第2章 麗しのカサンドラ
第5話 美しき闖入者
朝香瞬は、シャワーのレバーを元に戻した。
ファーストクラスのシャワー室を利用するのはもちろん、客室乗務員にスープとワインをこぼされたのも、初めてだった。
瞬には、シャワー浴という、本来、地上でなすべき動作を、わざわざ移動中の上空でやってみる者の気が知れない。恐らく生涯で、最後の経験でもあろう。
瞬は、濡れたシャワーヘッドをフックに掛けた。
まさか罠ではあるまい、とは思う。根拠はないが。
古来、要人はしばしば入浴中に暗殺されてきた。だが、瞬はさしたる要人でもないし、コンタクトレンズ型のエンハンサーさえ装着していれば、着衣の有無で、瞬のサイ発動能力が左右されるわけでもない。
時間を操作する連中、中でも未来予知能力を持つ時流解釈士は、好き放題に「偶然」を作り出せる。時間を操る者たちは、たかだか「人間兵器」に過ぎない空間操作士よりも数段、高みに立っていた。
瞬が「昴」に関する軍事機密についにたどり着けなかった理由は、瞬の知力というよりも、技能が持つ限界ゆえでもあったろう。
瞬は、ナルシストではないが、鏡で自分の身体を眺めてみた。
除隊して約一年。かつての厳しい軍事鍛錬も、しばらく自らに課してこなかった。酒量は相当増えた。幸い、肉体的な若さのお蔭だろう、痩せ型でも筋肉質の肉体美は失われていなかった。
シャワーカーテンの向こう、背後に人の気配がした。瞬は気配を消す。
殺し屋か。いや、衣擦れの音がする。誰かが服を脱いでいるらしい。
更衣室の鍵は閉めたはずだった。マスターキーでも使わない限り、人が入って来られるはずはない。クロノスでも、なければ。
瞬はいつでもサイを発動ができるよう精神集中してから、シャワーカーテンを勢いよく開いた。
長髪の少女が驚いて、瞬を見上げた。ハッとするほど整った丸顔だった。金色のカチューシャを付けてはいるだけで、全裸だ。
しばし呆然として、たがいを見合った。
身体面の発育は、ほぼ終了しているらしい。観察結果からすると、少女は肉体的に十六、七歳といったところか。
少女は恥じらいを見せ、両手で身体の一部分を隠しながら、顔から首筋まで真っ赤にした。瞬は隠す動作は取っていないが、顔の状態は同じだったかも知れない。
たがいの気まずさを確認する前に、突然の揺れが、高度一万メートルの機体を襲った。
壁に背を叩きつけられた瞬の腕の中に、少女の身体が飛び込んで来た。
瞬はとっさに抱き止めた。機体が激しく揺れる。少女がしがみついてきた。柔らかい。が、妙に熱い身体だった。
――当機はただ今、乱気流に差しかかっています。これから大きな揺れが予想されます。座席のシートベルトをしっかりとお締めください。
初対面の少女の丸い瞳が、瞬の目の前にあった。たがいに相手が誰であるかは知らないが、抱き締め合ったままだ。
上下の揺れが続き……やがて、止んだ。
突然、少女が身をよじり始めた。腕を離す。
少女は飛びすさって、身体を離した。
「あんた、いったい何者なのよ!」
やや正常でない状態で、数分間抱き合ってしまい、
左手を腰に当て、右手の人差し指で瞬を指しながら、詰問してきた。
「だいたいからして、あんたどうして、ここでシャワーなんか浴びているわけ? 」
「それはこっちが訊きたいな。見ての通り、俺の身体は濡れている。俺が先客だからだ。それとも、このシャワー室は君の所有なのか?」
「民間機を使う場合、ファーストクラスは貸し切っているはずよ」
「ビジネスクラスで済まなかったな。だが俺は、乗務員にポタージュとワインをこぼされてね。さっきみたいに急に揺れたから仕方ないんだが、航空会社から『お詫びにどうぞ』って言われて、シャワーを浴びていたんだ。それに俺は、シャワー室の鍵を閉めていたはずだ。君はどうやって、中に入ったんだ?」
少女は口を尖らせて、口籠った。
「それは……あんたに関係ないでしょ? それよりあんた、露出狂なの? 早く服、着なさいよ!」
「君はどうなんだ? 服を着ないのか?」
「あたしはこれから浴びるんだから。そこ、退きなさい!」
