第六章 死よりも強きもの
昼間は比較的過ごしやすい気候であるが、川の近くのせいかこのあたりは夜は冷え込んで制服だけで過ごすのは、いささか厳しい。
ろくに用意もせずに来たので、マッチやライターなど火をおこすものがないため、皆は体を寄せ合って暖をとることにした。といっても、ユニはまだ意識が戻らない。ユニに二人のジャケットを着せかけ、それを囲むように体をくっつける。
「……寒いな。早く他の奴ら、来ないかな。マリアは先に探しに来てるはずなのに、どこで迷ってるんだろ」
手に息を吹きかけると、息が白くなる。ルークは二三度それを繰り返して
「見てるだけで寒くなる。やめよう」
と手をポケットに突っ込んだ。
ウィルは平然として
「お前のいつものガラクタに役に立つようなものはないのか」
とユニの手を握りながら言う。脈はあるが、目を覚まさないのが気にかかっていた。外傷はない。だが、あの男に何かされていたら。
(あいつ、同じ人間なのになぜユニを害するような事をする? 一歩間違えば死んでいただろうに――)
そう思うと、怒りがつのるばかりだ。
「――今役に立ちそうな発明品は、ないな」
ズボンやジャケットのポケットをひっくり返し、ルークは幾つかの『発明品』――ウィルがいうところのガラクタをばらばらと地面に転がしてみせる。
「なんだそれ」
「え? トリモチと、方位磁針。あとは、防犯ベルだな。他にも秘密兵器がいくつか」
「見事に役に立たない奴ばかり持って来やがって」
「トリモチは、崖の下から登る事を考えて持ってきたんだよ」
「じゃあ、さっさとそれを使って崖を登ればいいだろうが!」
「一つ、誤算があったんだ。それは、俺が思ったより崖が高かったって事で――。このトリモチのロープの長さだと、崖の上の木に届かない。あと、やっぱり人間の体重を支えるにはこの構造じゃ厳しいかなって」
「何から何まで使えない!!」
吐き捨てて、ウィルは黙り込んだ。喉の渇きはますます増している。
(――しょうがない。川の水でも飲もうか)
立ち上がろうとすると、もたれ掛かっていたユニの体が滑り、流れ落ちた髪の下から白い喉が露わになった。
ごくりと、ウィルの喉がなる。
(――なんて、美味しそうな)
思わずふらふらとうなじに手が伸びた。
「あっ!! ウィル! お前何しようとしてやがるんだ! このドスケベ!」
そのルークの声に、はっとウィルは我に返った。
(俺は今、何をしようとした?)
ぞっとした。殆ど無意識に、ウィルは動いていた。
「お前、ユニの事が好きだって事は知ってるけど、それは駄目だろう? 意識のないユニに何かしようだなんて――」
何かルークが言っているが、ウィルには殆どそれは耳に入ってこない。
ウィルは立ち上がり、そっとユニをルークに渡した。
「喉が渇いたから、川に水を飲みに行ってくる。しばらくここを離れるから、ユニの事はまかせた」
「ちょっと待てお前、大丈夫なのか?」
咳き込むウィルにルークは心配そうな目を向けるが、それを振り捨てるようにウィルは川へ向かった。これ以上ユニの側にいると、自分が何をするかわからない。
混濁する頭で、ウィルはぼんやりと思う。
(自分は、もしかしたら人間ではないのだろうか――)
「そんなはずはない。ルークが人間じゃないなら、俺は人間だ。人間であるはずだ」
今まで、何も変わった力など持たなかった。怪力でもない、年だって普通にとる。
その時、ウィルは気がついた。
(俺は、本当に、年をとっていた?)
昔の記憶が、なぜか朧にしかない。混乱しているせいだ。そう自分に言い聞かせる。年はとっているはずだ。ユニや、ルークと同じ時間を重ねてきた。
「そうだ、そうだよ……。俺は、人間だ。……人間でしかありえない」
喉が焼けつくように渇く。
ウィルは川に手を伸ばした。
「――――っ?」
川に浸した部分が、だるく重く感じられる。
何かこの川がおかしいのだろうか。毒でも流れているのか?
