第一章 神は天にいまし、全て世は事もなし
爆発音にも似た、鈍い排気音が轟いた。それとともに、バイクが小刻みに不規則な動きを伝えてくる。
「えっ……? やっべ……!」
運転席のルークが顔色を急速に青くしつつ、ぼそっとつぶやいたのをサイドカーに乗っていたユニは聞き逃さなかった。
むろん、その言葉は後部座席のウィルの耳にも当然入っている。
それ以前に、車体が明らかに制御を失って、失速しつつあるのは、誰の目にも明らかだった。
問題は、今バイクはかなりのスピードを出しているということ。
そして、横には高さ数メートルの崖があるということ。
つまり――。
「え、ちょっと、これ落ちたら、無事じゃすまない、よね?」
恐る恐る懸念を口にするユニを横目で見やり、ルークは
「だ、大丈夫。サイドカーはエアバッグつけてるし! 死なないよ! たぶん!」
と、しどろもどろかつ早口で言い訳をはじめた。
「おい、ちょっと待てお前――」
後部座席のウィルは、引きつった顔でルークを怒鳴ろうとするが、その声にかぶせるよう、ルークは大声を張り上げた。
「だいじょうぶ! 何とかするから!」
言い様、ルークは右グリップのスロットルを全開にする。
しかし、普段なら勢いよく排気音が轟き、重い手応えを伝えてくるはずのその行為は、ルークになんの成果ももたらさなかった。
いや、最悪の状況を引き起こしたと言った方が適切であろう。
「あ、あれ? これマジでやば……」
スロットルグリップを必死で開こうとし続けるルークに、残り二名は今がどういう状況であるかを悟り、呪詛の声と共に各々の身を守ろうとした。
ユニはサイドカーに身を丸め、ウィルは後部座席で腰を浮かし、強ばった顔で想像
しうる衝撃に備える。
怒りと恐怖をルークへの罵倒に変えることも忘れない。
「ルークの馬鹿あああああ!!」
「もうお前のガラクタなんぞ、信用するかクソ!!」
グリップをひたすらひねり続けていたルークは、排気音が小さくなり、途絶えようとする瞬間に、深く息をつくと良い笑顔を浮かべた。
「――みんな、ごめんね? でも死ぬ時は一緒だから!」
「でもって何!?」
「死ぬならお前一人で死ね!!」
「そんな事言ってる場合じゃないいいい!!」
三者三様のわめき声が響くと同時にバイクは大きく傾き、勢いよく崖から転がり落ちていった。
「で、何でお前は死んでないんだよ」
「日頃の行いかな」
「あの世でも拒否するレベルなのか」
「それは自分だろ」
「二度とこんなガラクタ作るな」
「ちょっと調子が悪くなっただけだろ! 機械なんだから、しょうがないんだよ!」
「死んでもおかしくないような事故を起こしといて、しょうがないで済ます気か! ふざけんな!」
口汚い罵り合いが頭の上を通過していくが、ユニは何も聞かなかった体で、寝転んだまま、青空の表情が移り変わってゆくのをぼんやりと眺めていた。ときたま視界をかすめる雲の切れ端の他は、何もない。ただ、透き通った青が広がっている。
「――綺麗な空」
神様が空からこの世界を見ているという事を言っていたのは、誰だっただろうか。
それが本当だとしたら、さぞよく見えるだろう。
――この崖下の三人を。
「見てるんだったら、何とかしてくれないかなー神様!!」
「え、ユニ、何か言った?」
バイクを直していたルークは、その声に反応して振り向く。崖をよじ登りかけていたウィリアム――ウィルも同じく視線をユニに向けている。
「なんでもないよー。ところでルーク、バイク直りそう?」
「あー、あともう少し時間くれれば直る……と思う」
「一時間前にも全く同じ事を言っただろうがこのクソ」
崖から転がり落ちた三人は、奇跡的にほぼ無傷だった。
