第7話 罠へ


 ――お客様の中に、空間操作士の方はおられませんか。


 二度目のアナウンスだった。

 罠かも、知れない――。

 クロノスなら普通、警戒するはずだ。命令でもないのに、タダで危ない橋を渡る馬鹿はいない。


 機内放送など何も流れなかったかのように、瞬はビジネスクラスの窓際で、半分ほど残ったワイングラスを左手に取った。

 瞬は、シャワー室で遭遇した甘い「事故」に想いを馳せながら、グラスを揺らし、窓の外に眼をやった。


 時おり稲光が遠くに走るだけの真っ暗な夜空に、さっき逢った少女の上気した頬の桜色が、何度も浮かんだ。


 瞬は、過去をしばし忘れるために酒をあおった。未来を無駄に想わぬために酔った。


 だが、いつの間にかルーティンと化した退屈で憂鬱な現在を、つれづれに積み重ねてみても、ただ「終末」が近づいて来るだけの話だと、近ごろは悟り始めてもいた。


 やけに威勢のいい少女だった。あの少女といっしょにいれば、少なくとも退屈だけはしないだろう。あの剣幕なら、もう一度会えるのではと思っていたが、小一時間ほど何も起こっていなかった。


 このまま二度と会えないと思うと胸がきしむのは、なぜだろう。

 例えばさっきの気の強い少女なら、俺はもう一度人を愛せるだろうか……。


 いや、無理だろう。一度砕けた水晶は、元通りになりはしない。

 瞬は独り、窓際で赤ワインを啜っている。


 二十一世紀半ばを過ぎた今でも、英国ロンドンから世界の首都「東京」までは一〇時間近くを要した。


 三流国へと転げ落ちた日本が復権し、史上絶無の超大国として君臨しえた理由は、たった一つの科学技術、すなわち、

――時空間操作技術(TSCA)――

の開発と成功に、よった。


 時空間操作がついに時流解読技術を生み出した時、人類は神の領域まであと数歩に迫ったと信じ、この一連の技術開発と産業・政治の地殻変動を指して、「最後の産業革命(リール)」と呼んだ。


 以来三〇年、日本は独り勝ちを続け、繁栄を謳歌した。富も地位も人材も名声も、何もかもがこの極東の島国に集中した。


 皮肉にも、過去を改変し未来を予知する力を手中にした人類が知ったのは、ごく近い未来に文明が「終末」を迎えるという運命だった。


 グラスに残った紅い液体を飲み干した時、誰かが通路に立ち止まる気配がした。女性客室乗務員の濃紺のスカートのすそが視界に入った。

 瞬は経験上、自身の容姿容貌に多少の自信はあったが、浮いた話でもなさそうだった。酩酊を理由に、協力を拒否できる可能性も残っている。


 瞬はおもむろに眼を閉じ、狸寝入りの体勢に入った。

 やがて女性が身を寄せてくる気配がし、耳元でささやき声がした。


「お客様。失礼ですが、空間操作士の朝香瞬一郎様、でございますね?」


 瞬は、満員電車内で足を踏まれた時に抱く程度の不機嫌を、やや太めの眉に走らせながら目を開けた。

 目の前には、かがみ腰になって瞬をのぞき込む真剣な表情があった。少し強めの香水の匂いが気になった。


 どうやら面倒臭い話になりそうだった。

 危機管理の必要から、航空会社が瞬の職業を把握していても不思議はなかった。


 空間操作士は日本、すなわち世界を支配する「体制」の走狗そうくと見る者も多かった。「体制」の転覆を目指す者たちによるテロが民間航空機をターゲットとした事件は実際、何度も起こった。


 時間、空間の操作は本来、神にのみ許される行為のはずだった。だが、エンハンサーの発明によって、時空間を自由に操作する者たちが現れた。神に大きく近づいた人間に対し、神に代わって天罰を与えようとする、お節介な新興宗教の類さえ現れていた 。


「確かに俺は、四杯目の赤を注文しようか迷ってた、しがない空間屋ですけどね。……見ての通り、俺は今、酔っ払っていましてね」

 女性は息が掛かるほど近く、瞬の耳元に顔を寄せた。


「実は『体制』の要人の方が本機のファーストクラスを利用されています。非常事態につき、お力をお貸し頂けませんでしょうか……」

 医師でなく空間操作士を探している時点で、瞬も多少の覚悟はしていた。


 「体制」と事を構えて得をした人間を、瞬はまだ知らなかった。その最初の人間になってみる元気は、今の瞬にもない。


 二時間半待ちは堅い、果てしなく続くアトラクションの行列の最後尾に、しかたなく並び始める時に似た気持ちで、瞬はゆっくりと立ち上がった。

「わかりました。俺でできる処理なら、喜んでお引き受けしましょう」


 瞬に、喪失感と絶望しか与えてくれなかった二年余の軍隊経験を通じて、どうせやるのなら、作り笑顔で引き受けたほうが断然得だと、瞬は学んでいた。


 客室乗務員に案内されて、前方へ向かいながら、瞬は機内を素早く見渡した。


 世界随一にして最大の都市、東京へ向かう航空便の数は多いから、さして混んではいない。それでも、クロノスをほふろうとする手合いが一人くらい潜伏していても、変ではなかった。

 

 さて、名乗らぬ体制の要人とやらは、瞬に何を命じてくるつもりだろうか。

 瞬は、体制にありがちな人物として、五十絡みで白髪交じりの男性を思い浮かべた。


 機内に潜伏するテロ組織の手配犯を始末しろといった類の話であれば、いたって楽だ。直ちに済ませて、もう一度飲み直せばいい。あるいは、何やら体制の急用で、東京にいる必要があるなどと宣(のたま)い、瞬を「どこでもドア」代わりに使う気だろうか。とすれば、すこし面倒だ。


 ファーストクラスには、さっきの少女が乗っているはずだった。瞬は、胸の奥底がざわつくのを感じた。


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■用語説明No.7:体制

時空間操作士を用いて、「終末」を回避する目的で築かれた、日本及び世界の非常時体制。

「終末」の回避完了までの時限付き軍事専制政権とされ、軍及び内務省(時空間保安局)が、強大な権限を持つ。現在は、カタストロフィ(大災厄)後の第二次体制である。

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