと言われたら信じてしまいそうだ。
化け物だらけということでもありえないのに、この星の外から来たなんて、想像の範囲を超えすぎていて実感が全く湧かない。
(いつものようにあっけらかんとしてくれないと、調子が狂うじゃないか)
「だから俺、ユニと、お前とは、違うんだ」
「……そうか」
違わない、とウィルは口走りそうになった。
(そんな泣きそうな声で、言わないでくれ)
自分にとっての不安要素がなくなって嬉しいはずなのに、なぜか気持ちは重くなっている。
「でも、宇宙人だっていったって、別におまえらを襲ったりとかさ、地球侵略とか企んだりしないから、仲良くしてくれよな。今まで通りにさ」
真面目なんだか笑わせようとしているのかよくわからない事を宣言して、ルークは明るく話をしめようとしているようだった。
「バーカ、当たり前だろ。今まで通りに容赦なくやらせてもらうよ」
――普段通りに言葉を返せただろうか。気を使ったり、憐れんだり、そんな感情を一切込めることなく。
何でだろう、とウィルは思う。
人間だろうが他の何かだろうが、自分達は今まで仲良くやってきた。
他の星から来たり、人間でなかったり、それは自分達の関係になんの障壁になるんだろう。同じように笑ったり泣いたり悩んだり人を好きになったりしているのに。
「――そっか。お前が羨ましいよ」
それきりルークは黙り込んだ。
ふっと何かがウィルの頭によみがえりそうになった。
大事な何か。
(――なら、良かったのに。あいつが羨ましい)
ふいに、何か声が聞こえたような気がした。
「今、何か言ったか?」
ウィルはルークに問いかけた。問いながらも、それがルークの声でないことはわかっていた。
「あ? 何も言ってないけど」
否定の言葉を受けて、ウィルは何かを思い出せそうで思い出せない歯がゆさに苛まれる。
――愛してる
――俺が何であろうと好きになってくれとは言えない
――あの子は人間にとってはかけがえのないもので
――でもこの気持ちはしょうがないんだ
――いっそ
「――いっそ、全部忘れられたら」
「は?」
ルークがぎょっとした声をあげた。
「……いや、何でもない」
ウィルは頭一つふって今の白昼夢を追い出そうとした。
(……何だ今の幻想は。いや、幻覚か?)
まるで経験したことのように脳裏に甦った映像に、ウィルの心臓は激しく動悸する。
汗で背中が冷たい。顎の下をつたう汗に気がついて、ウィルはそれを乱暴に肩で拭った。
自分は訥訥と誰かに何かを語っていた。
その時のあきらめ、絶望、苦痛、そんな感情が甦り、吐き気すらこみ上げてくる。
「クソ、こんな時にわけのわからない……」
(まるで、今のは俺の過去の記憶のような)
そんな訳はないとウィルは目を閉じた。疲れているから、妙な幻聴やら幻覚を見ただけだ。ストレスの弊害というやつだ。
疾走するバイクの周りを吹き荒ぶ強風にあおられて、ジャケットがうるさくバタバタとはためいている。バイクの駆動音や排気音もつんざくように鳴り響いている。
ウィルは目をつぶり、ただ身の回りの音に耳を澄まして荒い呼吸を整えようとした。
このような時に、白昼夢に惑わされたくはない。
何も考えるな、とウィルは自分に言い聞かせた。
(深呼吸をしろ。疲れているんだ。少し休息をとればこんなもの見なくなる)
――お兄ちゃんはだあれ?
光の中で遊ぶ少女。
物陰から覗く自分。
リアルな幻覚にウィルの身がすくんだ。
自分は、強く思っている。
自分は、少女に愛されない。愛されることはない。
光の中で笑い合っている少年こそが、彼女の運命。
でも、陰から見ている自分に気づいてくれたから。
微笑みかけてくれたから。
話をしてくれたから。
また会おうと約束してくれたから。
自分に会いに来てくれたから。
その度に、自分はどんどん欲張りになっていった。
――全部忘れて、幸せになれ
その言葉が自分の声として脳裏に甦った途端、ルークは息が詰まるような絶望を感じた。
(――!? なんだ? どうしたんだ?)