エアバッグが作動したユニと違い、ルークとウィルに怪我がなかったのは、運がいいという言葉だけでは言い表せないほどだが、本人はその事に感謝するどころかケロリとして墜落直後に激しい口論をはじめる。
口汚く罵り合うルークとウィルにサイドカーから引っ張り出してもらい、ユニはこんな時でも大喧嘩が出来る二人にあきれながらも、大人しくバイクが直るのを待つことにした。
正確に言えば、口論を止めようとしたが、口を挟めなかったので匙をなげたのだ。
それほどに二人の口喧嘩はすさまじく、また、聞いているのが嫌になるほどしょうもなかった。
なので、事態の解決を自分なりに考えながら、澄み渡った青空に現実逃避しかけている状態である。
ユニ、ルーク、ウィリアム――通称ウィルの三人は、同じ学校に通い、クラスメイトで友達だ。
付け加えるならば、極めて少人数なクラス編制のせいで、登校拒否か心を閉ざしでもしない限り、必然的に仲良くならざるを得ない。
そしてここにいない残り一人のクラスメイトは、家の都合とやらで本日は一緒に来ていなかった。
一時間前までの三人は機械いじりの得意なルーク自作のバイクで、ドライブをしていたところであった。
しかし、無茶な三人乗りのせいか、しばらく走ったところで制御がきかなくなり、よりによって崖っぷちにさしかかったところでバイクは急に減速。
ああ、とかぎゃあとか叫んだような気もするが、気がつけば三人は谷底に転がり落ちて身動きのとれない状況に陥り、今に至るという訳である。
「……無理だな。岩が脆すぎて登れない。足をかけたら崩れていく」
チッと舌打ちをして、ウィルは崖を蹴りつけた。
なかなか直らないバイクにしびれを切らして自力で脱出しようとしていたらしい。くやしそうに切り立った岩肌をにらみ付けている。高さはおよそ十メートルほど。この高さを落下してかすり傷しかないのがいっそ不思議なくらいだ。
「もうちょっとで直るからちょっと待っててくれよ。大丈夫、必ず直してみせるから!!」
根拠もなく言い切るルークに、ウィルは白眼を投げた後再び崖に目を戻した。
ルークは機械いじりにかけては、かなりの腕をもっているが、大ざっぱな性格がわざわいして、彼の作る機械はどこか造りが甘く、使っているうちに壊れることもままあった。
ウィルは彼の作品の数々をガラクタと呼んではばからない。
「もうお前もお前の作るポンコツにも、金輪際俺は関わらないからな」
そう言いながらも、何だかんだ行動を一緒にしているのは、流されやすいのか学習能力が意外にないのか。
これを言えば怒られるのは明白なので、ユニは思うに留めている。ちなみに、先ほどのようなセリフをウィルが吐き捨てるのは、これが初めてではない。
(そっけなく見えて、結構付き合いが良いよね)
一見落ち着いて老成してさえみえる彼は反面、感情豊かで短気だ。
アッシュブロンドの髪とグレーにけぶった目のよくできた石膏像のような綺麗な顔。基本、不機嫌な顔でルークと口汚くやりあっていなければ、王子様のような外見だ。
「彼のくだらんことに興味ないっていうポーズは、慣れると可愛くも思えてくるよね。なんだかんだでいっつも巻き込まれて、ぎゃんぎゃんわめくはめになってんだからさ」
それはいわゆるツンデレというカテゴリーに属するのだと、そうユニに教えてくれた先輩がいたが、ユニにはいまいちその言葉は理解できないままである。
そしてルークは、濃い栗色の髪と光る緑の目を持ち、感情によってくるくると表情を変える顔はよく見ればかなり整っている。
