後半



7.


生きていく為に必要なものは何だろうか。

正確には覚えていないのだが、恐らく小学生くらいの時期に習ったはずだ。人間が人間らしく生きるために欠かせないのは『衣・食・住』の三つだ、と。

それからまたある程度年を取れば、思春期特有の捻くれた思考で『金』などと言い出すのかもしれないが、結局は衣食住全てを自分達で賄えるなら金は必要ない。

当時の私は、二人で力を合わせれば二人分くらい賄えると思っていた。住居は最初からあったし、衣服も最初から身につけているし住居にいくつか予備もあった。食料さえ何とかするだけでいい。

家の中に最初からあった食料を消費しながら作物を育て、そのまま農業のみに従事して生きていけばいいと、本気でそう思っていたのだ。

実際はすぐ壁に突き当たった。大気も土も水も汚れているこの世界で、専門的な知識を持たない私が農作をするのは不可能だった。

それに加え、今にして思えば無知な二人が必死に畑を耕した所で充分な量と種類を賄えただろうか。百歩譲っても量はともかく、種類は無理だったのではないだろうか。そう思えてならない。

ともあれ、早々に心折れた私達は農作を諦め、冷蔵庫にあった食料を細々と消費しながら「動物を狩ろうか」「山か森に篭って食べ物を探そうか」などと数日間話し合っていた。

状況に反してあまり焦りの色が見られないのは、その頃はまだ私が作り上げた世界だと思っていたからだ。

実際は数日後、食料が底を尽きかけていた頃に唐突に世界に『ひと』が増え、食料等を売っている店も出来、私は工場に勤めている事になっていて、この世界が私の物でない事を知ったのだが。

それでも、そうして食品が流通するようになった事により私達が飢えずに済んだのも事実だ。衣食住の問題が全て解決したのも事実だ。

こうしてここは永遠に続く理想の世界となった。もっとも、仮にユメと二人きりで終わりに向かうだけの世界だったとしても、私は一向に構わなかったのだが。

ユメだってそう言ってくれるはずだから、何も問題は無い。



8.


「――以前の世界のお前? そうだな、目立つ奴じゃなかったけど、フェアな奴だったな」


タツヤはそう言った。


「――以前のウツミさん? まあ、差別や偏見とは無縁な方でしたわね。そうですね、公平と言われれば確かに公平でした、今にして思えば」


ノゾミもそう言った。

ミノリと記憶を共有しているであろう二人ならそう言う事はわかっていた。念の為確かめてみたに過ぎない。結果、管理者たるミノリの言い分は全て正しいと証明された。

一方で、ついでにと名前のない『ひと』である係長に聞いてみた時は、


「以前の世界? なんだそりゃ。寝呆けてないで働け」


と言われただけで話が続かなかった。新人や部長にも聞こうとしたが「以前の世界」という単語の時点で何を言っているのかわかっていないような顔をされたのでやめた。

つまり、やはりと言うか何と言うか、詳細な設定を与えてあるのは名前のある『ひと』に限るようだ。というか名前のない『ひと』が薄っぺらすぎるのか。

名前のある『ひと』がこれ以上増える様子もないし、ミノリとしては彼等をいつでも気楽に消せるように、とこれ以上作り込むつもりもないのかもしれない。

……という話を本人にしてみたところ、


「っていうか何が楽しくて男なんか作り込まないといけないんですか」


だそうだ。タツヤは例外だったのだろうか。いや、むしろタツヤだけで心が折れたのだろうか。

ミノリの男性嫌いは時に過剰だ。思い出した記憶の中にもそんなシーンが多々ある。そんな妹を窘めている時だけは、自身を姉なのだと思えたような記憶がある。

そして今、同様に男性恐怖症のユメの為に『外』に出る事で、大切な人に尽くしている実感を得ている。

私自身、別に男性の相手が得意な訳では決してないが、不思議なものだと思う。


*


前に聞いた事があるが、ユメの男性恐怖症の原因は「わからない」そうだ。

ユメは私と同様、以前の世界の記憶を持っていない。だから直接の原因もわからない、という事だった。


「……治したいと思う?」


そう問いかけるのにはかなりの勇気が必要だった。

ユメが治したいと望むなら私は手伝うだろう。ユメの望みを叶えないという選択肢は私には無い。

たとえその結果、ユメが私の庇護を必要としなくなり、家を出て行く可能性があったとしても、だ。

だが、ユメは首を振った。


「治してまでやりたい事もないし。治す為にウツミに迷惑かけるのも嫌だから」


あからさまな逃げの言葉が嬉しかった。

本当にユメはいつも私が求めている言葉を的確に投げ掛けてくれる。


「……でも、ウツミが治して欲しいって言うなら頑張るよ?」

「ううん、そんな事言わない。無理強いはしない」


都合のいい優しさを投げ掛けると、ユメもどこか得意げに微笑む。

全部分かっているんだ。私達は分かり合っているんだ。お互いに都合がいいように。私に都合がいいように。

ここは未だ理想の世界だ。


*


一方のミノリの男性嫌いの原因だが、これも私には分からない。記憶の中のミノリはいつの間にか男性嫌いになっていた。

こちらは本人ならわかるのだろうが……それを私が不躾に問うのも違う気がした。

そもそもミノリに関しても公平に無関心を貫くのが最善、と先日決めたばかりだ。問うのは止めておこう。


「今日もおやすみなさいましておはようございます、姉さん」

「はいはい」


接し方を決めた。なら、後はそれに従うだけ。

今夜もこれまで通り、今まで通り取り留めのない話が繰り返されるのだろう。


「そういえば姉さん、一つ尋ねたい事があったんですが」

「何?」

「姉さんの家の外見ですけど、以前の世界の私達の家と同じですよね?」

「ああ、やっぱりそうなのね」

「やっぱり、って事は覚えてなかったんですか、それも」

「生活する上で違和感は感じなかったから、そうじゃないかとは思ってたわ」

「なるほど、内装も同じのようですね。聞きたかったのはそこでした」


この世界の管理者たるミノリだが、私の家の中までは目が届かないと言っていた。

私が作った家の中は認識出来ないらしい。それは私の頭の中を見れないし弄れないのと同じ事なのだろうか、要は。


「そんな事聞いてどうするの?」

「どうもしませんよ。何かするつもりも無いけどちょっと気になった事をとりあえず尋ねてみた、といった感じの……言うならば世間話、あるいは雑談ですね」

「そう」

「まぁ、そこから何かしら話を広げるというのも話術なのでしょうけど。じゃあ、そうですね、その家で私の部屋はどうなってますか?」

「ミノリの部屋?」

「はい。忘れましたか? 私達は双子の姉妹なんですよ」

「……そうね、一緒に住んでた筈よね」

「はい、隣の部屋に」


確かに、私の部屋の隣にもう一つ部屋はあった。

最初はそこをユメの部屋にしようかと思ったのだが、ユメが一緒がいいと言ってくれたので結局使われていないままのあの部屋。

中も一度は見た。件の部屋に限らず、ユメの部屋を考える時に全ての部屋を回った。だからその問いにも答えられる。公平に、事実のみを伝えよう。


「……何もない部屋だったわね」


私の部屋と台所やバスルーム、トイレ等の生活に必要な部屋以外は、全て空き部屋だったのだ。ミノリの部屋に限らず恐らく他の家族のものだったであろういくつかの部屋も全て等しく何もない部屋だったのだ。

だからそう言うしかない。事実をそのまま伝えるしかない。ミノリから聞いた私という人間の性格を考えてもこう言うだろう。

なのに、私の言葉に何故かミノリは少し寂しそうな顔をした。珍しく、この時だけは寂しそうに見える顔をしたのだ。

ミノリ自身が私をそういう人間だと言ったくせに。公平で、妹の事もどうでもいいと思ってる人間だと言ったくせに……


「……私があの家を作ったのは、ミノリの事を思い出す前なのよ。部屋があるわけないじゃない」


言いたい事はあるが、表情を見ていると流石に申し訳なく感じてフォローの言葉を入れる。

するとすぐにいつもの顔に、管理者然とした挑戦的でどこか達観的な、生意気な表情に戻った。


「それもそうですね。ええ、わかってますとも」

「……そう」


何も言うまい。生暖かく見守るのもきっと姉の務めなのだ。


「……頭の中ではわかってたつもりなんですけどね、実際に面と向かって言われるのとでは話が違うとでも言いますか。しかも私が振った話題でですからね。壮大な自爆ですよこれは」

「私は謝るべき?」

「必要ありません。あー、ホント、不覚です……」

「……大丈夫、忘れてあげるから」

「そういう情けは要らないって言ってるでしょう……」

「そうよね……」


忘れて欲しいなら忘れるが、そうでないと本人が言うなら覚えておく方がいいのだろうか。

というか、忘れてあげようとしたのも別に情けではない。それがミノリの望みなら聞こうと思っただけだ。それだけだ。

もっともそれを本人が情けと思うなら情けなのだろう、本人にとっては。そういう意味ではミノリとの公平な距離というのは意外と難しいのかもしれない。

以前の世界の私はミノリにどういう風に接する事を心がけていたのだろうか。ミノリに関する記憶はあるのに、そこがわからないのがもどかしい。


「……姉さん、人を好きになるってどんな気持ちなんでしょうか」


……例えば、唐突にこんな事を聞かれた時に、以前の世界の私はどう返していたのだろうか。

好きな人。そう問われて脳裏に浮かぶのはユメの顔だ。今の私には好きな人がいる。よって答えられない問いではない。

だがユメの事を誰かに話すつもりはない。隠し通し、守り抜くのが今の私の使命だから。となると『ユメの事を知らない、好きな人も居ない以前の世界の私』のように答えるべきなのだろうけど……


「……わからないわ」


そう答えるのが精一杯だった。

以前の私ならどう答えていたかがわからない。

ミノリが急にそんな話を振る理由もわからない。

故に、わからないと答えていいのかもわからない。

それでも私はわからないと答えた。

そう答えるのが精一杯だった。


「そうですか」


私の精一杯の答えに対し、ミノリの反応は薄いものだった。表情も無く、私には心情を察する事は出来なかった。

そしてそのまま夢の終わりの合図が来る。滲んでゆく世界を見ながら、そういえば人の心情を察する事は昔から苦手だったような、と思い始めていた。

さっきのミノリのように表情に出してくれればまだわかるのだが、一見普通に見えると途端にわからなくなる。以前の世界でもそうだった気がしていた。

だから、今のミノリが何を思っているのかもわからないのだ。わからないままこの夢は終わるのだ。

でもきっと、それが公平というものなのだろう。

私はそう思う。


そして、この日が夢の世界でミノリの姿を見た最後の日となった。



9.