咄嗟にそう思い、慌てて手を引っ込めた。
「……流れる水に弱い」
「――!?」
ふいに聞こえた声に驚いて振り返ると、そこには見知らぬ少女が立っていた。黒いマントにすっぽりと覆われた小さな体は、夜に溶けていきそうなほど儚く見える。そこから漂白されたように真っ白い顔が闇の中に浮かぶように覗いている。隙間から流れる長く柔らかそうな髪が、夜風になぶられて揺れている。
可愛らしい少女だった。
「――君は?」
ウィルは警戒しながら態勢を整える。いかに少女といえど、こんな夜中に、こんな場所に一人でいるというのは、明らかに怪しい。
「私は、ベルよ。あなたは、ウィルだったかしら。ユニから聞いたことがあるわ」
ウィルは目を眇める。
「じゃあ、君は人間――なんだよな?」
「そうよ」
ベルは口の片端をつり上げるように笑う。
「じゃあ、同じだな。……俺も、人間だ」
ベルの笑みが深くなった。
「喉が渇いているんでしょう?」
唐突にそう言うと、一歩一歩、おどるような足踏みでウィルに近づいてくる。
「ふふ、喉の渇き、流れる水に弱く――人を惹きつける美しい姿。昔本で読んだとおりだわ」
すい、と伸びた手が、ウィルの髪に触れた。
「――何を!?」
驚いたウィルは、その手を振り払い、飛び退ろうとした。その瞬間、川に足を踏み入れてしまう。
「うわっ、冷た……!」
慌てて足を上げようとしたが、その足に力がうまく入らない。態勢を崩してウィルは川縁に尻餅をついた。
「――なんだ?」
どうにも調子が悪い。自分はやはり何かの病気なんだろうか。
ぼんやりとそう思ったとき、背中に衝撃と激痛が加わった。
「――――ッ!?」
(蹴られた!? あの女!?)
勢いで川に転がり落ちたウィルは、死にものぐるいで顔をあげた。深さはそれほどでもないのに、流れが速い。早く立たなければ。そう思うが、体にうまく力が入らない。もがくほど体力を消耗し、川底の石で体が傷ついていく。
川岸でベルはウィルを無表情に見下ろしていた。
「おい、な、何の冗談んっ、だ! は……く、た、す……け、ろ!!」
水に飲まれながら必死に怒鳴り続けるが、相手はウィルを見下ろしたまま微動だにもしない。白い顔の中で、口だけが小さく動き始めた。
「化け物を助ける気はないわ。――汚らわしい」
吐き捨てるように言われた言葉に、ウィルは深く切りつけられた。
「ばけ……も、の?」
違う、俺は人間だ。
そう叫びたかった。
だが、頭の上まで川に飲まれ、ウィルはそこから逃れることができない。体からどんどん力が奪われていく。
――俺は人間だ。ユニと同じ――。
意識を手放す前に、ウィルはただそれだけを思った。
廃園は、湿った土の匂いと青臭い植物の匂いで溢れていた。感覚がだいぶ弱まった今でも鼻につく。当時は、吐きそうなほど臭くて、吐き気だか嗚咽だかわからないような状態でこの花園を後にした。
レヴィは無言でエレンについてくる。邪魔をするつもりはないということだろうか。
気を使う気もさらさらなかったので、エレンは話かけることもなく足早に園内に足を踏み入れた。
(ここは、あの人のお気に入りの場所だった)
あの人の趣味で、ここには雑草と見紛うような草花ばかりが生えていた。その点は何も変わっていない。誰も近づかず手入れもされていないので、錆び付いてぼろぼろになったアーチや柵が、経った時の長さを示している。
いわば、エレンにとってこの廃園はまるごと墓標のようなものだった。
エレンは黒い扉の前に立つ。打ち付けられた十字架には、何の意味もない。わかっていながらつけたのは、戒めと誓いの印のようなものだった。
殺しきれなかった自分の為に、甘んじてここに封じられてくれた。そんな保護者の気持ちを良いことに、全てなかったことにしてエレンは日々を過ごしていた。
「……そんな事、出来るわけもなかったのにね。――ラザロ様」
その声を合図のようにして、静かに扉が開いていく。エレンも、背後に立つレヴィも予想したように静かにそれを見守っている。
完全に開かれたそこから、一人の男が現われた。黒づくめのマオカラースーツに身を包み、一見神父の祭服であるキャソックを着ているように見える。それほどにストイックで穏やかな空気を身に纏っていた。
しかし、明らかに異様なのは、その体の真ん中、胸の中心に杭が貫いていることである。男が歩く度、まるで今、杭に打たれたように血が滴っていく。エレンはいつしか俯いていた。そのありさまで、男はにこやかに二人に挨拶をしてみせた。
「やあ、ひさしぶり。元気かい? 他の皆は変わりはない?」