比喩ではなく胸が苦しくなって、ルークは胸を押さえて荒い息をついた。
体の強ばりが伝わったのか、ルークがためらいがちに声をかけてくる。
「……おい、大丈夫か? 体調でも悪いのか?」
「……大丈夫だ、何でもない」
疲れているせいか、ウィルは喉がカラカラなことに気づいた。
「おい、水を持っているか?」
「サイドカーの足下につっこんだはず……」
指先で水筒を探り当て、ウィルは勢いよく水を口に注ぎ込んだ。
冷たい。よく冷えた水が喉に流れ込んでいく。
ここちよく一息ついて唇を拭うと、ウィルは胸を押さえた。違和感。不快感が胸の奥からせり上げてくる。
ゴホッ、と思わず咳き込むと、吐き出されたのは水だった。飲んだばかりの水が、口の端からしたたり落ちる。
「おい、本当に大丈夫か!?」
たまりかねてルークはバイクを急停止させた。
ウィルは尚も咳き込んでいる。
それはただの咳ではなく、まるで何かの病気を患っているように激しかった。
「おい!? どうしたんだよ!?」
「大丈夫だ、問題ない」
ハンカチでウィルは口を拭い、呼吸を整えた。
「最近、色々あったせいか、少し疲れがたまってるんだと思う。やたらと喉が渇くんだ。他に悪いところはないから、心配するな。とっとと崖に向かおう」
「……なら、いいけど」
半信半疑の様子でルークは前に向き直った。
「お前に何かあったらさ、――ユニが困るじゃん。だって、貴重な人間の男と女だろ?」
「他にも、人間はいるようだがな。それに、ユニの気持ちもある」
「――俺はさ、我が儘かもしれないけど、ユニはお前を選んでほしいよ。ルシなんていう変な奴じゃなくてさ。だって、お前ユニのこと好きなんだろ? ずっとお前、ユニの事、見てたじゃん」
「――――」
気づかれていた。
恥ずかしいと思うより、もやもやとした気持ちが勝った。自分が有利になってしまったことで、逆に引け目を感じている。
「頑張れよ」
「……ああ」
自分が逆の立場だったら、こんな事、言えるだろうか。
(言えないに違いない)
ウィルは俯き、ルークの背中に目を落とした。
喉が渇く。それはだんだんひどくなっているようだ。
体が弱いのは昔からだ。すっかり治ったと思っていたのに。
喉が渇く。水を飲んでも、なぜかその渇きが潤うことはない。
――喉が、乾く。
目の前には、ルークの首筋が見えた。
ウィルはごくりと喉を鳴らす。
無意識に。
「くっそう、あいつらどこ行きよったんや。勝手な事ばっかりしよってからに」
「友達だって事になってるけど、肝心な時にいつも仲間はずれだね。人望ないんじゃないかい?」
レヴィの指摘に高弥は傷ついた顔でうずくまる。その背中に朱典が慰めるようにポンと手を置いた。
「……気ィ使わんでもええよ。あ、それは気持ちだけでええから」
そっと差し出された饅頭を、やんわりと高弥は断った。
「しかし、早く探さなくてはな。嫌な気配も漂っている」
マクシムは険しい顔で虚空を見つめている。何もないそこに、まるで悪しきものがいるかのように。
「子供達の行き先は、わかっているのか? 知っているなら早く言え」
珍しくエレンも焦った様子で高弥を睨み付ける。
「多分、携帯を見つけたいう崖下やと思うわ。マリアはもう後を追っかけとる」
「あいつは、匂いで後を辿れるからな」
「君も出来るんじゃないの? 鼻、いいんでしょ」
レヴィの言葉をエレンは無表情な顔で受け流す。
「我々の能力は、適切な栄養を摂取しなければどんどん退化していく。今の私は、ただの人間よりもマシな程度だ」
「へえ、そういうもんなんだねえ」