「――おはよう、ウツミ」

「……おはよう、ユメ」


目が覚めると隣にユメの顔がある。これに勝る幸せな朝はないだろう。嫌な夢を見た事も吹き飛び忘れるほどの幸せだ。

ユメはいつも私が起きてから朝食を作る。前日の夜の内に仕込みをしておいて、朝は私に合わせて起きて、それから行動してくれる。その気遣いをとても愛しいと思う。

もっとも、それでも朝食を作るのにはそれなりに時間がかかるので、私が寝坊した日は簡素なものになってしまうのだが。どうやら今日はいつも通りに起きられたようだ。

ユメが朝食を作ってくれている間、私は可能な範囲の身支度を済ませ、後は新聞を読んだり料理するユメを眺めている。こうして働く気力を蓄えているのだ。


「はい、どうぞ召し上がれ」

「ありがとう」


今日の朝食は炊き立ての白米に味噌汁、それと焼き魚と目玉焼きのようだ。和食における朝食の基本スタイルな気がする。

今日も変わらずどれも美味しそうだ。特に白米がほかほかと湯気を立てているとそれだけで食欲が増す。

いただきます、と手を合わせ、白米から順に味わう。まさに至福の時だ。文字通り噛み締める。

……ただ、幸せすぎて不安になる日もあった。管理者であるミノリと出会ってすぐの頃だ。

ミノリが『ひと』を作ったと知り、ユメもそうなのではないかと不安になった日もあった。とはいえ冷静に考えたらミノリが来る前から居たユメがそうである訳がないのだが。

……それに気付くまでにかなりの時間がかかる程、当時の私は不安を感じていたという事だ。


「どしたの? ウツミ」

「ううん、なんでも。幸せだなぁって」

「そ、そう? 朝からそんなこと言われると照れちゃうね」


そうやって照れる可愛らしいユメを見れるからこそ幸せだ、とも言える。流石に本人には言わないけど。

今日も一日頑張れそうだ。願わくば、いい一日にもなりますように。


*


「――ん?」


通勤も終盤に差し掛かり、工場が見える直線の通りに入った時だった。タツヤが前を見たまま言う。


「あれ、おまえの同僚じゃないか?」

「ん? ああ……係長ね」


私を含め、誰もが作業服を着ているので同僚だという事自体はわかりやすい。不思議なのは、同僚が入り口の前で待っている事。それもこちらを向いて待っている事だ。

恐らく誰かを待っているのだろうが、誰を待つにしろ工場内で済むはずなのだ、本来は。わざわざ外で待つ理由などそう多くは無い。

誰を待っているのだろうか。まあ誰でもいいか、私には関係の無い事だ。


「……おう、ウツミさんよ。ちょっと待て」


どうやら待ち人は私に最も関係のある人だったようだ。


「どうしたんですか係長」

「……おれは先に行くか。じゃあなウツミ、また帰りに」

「ああいや、そこの兄さんも待ってくれ」


気を利かせて立ち去ろうとしたタツヤもセットで呼び止める。

一体何の用事なのだろうか、皆目検討がつかない。


「……今日は帰った方がいい。社長には俺から上手く言っておくから、二人で帰れ」

「……何故ですか?」


用事を告げられても理由に相変わらず皆目検討がつかない。

問い返した私に係長は一瞬だけ苛立った目を向けたが、すぐに視線を逸らし、言う。


「……耳を澄ませてみな。工場の中だ」


入り口に近づき、言われた通り耳を澄ます。

すると微かに、何やら拡声器で喋っているらしき一人の声と、それに同調する複数の声が聴こえてきた。


『――であるからして、えー、今こそ我々はぁー、労働環境の改善をぉー、きっと申し立てるべきなのではないかとー!』

「おー!」「おー!」「おー!」

『本日はぁー、声を以ってぇー! 明日は行動を伴ってぇー、社長に示すものでありまぁすぅー!』

「おー!」「おー!」「おー!」

『今は予行練習でーす。もう少ししたら社長が来ると思われるのでがんばりましょーう』

「おー!」「おー!」


……私のイメージの中のものとは若干違うが、これはあれだろうか。


「……ストライキでもするの?」

「どうやらそのつもりらしい」


陣頭に立っていると思われる、微妙に腰の低いあの喋り方は部長だろうか。

一見穏やかな人ではあるが、結構お歳を召されているが故の鬱憤でもあるのだろうか。

まあ確かにそもそも社長があのノゾミなのだ、それに比較的近い部長という地位の部長はいろいろ気苦労が絶えないのかもしれない。

それでなくても元より異様なまでに女尊男卑の世界なのだ、男性が不満を溜め込んでいるのは確実。ストライキに走ったとしても気持ちは理解する。

だが、理由がそれだけなら私にはそこまで関係ないはずだ。まあ仕事が出来る状況にも見えないし、私はストライキするつもりも無いから居場所には困るけど……


「お前もストライキされる側に近いからな、帰った方がいい」

「私が? 何故?」

「女だし、社長のお気に入りだ」

「お気に入りというのは私自身にはよくわからないんですが」

「女だからという理由だけでもいい。それだけで槍玉に挙げられる可能性がある。今日は何かがおかしい。皆女を敵視したがってる。俺もな」

「……なるほど、そういう事なら帰ります。では係長、失礼します」


先程の苛立った視線の意味と、それでも係長がここに立っていた事の意味を知り、素直に早々に帰る事にした。

給料は貰えないけれど仕方ない。数日なら貯蓄で過ごせるはずだ。ユメと一緒に家で大人しくしていよう。


「……それにしても、何があったのかしら。タツヤは何かおかしい?」

「いや、別に。いつも通りだ。周囲はそうでもないようだけどな」


言われてみれば確かに周囲からも敵視するような、若干の視線を感じる。

もちろん周囲に他に女性はいない。屈強な体躯の男性ばかりだ。行動に起こされたら私ではひとたまりも無いだろう。そこまでの異変では無さそうなのが救いだが……


「もしかして、来る時も?」

「この程度の連中なら負けないから言わなかったけどな」

「……頼もしいこと」


しかし、彼等の気持ちは理解出来るとはいえ、集団から敵意を向けられていると思うと恐れが出てくる。ユメが恐れる気持ちもわからないでもない。

向けられている視線にさっきまで気付かなかった自分の鈍さも恐ろしいが。以前買った護身用具も毎日ちゃんと持ち歩いているし、タツヤもいる。そのあたりに油断があったのかもしれない。


「……私もしっかりしないと」

「お前は昔からそうだったからなあ。最低限の警戒はしてるけど、周囲を公平に見るからこそ誰かがお前を特別に敵視してる事に気付けなかったりな」


タツヤが自身の中だけにある記憶を掘り返しながら言う。

そういうものなのだろうか、とも思うが、確かに周囲の誰とも知れない誰かの心境の変化などどうでもいい事だ、行動に移されない限りその場に居ても気付けないだろう。

逆にタツヤは警備員という職業柄、変化が悪意や敵意を含んでいれば気付けるのだろう。変化せずとも敵意や悪意には職業柄敏感なのだろうけど。

……いや、タツヤは彼の中の昔の記憶の話をしている。もしかしたら彼自身が昔からそういう事に敏感な性格だったのかもしれない。そういう風な設定なのかもしれない。

まあそんな事はどうでもいいか。今大事な事は二つ。

一つは、彼の記憶の中の私はともかく、今現在の私もこうして自身の性格故に時に敵意に鈍感だ、という事。何か対策を考えないといけない。

もう一つは、タツヤ以外の周囲の男性の変化の原因だ。何故タツヤだけ例外だったのかも含め、突き止めないといけない。管理者に聞くのが手っ取り早いだろうか。今夜聞いてみよう。