しかし惜しむらくは、寝癖の混じったぼさぼさの髪と趣味の機械いじりで汚れた服でなければもっとそれに気づく人が多かっただろうということだ。その二人にはさまれた形のユニは、美人と言うよりは可愛いという言葉の方がより当てはまる。
しかし、黒い髪と象牙色の肌は今日は土埃で薄汚れ、いつも好奇心に輝く青の瞳は疲労が滲み出ていた。
この三人はユニが七歳で学舎に入ってから八年めを数える腐れ縁である。
それは幼なじみと言うのだと誰かが教えてくれたが、この狭い箱庭のようなユニの暮らす世界は、昔から知っているという点だけで言えば、皆が皆幼なじみのようなものだとユニは思う。
まあ、とりわけユニにとって親しい仲はウィルとルークであり、それは自他共に認める事だ。
「そのガラクタは本当に直るのか? 救助のために火でも燃やすか、発煙筒でも焚いた方がいいんじゃないか?」
一向に直る気配のないバイクに業を煮やしたウィルが全く信頼のない眼差しでルークを見据えれば、苛立った様子で怒鳴り声が返ってきた。
「大丈夫だったら!! うるさいんだよ、気が散るからユニを見習って静かに待ってろよ!」
対してウィルはしおらしく俯くルークに鼻をならすと、ユニに目を向けた。
「お前の目は節穴か。あれは待ってるんじゃなくて寝てるんだろうが」
当のユニは、本当は眠っている訳ではないが口をはさむのが面倒なのと、この程度の口げんかは日常茶飯事なので、放置を決め込んでいるだけの事である。
しかしユニは、実際、だんだん眠気をおぼえてもいた。
(昨日、夜更かししちゃったからなあ)
読んでいた本が面白くてやめられなかったのだ。それは何百年も前に書かれたものらしく、天をつらぬくような大きな建物が林立し、人があふれかえっていた時代の事が記されていた。
その世界では機械は次々と生み出され、遠くの人と人を一瞬でつなぐような装置もあったという。
あまりにも荒唐無稽すぎて本当の事とは思えないのだが、ユニの姉のマリアンジェラ――マリアは昔の世界について、こう話してくれた。
「昔の本に書いてあることは、本当よ。昔の世界は今より雑多で、色々な人やもので埋め尽くされていたの」
なら、なぜ今はそうでないのだろう。『ビル』なんてものはない。『機械』もルークの家族がつくるだけ。
何よりも、この世界には人がいない。
ユニのいる島には、十数人の人がいる。今のところ、ユニが知っている人は、それだけ。
――たった、それだけなのだ。
ユニの住む島で実質リーダーを務めるマクシムは、この世界に住む者は我々しかいないとユニ達に言い切った。
「もうこの世界にはな、他の人間はいないのだよ」
たてがみのような赤銅色の髪をなびかせて、マクシムは寂しそうに、遙か遠くを見つめるような眼差しで笑った。
見た目だけなら二十数歳に見える偉丈夫の表情は、その時だけは人ならぬ者のように神さびて見えた。
島の他の者も、偶にこういった表情を見せることがあるが、それを感じる度に、ユニは言い知れぬ疎外感と心細さを感じるのだ。
なんだか、自分だけがとても幼い、物を知らない子供のような気がして。
人はどこへいってしまったのか、それを記した本はない。ただ、その原因が人から人へ伝えられていくだけだ。
ユニがマリアから、そして他の島の者から聞いたのはこんな話だ。
「今から百年以上前に、大きな彗星がこの世界に落ちてきたんだよ。それは、この島の海をはさんだ向こうにある大陸にぶつかったんだ。そして、この世界はいちど終わったの」
「いちど、終わった……? でも、まだ私たちがいるでしょう?」
初めてその話を聞いたときはまだ小さかったので、ユニにはわからないことが多かった。
彗星は、地球に何年かに一度くる星で、通り過ぎてしまうのではなかっただろうか?
