掌の上の世界と頭の中の世界
山羊斗羊
前半
0.
最初は私が作り上げた世界だと思っていた。
私とあの子だけの二人しかいない完璧な世界。
二人だけで全てが終わる完成したはじまりの世界。
ここはそういう場所。
そう思っていた。
でも、違った。
いつのまにか世界には『ひと』が増え、幼馴染が出来、勤め先には上司が居て、挙句の果てにはこの世界の管理者と名乗る奴にも会った。
私の想像とは違い、ここは私が創造した世界ではなかったのだ。
それでも、ここが未だ理想の世界である事には違いは無いのだが。
1.
「――ただいま」
開き戸の玄関をくぐり、靴を脱ぎ、マスクを外しながら声をかける。
やはり自宅は安心する。清浄で暖かい空気は何物にも代え難い。汚れきっている『外』での疲れを癒してくれるのはここだけだ。
空気の暖かさに反して少しだけ冷たい板敷きの廊下を歩きながら、改めて思う。
手放したくない。この家も、この世界も、そして眼前の扉を開けた先でいつも笑顔で待っていてくれる、あの子の事も。
「おかえり、ウツミ」
「……ただいま、ユメ」
いや、逆か。この子が――ユメがいるから、この家もこの世界も私にとって価値を持つ。
この子で無ければ、他の全てが同じだったとしても全ては価値を持たない。確信がある。
たとえ今と同じように暖かい空気と温かい食事が待っていようとも、ユメのあたたかい笑顔が無ければその世界に愛着は持てない。
私が作った世界なら早々にリセットだ。誰かの作った世界なら早々にログアウトだ。
だから、私は彼女にこう言うのだ。
「……ユメがいてよかった」
「急にどうしたの? お仕事疲れた?」
「ううん。私が毎日いつも思ってる事よ」
私の事だけを待っててくれる彼女に感謝しない訳が無い。
私と同じ世界を選んでくれた彼女に感謝しない訳が無い。
私と共に以前の世界を捨てた彼女に感謝しない訳が無い。
「私も、ウツミがいてくれてよかったっていっつも思ってるよ」
「ありがとう。でもね」
でも。
でも、この世界はそうシンプルではなかった。私達二人だけで完結するものではなかった。故に私はユメを守らないといけない。この家の外に居る、私達以外のものから守らないといけない。
そもそも最初からこの世界では『外』は常に薄暗く、汚かった。街中にある工場が常に黒煙を撒き散らしているため空気が悪く、空はその煙で覆われ日光が届かない。
常にマスクが手放せず、もし雨でも降ろうものなら誰も出歩きたがらない。そんな『外』だ。私の心の中のように暗く淀んだ景色だ。だから元々ユメを外に出すつもりはなかった。
だがある日、それに加えて『ひと』が増えた。私とユメ以外の人が。世界に現実味というくだらない色をつける為だけに存在し、何を考えているか分からないお飾りの人形が。
彼等を配置したのはこの世界の本当の管理者だった。私ではないあの子だった。彼等をどうにかする事は私には出来ない。だから、私は彼女にこう言うのだ。
「何度も言うけど、外にだけは出ちゃダメよ。私の事を大切に想ってくれて、心配してくれるのは嬉しいけど、私のいる外には出てきちゃダメ」
「……うん。男の人がいるんでしょ? 怖いから出ないよ。大丈夫」
「うん、いい子ね」
この子は男性の事を恐れている。以前の世界の男性がどうだったかは覚えていないが、この世界の男性相手なら恐れてもおかしくはないかもしれない、とは思う。
そう思ってもおかしくない程度には、この世界の男性は切羽詰まった生き方を強いられている。恐らくは配置した人の趣味なのだろう、可哀想に。
と、そんな風に私は彼等に同情はするが、私達の身の安全とそれとは別問題だ。私自身はともかく、目の届かない所でユメを危険な目に遭わせる訳にはいかない。
そういう意味では、ユメが男性を苦手としていて『外』には男性が溢れている、そんな今の状況は皮肉にも都合がいいとも言える。
ここは未だ理想の世界だ。
「……ご飯食べようか」
「うん。今日も自信作だからね!」
「自信があってもなくても、いつもユメのご飯は美味しいけどね。いただきます」
「いただきまーす」
夕食を採り、入浴を済ませ、ほどよい時間になるまでユメと語り明かし、一緒にベッドに入って眠る。
そんな夜を過ごし、眠る寸前に今日も幸せだったと思えるのだから、ここは理想の世界なのだ。
……まあ、眠りに落ちたら嫌な夢を見るのだが。
朝も朝で、ユメの作ってくれた朝食を採り、寝巻きから着替えて身だしなみを整え出勤する。
仕事が楽しいとは言わないが、現状ではユメと共に生きる為に必要であり、彼女が送り出してくれる事以上の朝の幸せも私には想像できないため、これでいいのだろう。
「マスクと傘と、仕事道具……うん、大丈夫」
「携帯電話は?」
「あるわ。ユメの作ってくれたお弁当もね」
「よかった。早く帰ってきてね」
「もちろん。じゃあ、行ってきます」
「いってらっしゃーい」
ユメの声を背に、開き戸の玄関をくぐり、後ろ手に閉める。
数歩進むと、私の視界に一人の男性の姿が映る。私より少し背の高い、紺色の堅苦しい制服を着た警備員だ。私と目が合うと、彼はいつも通り軽く手を挙げて挨拶してくる。
「よう」
彼は私の幼馴染らしい。以前の世界からの幼馴染だ、と彼は言ったが、要はそういう設定なのだろう。
もしかしたら以前の世界に幼馴染はいたのかもしれないが、覚えていない。
幼馴染の事に限らず、私は以前の世界の事をほとんど覚えていない。もっとも、それで何か不自由があったという訳でもない。元々覚えておく必要すら無かったのだろう。
私にとって、この世界にユメさえいれば他はどうでもいい。目の前の男性が幼馴染だと言い張るのなら、特に反論もせず受け入れるだけだ。
彼もまた、管理者によってそういう設定の役を演じさせられているだけなのだから。
「一緒に行こうぜ、工場まで」
「そうね」
ならばせめて、それを何事も無く演じ切らせてあげるのが一番いいのではないだろうか。
それが誰にとってなのかはわからないが、きっと大した問題ではないのだ。
2.
