第23話 タバコの輪
猿橋一彦はミッションを前にすると、必ず屋上に出て、空の星に成功を願うことにしている。時間操作士だった姉 はきっと、星になって自分を見守っていると信じているからだ。
幼い時分からクロノスに憧れ、努力の結果、兵学校に入り、エリートコースを歩み始めた猿橋が内務省を選んだ切っかけは、姉の戦死だったろう。
この日、花曇りの春空には星ひとつ見えはしなかった。だが雲の向こう、もっと遠くの宙(そら)には、必ず星たちが間違いなくまたたいている。
――姉ちゃん、頼むで。成功させてや。
猿橋は心の中で姉に語りかけると、よしッと気合を入れた。
階段を降りて、現地本部に設置されたクロノス用の待合室に向かう。
ミッション終了までの期間限定で、内務省により収用された岡地町の高層オフィスビルからは、駅の様子と線路を行き交う列車の様子がよく見えた。
「よう、朝香。初の大仕事の前で、緊張しとんのか?」
瞬は窓際のソファに沈みながら、インスタント・コーヒーを啜っていた。猿橋はその向かいにどっかと座った。
「そう、見えるか?」
瞬は美味そうでも不味そうでもない表情で、プラスチックのカップを置いた。
瞬の様子は腹立たしいほど落ち着き払って見えた。
確かにこの男が見て来た戦場は、二ケタ以上の命が数瞬で消失する虹色の時空だった。命の大事さを数だけで捉えるなら、今回のミッションでさえ、軍の展開してきた通常の作戦行動より、二桁以上規模が小さいだろう。
だが猿橋には、内務省の生え抜きとしてのプライドがあった。だからこそ魚住は、今回、最重要の役割を猿橋に与えたのだと思っている。軍人くずれの瞬には負けられないとの自負があった。
「ライター、持っとるか?」
タバコを一本取り出して尋ねる猿橋に、瞬は黙ってライターを差し出した。
「あんたはあえて禁煙の場所で吸うのが趣味なのか? このオフィスは禁煙だ。吸うなら、屋上に出たほうが無難だろうな」
「お前、ヘビースモーカーのくせに、よう吸わんでいられるな」
「別に好きじゃないんだ、タバコ」
「その割には、のべつ幕なし吸っとるやないか?」
「ただ、カッコを付けてふかしているだけさ」
「お前は中坊か」
猿橋は笑いかけたが、瞬は応じなかった。落ち着いているというより、緊張を隠しているだけではないか。
「いや、予科はちゃんと卒業した覚えがある。忘却の日の後だから間違いない」
猿橋はタバコを戻してから大きく伸びをした。
「遅いのう、女性陣は」
逆行した調査課と過去時警察による事前調査では、不審人物がまだ特定、発見されていない。
「彼女たちはギリギリまで粘るつもりなんだろうな」
「あのふたりやったら、せやろな。原因者を探せたら、楽やしな」
空間操作と違い、時間操作は知覚可能な痕跡が結界として残る。もしテロ組織が時間操作能力を少しでも用いたなら、原因者の特定に繋がりうるわけだ。
痕跡は時間操作士にしか分からないから、空間操作士の出る幕ではない。実行犯を探すのは自由だが、クロノスは犯罪捜査の専門家ではないから、徒労に終わる場合が多かった。だが見つかれば、連絡を受けた空間操作士が直ちにテレポートして捕縛する。そのために待機しているわけだ。
ちなみに内務省では、史実で起きた犯罪の実行犯を「原因者」と呼ぶ。過去時では、犯罪はまだ「実行」されていないし、史実とは別の共犯者が「実行」するかも知れないから、回避すべき「結果」を引き起こす可能性がある者たち全員を「原因者」と呼ぶわけだ。
「サル。今回のミッション、なぜ、鉄道会社に運行停止処分をしないんだ? それで簡単に済む話だろう?」
列車の運行を止めてしまえば、テロは容易に防げる。誰でも考え付く手だ。猿橋も最初は同じ疑問を持っていた。
「そうや。でも、それやと、別の日にテロが行われるだけなんや」
「ほど、いたちごっこになるわけか」
「広報課もしゃしゃり出て来おるしな。『正しき預言』への抵触が認められます、アルマゲドンに抵触するため、計画を変更してくださいってな。ま、まだ事件も起こってへんのに商売せんといてください、言い続けとったら体制も不人気になるし、現実的ちゃうわな」