*


タツヤに送ってもらって帰宅し、家の扉を開けると掃除機をかけようと構えている格好のユメがいた。


「あれ? ウツミ?」

「ただいま」

「どうしたの? お仕事は?」

「ん……」


男性恐怖症のユメにどう説明したものかと言葉に詰まってしまったが、これは余計な気遣いな気がする。普通に言おう。

それと、ユメと床の様子を見るにどうやらたった今掃除機をかけ始めた所のようだ。せっかく早く帰ってきたんだし、たまには私が掃除をしようか。


「男性社員達がストライキ起こすらしくて。仕事にならなそうだから帰ってきた」

「えっ…?」

「貸して。たまには私がするわ」

「あ、うん……じゃなくて、えっ? ストライキって、そんな、大丈夫なの?」

「さあ? 近づかないで帰ってきたからわからないわ」


質問しながらも掃除機は手渡してくれたので、スイッチを入れて掃除を始める。

こうして掃除機を持つのも久しぶりだ。強さを『強』にしてその轟音っぷりに驚くくらいには久しぶりだ。

ゴゴゴゴゴ、と見る見るうちに床を綺麗にしていく掃除機の素晴らしさにしばらく見惚れていたが、気付けば横でユメが何か言いたそうにばたばたしている。

恐らく何か言ってくれていたのだろうが掃除機の音で聴こえなかったようだ。スイッチを切り、聞き直す。


「ごめんユメ、何? ストライキの話の続き?」

「あ、えっと、まず掃除機の強さは『中』でいいと思う」


私もそんな気はしてた。


「それとストライキの話だけど……やっぱり危ないと思うよ」

「……そうね。ユメに心配をかけたいわけじゃないし、貯蓄が充分ならしばらく行かないで様子を見ようと思ってる」

「やった。お金は結構貯まってるし、食料も数日分はあると思うよ」

「じゃあそうするわ、約束する。……っていうか今「やった」って言ったわね?」

「えへへ……だってしばらくは一日中ずっとウツミと一緒に居られるんだし」


まあ、確かにそれは嬉しい事だ。一日中ユメと一緒に居られるのは。

仕事を始めてからはそんな日はせいぜい週末の休みくらいだったし、最初の頃に戻った気持ちで二人きりの時間を堪能するとしよう。


「じゃあとりあえず今日は二人で掃除して、ユメの分の昼食を作って――」

「あ、お昼はウツミに作ったお弁当の残りがあるからそれでいいよ」

「そう? じゃあその後は何をしようか」

「せっかくだし一日かけてピカピカになるまで掃除しちゃわない?」

「そうね、せっかく二人いるんだしね。いつもの感謝を込めて、ね」

「うん!」


ユメの言う事だから、異を唱える理由なんて何も無い。

ユメに笑いかけた後、掃除機のスイッチを『中』に入れて掃除を再開した。


*


文字通り隅々まで掃除をしながら、途中途中で時間を確認する。本当に今日はこれだけで一日が潰れそうだ。それほどまでに私達は念入りに掃除をしている。

ふと、『立つ鳥跡を濁さず』という言葉が頭の中をよぎる。他の人から見ればそう見えかねないくらいに綺麗に掃除しているとは自分でも思う。思うが、でもそれだけだ。

ここからいなくなるつもりなんてない。私達はずっとこの家で、ずっと二人で暮らすのだから。


「この部屋も……掃除しないといけないわね」


丁度ユメと手分けして掃除をしている時の事だ。私はある部屋の前で少しだけ逡巡し、足を止めていた。

寝る時にしか使わない私の自室、その隣の何にも使っていない空き部屋。ミノリの部屋らしい部屋。

初日に覗いた時は何も無い部屋だった。でも、ミノリの部屋だった事を知った今ならどうだろうか。

もしミノリの部屋らしくなっていたなら、ここだけは流石に入らないでおこう。そのままにしておこう。今はそんな気分だ。

そんな事が、部屋が変化するなんて事が起こり得るのかはともかくとして、起こっていたならばそっとしておきたかった。そんな気分だった。


「……ま、そんな事起こり得ないんだけどね」


扉を開けば、そこは真っ白な空間。何も無い部屋。

初日に覗いた時と何ら変わりない、人の居た痕跡なんて何も無い、まっさらな部屋。

この部屋の中には誰も居ない。

この家の中には、ミノリの居場所は無い。


「………」


別に当然の事だ。この家は私とユメの為だけにあるのだし、あの子はあの子でこの世界の管理者としてどこかで暮らしているのだろうし。

どうせ会いたくなくても毎晩夢で会うのだ。何も思う事もないし、その必要もない。

そのはずだ。


「……早く済ませて、ユメの所に戻ろう」


*


「――終わったねぇ。ピッカピカだよ」

「そうね、完璧ね……疲れた」


達成感と疲労感に満たされながら、ユメと二人、居間に寝転び天井を見上げる。

もうすぐ夕食の時間だ。シャワーも浴びないといけない。けど、今はこのままでいたい。


「家庭訪問の前の日のお母さんの気持ちだね」

「ふふ、そうね。覚えてないけど、こんな気持ちだったんでしょうね」

「……そうだね。私も覚えてないや」


間こそあったものの、ユメの声色に寂しさは無い。

私とユメの胸の中は同じだ。二人で居れば他は要らない。

きっとこちらの世界に来た理由も同じだ。直接の理由さえ思い出せないくらい、他の全てが要らなくなったんだ。

そして私と同じ道を選んでくれた。その事には感謝しかない。感謝しかないから、私はユメと、ユメの幸せを守らなければいけない。

……でも考えてみれば、最近の私はユメに心配ばかりかけていたような気もする。さっきのストライキもだし、ミノリの事もだし、タツヤやノゾミに礼を言えと忠告された事もそうだ。


「……ユメは、何かやってみたい事とかないの?」

「えっ? どしたの、急に」

「たまには私もユメを心配する側になりたいと思って」


それは心からの言葉だった。私が心配をかけてばかりの一方で、ユメは私に心配をかけない。

私が外に出てる間も家の中にいる限りは安全のはずだし、ユメは家事等で失敗した事も無い。早く帰ってあげたいとは思うが、家の中の事については信頼しているので心配からではない。会いたいだけだ。

だから、そうだ、例えば新しい料理器具を買って新しい調理法を試したいとか、服を一から作りたいからミシンを買ってくれとか、そういう事を言われて心配してみたい。

ユメを守るだけではなく、ユメを見守りたい。ユメの変化や成長を見守りたい。要するにそういう事なのかもしれない。

だが、言われたユメはさっきからずっと難しい顔をして悩んでいる。


「う~ん……特に思いつかないかなぁ」

「……何でもいいよ。本当に、何でも」

「外には出ないから安心して。っていうか本当に何も無いんだよね……今が一番幸せだし」


そう言われると返す言葉が無い。

ユメを心配してみたいというのはあくまで私が心配をかけてばかりなのが嫌だから出てきた願望であり、今が一番幸せである事を否定するつもりはないからだ。

それを踏まえると、私のこの願望を解消するには、根本的な方法を採らなくてはいけない。


「……私がしっかりすればいいのか」


そもそも私がユメに心配をかけなければいい。そういう事になる。


「……もしかしてウツミ、私に心配かけてるなぁって悩んでたの?」

「……うん、まあ」

「それこそ気にしないでいいのに。外に出られないんだから心配くらいさせてよ」

「心配かけてばかりって立場も嫌なものなのよ。しっかりしないと、ユメの事も守れない」


ミノリは私が「大事なものを見落としている」と言ったが、私はそうは思わない。

大事なものはここにある。見落としてなんていない。そして私はそれを一生守り続けたいんだ。


「あっ、そっか、そうだ、やりたい事、一個あったよ」

「言ってみて。何でも叶えるから」

「……私はそんなウツミの成長をずっと一番近くで見守っていたい。いつだってウツミの味方でいたい。どう?」

「……やっぱり、ユメには勝てないなぁ」


当初の予定とは違うものの、ユメの言葉は相変わらず私の欲しているものだった。

ユメを守る、などと偉そうに言ったものの、いつだって私の心はユメに守られている。

ならばやっぱり、私はしっかりしなければいけない。成長しなくてはいけない。ユメのいるこの世界には、それだけの価値がある。

これから頑張ろう。そう心に決めた。



10.


夢を見た。

普通の夢だ。

顔の無い人間が二人、私の名前を静かに呼び続けるだけの夢だ。

それが誰かはわからない。

ただ、ユメやミノリ達ではないのは確かだ。

哀しかった。

ユメでないのなら誰でもいい。どうでもいい。

そんなどうでもいい二人が、疲れた声で私の名を呼ぶ。

そんな普通の夢だった。

哀しかった。


*


「……大丈夫? ウツミ」


目が覚めてすぐ、おはようの前にそう言われた。


「いつもより嫌な夢でも見た?」

「……いつもと違う夢は見た……けど」


違うのは夢だけではなかった。

いつもなら見た夢を覚えている私が、今日に限っては見た夢の内容をほとんど覚えていなかった。ミノリの夢じゃないという事以外は言葉に出来ない程度にうっすらとしか思い出せない。