道端で屈強そうな体躯の男性がゴミ拾いをしている。その隣ではやや屈強そうな体躯の男性がゴミ拾いをしている。そのまた隣では遥かに屈強そうな体躯の男性がゴミ拾いをしていた。
彼等は一様に疲れた顔をしていて、道を歩く私に一瞬目を向ける事もあるが、隣の彼の姿を視認するとすぐにゴミ拾いに戻る。
私の家のある居住区から工場の立ち並ぶ工業区までの道で、こんな光景を毎日何度も目にする。私も警戒は解いていないつもりだが、どこか慣れてしまってもいる。
もっとも、屈強な体躯の男性のしている事はゴミ拾いであったり建物の掃除であったり商売であったり物乞いだったり殴り合いだったり自殺であったり快晴祈願であったりと日と場所によって様々だったりもするのだが。
ともかく、隣にいる幼馴染はそんな彼等から私を守る役割を自ら担っているのだ。自ら担っているように演じさせられているのだ。そして、その役割以外にも彼が持っているものが一つある。
「タツヤ」
「ん、なんだ?」
彼、幼馴染には名前がある。
世界に多く増えた『ひと』だが、その多くには名前が無い。私が知ろうとしないだけというのもあるが、知る機会に恵まれてもなお、彼等は名前を持たなかった。
例えば勤め先での自己紹介の時だ。私が名乗った後、部長がこう言った。
「どうも、ウツミさん。ここの部長の部長です。よろしく」
自己紹介という場でありながら、部長は間違いなくこう言った。そして実際、私が部長を部長としか呼ばなくても不都合はなく、他の皆も部長を部長としか呼んでいなかった。
つまりそういうものなのだろう。その一方で、ごく僅かだが名前のある『ひと』も存在した。
この幼馴染――タツヤも、そんなごく僅かの名前のある『ひと』の一人だった。すなわち特例。この世界における特別という事だ。
とはいえ、私にとって特別という訳ではない。私にとってユメ以外は全て等しくどうでもいい。が、それでも無条件に守ってもらっている側なので無言でいるのは少々気まずく、言葉を探す。
「……今日もいい天気ね」
「無理して話題を引っ張り出さなくていいんだぞ。おれは慣れてる」
「……そう」
「幼馴染だからな」
「私は覚えてないけれど」
「知ってるし、それで構わないさ」
そういうものかしら、と疑問には思うが、本人がそう言うのだからそれを言葉には出来ない。
きっとタツヤはそれでいいように頭の中が出来ている『ひと』なのだろう。なら私はその頭の中を尊重しようと思う。頭の中の事に口や手を出されるのは誰だって嫌なはずだ。
たとえそれが管理者によって作られた『ひと』であっても。
*
「――じゃ、また帰りに」
「ええ」
長くもなく短くもない現実的な沈黙の時間を経て職場へ辿り着いた私達は、いつも通り言葉少なに別れた。
この街の中心部付近に位置する工業区、そこに立ち並んで黒煙を巻き上げる工場群の中の一つが私達の職場だ。私は作業員として、タツヤは警備員としてそこに勤めている。そしてそれなりに恵まれた給料を貰っている。
この工場に勤めているせいでユメと一緒に居られる時間が短くなっているとも言えるが、給料を貰う事でユメを支えている実感も得られるため、私の中ではイーブンだ。
他所で働けばこのバランスは大きく崩れ、マイナスになってしまうだろう。具体的には給料が減る上に労働環境が悪くなる。
そう、この工場は給料の件もだがそれ以外にも単純に労働環境が良い。
あくまで私にとってのみの話だが。
「あ、ウツミさん、おはようございます」
「おはよう、新人」
作業場に着くと、名前のないひとである新人が既に居た。いつも通りの光景だ。新人だからいつも早く来ているのだろう。その意気込みは褒めるべき所なのかもしれないが、教育係は他に居た筈なので私が褒める必要は無いと判断する。
というか本音を言うとユメ以外を褒めても私が楽しくないから嫌だ。
「今日の仕事は何か聞いてる?」
褒めるつもりも無ければ仲良くするつもりも無いが、仕事は仕事だ。情報の共有は必要だろう。
「ええと、昨日ひたすら割りまくった瓶を今日はひたすら溶かすとか」
「そう、ありがと」
「いえ。あっ、あの、教育係さん見てません?」
そういえば教育係は教育係という呼び名だったっけ? あれ、それなら新人が入る前は何て呼ばれてたんだっけ?