よくある日常の挨拶だ。だが、男の様子はあきらかに日常とはほど遠く、その光景はまるで悪夢の中に入り込んでしまったようにエレンにはうつる。徐々に蓋をしていた記憶が蘇っていった。
(この杭を打ち付けたのは、私だ。だが、殺す事はできなかった)
「――それだけじゃ駄目だよ」
記憶のラザロが自分に話しかける。
「首を落として焼かなければ、俺は死ぬことが出来ないんだ」
口から血を流しながらそう自分に教えるラザロを見ている事ができなくて、エレンは逃げた。あの子のために、そうしなければいけないと覚悟したはずなのに。
「で、彼は? また会えるのを楽しみにしていたんだけどな。私がこうだから、彼にも体調に妙な影響が出てるんじゃないかと、心配していたよ。なにせ、『親』になって日が浅い分、安定していないだろうと思ったからね」
足下に広がっていく血だまりの中、ラザロは笑みすら浮かべてウィルの行方を聞いてくる。
「あの子はここには、いない。昔は貴方の影響が強かったけど、最近は、体も丈夫になってきて、何の問題もないから」
言葉を交わしても、目を合わせることはできなかった。下を向いていると、ラザロの足下の血だまりが嫌でも目に入ってくる。
自分のしでかしたことを突きつけられて、エレンは震える手でズボンの裾をつかんだ。男装している自分は、好きだ。わざと男のような言葉を使い、堂々と振る舞う。男でも女でもない、それらを超越したものであるような錯覚のなかで、エレンは生きてきた。
(だが、この人と会ってしまえば、ただの小娘に戻ったような気がする)
エレンは唇を噛みしめた。
そんな二人を見ながら、淡々とレヴィは口を開いた。
「で、用ってなんなんだい? 今は色々と取り込み中で忙しいんだ。要件は手短に頼むよ」
「――ああ」
エレンを穏やかに見つめていたラザロは、今気づいた、というようにレヴィに向き直った。エレンは黙って俯いたままだ。
「そう、用というのはね。他でもない。あの子の事だ。――ウィルと言ったかな」
「はい」
「立派になった。君の育て方がよかったんだろうね」
「……いえ」
「あの子の姿を見ることが出来て、よかった。それに関して、お願いがあるんだけれど、いいかな?」
「――お願い、とは?」
エレンは顔をあげた。ラザロは自分を静かに見ている。顔には、怒りも悲しみもない。何もかも受け入れたような安らかささえ感じられた。それを目の当たりにして、エレンの方が苦しくなる。
「今まで中途半端に長らえてきたけれどね、そろそろ、終わりにする時期にきていると思うんだ」
ああ、とエレンは自分の喉が呻き声をあげるのを聞いた。
「それはあの子と、君のためでもある」
「――わかっています」
自分も、そのためにラザロを――恩人というべきこの人に杭を打ち込んだ。まだこの手に、その時の感触が生々しく残っている。
「君たちがこのままでいたいのなら、俺はこのまま眠り続けるよ。でも、そうでないのなら、さっさと俺の心臓を杭で打ち――その後に首を切り落として燃やしたらいい。君たちが、人間に戻るためには」
「……わかっています! あなたからそんな事、言わないで」
エレンは膝をつき、顔を覆った。
今までうやむやにしてきたこと、それにきちんと片をつける時だ。
それは頭でわかっていても、どうしても何かがそれを拒む。
「なかなか、難しいんじゃない? なんたって君はエレンの命の恩人だしさ」
「命を助ける代わりに、化け物にしたとしても?」
恐ろしいほどの沈黙が訪れた。誰も微動だにもせず、皆誰かが口を開くのを待っている。少しの後、ゆっくりとエレンは立ち上がり、表情を見せずにラザロに言った。
「わかりました。少し、考えさせて下さい。これは私だけの問題ではなくなっています。あなたは、私と――ウィルの『父』ですから。ウィルに――真実を告げてから、また……来ます」
「そうか、待っているよ」
ラザロの足下の血だまりはいつしか消えていた。夜の空を仰ぎ、ラザロは眉根を寄せた。
「ウィルが――危ない」
「――!!」
弾かれたようにエレンは踵を返し、駆けだした。レヴィはラザロを一瞥した後エレンを追っていく。ほどなくおいついたレヴィは、そっと声をかけた。
「気持ちの整理は、ついた?」
「そう簡単につくわけはないだろう。ついていれば、何年もあの人をあのままにしておくわけはない」
エレンの答えは素っ気ない。だが、気にした様子もなくレヴィは肩をすくめて、併走する。そのまま二人は飛ぶように走り続けた。
(私じゃ、何がウィルに起っているのかわからない。『父』であるあの人だから感じることができたんだろう)
間に合ってくれ、とエレンは祈る。