昔、ルークの母親から聞いた話を、ユニはよく覚えていた。ルークの両親は宇宙のことに詳しい。宇宙とは、このユニが住む地球の外の世界で、島から出たことすらないユニには想像もつかない世界だったが、燃える星や光さえ逃げられない天体の話など、荒唐無稽で不思議な話を聞くようで、とても面白い。
(ええと、確か彗星は、ある一定の軌道を持つ天体で、周期が決まっている彗星と決まっていない彗星がある)
実は内容はよくわからない。ユニにとっては呪文のようなものだが、知らない事を知り、色々な話を聞くのは好きだった。
(彗星は、この星――地球をそのまま通り過ぎてしまうんじゃなかった? それに、夜空に見える時はとても小さくても天体はとても大きいものじゃなかったかしら)
大きなものが地球にぶつかる。それは、どれほどに大きな衝撃だったのだろう。
そして、そこにいた人々は、どれだけ恐ろしかっただろう。
ユニの抱いた幾つもの疑問や恐怖はそのまま顔に出たようで、苦笑してマリアは妹を膝に抱き上げ、話を続けた。
マリアのゆるやかに波打った金色の髪を握りしめて、ユニは微笑む。
世界が壊れてしまうような恐ろしい話も、マリアの膝で聞けば怖くも何ともないおとぎ話に変わるのだ。
「その彗星が落ちた後、世界中に大津波がおきて、陸地は水に沈んでいった。その次は砕かれた地面の欠片が空に舞い上がって、空を覆い尽くすほどになった。その後、日の光の差さない世界で、人も動物も植物もどんどん死んでいった」
マリアは、百年以上の前の話を、まるで見てきたように語り続ける。
「後は、殺し合いよ。残った人が住める場所や食料を求めて、生き残った人間が争った。でも残った人間も、水や食料が足りなくて死んでしまった。それで、連綿と続いてきた人間の物語はあっけなく終わったの」
「その話の続きは?」
ユニ達がいる以上、話には続きがあるはずだ。きっとハッピーエンドにつながるような。
しかし話の続きをせがんでも、マリアはいつも微笑んで
「――続きは、今、私たちが作っているところよ」
と、それ以上の事は語ってはくれない。
「いちど世界が終わって、私達が生まれるまではみんなどうしていたの?」
そう疑問を呈しても、マリアは曖昧に微笑むばかりだった。
でも、生き残った人は、力を合わせて街を復興したんだろう。
今すむ街を見ていてユニは思う。ユニの住む街は、古くて小さい。
大昔の建物も利用しているようで、石や煉瓦で作られた建物が混在する街は、本で読んだような天を貫くビルはないけれど、それなりに住み心地は良い。穴が開いたらしっくいで覆って、石を積み上げて、継ぎはぎしながらなんとか住んできた。
技術的には、本で読んだこの世界の最盛期の時代とは比べものにならないだろうけれど、それなりに暮らしてゆける仕組みは整っている。上下水道もあるし、水車で発電して一応は電気も通っている。車は街に二台しかないが、不便はない。
生きてゆくのに特に不都合はなく、街の発明家のルークとその母親は新しい機械を発掘して直したり、時には自分達で考えた機械を披露したりしてくれる。
(――そんな大きな災害があっても、人はそれを乗り越えて生きていけるんだなあ)
ユニは青い空を見ながら、そう思いを巡らせた。
この世界は、きっと広い。
思うと、自然と笑いがこみ上げてくる。
ユニが知っているところは、その中のほんの小さな場所だ。この箱庭のような島から、ユニは今まで出たことがない。
(もっと遠くへ行きたい。知らない場所を見てみたい)
燃える星や新しい惑星なんて贅沢は言わない。ぬるま湯のような穏やかな日常も好きだ。でも、それだけじゃ嫌だ。
(この島の外へ行きたい)
幼い頃、マリアにねだると、決まって同じ答えが返されてきた。
「危ないから、駄目。ユニに何かあったら、どうするの? あなたは、大事な人なのよ」
それはたしなめると言うよりも、もっと切実な禁忌のような匂いをはらんでいた。
――自分はこの小さな世界から出られない。
本能的にそう感じて、ユニは口をつぐむのがいつもだった。
マクシムや島の他の大人達も、この事に関してはマリアと同じ意見のようだった。