……ああ、いや、違う。新人も教育係も同時に『配置』されたんだ、前も後も存在するはずがないんだ。
そうだ、あの日、部長のあの自己紹介を聞いた後に、彼等の姿も見たんだった。らしくない天然ボケをやらかしてしまった、しっかりしないと。
「……あのー……?」
「……もうすぐ始業だし、もう来るでしょ」
「あ、はい、そうですね……」
実際のところ教育係はその後すぐに来て、私から離れるように新人を引っ張っていった。
これも、いつも通りの光景だ。
*
「今日は火を使うんだ、気をつけろよ」
全員が出勤し、仕事が本格的に始まる直前、上司である係長が私に言った。
特に異論は無いので頷いたが、係長のその後ろで教育係が怯えたような表情をしているのも目に入ってしまう。
「ちょ、係長、ちょっと」
「あん?」
「あまりアイツに強く当たらないでくださいってば!」
係長の手を引き、私から遠ざけながら小声で言っている。
生憎、普通に私に聞こえてしまっているが。私の耳がいいのか、教育係の声が大きいのか、どちらだろうか。どうでもいいか。
「気をつけろって言っただけだろ、何が悪い」
「アイツは社長のお気に入りですよ!? 知ってるでしょう!?」
「だったら尚更気をつけてもらうべきだろ。社長だってそう言うはずだ」
「社長が言うなら俺達が言う必要ないじゃないっすか! 君子危うきに近寄らず、ですよ!」
「危うき、ねぇ……」
二人の会話は丸聞こえだが、聞いていないフリをすべき場面なのだろうというのは心得ている。
彼等に背を向けて視線を彷徨わせていると、工場に不釣合いな小奇麗な格好をした女性が一人うろついているのに気付いた。
それが誰かは皆知っている。私もよく知っている。見つかると面倒なのでこの場を離れたくなったが、後ろではまだ言い合いが続いている。動くに動けない。
まあ、そもそもこの工場に女の作業員は私一人なので、どうせすぐ見つかってしまうのだろうけど。
「ごきげんよう、ウツミさん」
ほら見つかった。
「……ごきげんよう社長。今日も飽きずに見回りですか、社員思いの暇人上司ですね」
「社長は社員の安全を守るのが仕事なのです。特にウツミさん、貴女みたいなのをね」
「私ほど従順な社員もいないと思いますけど」
「だったら社長命令には従いなさい。私の事は名前で呼び、敬語も止める事。なんで毎朝言わせるのよ」
「……立場ってものがあるでしょ、ノゾミ」
他の社員がこんな口の利き方をしたらその人は作業中の事故でお亡くなりになるだろう。
それを相手から求められるという意味では、確かに私はこの社長に好かれているのかもしれない。
だが……
「立場? 私が社長で、貴女は社員。その肩書き以外に何が必要だって言うの? 私に逆らえる人はこの工場の中に存在しないわ」
「お山の女王様ね」
「貴女だって、他に行く場所はないでしょう? 大人しく社長命令は聞いておくべきよ。あと今日の作業でも不様な怪我などしないように。社長たる私の手を煩わせないように」
「はいはい」
だが彼女――ノゾミはこのように絵に描いたような傲慢さを持つお嬢様だ。言葉遣いこそ安定しないものの、実際に金も権力もある支配者階級だ。
偏見かもしれないが、そんな支配者階級の人が誰かを気に入る理由など、玩具としてくらいしか思いつかない。他の可能性は私には分からない。タツヤと違ってノゾミは何も言わない。もちろん管理者も何も言わない。
つまり、管理者にどんな役割と性格を与えられてノゾミがここに配置されているのかがわからないのだ。今のところ露骨な悪意は見えないが、それでも距離を測りかねている。
数少ない名前のある『ひと』であり、タツヤと違って女性でもあるのだが、そういう理由からあまり長く深く話したい相手ではなかった。
とはいえ、周囲から見れば私は社長に気に入られているように見え、またその事実が私をこの工場の中で不可侵の存在としており、私自身が助かっているのも事実。つまるところ結果だけ見ればノゾミもタツヤと同様、私に安全を提供してくれている存在なのだ。
そういう意味で、この工場は労働環境が良いと言える。
ここは未だ理想の世界だ。
*
昨日一日かけて割った大量の、本当に気が遠くなるほど大量のガラス瓶の欠片を、ゆっくり慎重に溶鉱炉に運び、放り込む。
それを延々と、気が遠くなるほど繰り返す。隣でノゾミが見守る中で、何度も何度も。
途中で昼食を挟みこそしたが、今日の仕事はそれだけだった。明日はまた瓶の形にでも戻すのだろうか。
「お疲れ様。はいウツミさん、今日の給金よ」
「……ありがとう」
「上司に対してはいつもそう素直であってほしいものですけれどね。さて、次は男共の分か」
丁寧に両手で渡してくれた私の時とは違い、他の人達には投げるように給料袋を配っている。
ハッキリ言ってこの工場での男性の扱いは悪い。いや、他所の職場も私が知らないだけで内情は大差ない可能性が高い。通勤時に見かけた男性達の疲れた顔が思い出される。間違いなくこの世界での男性の扱いは良くはない。
ここは給料が優れているだけマシだ、とタツヤが言っていたからその通りなのだろう。管理者の男嫌いを知っている私からしても疑う余地は無い。
管理者自身は何とも思っていないのだろう。男嫌いな自分が世界をそう作り上げ、その上で男性を配置したのだから。私としては同情しない事もないが、それだけだ。ユメ以外の人なんてどうでもいい。
だが、彼等にも個性がある。彼等に興味の無い私でもわかる程度には個性がある。管理者が作り上げたモノなのだとしても、彼等は区別出来る程度には個性的だ。
言ってしまえば人間味があるのだ。部長も係長も教育係も新人も。その役職に準じた薄っぺらい人間性に過ぎない気もするが、それでも確かにあるのだ。
名前のある『ひと』の例ならもっとわかりやすい。タツヤには気まずさを感じ、ノゾミには距離を測りかねる程度には、彼等には人間味があるのだ。
それだけは認めている。どうでもいい存在ではあるが認めている。個性のある存在である事を認めている。管理者が適当に作った人間味なのだとしても認めている。
あくまで認めるだけで、だから何だという事は無いけれど。
3.