そして……胸の奥が、苦しい。


「泣きそうな顔、してる」


ユメがそっと私の頬に触れる。あたたかい。

でも、そこまでしてもらってもこの感情をどう処理すればいいのかがわからない。

泣きそうとは言われたが、泣きたいとは思わない。それでもこの感情はどうにかしたい。

この感情をどこかに捨てたい。そうだ、捨てたいんだ。


「ダメだよ、捨てちゃダメ。意味もわからないまま捨てちゃダメ」

「でも、こんなものは要らない」

「要らなくても、理解はしなくちゃ。しっかりしたいんでしょ?」


否定出来ず沈黙するしかない私を、ユメは真剣な目で見つめる。


「ウツミはみんなを公平に見る事が出来る。でもそれはとても珍しい事なの。みんなはウツミを公平には見ない」

「……うん。知ってる」

「それが良い事か悪い事かは、私にもわかんないよ。だから性格を変えろとかは言わない。でもウツミが今よりしっかりしたいなら――」

「――皆を公平に『見た』、その後。皆が私をどう見てるかを公平に『考える』事。向き合う事」

「……うん。そうすればウツミはきっと、もっといろんな事に気づけるはず」


ただの答え合わせだ。全部、心の中のどこかでわかってた。

それでも、ユメが答えをくれた事には違いない。また今回も。いつも通りに。

「ありがとう」と、いつも通りに礼を言おう。そう思った。

思った、その瞬間だった。

揺れた。

揺れたのだ。

世界が。


*


「地震…!?」


揺れている。今も確かに揺れている。

でも違う。被害が無い。揺れてこそいるが、物が落ちてきたり壊れたりという被害が無い。

厳密には地震ではないようだ、が、これから先も何も壊れないという保障はどこにも無い。外に出るなりして状況を把握しなければ。

……いや、ダメだ。外には出られない。ユメが出られないんだ、ユメを置いて行ける筈がない。

でも状況把握は必要だ。今何が起こっているのか。この世界に何が起こっているのか。それを知らないとユメを守れない。

この世界の事なら管理者に聞ければ一発なのだろうが、夢以外での会い方を私は知らないし、その夢さえ今日は見なかった。


「どうすれば……」

「……ウツミ、私なら大丈夫だよ。外に出よう?」

「ユメ……でも……」

「前に進む事を決めたウツミの、足手まといにはなりたくないから」


いつも私の背を押してくれる、いつものユメの言葉。でも今回ばかりはすぐには頷けなかった。

あの日買った護身用具をかき集め、いくつかはユメに持たせ、特に実用性のありそうな物を手に持ってみた所で不安は消えない。

『外』は危険だ。私一人では、きっとユメを守れない。自分自身を守るので精一杯だ。どうするべきか悩んでいた、その時。


「ウツミ!」


タツヤの声がした。

家のすぐ近くまで来ているのだろう、その声はハッキリと聞こえた。


「タツヤ……!」

「タツヤさん?」


これで状況は多少好転した。

……別に、今更になって頭を下げて「私とユメを守って」なんて言うつもりはない。そんな図々しい事は言わない。

今の状況について何かが聞ければそれでいい。聞けなくても、ミノリの居場所について聞けるかもしれない。とにかく何かが聞けるはずだ。

タツヤも家の中には入れないだろうから、こちらから出て行くしかない。それでもほんの少しの距離だ、それくらいならきっと私でもユメを守れるはず。


「ユメ、少しだけ我慢してね。絶対守るから」

「……うん。大丈夫だよ、ウツミ」


ユメの手を引き、歩き出す。外へ向かって、歩き出す。

その時気付いていれば良かったのかもしれない。

ユメの手を握った瞬間にでも気付いていれば良かったのかもしれない。

結局、私は気付かなかった。タツヤの声に誘われるように、他の何も見えないまま外に飛び出した、その瞬間まで気付く事は無かった。

ずっと握っていたユメの手の感触が消えたその瞬間まで、ユメの手が冷たい事に気付かなかったのだ。


*


「ウツミ下がれ!」


丁度振り返った瞬間、私のその目の前で、私の家は崩れ落ちた。

まるでだるま落としのように、屋根がそのまま一階を押し潰し、綺麗に崩れ落ちて平らになった。

まるで、そこには最初から何も無かったかのように。跡に何も残さず、綺麗に消えた。

まるで、最初から何も……


「……何か大事なものを置いてきたのか?」


タツヤが言う。

私は首を振る。


「……何も。何も無かった」


服のポケットを漁ってみると、あの日買った護身用具が入っていた。

ユメに持たせた分も。全てが。


「……そうか」


そうだ。あの家に置いてきたものなんて何も無い。

私は、あの女の子をずっと昔に置いてきてしまっていたのだから。


*


「おれから離れるなよ」


『外』の様子はひどいものだった。

地面はあちこちひび割れ、裂け、空はいつもの黒煙は何処へやら、見渡す限りどす黒い赤に染まっている。

終末という名の光景があるとすれば、恐らくこういうものなのだろう。

そんな中、私達は歩いていた。慎重に、足元を確かめながら。


「どこに行くの?」

「タワーだ。ここからお嬢の工場を抜けた先、この街の中央に立つあれだ」


今までは黒煙で隠れていたのか全く気付かなかったが、確かに遠くに一際高い塔が見える。

ただの鉄塔ではない。塔の中ほどあたりに展望施設もあるようだし、電波塔だろうか?


「あそこにミノリがいる。この惨事を引き起こしたのはあいつだ。会ってどうにかしてきてくれ」

「ミノリが? どうにかって……?」

「どうでもいいよ。お前の好きにしろ。ここはそういう世界だ」

「それはおかしいわ。この世界の管理者はミノリなんでしょ?」

「そのミノリに管理出来てないのがお前だ。だから行くべきだ。その結果がどうなったっておれたちは受け入れる。好きにしろ」

「私に、この世界の崩壊を止めろって言うの?」

「だから、どうでもいいんだって。お前の思うようにしろ。とにかくミノリと会って、選んでくれ。それがおれたちの――おれとお嬢の意思だ」


違和感を感じる。何かがおかしい。タツヤの話の中に、ミノリの意思が見えない。

ミノリの身に何かが起こった結果、世界がこうなったのだとしたらまだわかる。助けてくれ、という意味なのだと。

だが、話を聞く限りだとこの世界の崩壊はミノリが望んだもので、タツヤとノゾミはそれに……逆らっている? 従っている? それさえわからない。

しかし彼等は管理者には逆らえないはずだ。そう作られた人形なのではなかったのか。だとしたら、これもあくまでミノリのシナリオ通りなのだろうか…?


「……ミノリは、お前に来て欲しくないようだけどな」


気付けば、多くの名前のない『ひと』が私達を囲むように位置していた。

敵意に鈍感な私でもわかる。彼等が私達の道を塞ごうとしている事くらいは。

ポケットの中から護身用具の一つ、警棒を取り出して構えてはみるものの、こんなものでは突破は無理だろう。


「話が通じればいいんだが」


こんな状況で何を悠長な事を言っているんだ、と思ったが、目を向けて驚いた。

タツヤはどこから取り出したのか、拳銃を構えていた。警備員の装備としてどうなのそれは。


「撃たれたくなければ道を開けてくれ。それくらいわかるよな?」


皆がたじろぐのがわかった。タツヤの正面に立つ『ひと』も、言われるままに道を開けた。

タツヤが私を庇いながら銃を向け続けて道を切り開き、どうにか包囲を抜ける事には成功する。


「……ありがとう。とんでもないもの持ってるのね」

「お嬢に感謝だな。とはいえまだ安心はできない」


包囲を抜けてからもなお、さっきの集団はこちらをジッと睨み続けている。諦めたわけではないのだろうか。

後ろを見ながらそんな事を思っていたその矢先、再び地面が揺れた。そして地面が裂けた。さっきの集団の、すぐ後ろの地面が。

何人かがそれに飲み込まれ、落ちていったのが見えた。それを見ていたのは私だけではない。勿論彼等も見ていた。


「……まずい。走るぞ」


地割れに飲まれ、消えていく仲間の姿を目の当たりにしてパニックになったのだろうか、彼等は一斉にこちらに向けて走ってきた。

逃げたい一心なのだろうか、とも思ったが違うようだ。彼等の瞳は確実に私達に向いている。

捕まったら終わりだ。それは恐ろしいほどによくわかった。

振り返り、走る。未だに断続的に揺れは続いているが、立ち止まる訳にもいかない。

何度も転びそうになりながらも、背後から届く背を押す声と乾いた銃声を耳にするたび必死で踏ん張らざるを得なかった。

そんな状況に、私は何故か懐かしさを感じていた。

まるで昔、似たような事があったような。

昔というか、正確には――


「……以前の世界でも、似たような状況があった……?」


タツヤには届かなかったようだが、声に出してみるとますますそんな気がしてくる。

後でタツヤに確かめよう。今はそんな状況ではない。懐かしさを一旦思考の隅に追いやり、走る。

そうしてひたすら走り、ノゾミの工場が見えてきたあたりで、ふと気付く。名前のない『ひと』の皆が皆、私達を追っている訳でもない事に。

ここに来るまでに何人かの『ひと』を遠目に見たが、背後の追っ手の数は増えていない。昨日の工場でのストライキの練習に係長だけが参加していなかったように、例外は存在するようだ。

そしてもう一つ。この通りには『ひと』の姿が無い。この様子なら工場に入ってしまえば一息つけるのではないだろうか。


「タツヤ、工場まであと少し――」


振り返り、そう声をかけた瞬間だった。

一際大きな揺れと共に、また地面が裂けた。

私のすぐ後ろの地面が大きく裂け、タツヤと追ってきた彼等がそれに飲み込まれていく。

いや、タツヤだけは飲み込まれる寸前だった。道の端に片手で掴まっている状態で堪えていた。


「タツヤ! 手を!」


手を掴めと差し伸べる。見捨てる事は出来なかった。一つの疑惑が沸いて出た今、絶対に見捨てる事は出来なかった。

だが、タツヤは拒んだ。


「いい。早く行け。また地震が来るぞ」

「そんな事出来る訳が……!」

「どうせお前じゃおれを持ち上げるのは無理だよ。お嬢のおかげで装備は充実してるからな、重いぜ?」


確かにそれはそうだ。近くに支えに出来るような物も無い、引き上げるのは難しいだろう。

だが、だからといって見捨てろというのは無理な話だ。どうすれば、と周囲を見渡すと、一匹の犬が目に入った。

いつかの日に見た、灰色の毛をした元気な犬だ。この状況でも怪我をせず生き延びていたらしい。タツヤを助けたい私は、こちらに向かって歩いてくるその犬に助けを求めようかとさえ思った。