少女は、瞬の腕をつかんで引きずり出すと、代わりに入り、ぴしゃりとシャワーカーテンを閉めた。
「ああ、信じられない。早く、洗い流そ」
乱暴なシャワー音がし始めた。瞬は多少遠慮して使ったつもりだが、少女の頭には「節水」という概念がないらしい。
瞬は少女のほうに背を向けて、バスタオルを手に取った。
しばらくして、シャワー音が止まった。
「このあたしを、ここまで怒らせた男は、あんたが初めてよ」
カーテン越しに、少女の毒をたっぷり含んだソプラノが聞こえた。
「だが、果たして俺が悪いんだろうか」
瞬は自分の身体を拭きながら、
「いい悪いはこの際、関係ないわ。あたしの裸を見て、何分も抱いて、タダで済むとは、思わないでね」
「金さえ払えば、もう一度やらせてもらえるのか?」
瞬は、航空会社から借りた着替えに袖を通しながら茶化した。男性客室乗務員の制服らしいが、人生で一度くらい着てみても、悪くない。
「あんた、名前を名乗りなさい」
「朝香瞬だ、よろしく。本当は瞬一郎だが、みんな、省略するし、面倒だから『瞬』で通している」
「仕事は?」
尋問に近い口調に、瞬は肩をすくめた。
「ただ今現在は、無職だ。貯金がなくなったもんでね。明後日から、東京湾近くのカイシャで働き始める予定だ。お近付きの印に、君の名前を聞いてもいいのかな?」
言い終わる前に答えが返って来た。
「ダメよ。あんたみたいな下々の人間が、あたしの名前を知る必要はないわ。あんた、今日やってしまったことを生涯、絶対後悔するわよ。あたしが、必ず後悔させてやるから」
少女の害悪告知と罵詈雑言は、ポップコーンが出来上がる時のように、ポンポン出てきた。
「せっかくロンドンで仕立てた、新調の一張羅にワインをこぼされた割には、トクをしたと思っていたんだが、甘かったかも知れないな」
「世の中、そういうものなのよ」
「ときに君は、いったい、何を仕出かすつもりなんだい?」
「あらん限りの仕返しを今、考えている最中よ。あんたこれから、身辺にようく注意をして、人生を送ったほうがいいわよ」
瞬に限らず、今の人類に、「人生」と呼べるほど長い時間が、与えられているとも思えないのだが。
「念のために聞かせておいてくれないか。俺は例えば、どんな注意をしていれば、いいんだ?」
「どうやってあんたを苛めるかは、今、熟慮中だって言っているでしょ?あたしを甘く見ないで」
着替えを終えた瞬は、シャワー室の戸口に向かった。
「俺が部屋を出たら、鍵が開いたままになる。また、誰かに裸を見られるぞ。飛行機が揺れたら、また抱かれるかも知れないぜ。君はどうして欲しい?」
「じゃあ、しばらくそこで後ろを向いて、番をしていなさい」
瞬は肩をすくめた。どこかの名家のお嬢様なのか、上から目線の命令口調しかできないのか。
「また君に、見たとか、触ったとか、難癖を付けられそうで面倒だな。俺は、湯上りのワインを飲みたいんだ。済まないが、これで失敬するよ」
「待ちなさいよ、あんた!」
身体にはまだ、少女の柔らかい感触が残っている気がした。
他愛もないやり取りだったが、久しぶりに心が温まっている。
「覚悟なさいよ! 空港に着くまでに、あんたの身元、突き止めてやるから!」
少女の元気な捨て台詞が、ドア越しに聞こえた。
後ろ髪を引かれながら、瞬はビジネスクラスへと向かった。
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■用語説明No.5:クロノス(その2)
異時空に滞在する間、クロノスの肉体は、時間の進行による影響を受けない(老化しない)。そのため、クロノスの一年間は通常人の一・五ないし二倍程度の長さとなり、通常人より精神年齢が必然的に高くなる。ただし、原因は不明ながらクロノスの寿命は通常、四十代で尽きるため、異時空滞在期間を加算すれば、健常人の平均寿命とは結果として余り相違がない。
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