第3話 慈愛のプラチナ光(2)
蟹江の指さす先、公園の入り口付近には、痩せた虎が立ち上がったような、異様に背の高い一人の男がいた。背を向けているため、顔までは見えない。
都道府県警察は、内務省の指揮監督下にあるから、砂子たちは、事件について必要な協力が得られた。閲覧した警察の調書には、近所に住む男の子が、事件当日の夕方前に、見覚えのない長身の男に話し掛けられたとの供述があった。当たり前だが、史実通りの展開だ。
「あの、無駄に背の高い男。何かクサイな」
蟹江の直感は、まま当たる。これまでも幾度か、蟹江の勘に砂子は助けられてきた。
そろそろ逆行後の時刻は、砂子が交錯を回避した人為結界の時間帯になろうとしている。あの男が先に逆行したクロノスなのか。
「ただ、駅への道順を聞かれただけって、話だったよね?」
特に不審な点はなかったはずだ。
「まあ、そうなんやけどな。俺かて、カムフラージュでそれくらい聞いとくで。じっくり様子、見とこか」
直感だけで、根拠もなく救済対象以外の人間に接触すれば、意図せざる過去の改変が生じてしまう。法律が許容していない行為だ。まずは様子見が必要だった。
過去の改変は、できる限り早期に行われる。それも、改変すべき事象の、できる限り直前へ逆行して、行われた。
時が積み重なるほど、逆行に必要な力は大きくなった。時間操作士の心身の疲労も加速度的に増加した。
歴史書で語られる古い過去が改変されないのは、それほどの昔に逆行できる時間操作士がいないためである。
「こういう時は、占い師のありがたみがよう分かるなぁ」
クロノス三士の中で最高序列に位置付けられる時流解釈士は、しばしば「占い師」に
解釈士の予知が外れるケースがあるのは、能力差も大きいが、多くの場合、他の解釈士の予知を基礎として、未来を変えようとする時空間操作がされ、未来自体が変わるためだ。
予知精度の高い時流解釈士はしばしば「預言者」と呼ばれる。運命の因果律を読み解く預言者たちには、一国を滅ぼし、一国を興す力があるとさえ言われた。
「俺が預言者やったら、絶対、世ん中もっと良うしたるのになぁ」
言ってみても、せんなき話だ。
砂子も以前、時流解釈士になりたいと願ったこともあった。だが彼女は、適格者でなかった。
だいたい、この世の事象はすべて、因果律より成っている。
例えば、砂子を恋していた少年が死なず、砂子が恋愛恐怖症にならなかったら、クロノスなどにならなかったはずだ 。砂子が時間操作士にならなかったら、砂子が救うはずの命のうち、何人もが救われなかったろう。
砂子が時間操作士となり、あるいは関西に配属されるまでには、無数の原因・結果の関係、すなわち因果律があった。その一つでも狂えば、それ以降のすべての結果が変わって来る。たとえ同じ結果となっても、そこに至る過程は必ず異なっている。
過去の一事象を改変すれば、ドミノ倒し的にそれ以降の事象が変わる。
もつれた糸の如く、複雑に絡み合うすべての因果律を読み解く能力を持つ人間は、数千万人に一人とさえ言われた。関西支部に配属されている時流解釈士も、一人だけだ。
だから、非重大事件に時流解釈士の協力など得られるはずもない。現に今回もそうだが、言わば「出たとこ勝負」の救済プロジェクトとなる。逆行許可が出ただけで、よしとせねばならなかった。
今回は、特例許可で認められた非重大事件の救済作戦だけに、失敗は許されなかった。だから、腕の確かな蟹江に相方を頼んだわけだ。
「あいつ、行きおったな」
結局、長身の男は、公園で遊んでいた男児から、道順を聞き、立ち去っただけだ。動くには情報がなさ過ぎた。今後の特例許可を考えれば、冒険は慎むべきだ。
「何にも怪しいところが、ないわね……」
「でも……あの、無駄な背の高さは、変や奴に決まってとるで」
半分以上は冗談だろうが、小男の蟹江のやっかみにも聞こえ、砂子は小さく笑った。
「行こうか、蟹江さん」
「よし来た」
二人は公用車から出ると、足早に長身の男を追った。
「ちょって、待ってください。わたしたち、内務省時空局の者だけど」
砂子と蟹江が身分証明証を見せると、長身の中年男は焦点が定まらないような虚ろな眼で、砂子を見下ろした。
「このあたりの時空で人為結界が観測されました。心当たりはありませんか」
「お前たちには関わりのない話だ」
声帯を痛めているように裏返った特徴的な声だった。
長身の男は面倒臭そうにコートの前を開くと、鷹をあしらった襟章をこれ見よがしに見せた。救世軍の特務班だ。