しかし……その犬は、私に吠え掛かってきた。


「な……ッ」

「おーおー、いいぞ犬、ウツミを追っ払え」


タツヤの声に応えるかのように、より大きな声で犬が吠える。吠えながら距離を詰めてくる。


「なんだ、おれのファンだったのか、犬」

「馬鹿な事を言ってないで――」


瞬間、犬が一際大きく吠え、飛び掛ってきた。

後ずさって辛うじて避けたものの、犬はまだ唸り声を上げて私を睨み続けている。

本気のようだ。タツヤも、犬も、私がここに留まる事を許さない。私には……選択権すら無い。

私には、タツヤを見捨てて去る以外の選択肢が、存在しない。

突きつけられた現実に逆らえない無力な私に出来る事は、別れの言葉を投げかける事だけだった。


「……タツヤ。今までありがとう。あの日も……前の世界でも、ありがとう」


返事は無い。

背を向け、工場の入り口の扉に手をかける。扉を開き、足を踏み入れる。

最後にもう一度振り向いた時、灰色の毛の犬が裂け目に飛び込んでいくのが見えた。


*


「――やっと来ましたわね、ウツミさん」

「……ノゾミ」

「あら、お一人ですか?」

「……ええ」

「そう……」


工場の中も悲惨なものだった。

いや、もっと言うなら悲惨ではなく、凄惨だ。

地震の影響か、備え付けの機械が壊れていたりもしたが……それ以上に、あちらこちらに転がる同僚達の死体が目を引く。

そして、ノゾミが手に持つ不釣合いな大型の銃も。銃には詳しくないけど、ああいうのをマシンガンと言うんだったかな。


「ああ、これ? こいつらが暴動を起こしたので、制圧の為に止むを得ず、と言ったところですわ」

「……そう」

「まあいいじゃない。どうせミノリのお人形よ」


敵対する者には容赦しない。ノゾミはそういう性格だし、おかしいとは思わない。


「以前の世界でも、そんな感じだった気がする」

「以前の世界ではここまではしなかったわよ、法治国家だったし。って、貴女、思い出したの……?」

「うっすらとだけど。タツヤは身体を張って私を守ってくれた気がするし、ノゾミは偉そうに周囲を威圧してた気がする」


今のようにマシンガンこそ持ってなかったけど、私以外の人を金持ちの権力で威嚇する事で自分の凄さを見せていたような、そんな気がする。

タツヤの時の様に、過去の光景としてハッキリと思い出したわけではないが……


「……では、私達の本名は?」

「本名?」

「ノゾミとタツヤ、これは偽名ですのよ。ついでに顔も多少変わってますが。でなければ名前を聞いた瞬間に思い出すのではなくて?」

「……確かに。でも……ごめん」

「いいわよ。別に期待なんてしてないし。それよりタワーに向かうんでしょう? こっちよ」


本当に気にしてないように、ノゾミ――としか呼べない女の子は私を先導して歩き始めた。

歩きながらもどことなく気まずさを感じていると、彼女の方から口を開いた。


「このままタワーに向かって、その後。貴女にはいくつかの選択肢があります。このまま世界を壊すか、止めるか、あるいはこの世界を見捨てるか、等」

「見捨てる、って?」

「それはですね――おっと」


またもや地面が揺れ、工場内の壁に立てかけてあった鉄の棒がこちらに倒れてきそうになった所をノゾミが受け止めた。

棒と言っても結構太く、パイプのように中が空洞というわけでもない代物だ。


「……重い。ちょっと先に通ってくれない?」

「わかった。ありがとう」

「ふぅ、っと」


押し返すのは無理だと判断し、私達が通り過ぎた後にそのまま倒す事にしたようだ。

しかし、今の鉄の棒、錆びていたように見えたが……


「手、見せて。怪我してない?」

「余計なお世話よ。庶民が私に触らないでくれる?」

「……あ、なんかこんなやり取り、昔もしたような気がする」

「……そうね。確かに、こんな事が昔あったような気もする」


その時は確か、態度の悪い子だな、と思いつつもその言葉を尊重して身を引いたような気がする。

今回もそれでいいのだろうか。以前と同じでいいのだろうか。あの時はそれが正解だったのだろうか。わからない。

わからないけど、わからないものをわからないままにはしておけない。今の私は強くそう思っている。

あの子がそう言ったからというのもあるし、今までどうでもいいと思っていた相手が以前の世界からの付き合いだったという事が明らかになり罪悪感を感じている部分もある。

きっと今の私はノゾミを公平に見れていないのだろう。でも構わない。これが間違っていたなら、以前の選択が正しかったと明らかになるだけだ。


「今回は引かないわ。手、見せて」

「触らないでって言ってるでしょう。撃つわよ」

「なんでそんなに隠したがるの」

「貴女こそなんでこんな事で意地になるのよ」

「以前の私の選択が正しいものだったのか知りたくて」

「……別に、正しいも何もないでしょう。小さな怪我よ」

「なら見せて」

「……貴女の世話になるのは御免よ」

「どうして?」

「………」


その問いにノゾミは答えてくれないまま、背を向けて歩き出した。

結局、以前の選択の方が正しかったのだろうか? その可能性は高いが、はっきりとは明らかにならなかった気がする。わからない事の答えを求める為に人と向き合うというのはなかなか難しい事のようだ。

気分を害したと思しきノゾミと、出鼻を挫かれた私。必然的に無言となりしばらくそのまま歩いたが、やがて辿り着いた扉の前でノゾミが口を開いた。


「……皮肉なものね。ミノリが何を思って世界を壊そうとしているのかはわからないけど、そのせいで貴女が私達の記憶を取り戻しつつあるなんて」

「……どういう事?」

「ミノリは貴女に姉妹の事以外の記憶を取り戻して欲しくなかったはずよ。その為に私達の顔と名前を変え、私達が必要以上に貴女に接しないよう行動範囲を定め、それを監視できる管理者という位置についた」


名前と顔を変えたのもミノリだったのか。確かにその結果、私は今に至るまで二人の事を思い出さなかった。

思えばミノリは時々探りを入れてきていたような気もする。私が二人の事をちゃんと『ひと』と見ているかどうかを。人間である事を思い出していないかどうかを。


「その行動範囲というのは?」

「言葉の通りです。タツヤなら工場と貴女の家までの限られた範囲の中でしか貴女に近づけない。同様に私ならこの工場の中に限られている。そういう事。だから私はここから先へは行けません」


そう言い、ノゾミが扉を開く。

その先には壊れつつある外の景色が広がっている。ここは工場の裏口だったようだ。


「さあ、行ってくださいな。行って、姉妹喧嘩でも何でもしてきてきださい」


言われるも、踏み出す事を恐れている自分がいた。

ノゾミをここに置いて行く事に対する抵抗もある。だがそれ以上に、ミノリの所業を聞かされての戸惑いのほうが大きい。

二人の名前を変え、行動範囲を定め、彼女は何をしたかったのだろう? 私を超えたいと言っていたが、それだけでそこまでするだろうか?

ミノリが私の事をどう思っているのかがわからない。ミノリだけじゃない。さっきのノゾミも、もっと言えばタツヤも、私の事をどう思っているのだろう。わからない。

それがわからないのに、ミノリの所に行って何が出来るのだろうか。


「ウツミさん、早く行ってくださいな。ここでお別れです」

「お別れ……」

「……ああそうだ、すっかり言い忘れてました。さっき「この世界を見捨てる選択肢がある」と言いましたが、それはそのままの意味ですわ。貴女は以前の世界に戻れます。貴女だけは」

「私だけが……?」

「そうです。その選択をしたならば、この世界と――私とも永遠にさよならという事ですね」

「………」

「……そんな顔をしないでくださいな。私もタツヤも覚悟の上です」


そう言われても難しい相談だ。

以前の世界を捨ててここに来た私は、今度はこの世界に留まる理由を失ってしまった。大切な女の子を私は置いてきてしまった。

そんな中、どうでもいい『ひと』と思っていた相手が実は以前の世界からの関係者であった事を思い出し懐かしみ、しかしその直後に別れを強いられ、どんな顔をしろと言うのか。