「ユニは俺たちが守るよ。だから、ここにいればいい」
「この世界のことが知りたければ、本や映像で見ればいいじゃないか」
皆、口々にそんな事を言う。だが、ユニにはその意見が全く理解できない。
「私は、ちゃんとこの目で見てみたいの。この世界がどうなっているか」
実際に自分の目で見て、その場にいて、匂いを感じて、全てを体験してみたいのだ。
そして、本当にこの島の他にいないのか、確かめたい。
そう言えば、皆は困ったように顔を見合わせるのが常だった。
だから、誰にも言ったことはなかった。
大きくなったら、自分がなりたいもの。
それは――。
「だから、出来るって言ってるだろ!!」
怒鳴り声にはっと目を覚ますと、ユニは起き上がった。
いつの間にか寝入ってしまっていたらしい。
日は先ほどより大分傾いてしまっているが、少年二人の口論は飽きもせずに繰り返されている。
「とりあえず、火を焚いて助けを呼ぶぞ。そうすればいつか人が来てくれる。このままお前とこんな僻地で朝を迎えるなんてごめんだからな。だからこのバイクに火をつけさせろ。燃料もあるからよく燃えるだろ」
「燃やそうとするな!! だから俺を信じろって何度も言ってるだろ!! 静かにしててくれ!! そんなにギャーギャー言われちゃ、直せるもんも直せねーよ!」
「信じてどうなった! お前の作るものはどいつもこいつも失敗作だらけだろうが!」
明らかに、ウィルの口調は先ほどよりも尖っている。
(……もしかしてお腹空いたのかな)
ユニは冗談でもなく、そう思った。
食事など興味ないという顔をして、ウィルは大層食いしん坊、かつ偏食だ。
好きな物は血の滴るような肉。そしてワイン。いちごやラズベリーなどのベリー類とトマト。以上である。
そして、お腹が空くと極端に機嫌が悪くなる。
「ウィル、飴は?」
こういう時のためにいつもウィルの保護者であるエレンから飴を持たされているはずなのだが――。
「全部食べた」
返ってきた返答は簡潔だった。
「こいつ、怒りながら食ってるから、全部ガリガリ噛み砕いてんだよ。ゆっくり食えって言ったのにさー」
「――イライラの元凶のお前が言うな。無駄口をきいてないでとっとと直せ」
下手に口を挟むと火に油を注ぐことはわかっていると、学習済みのユニは静観を決め込んでいたが、いつまでたっても不毛な争いが終わる気配がないのでしょうがなく口をはさむ。
「もう、そんな喧嘩なんかしてる場合じゃないでしょう。暗くなったら動けなくなっちゃうし、帰る手立てを考えないと」
その言葉に、四つの瞳がくわっとユニに向いた。思わずたじろいだが後の祭りだ。
「そうだよな、もっと言ってやってくれよ!! こいつがいちゃもんつけるから邪魔で修理が進まないんだよ!!」
「そうだよな、こいつはさっきから手間取りすぎだ。さっさとやれっていうんだよな!!」
「なんだよ、じゃあお前が直してみろよ!!」
「知るか! お前がつくったガラクタだろう!!」
(しまった……)
舌戦は収まるどころか、火に油をそそいだような状態になってしまった。ため息をつき、ユニは辺りを見回した。
自分が何か活路を見いださねば今日中に帰れないかもしれない、そんな気がひしひしとしている。食べ物もロクにないのに野宿などまっぴらだ。ウィルではないが、ユニもお腹が減っている。ポケットを探れば、紙に包まれたクッキーのかけらが一つ。三人でわけると、小鳥の餌にもならない量になってしまう。
ユニは再びため息をつき、切り立った崖を見上げるが、登れそうな場所はない。背後は川だ。なんとかして崖上に登らなければ、帰ることはできないのに。
少しずつ色を変えながら傾いていく太陽を気にしつつ、ユニは周りに目を走らせた。
だが、見える物と言ったら草と石、河原に転がった枯れ木ぐらいだ。
いざとなったら枯れ木に火をつけて狼煙でもあげようか。そうすれば遠くからみえるのだろう。そんな事を思い始めたとき、それはユニの目に飛び込んできた。
「――ねえ、ねえルーク、これ何だと思う? 崖の穴に入っていたの」
「んあ? 」