この世界をゲームで例えるならば、名前のない『ひと』は村人のような存在で、名前のあるタツヤやノゾミはキーパーソン、あるいはパーティーメンバーなのだろう。主人公の私から見て。
言うまでもなくユメはヒロイン。私を導き、私を信じ、いついかなる時も私の味方である存在。
そして、ゲームなら必ずその世界には最終的に倒すべき存在がいる。いや、倒すとは限らないけど、ほどよく相容れない存在が常にいるもののはずだ。
この世界では、その存在は毎日必ず私の夢の中に現れる。仕事を終え、ユメの待つ家に帰って暖かい時間を過ごし、目を閉じることで意図的に一日を終わらせた後に、私はその子に会う。
この世界の管理者に。
「――おやすみなさいましておはようございます、姉さん」
「……毎回その変な挨拶はやめてくれないかしらって言ってるわよね、ミノリ」
以前の世界の事は覚えていない私だが、この子の事は顔を見た瞬間に思い出した。私と同じ顔をしていたからだ。
この子は私の双子の妹、ミノリ。そしてこの世界の管理者。
つまり、『ひと』を配置して私とユメの二人きりの世界を崩した張本人。
……なのだが、私はこの子にあまり露骨な悪意や敵意を向けられずにいる。恐らく、ここが未だに理想の世界だからだろう。
「今日はいい一日でしたか? 今日も優しく美しい世界でしたか?」
「そうね、あなたにさえ会わなければいい一日で終われたはずよ」
露骨な悪意や敵意は向けれずとも、嫌味くらいは言いたくもなる。
「姉さんが私を好いてくれればそれも解決するんですけどね」
「最初から期待してないでしょう?」
「姉さんの方こそ、私が会いに来なくなるわけがないとわかっているでしょう? 余程忙しくない限りは来ますよ」
嫌味を言えば嫌味を返される。とても近くで。
以前の世界でもそうだった。この子はいつも私の近くにいた。私と張り合う為に。
でも確か、私にはその理由が全くわからないままだった気がする。
「どうしてそんなに私に絡むの」
「いつも言ってるでしょう? 姉さんが私より優れているからだ、と」
「そんな記憶が無いから困ってるのよ」
「そうですね、実際、勉強も運動も、私は努力して姉さんを超えてきましたから」
そうだ。実際、全てにおいてミノリのほうが出来が良かったはずだ、以前の世界では。
この子は天才だった。何もかもをそつなくこなし、誰からも愛される恵まれた子だったはずだ。
「……そして今、この世界の管理者として私の上にいる。なら、もういいでしょ?」
「まだです。管理者になった程度では、まだ姉さんに勝った実感がありません」
「実感って……現状でダメなら私はどうすればいいのよ」
「さあ? まぁ、何か思いついたら言いますね」
「そう」
この世界の他の『ひと』とは違い、ミノリはユメとの世界を壊した張本人でこそあれ、以前の世界から続く深い関わりのある唯一の人間だ。だからだろうか、ユメの次に話は弾む。楽しくは無いが話は弾む。性格的にもほどよく相容れない相手だが話だけは弾む。
二人きりの世界を壊した、性格的にもほどよく相容れない管理者という立場の相手と話を弾ませる理由など本来なら無い。実際、最初の内は弾ませないようにしていた。だが、ある事実に気付いてからは変わっていった。
ミノリが壊したと思っていた、ユメと二人きりの世界。それが未だ存在するという事実に。
その世界は、私の家の中という限られた場の中にあった。ミノリが管理者として手を加える以前から存在した私の家の中だけは、この子の手が届かないのだ。
そして、偶然の産物ではあるがユメは男性を苦手としており、私の家からは出ていない。管理者の目が届く『外』には出ていない。
つまり、私が最も守りたいユメと、そして二人きりの世界は、ミノリに気づかれることなく未だ存在している。
……この事実に気付くまでは、ミノリとの会話は腹の探り合いだった。今はユメの事さえ隠し通せれば他はどうでもいいため、多少は話も弾もうというもの。以前の世界から関わりのある対等な人間という、それだけの理由で。
そして恐らく、そういう風に対等な関係と見ているのは私だけではなくミノリも同様なのだろう。彼女は時に着飾らない直球な言葉を吐く。
「ところで、どうですか、この世界は。私の世界は。過ごしやすいですか?」
「まあまあかしら」
「不満点もあるでしょうけど、でも以前の世界よりは良いでしょう?」
「それはそうね。覚えてないけど」
覚えてはいないが、その事に対する後ろめたさ、後悔等は一切ない。
この世界を選んだ原因さえも覚えていないが、どうとも思わない。今は充分満たされている。
「覚えてないのに良いと言い切れるのも面白い話ですけどね。言いたい事はわかりますけど。この程度なら姉さんの思考もトレース出来る気がします」
「トレース、ね……それがミノリの望みなの?」
「自分でもそれはわかりません。ただ、姉さんの頭の中を覗いてみたいとはずっと思っています。向こうの世界にいた時からずっと」
「ゾッとするんだけど」
「外科手術をするって意味じゃないですよ」
「そうじゃなくても、よ」
「そういうものですか」
ミノリがあまり納得のいってなさそうな顔で曖昧に頷く。その少し後に周囲の視界がボヤけ始めた。
それは夢の終わりの合図。今までも同様に話のキリのいい所で世界が輪郭を失い始めた。
話が翌日に持ち越されたことは無い。その事は夢を覚えているタイプの私にとっては消化不良感を感じなくて良いのだが……
「じゃあ姉さん、おやすみなさい。朝ですよ、おはようございます」
……ほどよく相容れない相手と取り留めのない話をするだけ、という夢の内容自体がそもそも良いものだとは言えないため、結局は嫌な夢なのだ。
4.
警備員という生き物は個人単位で最強の戦闘力を持っていると私は思う。
もっとも、警備員の装備が整っていて、尚且つ素手の人が対策次第で装備を持った人に勝ってしまうような事態は起きない、という前提でだが。
警備員という生き物は警備の為の体術と知識を寸分の隙も無く身に着けており、それを振るう事を躊躇しない、そういう意味では攻撃的な人種だ。
だが、攻撃的ではあるが立場上常に防御側である。そして戦闘というものは多くの場合防御側が有利だ。
攻撃側が勝つには防御側を倒した上で自分が生き残らないといけないが、防御側は相手を倒さずとも自分が生き残れば多くの場合勝ちである。そして何より防御側は降りかかる火の粉を払うという大義名分の下、いかなる手段をも使えるからだ。
「たとえ過剰防衛だろうとも、守れればそれで良い」そう言うノゾミのような金を余らせた過激思考の人の下で働く警備員は、それこそ過剰なまでの装備を揃えている。
よってノゾミの工場を警備しているタツヤも、この世界においてトップクラスの戦闘力を持つ筈だ。
人と争っている所を見たことは無いが、筋骨隆々とした体躯を持ちながらも生きる事に必死な筈の道端の男性達が争う気さえ起こさないという事は、そういう事なのだろう。
「ん……?」
そんな事をぼーっと考えながらいつも通り通勤していると、遠くに犬が見えた。灰色の毛の、中肉中背の犬だ。
こんな空気の悪い『外』に犬がいることは珍しい。何をしているのだろうか。と見ていると、その犬はこちらに向けて一直線に走りかかってきた。
こういう時、私が取れる行動はそう多くは無い。逃げるか避けるか降伏するか戦って負けるかだ。犬もきっとそれなりに戦闘力は高いだろうし。
どうするか、と悩んでいると、自然とタツヤが私の前に立った。視界が遮られ、何が起こっても私の位置からは見えなくなる。
犬の吠えた声が聞こえたのと、一際大きな踏み切る足音が聞こえたのはどちらが先だったか。わからないが、ゆっくり正面に回ってみると犬はタツヤに抱き抱えられ、腹を見せていた。
「……やるわね。助かったわ」
「どうするかね、こいつ」
「空腹なのかしら」
「お前のファンなんじゃないか?」
「その子の性別は?」
「知らん。何か食いもん持ってるか?」
「弁当ならあるけど死んでもあげない」
「ケチな奴だ」
「灰色の毛の犬が食べたら死ぬ材料が入ってるのよ。それに食べ物を欲しがっているのは犬だけとは限らない気がして」
「それもそうか」
周囲に目を遣りながら言う。
考えすぎなら勿論それでいいが、出来る限り目を付けられる可能性のある行動はするべきではない。
そもそも痩せ細った犬ならまだしも、元気に飛び掛ってきた犬だ。施しを与えずとも生き延びるだろう。
と、私はそう判断したのだが、隣を見ればタツヤは器用に片手と腕で犬を支えながら何やら細長い固形の物を食べさせていた。
「なにそれ」
「ドライソーセージ」
「カロリー高そうね」
「仕事中にこっそり食おうと思ってたんだけどな、仕方ない」
「とんだ不良警備員だこと」
「武器だって言えば通るさ。実際戦えないこともない。買う時もきっと領収書切って経費で落とせるぜ」
そこまではしないけどな、とタツヤは言ったが、それで強くなるなら案外許されそうな気もする。
結局のところ、金にモノを言わせればある程度は強くなれるのだろう。私も金にモノを言わせて装備を整えたりするべきなのだろうか?
