パラダイス・マトリクス

透子

序章

 ――それはこの世界最後の、アダムとイヴ。



  見渡す限り、荒涼とした地がどこまでも広がっていた。

 この世界に六十億からの人間が住んでいたなどと、もう誰も信じられないに違いない。

 ベヒモスは遙か彼方を見晴るかす荒れ野に立ち、その様子を黙然と見つめていた。彼は巨大な体を持つ獣の王だ。人には悪魔と見なされた事もあり、人間がはびこっていた頃にはその本性を現す事は、ついぞなかった。

 だが、彼は人が嫌いであったわけではない。

 むしろ、その逆。人にこっそりと姿を変え、様々な国を放浪してはその有様を眺めて、人と交わる事を楽しんでいた。

 この星の支配者であると人が傲り高ぶっていた時でさえも、ベヒモスは興味深く人間達を見守っていた。人の考えも、その作り出すものも、面白いと思っていたからだ。

 だが、それがたった一つの隕石の衝突で絶滅してしまうとは。

「……人とは、なんと儚い生き物だったのか」

 嘆息にも似たつぶやきをもらし、彼は不毛の土地を見つめ続ける。その脳裏には、過去交わってきた幾多の人間の思い出がよぎる。

 感傷にも似た思いでベヒモスは死んだ世界をめぐり、あらゆる惨状をつぶさに見てきた。

 その結果わかった事は、わずかな動物、虫、植物の他に生き残っているのは自分と同類、すなわち人間ではないものだけという事だった。

「何とつまらなくなったものだ」

 そう独白したベヒモスの耳に、眷属――人狼(ライカンスロープ)の声が飛び込んできた。

「ベヒモス様! こちらに!」

「なんだ」

 ただならぬ興奮の様子に、ベヒモスはわずかに心が浮き立った。生存者でも発見したのではないか。そう思ったのだ。

 人狼に導かれるまま、ベヒモスは壊れた小さな建物の中に足を踏み入れた。

 だが、予想に反して、そこにあったのは棺のような、銀色の直方体。その表面は、びっしりと何かが記されている。

 その薄さにベヒモスは落胆した。

 これでは、人の体が収まるはずがない。

「これは、何なのだ」

 人が残した情報は、限りなく集めてきた。せめてもの、この世界に人がいたという因(よすが)として、ベヒモスを初めとした人外の者達は、それらを丹念に拾っては保管してきたのだ。

 ほんのわずかでも人間が生き残っていれば。

 願うようにベヒモスはそう思ってきたのだ。

「The human race's hope――人類の希望と書いてあるようです」

「希望――。また益体もない物でも入ってるのではないだろうな」

 次代に残すべき宝。そう銘打たれた発掘品はベヒモス達はいくつも発見していた。

 世界が終わるまでの間に、人が必死で次代に残そうとしたものは、宝石だの歴史書だの、果ては絵画だの自分史だの、そんな下らないものばかりが入っていた。

 人が居なくなってしまえば、そんなもの何の役にも立たないのに。

 辟易しながらも一応は回収をしていたのだが、今回もその類ではないだろうか。

「これは、よほど貴重な物のようですね」

 その棺を人狼とともに調べていた鬼は、棺の文面を読みながら、そう断言した。

「今までのただ地面に埋まっていただけの物とは違います。この棺以外に、シェルターと防御壁、二重のガードがされていました。最も、シェルターは隕石衝突後の衝撃波で割れて歪んでしまったようでしたが。――そして」

「ここに開け方が記されているね。そして、使い方も」

 鬼の言葉を引き取るように、レヴィアタンはそういいながら、興味深げに棺を覗き込んでいる。ベヒモスと同じく、悪魔と見なされているこの人外の生き物は、ベヒモスとはまた違ったベクトルで人間を愛していた。なので、この物体が何なのか、たいそう興味があるように、ためつすがめつ棺をなで回している。