ユニが両手で大事そうに抱え込んできたのは、手のひらにすっぽりと収まってしまうほどの白い機械であった。自称『街一番の機械通』である機械マニアのルークは、機械作業用のゴーグルを外してそれを興味深そうにしげしげと眺める。
「うーん、これは……少し汚れているけど、携帯電話だと思うな。どういうものかって言うと、これを使えば遠くの人と話が出来るんだよ。すごいや、昔の映像や本に良く出てくるけど、実際見るのは初めてだ!」
ルークは興奮しながら携帯電話を手に取った。ひっくり返したり振ってみたり、果ては分解をしようとしだしたので、慌ててユニはルークの手から引ったくるように取り上げた。
「ありがと!! つまりこれは通信できる機械なのね!」
電話というものの実物を見たことはないが、何冊か読んだことのある昔の本で出てきていた。これを使えば、遠くの人間と会話が出来るはずだ。
「じゃあ、これでマリアを呼べる?」
「それは無理だよ。携帯電話で話すには電話回線って仕組みが必要だし、それを無線でつなげるためのシステムもいる。それに相手に電話がないと、意味がないよ。それにこれは、電源が入っていない」
「――つまり、全く使えないの?」
ルークの話の半分くらいは全く理解が出来なかったが、つまり、この携帯を使おうとしても無理。そういうことだろう。
「使えないな。骨董的な価値はあるかもしれないけど。しかし、こんな綺麗な携帯、まるで今まで誰かが使ってたみたいだ。誰が持っていたんだろう。不思議だなあ」
ルークの話の後半は聞き流し、ユニはそれをポケットにしまい込んだ。
今使えなくても、昔の珍しい物だ。マリアに見せたらおもしろがるかもしれない。後、他の学校の人たちにも見せてみよう。
思いながら、ユニは空を仰いだ。
もう、青空はない。オレンジの光が、木々の向こうから差してくる。日は殆ど落ちかけていた。
「やばいな……」
思わずと言ったようにつぶやかれたウィルの声は、焦りを帯びて聞こえた。
ユニは眉を顰め、腰に手をやる。
指の先に触れる小ぶりのシースナイフを確認すると、少しだけ気持ちが落ち着いた。
これはユニの愛用の武器。
最初は護身にとマクシムから携帯を薦められたのだが、戯れ混じりに島の人間が剣のさばき方を教えてくれた数年前から、鍛錬は欠かしていない。
(――これはね、素手では弱い君の牙にも爪にもなるからね)
そう、自分には牙と爪が必要であるとユニは思っていた。
ユニには、マリアをはじめとした島の者達が持つ跳躍力や並外れた体力、腕力といった武器になりうるものが何もない。
それがいつも口惜しくて、歯がゆかった。
広い世界へと走り出すなら、牙と爪が必要なのだ。
そう信じるユニが新しく手に入れた自分の武器に夢中になるのは、不思議な事ではなかったのである。
(うん、大丈夫。私にはこれがあるし、二人もいる。だから、夜が来ても大丈夫)
――夜は、とても恐ろしい時間。
幼い頃から何度も大人達に聞かされた言葉だ。
「だから、暗くなってから外に出てはいけないよ」
マリア、マクシムだけでなく、色々なものが繰り返しユニに言ってきた言葉。
「夜はね、人の時間じゃないんだ。それ以外のものが跋扈する――見つかったら、ただではすまないよ」
その言葉を言う時の大人達は、まるでよく知る皆とは違った存在になってしまったようで、ユニは少し恐ろしかった。
マリアの優しい目が獣のように底光りして。
(ランプの火が反射しただけだよね?)
ユニの頭を撫でるマクシムの手のひらが一瞬、堅く分厚くざらりとした、怪物の手のように感じられて。
(きっと手の皮が固くなってるんだよね。マクシムは働き者だもの)
今まで慣れ親しんだ家族のような皆ではない、違った何かを垣間見てしまったようで、そう言った瞬間のヒヤリとした気持ちは、言葉では言い表せない。
ユニはそう言う時、慌てて目をそらし、呪文のように唱えるのだ。
(気のせいよ。考えすぎ)
偶に、感じる疎外感。
この感情は、自分だけだろうか。
ふとした時に思うのだ。
一緒に暮らしているマリアは殆ど外見が変わらないのに、何で自分ばかりどんどん成長していくんだろう?
何で自分にはマリアやマクシム達ほど力も運動能力もないのだろう?