そんな事を再びぼーっと考えていると、灰色の犬はタツヤの腕から飛び降りて走り去っていった。
礼のひとつも言えないとは礼儀のなってない犬だ、まったく。
*
「――って事があったから帰りにいろいろ買ってみたのよ」
帰宅して夕食まで済ませた後、テーブルの上に今日の買い物を広げてユメに見せる。所謂防犯グッズ、護身用具の類だ。
今まであまり気にしたことはなかったが、この煙くて暗い世界はそれなりに工業は発展しているらしく、一風変わった面白そうな物が結構あった。
もちろんごく普通の護身用具もタツヤに見繕ってもらって買っておいたが、そっちはユメに見せても面白くないだろうから今は仕舞っておく。
「どれどれ、えーっと、この防犯ブザーは……『鳴らす事で心の奥から勇気が沸いてくる特殊な音波を使用しています』……本当かなぁ?」
「胡散臭くて面白いわよね」
「ウツミも信じてないんじゃん!」
「でもこれなんかは強そうよ? 『飛び出す手錠銃・ワッパーガン』」
「なんか昔の漫画にありそうな感じがするよ」
「『上手く当てられるようになってから使ってください』だって」
「えっ、誰かに撃って特訓しろってことなの…?」
「私で特訓してみる?」
「や、やだよ、危ないし……ってこれ私のなの?」
「別に、面白そうだから買ってみただけよ」
「あー、衝動買いってやつかぁ」
実際の所、この家の中は何よりも安全だ。セキュリティが高級マンション並にしっかりしてる……という事は無いが、世界の管理者の目すら届かない家の中に誰が入ってこれようというのか。
とはいえ、予想外の自体を想定しておくのは悪い事じゃないはずだ。都合よく売っていた『男性が近寄りにくくなる塩』が都合よく買えたので都合のいい夜の内に家の周囲に撒いておこうと思う。
「……でもねウツミ、こういうのが必要になるくらい外が危ないなら、やっぱり私も心配しちゃうよ」
「……念の為だってば、大丈夫よ」
「……養ってもらってる身だから、強くは言えないけどさ」
「私が働けているのは、ユメがいるからよ。ユメがいろいろしてくれるから」
少なくともその部分に関しては言いっこなしだ。二人で役割を決めた時、一緒にそう決めた。
「それに、外でも上手くやれてるわ、私は」
「タツヤさんとノゾミさんにいつも助けてもらってるんだっけ。今度お礼を言わないとね」
「……ユメが?」
それは……何か嫌だ。
ユメは完全無欠な天使だ。タツヤやノゾミだって惚れかねないほどに完璧な存在だ。
そんな高潔で純真な人間国宝を、無防備に人の目に晒すのは非常に抵抗がある。
「私じゃダメなら、ウツミが自分で言わないとね?」
「う、うーん……」
何度も言うが、私にとってユメ以外の存在なんてどうでもいい。
それに加え、二人の存在は既に日常の中に溶け込んでいる。タツヤのいる道、ノゾミのいる工場、どちらも『ユメのいる世界』より優先は出来ない程度の日常だ。
もっと言ってしまえば彼等は所詮は管理者の掌の上にいる人形だ。そんなものに礼を言ったところで意味があるのか。
答えなんて決まりきっている。
他ならぬユメの言う事が間違っているはずは無い。
誰よりも私を想ってくれているユメは、いつだって私に対して悪い事や間違った事は言わないのだ。
*
「……いつもありがとう、タツヤ」
翌朝、家を出て早々にそんな事を言ってみたが、肝心のタツヤは何故か気分が悪そうで聴こえていないようだった。
……帰ったら塩の場所をもう少し変えよう。そうしよう。
5.