しかも選択次第では永遠の別れだなんて……その言葉の意味する所を考えると、嫌な予感しかしない。

私に、何を選べと言うのか。どれを選べと言うのか。


「皆でこの世界を捨てるという選択肢は無いの?」

「ありません」

「どうして?」

「この世界において特別なのは貴女だけなの。世界を選べるのは貴女だけなの」

「それはどうして?」

「……深い理由などどうでもいいでしょう。ゲームの主人公にでもなった気持ちで好きに選んでくださいな」

「そんなので納得するわけ――」

「ウツミさん、今生の別れかもしれませんし、さっきの答え、教えてあげます。私が貴女の世話になる事を嫌う理由」


割って入られ、言葉に詰まる。今、ノゾミが一番言いたい事は、私の問いに対する答えではないのだ。

そんな言い方をされたら大人しく聞く以外の選択肢は無い。時間が無い事なんて、お互い分かってるんだ。


「……私は貴女を助けたかった。貴女はそんなもの必要としてませんでしたが、私は貴女の力になりたかった。私は貴女の……友達になりたかった」

「友達、って、そんな――」


刹那、地面が、工場が、世界が大きく揺れる。

同時にノゾミに突き飛ばされ、私は裏口から転がり出た。

すぐに顔を上げ、工場を見遣るが……工場と呼べる物は、もうそこには無かった。


*


この世界は何なんだろうか。

いくつか仮説を立てることは出来るが、証明は出来ない。記憶の無い私自身から得られる情報では、私だけが特別である事の説明がつかない。

ずっと考えようとさえしなかった。ユメが居たから世界の答えなんて必要無かった。でも、今は違う。

知らなくてはいけない。例えそれが、どうしようもなく恐ろしい答えだとしても。

答えを知る為に……ミノリに会おう。私の問いに答えてくれる人は、もうミノリしか残されていない。


*


タワーの入り口はこの惨状の最中において驚くほど綺麗だった。

人の気配こそしないが、同時にどこも壊れていないのだ。何度も地震があったのに窓ガラスにヒビ一つ入っていない。

つまりここは、人も災害も寄せ付けない、言わば神聖にして不可侵の領域なのだろう。管理者たるミノリの居城なのだから当然といえば当然か。

この分なら上階に上がる時はエレベーターが使えそうだ。階段もあったがわざわざそちらを使う意味もないだろう。

一階を一通り見て周り、他に何も無い事を確認してエレベーターに乗り込む。操作パネルを見てみるも、行き先を決めるボタンは二つしかない。今居る一階と、外からも見えた展望施設フロアだ。

展望フロアのボタンを押すと、扉は何のアナウンスも無く静かに閉まる。そして静かに滑らかに上へと動き出した。

エレベーターは内から外が全く見えない造りになっていて、どれくらい昇っているのかわからない。

何となくすぐには到着しないんだろうなという気がして、目を瞑る。考える事は沢山ある。

この世界の事、ミノリの事、タツヤとノゾミの事、ほとんど覚えていない今朝の夢の事、そして私自身の事。

その中のほとんどは、ミノリに聞けば判明するのだろう。その為に私はここに来た。この世界をどうするかはその後だ。

いろいろなものの答えを知らないと判断も出来ない。わからないままにして、どうでもいいでは済ませられない。

覚悟を決めて目を開くと同時にエレベーターも止まり、扉が開いた。


*


一歩踏み出した先のその場所は、展望フロアなどではなかった。

コンピュータールーム。所狭しと電子機器が並べてあるその様子を、そう呼ぶ以外の表現方法を私は知らない。

人が通れる隙間なんて僅かしかない。エレベーターを出てから真っ直ぐ、僅か数メートル分だけ人が辛うじて通れる程度に道が作ってあるのみ。

機器に触れないように慎重に進んでいくも、突き当たりにはディスプレイとスピーカーとマイクの乗った机があるだけだった。

少し悩んだ後、三つ全ての電源を入れてみたが、何も変化は無い。

他に目立つ物は何も無いし、人の姿も見当たらない。二人の話ではここにミノリが居るはずではなかったのか。


「……ミノリ? どこに居るの?」


声に出したその瞬間、眩しさを感じた。

目の前のディスプレイが光を発し、映像を映し出したのだ。


『来たんですね、姉さん』

「ミノリ……」


ディスプレイに映し出された顔は、確かに夢で何度も見たミノリのものだった。

一方でスピーカーから聴こえてくる音声は、明らかに機械を通したものになっていて違和感がある。


「どこに居るの? ここに居ると聞いて来たんだけど」

『ここに居ますよ。この部屋のコンピューター全部が私です』

「……なるほど。という事はこの世界は……電子の世界、仮想空間なわけね」


私はこの世界についていくつかの仮説を立てていた。

その中の一つが、仮想空間、電脳世界、電脳空間、サイバースペースなどと呼ばれるもの。

人の意識だけがデータとして取り込まれた世界。もう一つの現実。『第二の世界』としては割とポピュラーな形だ。

という事は、私やタツヤ、ノゾミのような名前のある『ひと』は以前の世界から意識をデータとして抽出され、ここにいる人間。名前のない『ひと』はこちらの世界で生まれた人形。

そして、それらを統括し管理するのが眼前のコンピューター、ミノリ。そういう事なのか。


『まぁ、この世界をわかりやすく言うとそうなりますね』

「……でも、それだけじゃない。そうでしょう?」


そう、それだけでは説明が付かない事もいくつかある。

私だけが特別で、私だけが以前の世界に戻れると言われた事。私だけ以前の世界の記憶を持っていなかった事。そもそも管理者のミノリより先に私だけがこの世界に居た事。

少なくともこれらはミノリを管理者とした仮想空間という前提の上では説明が付かないはずだ。


「タツヤとノゾミに関する記憶も少しだけ取り戻したわ。その時に少しだけ深い話もした。ミノリ、あなたは全てを語ってはいない」

『……本当に聞きたいんですか?』

「何? 気を遣ってくれてるの?」

『はい。自分の本当の気持ちに気付いてしまった私の、最後の良心です』

「本当の気持ち……?」

『まぁその辺は追々。ともかく、姉さんは私を止めるか、この世界からログアウトするか、そのあたりの選択をしに来たんでしょう? でしたら聞かないほうがいいですよ』


ミノリの考えが分からない。タツヤの言う通りならば、ミノリは私にここへ来て欲しくなかったはずだ。

実際、ミノリはこちらの目的も察している。なのに私を気遣ってくれている。まるでわからない。


「……じゃあ、先に別の事を聞かせて。ミノリの目的は何? この惨事を引き起こした理由は?」

『これは単に世界を作り直そうとしたんですよ。全部壊してニューゲーム。まぁついでに難易度も弄りましたけどね。この世界には姉さんの味方が多すぎました』

「味方……?」

『姉さんはもっと男を恐れていないとおかしいんです。なのに恐れない。以前の世界の記憶を持っていないせいですかね。仕方ないから男達の頭の中にヘイトをばら撒く事にしたんです』


ヘイト、憎しみ。というと昨日のあれの事だろうか。男性社員達がストライキをしようとしていた件。彼等は別に味方という訳でも無かったのだが、敵でも無かったのも確かだ、それまでは。

それともう一つ。ここで以前の世界の記憶の話が出てくるという事は、やはりタツヤの時に思い出したあの記憶は現実だったようだ。


『怖かったですよね? 以前の世界でも男共は下らない理由でああして群れて姉さんを追い掛け回した。あれを見た時、私は心の底から奴らはクズだと思い知った』

「……それがミノリが男性嫌いになった切っ掛けだったのね。そして私にももう一度それを味わわせようとした。思い出させようとした」


でも、以前の世界でもこの世界でもタツヤは守ってくれた。

だから私は、そうして性別でひと括りにして判断するのはおかしいと思う。


『しかし、自我を持つタツヤさんは当然としても、昨日の時点で係長のような例外が出てくるのは想定外でした。今日だって姉さんを追わない人が結構居たと思います』

「そうね。いつだって例外は居るものよ。で、ミノリはそんな私が気に入らないから世界を壊そうとしたの?」

『それはあくまで通過点、もののついでです。結局は……自分の本当の気持ちに気付いてしまったから、ですかね』

「……聞いてもいい? 本当の気持ちとやらを」


悩んだが、結局は聞かないと始まらない気がした。

だが、そうしてミノリのスピーカーから発せられた言葉は私の想像だにしないものだった。

いや、過去にミノリと向き合い、ミノリが私の事をどう考えているかを想像する機会があれば、想像出来たのだろうか。


『私は姉さんを超えたいと思ってました。でも違ったんです。姉さんを超える事で、姉さんの中に私を永遠に刻む事が私の本当の望みだったんです』

「………」

『自分でも気付きませんでしたが、私は姉さんに憧れていたんです。周りなんてどうでもいいという態度を取りながらも、その公平さ故にタツヤさんやノゾミさんから好かれる姉さんに』


そうか、やっぱり好かれていたんだ、私は。

今まで向き合わなかったから気付かなかっただけで、さっき向き合ったノゾミは私に「友達になりたい」と言ってくれた。その程度には私は好かれていた。

タツヤは私にどういう感情を抱いていたのだろうか。今となっては知る由もないけど、でも好かれてはいたのだろう、ミノリの言う通りに。

そう、結局の所はミノリの言った通り、私は大切なものを見落としていたのだ。

今となっては後悔している。二人と向き合わなかった事に。

その代わり、という訳ではないが、せめてミノリにはちゃんと向き合わないといけないのだろう。


『ですが、姉さんの中に私は無かった。私の居た世界を姉さんは捨て、記憶も捨て、そんな姉さんが作った家の中に私の部屋は無かった。それが無性に悔しかった』

「……返す言葉も無いわ」

『いえ、ずっと前から分かっていた事なんです。だからこそ私はずっと前から姉さんを超えたがっていた。誰も特別に見ない姉さんの特別になりたかった』

「………」

『この世界に来て、管理者になって、上手くいくと思っていた。でも何も変わっていなかった事をあの日に知った。だから世界を作り直す事にしたんです。ついでに姉さんを以前の姉さんに戻して』