「生まれつきの人外でもない限りは、そういうものなんじゃないか? 人間であった時の意識が根幹にあるわけだしな」
エレンはそっけなくそう答える。
「だから、あの子は人間としてずっと生きてこられたんだね。産まれながらの怪物に比べれば、記憶操作も容易だろうしねえ」
瞬間、氷のような視線をエレンはレヴィに向けた。
「余計な事を言うな」
「余計な事だったかな」
レヴィは瞬時に冷えた空気に気づかぬ体で微笑を浮かべている。
「あー、お話し中のとこをすまんけど、俺、探しにいってくるで」
妙な空気を厭うように顔をしかめながら、高弥は翼を広げた。無言のエレンとレヴィに代わって、マクシムがそれに応える。
「ああ、よろしく頼む。私と朱典はルークの母親に呼ばれているから、そこに行ってから後を追いかける。何かあればすぐに駆けつける」
「私も行こう。場所を教えてくれ」
高弥に声をかけるエレンに、レヴィが「そういえば」と緊張感なく言葉を発した。
「君の保護者が、君に話があるみたいだったよ」
「話――?」
エレンの顔に緊張が走る。わずかな逡巡の後
「今は悠長に話をしている場合ではない。今はウィルの元へ行かなければ。それが片付いてからでいいだろう」
と、振り切るように背を向けた。
「向こうもかなり大事な話だったみたいだけどね。マリアに高弥が探しに行くんだろ? こっちを片付けてからでもいいと思うんだけどなあ」
まるで世間話をするように、レヴィは笑みを絶やさない。焦りが色濃く現われている周りの人々の中で、彼だけはいたって平静――むしろ、この状況を楽しむような様子をみせている。
そんなレヴィにも、そしてその話の内容もエレンを苛立たせるのに充分だったようで、血が出るかと思うほど唇を噛みしめ
「わかった」
と一言吐き捨てるとエレンは踵を返した。
「――私は一度家に戻る。用が終わり次第、後を追いかける。場所を教えてくれ」
「ああ、俺、その崖下がどこか知ってるから。案内するから、同行しよう」
当たり前のようにエレンに並んだレヴィに、それだけで殺せそうな視線を向けると、エレンは無言で走り出す。
その様子に残りの面々は顔を見合わせたが、最初の予定通り三々五々散っていった。
「――お前、面白がっているだろう」
「そんな事はない。俺は自分なりに責任を感じているし、この顛末を最後まで見届けたいと思っているだけだよ」
家路を走るエレンの速さは、常人では到底追いつけないものだが、レヴィは息一つ切らさずに併走している。
「なら、真剣味が感じられないのは、私の気のせいか? そのにやけ面は不愉快だ」
「顔の作りに文句を言われても困るな。これでも、美形だと定評があったんだよ」
チッと音高く舌打ちをして、いかにも忌々しそうにエレンはレヴィに刺すような一瞥を投げつけ足の運びを速めた。強く地面を蹴り、長いストライドで飛ぶように駆けていく。
この先には、自分の『親』が待っている。
(あの人に会いに行くことがまたあるなんて、思いもしなかったな)
もう二度と会うことはないと思っていた。
――だって自分は、彼――ラザロを殺そうとしたのだから。
話はわずかにさかのぼる。
『崖で待ってる』
ルシからそう言われ、ユニは最小限の荷物をまとめると、制服に着替えてそうっと部屋を抜け出し、崖へと急いだ。
(もっと、色々書き残しておけばよかったかな)
もう会えないかもしれないと思えば、色々と言いたいことは浮かんできたが、書く端から、こんな事を書いても仕方がないと片っ端から破り捨てた。