大きくなれば、皆に並び立てると思っていたのに。
自分が出来損ないのようで、味噌っかすのようで、自分をどうしようもない駄目なものだと卑下してしまいそうで。
だから、対等になるために、力が欲しかった。
そのための一つなのだ。自分の選んだ爪と牙は。
ユニはそっとナイフのケースを撫でる。
それなりには使いこなせるようになり、徐々に強くはなってきているはずだ。
力をつけて、世界を見て、見聞を広めて、それを島の皆に教えてあげたい。
なぜだか誰も島から出ようとしない割に、皆は面白い物や楽しい話が大好きだ。
(だから、私が集めてこよう)
燃える星や光さえ逃げられない天体の話なんてものは見つけられなくても、本で読んだような果てしなく広がる密林や、宝石の埋まる大地、天まで届くような木や、雲を突くような山岳は見つけられるかも知れない。
それに、この世界のどこかには他にも人々がいるはずだ。
マクシムや他の大人はいないと言い切るが、ユニは希望を捨て切れてはいない)
(本でしか見たことがない、たくさんの人達! この世界には、色んな色の肌や髪の人達がいて)
幼い人も、年老いた人も、強い人も、面白い人も、綺麗な人も、賢い人も、色々な人が世界にはいた。いや、今もどこかでひっそりと隠れ住んでいるのかも知れない。
それを考えると、なんてこの世界は宝箱のようですごいんだろう。
ユニは空を仰ぐ。
さしずめ、あの青は宝箱の蓋の裏だ。
ユニは仕切られた箱の隅に転がったビーズのようなもので、まだ他の広い場所の事は全然知らない。
まだ力は足りないけど、大海原を渡り、新しい場所に躍り出るための実力を蓄えなければ。
そう思って生きている。
(つまり、今回の事はいい練習の機会ってことで)
例え恐ろしい夜が来ても、返り討ちにしてやる。
ユニは指先でナイフの柄を撫でた。
と、その瞬間、視界が急に白いもやで遮られた。辺りにたちこめる鼻をつく匂い。
煙だ。そう気づいた瞬間、それを思い切り吸い込んでしまったユニは、激しく咳き込んだ。
「うげっ!! げふっ! ――ちょ、ちょっと何!?」
「おいウィル!! 何考えてるんだ!!」
「狼煙(のろし)だ」
平然とした顔でウィルは答え、ふわりとユニの顔にハンカチを当て煙からかばうような位置に立つ。
「……悪かった。風向きが変わったからこっちにまで煙が飛んだな」
古風な育て親に育てられたウィルは、妙に紳士的な顔を見せることがあり、ユニが照れて困惑するような行動をとることもある。
「ちょっと、俺には謝罪の言葉はないのか!? ユニにだけ優しくしやがってこの、えこひいき野郎!!」
「原因をつくったお前が偉そうな事をいえる立場か。どうせまだ直らないんだろう」
そのウィルの冷ややかな指摘にルークは黙り込み、バイクに向き直った。
「もう少しで直るはずなんだ……」
などとぶつぶつ言っている所を見ると、やはりまだ直っていないらしい。
「誰かこの狼煙に気づいてくれるかな……」
火を眺めながら、ユニはぽつりとつぶやいた。気候は暖かくなってきている頃だが、夜はまだ肌寒い。冷えてくる空気に、ユニは小さく身体を震わせた。
ユニ達の住む島は年間を通して涼しく過ごしやすいが、野宿に向いてるとは言い難い。
「大丈夫だ、街の人たちはすぐ気づくさ」
そのウィルの言葉にルークも力強く頷いた。
「だよな! 三人いないなら、きっと皆探すだろうし!」
そうなのだ。
ウィルは薄く笑った。
三人いなくとも、ユニがいないというのは街の人間には大きな事件である。
――ユニが帰ってこないなら、街中総出で探し回るに決まっている。
日は落ちて、辺りを照らすのはたき火の明かりだけだ。
バイクを火の脇に移動させてまだガチャガチャといじっているルークとそれを無視して火をつついているウィル。二人に挟まれてユニは携帯電話をぼんやりと眺めていた。
(これ、使えるようになったらいいな。ルークのお母さんは機械が得意だからお願いしたら使えるようになるかな)