本当に、不思議なことだ。自分が誰かを心配することなんて、この体になってからはあるはずがないと思っていた。
ウィルと出会ったのは、あの隕石が落下した後の事だった。
地獄。
まさにそうというしかない惨状の中、エレンはウィルを見つけた。
その少年は虫の息で倒れていた。その時にはそんな光景は珍しくなくなっていたため、そのまま無視をしてもよかっただろう。
だが、いくつもの死体が折り重なる中、まだ息のある少年は、見捨てがたかった。だから、見つめていると、ラザロが提案をしてきた。
「この子、連れて行く?」
力なく横たわる少年は、もういくらも寿命が残っていないだろう。放置すれば、死が待つのみだ。しかし、連れて行ってどうするのか。同族に加えたとしても、それはこの少年にとって良いことなんだろうか。
エレンは昔の自分を思う。
美しいと近隣の村々で評判だったエレンは、金持ちの老人のところへ大きくなったら嫁ぐことが決まっており、あきらめと共にそれは受け入れていた。
母は早く死に、父の後妻はエレンを疎んでいた。老人だろうが、まだ嫁に行った方が大事にされるかもしれない。
あえてそう希望を持つようにして日々を過ごしてきた。だが、ある日事態は急展開する。
狩に来た地方の領主が、エレンを見初めたらしい。ここまでなら、ハッピーエンドの童話のようである。しかし、その領主は加虐趣味の持ち主として有名であった。
意に染まぬ受け答えをした小間使いを館の三階の窓から突き落とす、気に入った娘を呼び寄せては飽きたら森に放置する、など枚挙に暇がない。
領主から下賜された金に目のくらんだ後妻は、あっさりとエレンを領主に引き渡すことに決めた。その時、エレンの心も決まった。
――この家から逃げよう。
だが女の足で逃げ切れるわけもなく、追い詰められたエレンは森の崖から転落し――レヴィと出会った。
「生きたい?」
川に突き出た岩の上で、真夜中にそう問いかけてきた男を、エレンは悪魔に違いないと思った。
(人が、こんなところにいるわけはない)
果たして、男は水の上を歩いてきた。
キリストでもあるまいし。
虫の息でそう思ったのをエレンは覚えている。
「びっくりした? 僕は、吸血鬼の中でも特別に強いんだよ。まあ、流れる水だとやばいけどね――」
子供のように笑い、男は水に沈むエレンの顔を撫でた。その手つきが優しくて――吸血鬼という言葉を、一瞬聞き逃しそうになった。
理解すると同時に一瞬怯えもしたが、後は死ぬしかない身だ。あきらめと共に開き直れば、頬を撫でる男の手は今まであった誰よりも心地よく感じられた。
男は、エレンの腕をつかみ、川から引き上げると、再び問いかけてきた。
「強くなりたくない? 弱いからって、いいようにされるのは腹が立たない?」
「何でそんな事を言うの?」
エレンはもう、何もかもどうでもよくなっていた。帰るところはない。なら、死んだ方がいいかもしれない。生き延びても、きっと辛くて大変な事しか待っていないだろう。
「僕は、逃げる君を見ていたよ。領主の玩具になりたくなくて、逃げて来たんだろう? 君に起ったことは、僕から見ればとても理不尽な事にみえる」
「……世の中って、そういうものよ」
あきらめきった答えは、男のお気に召さなかったようだ。
「ねえ、搾取される側から、する側にまわりたくない?」
その言葉に、ほんの少し心が動くのをエレンは感じた。男はさらに畳みかける。
「君をこんな風にした奴らに、復讐したくない? 僕だったら許せないな」
「……復讐?」
今まで考えてもみなかった言葉に心がざわめいた。ずっと物わかりのいいふりをしていた。だけど、心の中に押し込められていた何かはその言葉に強く反応している。
「復讐……」
エレンはその言葉を噛みしめた。
――その後、領主と村の女、そして山狩りに参加した数名の男が、体から血をすっかり抜き取られた状態で発見された。犯人は未だにわからないまま、悪魔の仕業とみなされて、しばらくは近隣の村はその話題で持ちきりだった。
美しい女の悪魔を見たと、まことしやかに吹聴する者もいたという。
そうして吸血鬼として生まれ変わったエレンは、全てを成し遂げた後、こころにわだかまる思いを抱えながら生き続けている。
「一応聞いて置くけど、君はこれから人間じゃなくなるんだよ。いいのかな?」
血を交換して吸血鬼に転化する前に、ラザロはエレンにそう問いかけた。その時は復讐という言葉に突き動かされていたため、その事を実感する暇はなかった。
しかし、生きれば生きるほどにこの問いは重くエレンにのし掛かってくる。
それを、この少年に背負わせてもよいものか。