人でない者に育てられた事に、困惑と恐怖を抱いたことは確かだ。しかし、考えるほどに優しかった皆との思いでばかりが甦り、ユニは何を信じて良いのかわからなくなっていった。
最後に残ったのは、謝罪と感謝の言葉だけだった。
(こんな形で会えなくなるなら、もっとマリアや皆としゃべっておけばよかった)
考え抜いて出した結論は、皆と離れること。
マリアや島の皆を嫌いになることはできない。でも、色々な事を知ってしまった後で、今まで通りにやっていくのはどう考えても無理だった。
言葉だけでこんなにぐらぐらと心が不安になっている。
不安定な中、半ば逃げるようにルシの言葉に飛びついたのだが、ユニはルシの元へと走りながら、早くも後悔ばかりが浮かんできていた。
「ルークとウィルは、私がいなくなって、どう思うかな」
ぽつりと独り言がこぼれ落ちる。
あの二人は人ではなかったら何だったんだろう。それを知りたくもあるが、知ってしまって、恐怖や嫌悪を抱いてしまったら?それを二人に気づかれたら?
考えるほどに身動きがとれなくなっていく。
ユニの脳裏に、自分が人狼であると告白したマリアの様子がよぎった。
何でもないように――しかし、声と指先がわずかに震えていて、ユニには知られたくなかったんだろうと容易に知れた。
傷つけた。咄嗟にそう思ったが、謝ることもできなかった。
「……後悔ばっかり」
人でない者は怖い。書物で知る彼らの生態は、人を害し残酷で粗暴なものばかりだった。
でも、ユニのまわりの者たちは、みな優しくて格好いい人達ばかりだった。ずっとそう思ってきた。
いつしか、ユニの頬を涙が伝っていた。
何を信じて良いのか、もうわからない。
怖いという感情を抱えながら、ユニはまだ彼らが好きなのだ。
この気持ちは、どうしたって変わらない。捨てることもできなかった。
しゃくりあげ、歩いたり、走ったりしながら、ようやく崖が見えてきた。
ユニはぼんやりとその方向を見はるかす。誰かが立っているのが見えた。
殆ど日は落ちて、たそがれ時と言われる時間だ。暗くなって誰が誰だかわからないから、こう呼ばれるようになったと、朱典から聞いたことがある。
朱典は、大飯ぐらいのマイペース人間であるが、知識は誰よりも豊富だった。色々な事をユニは教わった。
「別名は、逢魔が時ともいうのですよ。この世ならざるものが現われる時間帯……。くれぐれも気をつけて下さいね」
真剣にユニ達に教えてくれたことは、今となっては可笑しいことだと思う。
当の朱典達こそがこの世ならざるものだっただろうに。
ユニはいつしか走るのをやめて、一歩一歩、足を踏みしめるようにしてその影に近づいていく。
「やあ、早かったね」
その声は聞き慣れたもの。だが、直に聞くとどこか違和感があって落ち着かない。
「……走って来たから」
地平線には、まだ一筋の太陽が残っている。薄紫の空の中、ルシはゆっくりとユニに近づいてきた。
(彼は、同族。同じ人間)
しかし、なぜかちぐはぐな感じがつきまとう。
薄暗闇の中、白く浮き出たルシの顔は、驚くほど整っていた。ユニは美術の授業で見た石膏像を連想する。綺麗だが、無機質。そんな印象だ。
その白皙の美貌は黒い髪に縁取られ、羽織ったマントも黒い。あたりが暗くなるに従って、闇に溶け込んで行ってしまいそうだ。
彼は、ユニの手を取る。それは、氷のように冷たい。思わずユニは手を引っ込めてしまいそうになった。
「ごめん、いきなり。驚かせてしまったかい?」
「……少し。私こそ、ごめんなさい。えと、ベルは?」
二人っきりでいることが落ち着かなくて、ユニはあたりを見回した。
「近くにいるよ」
「……そう。他の人達は、一緒なの?」