「以前の、私……」

『公平で、私の男嫌いを諌めるような姉さんも、内心では僅かに男を恐れていました。私には分かりました。でもこちらの世界ではそうは見えなかった。だから最終的に男ばかりの世界にしたんです。

 女尊男卑な世界にする事は初めから決めていましたが、これでも当初は多少なら女性も配置するつもりだったんですよ?』


なるほど、ミノリは最初から色々考えて仕込んでいたのか。

それでも変化が見られないから、世界を壊すと決めたあの日、ついでに私に恐怖を思い出させようとしたのか。


『タツヤさんが居なければもっと話は早かったかもしれませんが、そこは約束でしたし、タツヤさんが居なければ姉さんが家から一切出てこなかった可能性もありますしね』

「男性を恐れて引き篭もるという事? それはそれでミノリの望み通りなんじゃないの?」

『ですが、家の中に篭られては私からは手が出せませんから。互いの意識の薄れる、夢という形以外では』

「なるほどね……」


とは言うものの、タツヤが居なくても外には出ていたかもしれない。ユメの為にと自らに言い聞かせて。

そうだ、ユメが男性を恐れていたから私は恐れている暇が無かったとも言える。もっとも、ユメの存在を知らないミノリにそれを考慮しろと言うのは無理な話だが。


「約束というのは?」

『私が管理者になるのを認め、手伝う代わりに、自分達も姉さんの側に置いてくれと二人は言いました。実際、私一人では今のように身体を捨てた存在になるのは難しかったでしょうし、仕方なくです』

「……そもそも、身体を捨てる必要があったの?」

『最初からそのつもりだったわけではないですが、試した結果、人間の身では無理だというのが私の結論でした。姉さんの作った世界を乗っ取り、姉さん以上の範囲を管理するという事は』


ミノリの言い分だと、どうやら最初に世界を作ったのは私らしい。

最初の内だけは私もそう思っていたのだが、結局それは正解だったという事になる。


『言っておきますが、規模が小さいとはいえ人間の身体を維持して自我まで保った上で自分の家と周囲の世界を作り上げた姉さんが異常なんです。普通の人間の頭で出来る事じゃありません。

 普通の人間の頭で出来るのは、苦し紛れ程度に自分の意思を持ちながら、誰かの掌の上で作られた世界の流れに踊らされ、身を任せて生きる事だけ』

「……何、私が普通じゃないとでも言うの?」


ノゾミが私を特別だと言ったのは、この事なのだろうか?


『元々姉さんは変人ですけどね。その上この世界でも、私が身体を捨て、こんな姿にまでなって世界を掌握しても尚、姉さんの家と頭の中には干渉出来なかった。まるでもう一つの世界があるかのように』

「……そんなミノリの精一杯の干渉が、あの夢だったという事ね」

『はい。今にして思えば、以前の世界での姉さんの伸び代の無さは普通じゃなかったとも言えます。きっと姉さんの頭は世界を作る事だけに特化していたんですね。それは立派に異常ですよ』

「……考えすぎよ。記憶が無い分、その領域を上手く使えただけの事じゃないの?」

『それも多少は影響しているでしょうけど、そもそも姉さんは記憶を完全に無くしている訳ではありません。現に色々な事を思い出しているでしょう?』

「それは……」

『本当は思い出して欲しくなかったんですけどね。まぁ一度全てリセットすると決めた以上は些細な事です。姉さん自身もリセットします。今度こそ私に頭の中を見せてくれますよね?』

「……それはつまり、この世界で死ねばミノリに管理される『ひと』として作り替えられる、ということかしら?」

『ふふ、流石姉さん、察しが良い。以前の世界とは大違いです。やはりこちらの世界でこそ姉さんは輝くようですね』


皮肉はともかく、要するに私もタツヤやノゾミのような存在になるという事か。

もう一度二人に会えるのなら、それも悪くない気もする。二人に対する後悔は沢山あるから。


『ですが、このタワーだけは世界から独立しています。ここは崩壊しない。ここに居る限り、姉さんは死ぬ事は無い。私の目論見から外れている』

「その割には困っているようには見えないけど」

『……内心、悩んでいたんですよ。姉さんには全てを伝えるべきなのではないかと。少なくとも姉さんの聞きたい事には答えるのが勝手に世界を乗っ取った私の義務なのではないかと』

「……あなたも案外フェアなのね」

『姉さんに似てきたんですかね。ですから、もし姉さんがここまで来られたなら、聞かれた事全てにちゃんと答えようと思っていたんです。ですからタツヤさんとノゾミさんも泳がせておきました』


ミノリの目的を考えれば、二人がしていた事はある意味では管理者への反逆とも取れる。

その気になれば誰でも消せる、とミノリは言っていた。でも二人は目的を達成した。それは泳がされていたとも言えるのだろう。ミノリ自身が悩んでいたせいもあるのだろうが。


『そして、疑問全てに答えた上で、姉さんには自ら選んでもらいます。私の下で生きる道を。姉さんの全部を私が管理します。その時こそ私は姉さんを超えたと言えるし、姉さんの中には私が永遠に刻まれる』

「……好かれているのか嫌われているのかわからないわね」

『好きなんですよ。誰よりも、世界の何よりも、姉さんの事が。そうでなければ身体を捨てたりなんてしませんよ』

「……そう、か。そういう考え方もあるのね」


本当に、私は今まで誰にも向き合って来なかったんだな、人間を知ろうとしなかったんだなと思い知る。

この世は知らない事、わからない事だらけだ。

そんな中で、私が知らなくてはいけない事、ミノリに教えてもらわなければいけない事が、まだ一つ残っている。


「ミノリ。そろそろ教えて欲しい。この世界の真実。あなたが隠している事を」

『隠している訳ではないんですけど』

「じゃあ、私が気付いていない事を、気付いていないように見える事を教えて欲しい」

『どうしてそんなに知りたがるんですか?』

「……結局、ミノリの言う通りだったのよ。私は多くの大切なものを見落としていた。あなた達に好かれていたという事を。思い知った。だから、知れるものは知っておきたい」

『……変わりましたね、姉さん。誰かの事を大切に想うなんて、姉さんらしくもない』

「……教えてくれないのかしら。聞かれた事全てに答えるって言ってたわよね」

『これは良心だと言いましたよね。姉さん、その感情はあなたを傷つけるんです』

「真実を知る事で私が傷つくと? 気遣いはありがたいけど……予想は付いてるのよ、もう」


私だけが特別と言われ、私だけが以前の世界に戻れると言われ、今生の別れになると言われ、予想出来ない筈が無い。

どうしようもなく恐ろしい答えを。世界の真実を。


「以前の世界に私だけは戻れる。他の人達は戻れない。つまり、他の人達は私より大きな犠牲を払ってこの世界に居る。具体的には、恐らく……身体が無い」


私自身の払った犠牲がどういうものなのかはわからない。覚えていないから。

だが、皆は戻りたくても戻れないほどの犠牲を払っているのだ。既に支払ってしまっているのだ。


『……最後の良心だったんですけどね。ええ、そうです。正確には、既に命すらありません。我々は死人です』

「っ……」


頭の中ではわかっていたつもりだったが、実際に面と向かって言われると話が違った。

その事実は重かった。そして考えうる限りの中で最悪のパターンでもあった。


『ここは死後の世界に非常に近いんですよ。多分本来の死人は天国か地獄に行って転生するでしょうから、あくまで近いだけの場所。世界を作れる姉さんが勝手に作った、死人の意識の留まる世界』

「死人の……」

『姉さん自身は意識不明の昏睡状態です。なので戻れる。もう目覚める事は無いだろうと向こうでは言われてますけどね。こちらの世界で暮らしているので当然と言えば当然ですが』

「……でも、私は辛うじて命はある。こちらの世界に居ながら向こうでも生きている。ならあなた達も――」

『命まで捨てる必要は無かった、と? 私は以前の世界に命すらも残さず、全てのリソースをこの世界に割いたのに、今はこんな姿なんですよ?』

「………」

『タツヤさんやミノリさんだってそうです。私が下地を作って管理してあげないと意識を保って存在する事さえ出来ない希薄な存在なんです。結果論ですけど、命まで捨てても『この程度』なんですよ?』


あくまで私が特別だったという事か。全てにおいて、私だけが違っているのか。

以前の世界に戻るという選択肢を残したまま、こちらの世界で好き勝手出来ている私という存在が異常なのか。


『そもそも、私達は既に死んでしまったんですから今更どうこう言ってもしょうがないですよ』

「……そう、ね……」


死んでしまった。その言い方は正しいのだろうか。

違う気がする。死を選んだんだ。自ら選んだんだ。私を追って死んだんだ。

私を、好いていてくれたが故に。

以前の世界の私が好かれている事に気付かず、世界を捨てたせいで。

私のせいで、三人とも死んだんだ……


『……だから言ったんです、傷つくと。姉さんは誰かに優しくあるべきではないし、私以外の事も思い出すべきではなかった』

「……ごめんなさい」


それはきっと目の前のミノリに対してではなく、三人全員に向けての言葉だったと思う。

だが、ディスプレイの中のミノリは溜息を吐くだけだった。


『もう私の良心は売り切れですからね。後はこの状況を利用させてもらうだけです。姉さん、罪悪感を感じているなら……後はわかりますよね?』

「……私も死ぬべきだ、と」

『私と一緒になるんです。私の中で、私の管理する世界の中で、姉さんは好きに生きればいい。償いたければ好きなだけ償うといいですよ。私ならその機会を作ってあげられます』