「――ノゾミ、いつもありがとう。助かってるわ」
「は? 何? 変なガスでも吸ったの?」
酷い言われようである。
「……ノゾミが社長なおかげで、私が普通に働けているのは確かだから」
「あぁ、そういう事ね。フフ、礼を言われるような事ではありませんのよ。貴女に私の有り難さ・尊さ・偉大さを知らしめる為だけにやってる事ですからね!」
本当に礼を言うような事じゃなかった。やっぱり金持ちの例に漏れずノゾミという『ひと』も自己顕示欲の塊らしい。
とはいえ結果的に助かってるのは事実だし、先の発言を撤回まではしない。同時にこれ以上感謝する気も無くなったが。
「はい、ウツミさん、今日の給金よ。それとあと、ついでにこれもあげるわ」
「……箱?」
「中身はカスタードシュークリームとエクレアがそれぞれ2つずつよ。帰ってから食べなさいな」
「えっ? いいの……?」
ノゾミは時々、こうして給料とは別に現物支給で食べ物をくれる。
しかも毎回やたら美味いのだ。金持ちらしく美味い食べ物ばかりなのだ。流石の私でも――他人なんてどうでもいいと言っている私でも――タダで貰うのは躊躇するくらいに。
だが、ノゾミはいつもこう言うのだ。
「余らせてるものだし、私はあまり好きじゃないし、賞味期限も近いし、誰かに押し付けないと処分出来ないのよ。今日中に食べなさいよ?」
「……ありがとう」
「フフ、大して価値の無い余り物を庶民に押し付けて感謝されるなんて金持ち冥利に尽きますわ」
金持ちって金の力を振りかざしながら余計な一言を発さないと死ぬ生き物なのだろうか。
ひんやりとした紙の箱を抱えながら、そんな事を思う。
*
「お? なんだその箱」
帰り道、私を待っていたタツヤと合流するや否や開口一番にそう言われた。
まあ当然の疑問かもしれない。が、それなら私の方だって当然の疑問を抱えている。
「シュークリームとエクレア。そっちこそ何食べてるのよ」
「なんかアイスキャンデーの山をお嬢から貰ってな」
「寒くないの?」
「ぶっちゃけ寒い」
黒煙が隙間無く空を覆うこの世界では気温があまり上がらない。
同時に極端に下がりもしないが、太陽の光を感じる事が出来ないせいか、数字よりも寒く感じる事の方が多い。
どうやらそれは、目の前で大量のアイスの詰め込まれた袋を抱えながらシャクシャクと寒そうな音を響かせるタツヤという『ひと』も同じらしい。
「しかしまぁ、タダで貰えたんだからありがたい事には変わりない。以前のお嬢からは考えられないな」
「以前のノゾミ?」
薄々感づいてはいたが、どうやらタツヤの中では私だけではなくノゾミも幼馴染らしい。尋ねた事は無いがノゾミもタツヤの雇い主であることからして同様の認識なのだろう。
ただ、そこに私の妹・ミノリが含まれているのかはわからない。同様に尋ねた事が無い。
管理者となった妹は彼等から見れば上位の存在、創造主だ。複雑な関係かもしれない。尋ねようが無いとまでは言わないが、なかなかタイミングを計りかねているのが現状だ。
まず先にミノリ本人にそのあたりを聞いてみてからにするべきだろう、と思っている。後回しにする程度には興味が無いとも言えるが。
「あー、小さい頃はなぁ、金持ちっぷりを振りかざしてばかりで敵が多くてな」
「今と変わらない気がするけど」
「いやいや、例えば今はおれやお前にはこうして物で気を遣ってくれてるだろ? 表面上の態度は全然変わらないけど、昔と比べるとだいぶ丸くなったんだ、あれでも」
「ふーん……」
そこまで語り終えたところで丁度アイスを食べ終えたらしく、ポケットからマスクを取り出して耳にかけ始める。
その時チラッと見えたアイスの棒には『ハズレ』と書かれていた。
*
「こんな豪華な食べ物……ちゃんとお礼は言った?」
「さすがに言ったわ」
「よかった。私も助かってるし」
やたら豪華なトッピングのかかったシュークリームとエクレアを一つずつ分け合って食べる。ノゾミは今回に限らずいつもほどよく多めに食べ物をくれるので、ユメと分け合うことが出来て私も助かっている。
本人の性格はアレだが彼女が私にもたらしてくれるものは非常にありがたい。タツヤについても同様だ。理想の世界を形作ってくれている一部なのは確かなので、改めて礼を言えて良かった、と思う。相手がどんな存在であろうとも。
やはりユメの言う事はいつも正しい。ユメはいつも私を想ってくれている。
「……ユメも、いつもありがとう」
「ウツミも、いつもありがと。って、私達は結構言ってる気がするけどね」
「一番大事な人なんだから、しょっちゅう言うのも当然じゃない?」
「……うん、そうだね」
一番大事な人なのだから、一番話したいし、一番感謝したいし、一番一緒にいたい。
私とユメについてはそれだけの話なのだろう。
「……ところでウツミ、ちょっと話変わるんだけどね」
「何?」
「……妹さんと会うんだよね? 夢の中で」
「……そうだけど」
私はユメに隠し事はしないようにしている。ユメは私の全てを知っている。
同様に私もユメの事情を知っているが、ユメ自身は私の妹と面識もなければ、夢の中で誰かに会うような事も無いらしい。それ自体はおかしい事ではない。何ら問題は無い。
問題は、今、ユメが言い辛そうにしている事の方だ。そして私自身は待つ以外に打つ手が無い事の方だ。
じっくり脳内で会話をシミュレートしたのだろう、少し間を置いてユメが口を開く。
「……妹さんのこと、どう思ってるの?」
「……どう、って?」
「ウツミ、朝はいつも少しだけ機嫌が悪いから、その……苦手、なのかなー、って。タツヤさんやノゾミさんの話をしてる時はもっと普通なのに……」
流石、私の事をよく見てくれてる子だ。私自身が無自覚なところまで見てくれてる子だ。
だが、その問いに対する答えを私は持っていない。確かにミノリはほどよく相容れない相手であり、彼女の夢は嫌な夢なのも確かなのだが、ミノリそのものが苦手かと言われると違和感を感じてしまい、答えに出来ない。
そして他に的確な言葉が出てくるわけでもなく、答えを持てない。私が持っていなければ誰も持ってないであろう答えなのに、私自身が持っていないのだ。
一度自分自身と向き合って答えを出しておけ、という事なのだろうか、ユメがこのタイミングで言ってくれたという事は。誰よりも私の事をわかってくれているユメが言うという事はそういう事なのだろう。
いや、優しいユメの事だ、妹の事がさっきまでの話の延長上だとするなら、いつか改めてお礼を言うべきだ、と言いたいのかもしれない。
世界に男性を増やしたのもミノリではあるが、タツヤやノゾミを『配置』して私を守っているのもミノリだ。ユメにもそれは話してあるから、話の流れでそう思ったとしてもおかしくはない。
……丁度いい、聞きたい事もあったし、今夜はそこから話を広げていこうか。あまりこういうのは得意ではないのだけれど。
「……ありがとう、ユメ。苦手というわけではないと思うんだけど……ちょっと考えてみるわ。答えは明日の朝でいい?」
「ううん、急かすつもりはないから大丈夫だよ、いつでも」
「そう。ありがとう。ユメは優しいね」
「そうかな、えへへ」
得意ではないが、この笑顔が見れたんだ、頑張るしかないだろう。
6.