蟹江が悔しそうに首を振った。軍による機密逆行と分かった以上、手出しのしようがなかった。
「あかん、サコちゃん。帰ろ」
「待ちなさいよ。あなた、ここで何をしていたの?」
詰め寄ろうとする砂子を、蟹江が慌てて制した。軍の活動を妨害すれば、身柄を拘束され、軍法会議にかけられるおそれがあった。
男は何も起こらなかったように、悠然とその場を去っていく。
「ホンマ、虫の好かんやっちゃな」
蟹江が聞こえるように愚痴を行ったが、男は振り返らなかった。
†
「初めまして、内務省の織畑と申します」
犬養家の人々がドライブから帰宅して、しばらくの後、砂子は蟹江を伴って、玄関の戸を叩いた。現れた家人に
最近は内務省職員を騙る詐欺もあるらしい。初老夫婦は最初、突然の訪問に
「本当にありがとうございます。何とお礼を申し上げてよいか」
帰宅したばかりで大した物はないが、と言いながら、夕食を御馳走になった。心の込められた家庭料理に、砂子たちは遠慮なく舌鼓を打った。公務員ではあるが、任務遂行のため社交儀礼を逸脱しない程度の接待は受けてもよい。
実に気のいい、人たちだった。
まだミッションを完了してはいないが、砂子が幸せを感じるのは、こういう時だ。
内務省が、死亡したはずの国民を救済するためにクロノスを逆行させて、過去改変を行った具体的事例は、一部を除き相当数が公開されていた。救済対象とされなかった国民の不満はあるにせよ、「体制」が大衆によって長らく支持されてきた根底には、時空間保安局・広報課による「救済」事例の巧みな宣伝効果があると言えた。
砂子は、政治にまるで関心がなかった。時間操作により、奪われるはずだった命を一つでも多く救えれば、それでよい。
夜も遅くなっている。砂子たちは、犬養家に別れを告げ、公用車へと戻った。
公園でスケボーに興じていた若者たちも、すでにいなくなっている。
「なあ……サコちゃんは、何で、そんなに頑張るんや?」
蟹江の声はいつも優しく、慰めるような感じがした。
「……笑われるかも、知れないけどね。……わたし、第二結界を、破りたいの」
砂子が長年秘めてきた、切なる願いについて誰かに話をしたのは、この時が初めてではなかったか。
第二結界、すなわち、二〇五二年三月ころに存在する、極めて強力な結界は、時間操作士の侵入を頑なに拒んでいた。二〇六三年一二月現在、何人も、第二結界以前の時空へは到達しえない。
蟹江は笑わなかった。
「……ごっつ大変やろけど、サコちゃんやったら、でけるかも知れへんで。……でも、破って、どないすんの?」
破って見なければ、分からなかった。戻るべき過去など、ないのかも知れなかった。後悔するかも知れなかった。それでも砂子は、第二結界の先に、置き忘れて来た自分がいるような気がしていた。自分を本当に好きになれないのは、そのためではないかと思っていた。
「忘却の年に、よっぽどヒドイ目に遭ったんか? まあ、よう分からんから、忘却の年なんやけどな」
第二結界が存在する二〇五二年前後の記憶は、地球上の全人類に共通して、大なり小なり、失われていた。ごく少数だが、それ以前の記憶を完全に喪失した「オブリビアス(忘れ去りし者)」と呼ばれる者たちさえ、存在した。
「……蟹江さん、実はわたしね。オブリビアスなの……」
砂子が、父である織畑刻司に対し、深い愛情を抱けない理由は、砂子の記憶が人生の途中、十三歳の冬から始まっているためでもあったろう。
「やっぱり、そうか……。オブリビアスには能力が抜群の人が多いっていうしなぁ……」
「……わたし、あの頃に好きな人を、わたしのせいで死なせた記憶があるの……ぼんやりと、だけど…… 」
少年の顔も、名前も、声も、記憶がない。愛しいイメージでしか、感じられない。それでも、砂子は恋愛感情だけを、はっきりと憶えていた。不思議な話だが。
オブリビアスは皆、同じ願いを持っているのではないだろうか。いつの日か第二結界を破って、過去の記憶を、さらには自分自身を取り戻したい、と。
「第二結界付近の記憶は、みんなイカれとるからな。二〇五二年、言うたら、サコちゃんが十四、五歳くらいか 」
「兵学校の中等部にいた頃ね。幼児体験だって、笑われそうだけど」
「……俺は、笑わへんで。サコちゃんのほら、あれ、教えてもろとるしな」
恋愛恐怖症の話だ。
蟹江には、実父にできない相談でも、何でもできる気がしたし、現に、してきた。