「近くにいるよ」
「じゃあ、そこに行きたいわ。どこにいるの?」
「この崖の下だよ」
ユニは崖っぷちに立ち、あたりを見回した。やはり、降りられるような場所は見つからない。
「どうやって降りるの? そういえば、ルシはどうやって崖の下からここに登ってきたの? 秘密の階段でもあるのかしら」
「簡単だよ。こうやるのさ」
気づけば、すぐ背後にルシが立っていた。息づかいが聞こえるほどに近い。ぎょっとしてユニが振り返ろうとした刹那――。ルシの手がふいに伸びてきた。
「――あっ」
それは一瞬のことだった。何が起ったのか、すぐにユニは把握できなかった。
ルシが、ユニの背中を突いた。
体が、空へおどる。制服が風をはらんだ。全身が嫌な浮遊感につつまれ、落下していく。振り返れば、崖の縁でルシが笑みを浮かべて自分を見下ろしている。
ユニはそれら全てを、スローモーションのように知覚し続ける。
(――私、死ぬの?)
最後に、誰かの顔が思い浮かんだ。それは、ルークだったか、ウィルだったか、それとも二人ともだったのか。
それを確かめる間もないまま、ユニの意識は途切れる。
宙に舞ったユニの体は、一瞬崖から突き出た木の根にひっかかる。奇しくもそれは以前ユニが崖から落ちたときに彼女の体を受け止めたものだった。
だが、一度折れたそれは、ユニの体を支えるには至らなかった。落下の勢いで根から滑り落ちたユニの体は、無防備に地面に激突するかに見えた。
ルシはそれを、見続けている。その表情は喜び――狂喜ともいえる表情で彩られていた。
待ち望んでいたことが今実現しようとしている。それが成るのは、もうすぐだ。
その時、ルシの脇を、突風が吹き抜けた。
「急げ!!」
「わかってる!!」
その声は、二人の少年のもの。
目の前を、少女の代わりにバイクが爆音をたてて落下していく。
「――な!」
ルシは自分の目が信じられなかった。
「っしゃあ!」
「よし!」
その二人は、あわや激突という瞬間にユニをすくい上げ、歓喜の雄叫びをあげたのだ。
が、バランスを崩したのか、車体は大きく傾き、軋むような嫌な音を立てる。排気口から鈍い異音が轟いた。
「ヤバイ、故障だ!!」
運転席の少年は、早口でそう言うと、後部座席の少年が抱えていた少女を横抱きにして転がり降りた。逃げながらも、運転席の少年を罵ることは忘れない。
「ここで故障ってふざけんな!」
そんな彼らの脇をバイクは炎を上げたまま崖を落下し、地面に叩きつけられるなり炎上した。
これを崖の上から呆然とルシは見続けていた。
「あっぶなかったなあ。みんな無事でよかったよな」
「あぶなかったですむ話か! どうやって帰るんだ!」
「大丈夫、何とかなるだろ」
少女を抱えたまま笑う少年の声に、ルシは怒りで我を忘れそうになった。
もう少しで、望み通りになったものを――!
邪魔な奴は、排除しなければ。
足を踏み出しかけた瞬間、後ろからささやき声が聞こえた。
「素敵な男の子ね。私、ああいう人、好きだわ」
ルシは動きをとめた。聞き返さなくても、どちらを指しているのかは、わかる。
「仲間に、加えるか?」
「ええ。とりあえず、邪魔な奴はどこかへ行ってもらわなくてはね」
そのやりとりだけで、意思の疎通は図れる。
「なら、まず僕たちの家へ案内しよう。せっかくここまでご足労いただいたんだ」
そういって笑うルシは、まるで魔性の生き物のように、ぞっとするほど美しく、怪しくみえた。
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