「――おやすみなさいましておはようございます、姉さん」
「……こんばんわ、ミノリ。元気?」
いつもの皮肉は抜きで普通に挨拶すると、当のミノリは目を丸くしていた。
普通に挨拶したつもりだったのだが、私の普通は普通じゃなかったのだろうか。
「……こういう事があるから、姉さんの頭の中を覗きたくてしょうがないんですよ」
こういう相手だからいつも夢の内容が決して良いとは言えないものになり、寝起きの機嫌もいつも悪くなるのだ。
「今日はちょっと、聞きたい事があって」
「何ですか? ダイエットには運動が一番ですよ」
「私とミノリ、そしてタツヤとノゾミ、名前のある『ひと』達は、どういう風な設定上の関係でこの世界に生きてるの?」
再びミノリが目を丸くしている。
最も、今回はその理由はわかっている。自分でもらしくないと思う。
「意外です、姉さんがあの人達の事を気にするなんて。私はてっきりどうでもいいと思っているとばかり」
「そうね、実際どうでもいいんだけど――」
「――私の事も含めて」
「……それは……」
流石に本人を目の前にしてどうでもいいとは言い辛い。
それに、今日の本題を忘れたわけではない。私がミノリにどういう意識を持っているのかを突き止める、という本題から考えれば、現状はミノリの事は『どうでもよくない』のだ。
しかし、ユメに指摘されるまで気にしなかったという事実もある。すぐに言葉を返せずに詰まっていると、ミノリは気分を良くしたようで嬉しそうに話し始めた。
「まず最初にもう一度確認しておきますが、姉さんは以前の世界の事は何も覚えていない。そうですね?」
「……そうね。いえ、そうだったと言うほうが正しいかしら。ミノリの事だけは思い出した」
「それは嬉しいですね。思い出してもらえないと超え甲斐がない。まぁ、以前の世界の私と同じ姿形を使ってるので思い出してもらえないとむしろ困るんですけど」
まあ私自身、以前の世界の記憶なんて要らないと思っている。無くてよかったという思いだけが残っている。その程度には以前の世界はつまらなかったのだろう。
そんな中で取り戻してしまった妹の記憶。それがつまらないものではなかった事自体は、私も嬉しい。
「姉さんも外側は同じのようですが、愛着があったんですか?」
「どうかしら……覚えてないわ」
「まぁ内側も変わってない気がしますけどね。他人の事も、私の事も、自分の事さえもどうでもいい。なるようになるとしか考えられない人。興味が薄い人。なのに……」
「……?」
今まで嬉しそうに語っていたミノリの瞳に、何が別の色が映った気がした。
だが、ミノリはその色を自分で消し、今度はつまらなそうに私を見ながら問いかける。
「……なのに、どういう風の吹き回しですか?」
「……別に、タツヤやノゾミはよく私に話しかけてくるから話を合わせる為に知っておこうと思っただけよ。彼等もミノリが作ったのだからミノリに聞くのが確実だし」
「……ふむ。姉さんには私が彼等を警備員と社長として『配置』した、って話をしたんでしたっけ?」
「そうよ。それがどうしたの?」
「いえ、ただの確認です。ええと、そうですね、彼等と私達姉妹は幼馴染って設定ですよ。主に私を除いた三人でよく遊んでました」
「なんでそんな設定にしたの、自分だけ仲間外れなんて……」
「……私は姉さんを超えるために勉強してました、という事です。すなわち彼等から見れば私はなるべくして管理者になった存在。つまり彼等は私に逆らえないんです」
なるほど、ミノリの思いを知った上でミノリを除け者にして遊んでいた彼等は、ミノリに対する罪悪感からかあるいは尊敬の念からかで管理者として在る事を認めざるを得ない、と。
そんな回りくどい設定にしなくても管理者として一方的に支配すればいいのではないか、と思わないこともないが、創造主であるミノリも実は彼等から認めて欲しかったりするんだろうか。
あるいは私の為だろうか? 私がうっかり彼等に妹の話を振ってしまっても矛盾が起きないように、と。
案外幼いところも優しいところもあるのかもしれない。興味の薄い私とは違って、私の妹は――
「――ふふ、でも今となってはもっと都合よく頭の中を弄っておくべきだったと思わない事もないですが」
「………」
「姉さんはどうか知りませんけど、私の立場で考えてくださいよ。私の意志一つで消す事もやり直す事も出来る存在の事なんて、気にかける必要すらないと思いませんか?」
言葉こそ発せなかったが、別に妹に失望したわけでもなく、ショックを受けたわけでもない。微笑ましい気持ちこそ吹き飛んだものの、マイナスの感情は抱いていない。
ただ、ああ、そうなのか、と、そんな気持ちがあっただけだった。
「あー、一応本人達には伝えないでくださいね。オフレコってやつです。あと姉さんは彼等とは違いますからね、どうでもいいとは思ってませんよ、ふふっ」
「……そう」
「……それだけですか?」
それだけだったのだ。
そして、そんな自分に違和感など抱くはずもなかった。
「……私も彼等をどうでもいいと思っているのは確かだから。ただ、それでもそこまで冷たく見下しは出来ないけれど。それでもあなたを否定する気もない」
立場が違えば考え方も異なるだろう。
私が彼等をどうでもいいと思っているのはユメがいるからだ。それでも彼等を冷たく見下しきれないのは、近くで彼等の人間性を見ているからだ。
そのどちらにも当て嵌まらないノゾミなら、私の予想と違う考え方をする可能性は充分にある。私には予想もつかなかった管理者という立場にいるノゾミなら。
そうやって筋道立てて考えてみれば、その考え方を否定など到底出来ない。仮に彼等が命ある人間であったならば、正義感の強い人なら『嫌いな考え方』として否定も出来ただろうけど。
「……はぁ。姉さんはやっぱりそういう人なんですね。すいません、嘘です。頭の中を云々は言い過ぎました」
「……どういう事?」
「彼等に興味を持った今の姉さんならこう言えば怒ってくれるかもと思って、目一杯ワルぶったんですよ。姉さんを超える為に」
「……私が怒る事と私達の勝ち負けに何の関係があるの?」
「敵意を燃やしてくれれば、勝敗はその背に重く圧し掛かってきます」
なるほど確かに、敵を打ち倒せば嬉しく、敵に負ければ悔しい。つまりより確実に勝敗が実感出来る、という事か。
しかし、残念ながら私はミノリの敵にはなれなかった。ミノリからは私が彼等に興味を持ったように見えたのだろうが、あくまで冷たくなれないだけで、興味を持ったと言えるほど興味は持っていない。
「でも姉さんは乗ってこなかった。姉さんにとって彼等は冷たくもなれないくらいどうでもいい存在、という事だったんですね」
「……今から敵意を燃やそうか?」
「お情けで敵になられても意味がありません」
「それはそうよね……」
改めて思うが、私自身はミノリの事をどう思っていると言えばいいのだろうか。
情けをかけたい程度には同じ人間として仲間意識を持っているようなのだが、会話は楽しくない為、夢そのものが嫌な夢となり目覚めは非常に悪い。もっとも、ミノリの方からも敵になって欲しいと思われる程度には好かれていないのだし、会話が楽しくなる筈が無いのだが。
……好かれていない相手なら、いっそ嫌い合った方が健全なのだろうか? そもそもユメとの二人きりの世界を壊した張本人なのだ、嫌うのが自然なのでは?