それはありがたい事だ。

命まで捧げてくれた彼女達に私が償える世界があるなら、それは理想の世界だ。

私はそこに行かなくてはいけない。その世界に辿り着かなくてはいけない。

私に出来る事は、もうそれだけだ。

踵を返し、ミノリに背を向け、エレベーターに再び乗り込む。


*


降りてゆくエレベーターの中で再び目を瞑ると、懐かしい声が聴こえてきた。


「ねぇウツミ、本当にそれでいいの?」


私はこの声を知っている。この世界で何度も聞いた声。毎日聞いた声。

私の大好きな、私だけの彼女の声。


「それじゃあ何も変わってない気がするよ、ウツミ」

「……いいえ、私は気付けた。私を大事に想ってくれている人の存在に。それだけで充分な変化よ」


ずっと守ってくれたタツヤ、友達になりたいと言ってくれたノゾミ、好きだと言ってくれたミノリ。

三人の気持ちに気付けた。だから私は、三人の気持ちに応えないといけない。


「それで、その気持ちに応える方法がこの世界に残る事なんでしょ?」

「そうよ、何かおかしい?」

「おかしくはないけど、やっぱりそれじゃあ何も変わってないよ。ウツミはまだ、大事な事に気付いていない」


三人が私を好いていてくれた事、それ以上に大事な事などあるのだろうか。


「あるよ。見落としてる事がある。タツヤとノゾミの覚悟を、ウツミは見落としてる」

「覚悟……?」


タツヤもノゾミも、私がどんな選択をしようと受け入れると言っていた。選択を私に委ねると言っていた。覚悟というのはそれの事じゃないのか。なら私のこの選択も受け入れてもらえるのではないのか。

……いや、違う。ノゾミは言っていた、「私もタツヤも覚悟している」と。覚悟とはそれの事だ。その時に言っていた事についての覚悟だ。

その時に言っていたのは……永遠の別れという選択肢についての話。という事は、それを選ばれる覚悟の事なのか。

今の私の選択――ミノリの望む未来――とは違う選択。それを選ばれる覚悟。すなわち、ミノリに反旗を翻す覚悟。

つまり二人は……私に、元の世界に戻って欲しかった?


「ううん、強いるつもりはなかったはずだよ。二人はそうは言わなかった。ウツミがちゃんと考えて今の選択をしたのなら、本当にそれを受け入れてくれると思う」

「私が、ちゃんと考えてない、って事?」

「二人の覚悟なんて見えないフリをして、自分の罪悪感を満たす為だけの選択をしなかったって言い切れる?」


到底言い切れなんてしない。流石、痛い所を突いてくる。

でも、だったらどうしろと言うのか。罪悪感から目を背け、開き直る事なんて到底出来ない。人間としてそれは出来ない。


「まだ時間はあるよ。もう少し考えてみてもいいはず」

「……そうね……」


*


エレベーターから降りて、タワーの入り口まで戻る。

外を見てみると、もう地面はほとんど崩れ落ちてしまっていた。空は相変わらずのどす黒い赤で、今となってはそれはこの世界にいた『ひと』達の流した血のようにも見える。

この空の赤も、私のせい。そうとも言える。だから私が全てを賭けてどうにかしよう。

振り返り、入り口から遠ざかる。そのまま進み、中央にあるエレベーターではなく、その右手側に備え付けられている階段の方に向かう。

階段の前に立ち、上を向く。螺旋階段になっているようだが上の方は暗く、光が入ってきている様子はない。どこまで続いているのかさえもわからない。

まあいいか。こちらを行くと決めたんだ。そのまま踏み出し、昇り始める。

少し昇っただけで四方が壁に囲まれている形になり、薄暗くなる。声を出したらだいぶ反響しそうだ。そんな事する理由も無いが。


『――姉さん』

「あら、ミノリ」


見えているのか。スピーカーもこの階段の何処かにあるのだろうか。かなり反響しているし、もしかしたら最上部にあるのかもしれない。


『何故こんな場所に居るんですか? 死ぬんじゃなかったんですか?』

「もう少し別の景色を見ながら死にたくて」

『……わかっているんですか? この先に何があるか』

「私しか行けない場所、でしょう? だからこそ二人は私をここまで導いてくれた」


話しながらも、足は止めない。昇り続ける。

ミノリの声が徐々に近づいてきている気がするのは、スピーカーとの距離が縮まっているからか、それともミノリが焦っているのか。


『……姉さん。何が原因でこの世界に来たのか、思い出しているんですか?』

「……私が三人を死に追いやったのだから、その時の私の判断が間違いだった、という事よね」

『私の質問に答えてください』

「私は、その時と同じ状況を、この世界で作り上げる。時間を遡った世界をここに作る。私の頭ならそれも出来るはず」

『思い出していないんですね?』

「もう一度、あの日からやり直す。この世界で、あなた達と一緒に。その為に、今は死ねない」

『あの子を連れてくる事は出来ませんよ? あの子は姉さんには靡かない』

「………」

『……姉さん、私なら男なんかには靡かないよ? 私じゃダメなの?』

「……ミノリが身体を捨てたのも私のせい。私がミノリに身体を捨てさせた。だったら、私はやり直したい」

『っ、姉さんっ!』


*


階段を昇り終え、その先にあった扉を開く。

そこにあったのは本当の展望施設だった。ガラス貼りの窓から見えるのは眼下に広がる近代的なビルばかりの街並みと、遠くに見える山。そしてやや上を向けば青い空が果てしなく広がる。

街並みでは人が行き交い、山には雲がかかり、空には鳥が飛ぶ。ずっと忘れていたそんな光景ばかりが目に入ってくる。自ら望んで捨てたはずの光景が、今はとても懐かしい。

しかし、ここに人は居ない。この展望施設の中にだけは人が居ない。私以外には誰も居ない。ミノリの声も聞こえない。ユメがある一箇所のガラス窓を指差しているだけだ。


「そこが帰り道なのね」


ポケットから再度警棒を取り出し、窓に投げつける。ガラスは音も無く割れ、どこかへと飛散して消えた。

あとはこの窓から飛び降りれば終わり。それでおしまい。私が地面に着く事は無い。

それで、おしまい。


「そうだ、ユメ。今までありがとう。これ、置いていくわ」


ユメに渡してから返ってきた護身用具を、全部ユメの足元に置いていく。

ユメが使うとは思えないけれど、あるべき場所はここで間違いない。

もう間違えない。あるべき場所もだけど、自分のいるべき場所も、私にはちゃんとわかっている。

ここは私の世界だ。だから私が終わらせないといけない。


「……また、来るから」


遠くに向けて小声で呟く。

最後にもう一度ユメを見てみたけど、どうやっても表情が見えないのが、少しだけ寂しかった。


「……ばいばい、ユメ」



11.


こうして私は、私を大事に想ってくれる人が二人だけ残っている世界へと戻った。

やるべき事も既に決まっている。あの世界に戻り、あの世界を乗っ取るために、自分の頭の中の事をもっと調べなくてはいけない。

あの世界で生きる為に、この世界を活用しよう。所謂下積み期間だと考えれば、大事な人が三人欠けているこの世界も乗り切れる。

そして、この世界に残っている二人、私を大事に想ってくれている二人にはいずれちゃんと事情を説明しないといけない。私の覚悟も含めて。自ら命を絶った三人の覚悟と想いに応える覚悟が私にある事も含めて。

それともう一人。私を大事に想ってくれているわけではないけど、私が大事に想いたい人。全ての発端となった、あの子。

その子を再び街中で見かけた時は、意識を失いそうになった。

向こうから歩いてくる、あの子。私はもう名前を呼べない、あの子。

視界が揺れる。足元がおぼつかない。地面にへたり込む。動悸と冷や汗が止まらない。


「だ、大丈夫ですかっ!?」

「どうした!? 気分が悪いのか!?」

「び、病院!? 救急車!?」


あの子とその隣にいた男性が、共に私に駆け寄り声をかけてくれる。

優しい人だ。二人とも、優しい人のようだ。

私はこの子にあの日恋をした。一目惚れだった。でもこの子は私の事を知らない。私の事なんて何とも思っていない。あの日会った事さえ覚えていない。

相手の事をわざわざ考えなくても、それくらいはわかる。ここまではあの日と一緒だ。そしてあの日の私はこの後、間違った選択をした。その結果、大事な三人を失った。

今回は間違わない。間違う理由が無い。自ら死を選ぶ理由はまだ無い。それはもう少し後の話だ。


「……だ、大丈夫。少ししたら落ち着くから……」

「そ、そうなの?」


でも、ここに来て欲が出てきた。目的が明確になった事で、それに付随するわかりやすい欲が出てきた。


「……だいぶ落ち着いてきました……ごめんなさい、迷惑かけました」

「本当に大丈夫か?」

「無理しないでね?」

「はい、助かりました。それで、あの……」


私の目的は、向こうの世界であの日をやり直し、そのまま皆で日常の続きを生きる事。それなら……


「お礼がしたいのですが、良ければ連絡先を教えて貰えませんか?」


……その日常に、あの日置いてきたこの子を連れて行く事くらいは許されるはずだ。

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掌の上の世界と頭の中の世界 山羊斗羊 @kagagaga

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