その後の二時間ほどは、蟹江と馬鹿話をした。犬養家の人々も明かりを消し、辺りが暗くなった。沈黙が、しばらく続いた。
「無駄に背の高いあの男、おらへんか?」
「いるのは、尻尾のムダに長い三毛猫だけね」
「あれだけ言うたんやし、犬養さん、なんぼなんでも、注意しはるやろ。このまま、サコちゃんと二人っきりでおられるんは、幸せな話やけど、そろそろ撤収せな、あかんのちゃうか?」
蟹江はリクライニングさせていたシートを、ゆっくりと元に戻した。
「できれば、念のためにあと二〇分くらい、火事の通報時間まで、いたかったんだけどな……」
すでに時計は、次の日に入り、午前一時前を指している。異時空間の滞在時間が十二時間になる計算だ。人為結界を避けて二時間早く、逆行したために、予定より離脱の時間が、早く到来した。
「気持ちは分かるけど、非重大事件で半日以上もおったら、始末書書くの、ごっつ大変やで。それに、サコちゃんのサイも、そろそろギリギリや。危ないやろ?」
他の時間操作士のバックアップなしでの逆行は、安全のために十二時間が最高限度とされていた。
タイムリミットだ。
「まあ、大丈夫。大丈夫だよね」
何度も言い聞かせるのは、やはり不安だからか。
こんな時に砂子は、自分に時流解釈能力があれば、と願う。
だが、未来を予知できる人間は、幸せになれないらしい。最高待遇を受ける境涯へのやっかみもあり、自らの予言を信じてもらえなかった悲劇のトロイア王女に
普通の人生と同じで、頼れるのは「勘」しか、なかった。通報時間までの短時間で住宅が燃え上がるはずもない。
「よし、離脱するわね」
眼を閉じる。サイの発動には、砂子でも、数分程度の精神集中が必要だ。
砂子はイヤリングに右手をやった。
プラチナ色の霧がフェードアウトした後、砂子たちは再び、四日後の公園にいた。
砂子は、我が目を疑った。
無駄だと、分かっていた。それでも、ドアを開けて、公用車から走り出た。
まるで逆行などしなかったように、犬養家の住宅の焼け落ちた跡には、何の変化もなかった。
「どうしてよ! あれだけ注意したのに!」
傍らに来た蟹江が、砂子の肩にそっと、手をやった。
「すまんな、サコちゃん。俺が急かしたばっかりに」
蟹江の責任ではない。離脱しなければ、発動限界で戻れなかった恐れさえあった。
砂子は焼け跡に立ちくした。
悔しかった。一人も、救えなかった。
涙があふれ出た。
「悔……し、い……。温かい人たち、だったのに……」
砂子の震える肩を、蟹江が優しく抱き締めてくれた。
「ごっつええ人らやったなぁ。……普通は、あり得へん話や」
「……放火、だったのね」
「発火物とかが一切発見されへんかったから、消去法で、失火になったんかも知れんな。でも、燃え痕が何も変わっとらへん、いうことは、俺らが帰った後に、燃やしおったんや」
「そんなに短時間で燃やすなんて……」
「あの、無駄に背の高い男、おったやろ? 仮にあいつが、
「そんなこと、できるはずが……」
「たまに、おんねん。できる奴が」
「……まさか、パイロキネシス ?」
クロノスの中には稀に、発火能力をあわせ持つ者が現れる。
時間操作が可能なクロノスなら、時限爆弾のように発火能力を使うことも技術的に可能だ。
時間、空間のいずれをも操作する能力は、法律上身に付けられない精度になっている。だが、「体制」からの解放を目論む、反政府組織「昴」は、これに従っていない。
「そやとしたら、この件、何か裏があるって、考えたほうがええやろな。俺は、サコちゃんを泣かせた奴を許さん。俺にまかしとき。調べて、いずれ、いてこましたるさかい」
砂子は、蟹江の小さな胸の中で、咽び泣いた。
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■用語説明No.3:第二結界
二〇五二年三月ころの地球に存在する、非常に強力な結界。
形成した者、形成された理由、経緯のいずれも、一切不明とされている。第二結界に侵入できる力を持つ時間操作士は、時空間理論上、存在しない。従来は単に「結界」と呼ばれていたが、近年の研究で二〇二五年四月付近に形成された、同様に強力な結界の存在が推定され、こちらが「第一結界」と名付けられたことから、「第二結界」とされた。なお、これらに対し、「終末」に存在する最強力の結界は「最終結界」と呼ばれている。
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