そう考えもするが、嫌いとも言い切れなかった。会話が楽しくない、ほどよく相容れない相手ではあるが、世界を壊した相手ではあるが、嫌いではないのだ。
家族だから嫌えないのかもしれないし、私が嫌いという感情の抱き方を知らないのかもしれない。どちらが正解かはわからないが、それこそどうでもいい事の様に思えた。
確かなのは、ユメには悪いが答えは『嫌いではないけど、それ以上はわからない』になる、という事だ。……こんな答えで、ユメは許してくれるだろうか?
「……何を考えているんですか? 姉さん」
純粋に興味を持った顔で問われ少し悩んだが、口にしてみた。
「……私はあなたの事をどう思っているのかしら、って」
口にした後で、この言い方は拙かったか、ユメのようにじっくりシミュレートするべきだったか、と思ったが、当のミノリは呆れたような疲れたような表情をしていた。
「そんなの『他の人と同じ』に決まってるじゃないですか。姉さんは誰に対しても接し方を変えない。誰の事も特別には思わない。誰よりも公平で、故に誰にも近く、でも誰よりも遠い人です」
そうだっただろうか。
いや、違う。今の私はユメを特別に思っているし、ユメが近くに居てくれる。少なくともユメに対する接し方は他とは違うはずだ。
つまりミノリが言っているのは、
「……以前の世界の私の事?」
「そうです。あぁ、姉さんは忘れているんでしたっけ。でも今も変わってないですよ、以前の姉さんと」
この認識の違いは、単にユメの存在をミノリが認識出来ていないからだろう、私の家の中の光景を。
そして、私はそれを告げるつもりはない。
「ずっと近くで見てきた私だから言えます。姉さんは自分の限界を知るのが早かったんです。努力で伸びる私とは対照的に、姉さんは何をしても伸びなかった。最初から出来が悪い訳ではないのですが、成長しなかった」
「………」
「私だけではなくいろんな人に成長で負け、幼い内から姉さんは悟りました。諦めました。ただ、それで拗ねたり世を憎んだりもしませんでした。原因が自分にあり、どうしようもないものだとわかっていたから」
覚えてこそいないが、そう言われて納得は出来る。今の私が同じ境遇になってもそうするだろうから。
「そうして全てに対して公平で無関心な姉さんが出来上がりました。まぁ、その後もいろいろあって私達がこちらの世界にいるわけですが……」
「別にそこは言わなくていいわ」
「ですよね」
こうして自分の成り立ちを聞いてもなお、以前の世界に関心は持てなかった。むしろ以前よりどうでもよくなったとさえ思える。特に私達がこの世界を選んだ経緯など、今の私には絶対に必要のないものだ。
この世界を理想の世界とし、ここで生きるつもりの私にとっては、絶対に。
「……話が逸れましたけど、要するに姉さんはそういう風に生まれた公平な人なので、私の事もどうでもいいと思ってると思いますよ、私は」
その言葉を皮切りに、世界がぼやけ始める。夢の終わり。この話はこれでおしまい、という事か。
でも、思う。この世界の他の『ひと』達とミノリは違う。違うのに、公平に、同列に見てもいいものなのか。
そうだ、きっとユメの問いかけもそういう事だったんだ。
ユメ以外の世界の全てを公平に見る私という生き物と、この世界において特異な存在であるミノリという生き物は、相反する。わからないままではきっと良くないのだろう。私の事を良く知るユメが言うのだから、私にとって良くないのだ。そういう事なんだ。
決めなくてはいけない。そう思った丁度その時、ミノリが続きの言葉を紡いだ。
「ですが姉さん、私は姉さんが公平すぎるのは欠点だと思っています。姉さんはきっと大事なものを見落としている」
「………」
「私は公平には見ません。彼等に対して冷たくもなれます。頭の中のくだりは言いすぎでしたが、彼等が邪魔だと感じたならば躊躇わず消します」
「そう」
「姉さんが公平に見る彼等を、邪魔な男から順に不公平に消し去ってやります。姉さんも気に入らない男がいたら言ってくださいね、すぐに処理しますから」
「基準があるならある意味公平なんじゃないかしら」
「当人にしかわからない基準なんて外から見れば不公平ですよ。姉さんは公平すぎて理解できないでしょうけど……」
そうやって今日の夢は終わった。
だが、最後にミノリに煽られ、自己中心的な面を見せ付けられてもなお、私はそういうものなのだろうとしか思わなかった。それもミノリの人間性なのだろうとしか思わなかった。
つまり、私にとってはミノリも彼等とそこまで変わらない存在なのだろう、という事になる。
まあそれでもいいか。何も不都合は無い。私がミノリに対して『人間同士』という情を持っていたのが間違いだった、ただそれだけの事だ。
ミノリ自身も情けなど要らないと言っていたし、全面的に私が間違っていたのだ。ミノリの目的はミノリが自分で果たすだろう。私は公平にそれを見届ければいい。以前の世界でも私はそうやって妹の成長を見届けてきた気がするし、特別視する必要なんて元々無かったんだ。
結論としては、ミノリの事は「好きでも嫌いでもなかった」と、そういう事になるのだろう。ユメにもそう伝えておこう。
ミノリがほどよく相容れない相手で、その夢が嫌な夢である事は変わらないけれど。それでもミノリを好きか嫌いかと言われればどちらでもないのだ。
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