エレンは、少年を見下ろす。ラザロは何も言わずに傍らに立っている。
その間にも、少年の息はどんどん細く小さくなっていく。
せめて、死んだら弔ってやろう。そう考えて、地面から、そうっと抱き起こそうとした、その時。
「……い」
少年が何かをささやこうとしている。
「何だ」
耳をよせて、エレンは少年の言葉を聞き取ろうとする。何かを言い残そうとするのなら、できる限りの事は叶えてやりたかった。これも、何かの縁だ。
「……死にたくない。こんなっ……いきなり……」
少年は、あらん限りの力を振り絞ったのだろう。前よりもしっかりとした言葉は、ラザロの耳にも届いた。
エレンは少年を抱きしめたまま、身動きもできない。もう、普通の方法ではこの少年を救うことはできないだろう。体が弱りすぎている。
助ける方法なら、ある。
だが、それをしてよいものだろうか。エレンは逡巡し続ける。隣でラザロが動いた。
「じゃあ、貸して」
手を出すラザロに、エレンは困惑した目を向けた。
「……しかし」
「死にたくないって言ってるだろう? じゃあ、願いを叶えてあげようよ」
「永遠に年をとらず、死なない吸血鬼になるなんて、後で知ったらどう思うことか……!」
「かえって喜ばれるかもしれないよ? 大丈夫、僕はちゃんと責任をとってあげるから」
「責任をとる?」
ラザロの眼差しに迷いはない。
「死にたくなったら、殺してあげる。あと、これが終わったらいいことを教えてあげるよ」
エレンの腕からそうっと少年を抱き上げ、ラザロは少年の襟元をひらいた。
呻き声が聞こえる。
それは少年のものではなく、自分のものだと気づいたのは、すべての事が遂げられたあとになってからだった。
呆然とするエレンから視線を外し、指先で口を拭いながらラザロがつぶやくように言う。
「吸血鬼って言うのはね、元の人間に戻る方法があるんだよ」
「――え!?」
エレンの眼差しから逃げるように、ラザロは顔を逸らし気味に言葉を続ける。
「その人間を転化させた、親の吸血鬼を殺せば、戻ることができる」
「…………」
エレンの目線で言いたいことを察したように、ラザロは微笑んでみせた。
「レヴィに頼まれて成り行きで君を吸血鬼にしたんだけどね。君との時間が案外楽しくて、今まで教えるのを忘れていたよ」
エレンの呼吸が苦しくなった。人ではあるまいし、楽しいだなんて。
――エレンには理解できなかった。
エレンは、今までのラザロとの生活を思い出す。長い長い時間、ラザロは今までエレンが知らなかった、仲むつまじい家族のような時間を与えてくれた。二人で色々なところへ行き、色々なものを見た。親子のような、兄妹のような、恋人のような。
そんなラザロを。
「吸血鬼を倒すには、ちゃんと作法があるのを知ってるか? とりわけ普通の方法では僕は死なない。生まれつきだからね。いいかい? まず、心臓を杭で貫いて、それから――」
何年か後、エレンは忠実にこの方法を実行しようとした。
それは、人間の少女に恋をしたウィルのためだったかもしれない。それを助けるために、ユニとルークの記憶の操作までした。同じに年を重ねていると思わせるために。
あるいは、ただひとつ記憶に残ったラザロの言葉のせいかもしれない。
「長く生きすぎたしね。ずっと死にたいと思っていたよ。もういい加減うんざりだって。だから、君やこの子に殺されるのなら、僕は本望だよ」
そうつぶやきながら、ラザロは転化させた腕の中の少年を見ていた。その眼差しは父のようであり、兄のようでもあり、優しさと慈しみに溢れていた。
ラザロほど人臭い吸血鬼はいないのではないだろうか。そんな彼を『父』に持つから自分は色々と考えすぎてしまうのだろうか。
エレンは考える。考えながら走り続ける。自分の『弟』というべき少年を救うために。
(少なくとも自分ができることは、ウィルを救い、彼が望むのなら彼を人間に戻してやること)
それはラザロも望むことではないだろうか。エレンは遠い日の言葉を思い出す。
走るエレンの目の前に、崖と川が見えてきた。エレンは踏み台のごとく、崖を一飛びに飛ぶ。川の中程、ウィルの服が浮かんでいる。
「あそこだね」
言われなくてもわかっているとばかりに、エレンはその方向へ飛ぶように駆けていく。流れる水は、吸血鬼にとって弱点になりうる。
しかし、ためらわずにエレンは飛び込んだ。後ろでレヴィが何かを叫んだような気がしたが、かまってはいられない。流水が力を奪っていくが、無理矢理力を振り絞った。たゆたう腕を捕まえ、エレンはぐったりしたウィルを引き寄せる。川岸に近づこうとしたが、足にうまく力が入らない。
(せめて、ウィルだけは……!)