ユニにとって隕石の落ちる前の世界は、憧れと羨望の対象だった。
本を読みあさり、その頃について話を聞いてまわる。ウィルやルークがいるとはいえ、昔の文献と引き比べて同年代の少ないこの世界は、寂しさや物足りなさを感じることもまた事実だったのだ。
(昔は何百人も同じ学校に通ってて、しかもそんな学校がたくさんあって。みんなで『しょっぴんぐ』や『かふぇ』に行ったりして)
そんな経験をしてみたい、とユニは心から思う。
ルークやウィル、そしてここにいない学舎の仲間と遊ぶのだってもちろん楽しいのだけれど。
(女の子の友達、欲しいなあ)
同性の知り合いは、姉のマリアと、ウィルの家族であるエレンだけだ。
それらは友達というよりも、家族であったり、友達の姉という感覚が強いので、ユニの望む関係にはほど遠い。
(たくさんの、人と会いたいなあ。会って、仲良くなりたい)
そうして、携帯電話で電話をするのだ。
想像を膨らませていたとき、ふいに手の中で携帯電話が振動したような気がした。
びくっと身をすくませて、ユニは慌てて携帯電話を確かめた。しかし、電源の入っていない携帯は、画面を真っ黒にしたまま沈黙している。
「……気のせいだったのかな?」
「どうした?」
首をかしげて電話をためつすがめつするユニに気づき、ウィルが心配そうな顔を向けてくる。
「いや、なんでもないよ」
ちょっと妄想が膨らみすぎただけ、とは言えない。笑ってごまかすと、ユニはポケットに携帯電話をしまい込んだ。
(気のせいだよね、きっと――)
ポケットの上から携帯電話を撫でる。それはひっそりと沈黙を保ったままだ。
自分の願望のせいで、ありもしない震動を錯覚したのだろうか。
(それって、すっごい寂しい人みたい)
ユニはため息を一つ落として、しゃがんだ膝の上でほおづえをつく。
その時、ウィルが真っ黒な空を見上げた。
「――来た」
ウィルは三人の中で一番耳も目も良い。ルークは基本的に気がつかない性格なので、この時も
「何が?」
と見当違いの方向に首を伸ばした。
ふいに黒い影が二度、月明かりを横切った。同時に聞き慣れた声が三人の耳に届く。
「あんた達――大丈夫?」
落ちてくる快活な声。直後に乾いた重みのある音が大地に響き、黒闇から何かが現われる気配がした。
「見たところ、何事もなさそうだ。バイクが壊れたか」
ほっとしたような力強い声はユニ達のよく慣れ親しんだもの。
「マリア!! マクシムも来てくれたの!?」
ユニの歓喜の声が響き渡り、マリアがユニを抱きしめた。軽々と抱き上げられ、ユ
ニは困惑と照れの交じった表情であたりを見回した。
学舎と島の長であり、みんなの頼れる兄貴分であるマクシムは
「さあ、帰るぞ」
と、豪放磊落そのものといったような笑顔をみせた。ウィルは口の端をあげる。
「やっと帰れるな」
「どっちにしろ、もう少しで帰れたんだ」
負け惜しみのようにスパナでぐりぐりとバイクを弄るルークに冷たい一瞥をくれ、ウィルはややためらいつつもマクシムの腕に抱え上げられた。
「上に車がある。バイクは後で運ぼう」
ほら、ともう片方の手をルークに差し出すと、ルークは観念したようにスバイクか
ら体を離す。
ユニは既にマリアの手で崖の上に運ばれ、車の後部座席にちゃっかり座っている。
ルークが助手席に腰を下ろすと、マクシムは車のエンジンをかけた。
ユニ達は知らない。
数メートルの崖を身一つで難なく飛び降りるなど、人の力ではあり得ないことを。
ましてやその切り立った崖を人一人を抱え上げてかけ上がるなど、常人には不可能なことを。
ユニ達はあまりにも一般の人間というものに対して無知であった。
生まれた時から知る、彼らの仲間こそが普通だったのだから。
こうして、三人のささやかな冒険は幕を閉じた。
――たった一つの戦利品とともに。
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