「それで、これは無事に開くのか」

 何なのだろう。ベヒモスの予想が正しければ、おそらく――。

 いや、期待をかけるのは時期尚早だろう。高まる期待を押さえ込んで、ベヒモスは焦れながら続報を待つ。

「開くようです。開けてもいいのなら、これ、開けますよ」

 人狼はそうこともなげにいうが、丹念に表面に書かれた説明書きを追っていた鬼は、だんだんと険しい顔になっていった。

「――これは」

 そういうなり、シェルターの中に駆け込んでいく。数分後、その顔は絶望で暗く彩られてベヒモスの元へ戻ってきた。

「無理です。それを開けても、何の意味もありません」

「なぜだ」

「その箱の中に入っている物は、人間の種のような物です。冷凍受精卵と、記されています」

「――種」

 種というならば、それを成長させれば人間になっていくというのか。

(これこそ、人類の宝だ)

 ベヒモスの心は躍る。

 しかし。

「そう簡単には、いきません。種を育てるには、土壌が必要。これは、その土壌が壊れてしまっています」

 鬼はその一言一言を歯の間から絞り出すようにして言う。

「ああ、なるほど、人工胎盤に冷凍受精卵をセットするって書いてあるね。――で、このボロボロになってみるかげもない機械のかたまりが人工胎盤――と」

 レヴィアタンは冷めた様子でその事実を淡々と述べる。

「そんな……」

 人狼は、悔しげに唇を噛みしめた。ベヒモスと近しい立場の彼女は、いつしか彼の影響を受けて、人を好ましく思うようになっていた。

 人の復活、それに強い期待を持っているのだ。彼女は未練がましげに言葉を紡ぐ。

「人口胎盤か……それがなければ人は育たないのか?」

「さあ。でも種を土以外にまいても、育たないんじゃない?」

 レヴィアタンは言いながら箱の蓋を撫で、嘆息した。

「彼らはもう一度封印することになるだろうけど、このまま人の形にもなれずに、永遠に眠り続けることになるのかな。それも、人の運命か」

「いや」

 それを否定するように力強くベヒモスは立ち上がった。

「我々がこれを見つけた事にも、意味があるに違いない。我らの寿命はたっぷりある。それがつきるまで――この種をどうやったら育てる事が出来るのか、私はその方法を探そうと思う」

「君も物好きだね。暇なの?」

 揶揄混じりのレヴィアタンの言葉に挑むように、ベヒモスは肩をそびやかした。

「悪いか。この果てもない命、それに捧げても悪くあるまい。人を再び地上に呼び戻すこと。それを成し遂げるのは、大変に意義のあることだと私は考える」

「――そうだね」

 また小馬鹿にしたような事を言うかと思えば、レヴィアタンは予想外にベヒモスの言葉に賛同する。目を見張ったベヒモスに、レヴィアタンは肩をすくめた。

「何か言いたい事でも?」

「いや――お前がそんな事を言うとはな」

「私もね、暇なんだよ」

 そう言って、レヴィアタンは重量のある棺を、子供をあやすように抱え上げる。

「人間は格好の暇つぶしの対象だったからね。うじゃうじゃと虫のように後から後から湧いて出て、妙なものを色々作り出していってね。それを見ているのは、よい退屈しのぎで面白かった。だから私もこの長すぎる命、それに費やしてもいいんじゃないかなんて、気の迷いを起こしたりするわけだよ」

「そうか」

「そうだよ」

「なら、私もその試みに、乗りましょう」

「もちろん、この私も」

 鬼が、人狼が、先を争うように手を上げる。

「他にも、この計画に賛同するものはいるでしょう。我らの眷属は、人の想像力によって形作られたものも多い。きっとこの出来事は我ら人ならぬものにとっても新たな門出となるはずです」

 この世界が滅茶苦茶になってから、初めての笑顔が鬼の顔に浮かんでいる。人狼もなにやら浮き浮きしたようにその棺を眺めている。

「ああ、そうだな」

 我々の手で、人を、この地に呼び戻す。

 決意するように手を力強く握りしめ、ベヒモスは世界の崩壊前と変わらぬ青く澄んだ空を見上げた。

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