力を振り絞ってウィルを岸縁へ押そうとしたら、腹を抱え込まれ、持ち上げられた。その相手――レヴィは、ウィルを肩に担ぎ上げている。
「君、無謀すぎるだろう。せっかく一緒にいるんだから助けを頼んでくれればいいのに」
抵抗する気力もなく、全身から水をしたたらせ、濡れ鼠のようなエレンはぼそぼそとつぶやいた。
「自分で助けたかったんだ」
「それで二人とも死にそうになっていれば、世話はないよ。自己満足で、全く意味がない。……本当に、君たち人間は予測不可能だなあ」
人間でないことはよくわかっているだろうに。ぼんやりとそう思いながら、エレンはぐったりとレヴィに体を預けた。そんなに嬉しそうなレヴィの顔を見るのは、いつぶりだったろうか。そんな事を思いながら、エレンの意識は遠のいていった。
ユニを抱きかかえながら、ルークは大人しくウィルを待っていた。後は、皆の助けを待てば良い。そう思うが、何かチリチリと嫌な予感のようなものが彼をつついていた。
(嫌だな、何も起らなきゃいいのに)
腕の中のユニは、まだ意識を取り戻さない。柔らかい感触を意識してしまい、ルークは思わず知らず赤くなった。初めて会ったときから思えば、彼女はずいぶん大人になり、綺麗になった。これから、もっと綺麗になっていくんだろうか。
(いかんいかん!)
ルークは雑念を振り払おうとする。ユニがどうなろうが、自分はずっと彼女の側にはいられない。それは、ウィルの役目だ。自分は――。
「宇宙人の恋人でも探そうかな……」
「面白い事を言っているね」
さり、と背後で土を踏む音が聞こえた。弾かれたようにルークは振り向く。底に立っていたのは、ルシだった。
「お前……!! ユニには指一本触れさせないぞ! 帰れ!」
「帰るよ。その前に、君たちに見てもらいたいものがある。来てくれないか」
ルシは、そういうなり踵を返した。まるでルークがついてくるものと思っている様子だ。
「行くわけないだろ! ユニを殺しかけておいて、何言ってるんだ!」
「見ておいた方がいいわよ。向こうに行けば、私たちの正体がわかるから」
暗闇から聞こえてきた声に、ルークは慌ててあたりを見回した。だが、その声の主は見つけられない。
「早くおいでよ。君は、知りたくない? 僕達と――人間の事を」
闇からルシの声が響いてくる。ルークは動けない。
ウィルを待たなければ。そう自分に言い聞かせながら、その向こうにあるものに恐怖している自分を感じていた。
「……行くわ」
その時、腕の中でささやき声がおこった。ユニだ。目を見開き、震える指でルシの方を指している。
「やめよう、危ないだろう? もし何かあったら」
「私、知りたいの。――見ておかないと、後悔すると思うから」
体を無理に起こそうとするユニを、ルークは押しとどめた。大きく息を吸い、決意したようにため息をつく。
「わかった。俺も一緒に行くから。その前にウィルを呼んでこなきゃ」
「ウィルは、後から来るわ。私はさっき彼に会ったの」
闇からの声は、安心させるようにそう言った。
「おいで、早く」
声が聞こえてくる方向、そこは崖下の洞がある場所だった。そこは塞いでいた岩がどけられ、ぽっかりと真っ暗な穴が開いている。まるで異界への入り口のようなそこを、ルークとユニはくぐっていった。
パラダイス・マトリクス 透子 @touko_1
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