広報課は提案をしない。反対意見を言うだけで仕事をしている気でいるから、楽な商売だ。
「でも『正しき預言』は、軍が決めているんだろう? 内容も分からないから、検証できないブラックボックスだな」
「そや。アルマゲにしたがえへんにゃったら、『昴』にでも鞍替えするしかない」
昴の名を出すと、瞬が不機嫌そうにコーヒーを飲み干した。
「時間記録課がおもろい調査報告、出しとんねんで。時空局が救済したはずの国民が、別の理由で半年、一年のうちに死亡する場合がけっこうあるってな」
よく用いられる寓話がある。
世界には時を司る神様がいて、死すべき者は、たとえその時に死ななくても、必ずつじつまを合わせて死なせるそうだ。
「せやからミッションをやっても、どうせツジツマを合わせられてしまう場合、『正しき預言』に反するってされるそうや。確かにな、俺らがミッションを成功させた場合、その後の追跡調査では、ツジツマ合わせはされてへんにゃ。まあ、枡田みたいなジジイもその程度の存在価値はあるっちゅう話かも知れへんな」
控室の扉が開くと、砂子が入ってきた。事前連絡がなかったから、砂子は原因者調査に区切りをつけて戻ったのだろう。
「おう、サコちゃん。待っとったで。美味しいコーヒー、淹れたろ」
「俺は仕事前に一服やってくる」
入れ違いに瞬が立ち上がり、待合室を出て行った。
猿橋がインスタント・コーヒーを砂子の前に置くと、小さな声がした。
「……わたし、彼を物凄く誤解しているのかも知れない」
「……なんか、サコちゃんはわざとアイツを誤解しようと努力してるようにも見えるなぁ……オレも悪いんかも知れんけど……」
砂子はコーヒーの礼も言わずに、物思いにふける様子で、窓の外を眺めている。
「ところで、アネさんは?」
砂子は我に返ったように、猿橋を見た。
「秋葉原で、まだ不審者を探しているわ。でも、まさに大海の一滴、奴らだって、ノコノコ捕まってくれるような馬鹿な真似、するとも思えないんだけどね……」
「ああ見えて、仕事はきっちりしはる人やからなぁ」
「そう。特にとことん恋をするって決めた時は、後ろ指を差されないように、ね」
コーヒーカップを置いた砂子の横顔が、心なしか寂しげに見えた。
†
織機砂子が東浜線「大森駅」ビルの屋上に上がると、鉄柵に身を預けている瞬の背中を見つけた。さびしそうな背中だった。
逆行前の会議のあと、天国の戦友たちにミッションの成功を祈っていると若菜に打ち明けた瞬の言葉を耳にしてから、砂子の抱いていた嫌悪感が冷や水を浴びせられたように小さくなっていた。
瞬に近づいたが、砂子はかける言葉を思いつかなかった。
岡地町の仮本部から大森に向かう公用車の中で、瞬は一言も口を利かなかった。気さくな明るい青年かと思えば、何を考えているか知れない不気味な元軍人にもなった。
瞬の隣に立ち、夜を走る電車の明かりを眺めた。
ぜひとも成功させたいミッションを前に、今さらだが瞬と連帯感を持ちたいと思った。思いついた話題を振ってみる。
「朝香君もボギー教官に、タバコを教わったんだね」
「えせホタル族だけどね……。酒も、女も、人生も、未来も、何もかも、俺はあの人に教わったんだ」
言い尽くせない思い出があるのだろう。
「ごめんなさい。ミッションの前に、悲しいことを思い出させて」
「俺が貰ったのは、悲しい想い出だけじゃないさ」
瞬は口説くときだけ一人称が「僕」になるらしい。死んだ恋人と重ね合わせるせいだろうか。今は「俺」だから砂子を口説く気はない様子だ。いや、あれほどはっきりと拒絶した以上、瞬はもう二度と砂子を口説きはしないかも知れない。砂子は人のいない廃墟を歩いているようにうら寂しい気持ちになった。
「……そうね。ジャンクフードとか、楽しい思い出もあったもんね……」
瞬がタバコの煙で輪っかを作った。いつか、蟹江もやっていた。ボギーにやり方を教わったのだろう。
蟹江の邪気のない笑顔を思い浮かべると、砂子はいまだに胸が詰まった。
「サルに聞いたよ。君の関西支部の同僚も殉職したんだってね」
蟹江みたいに、偽りのない優しげな声だった。人を殺し続けて来た男が、果たして人に優しくできるものだろうか。
「……とてもいい人だった」
「いい人ほど、早く死ぬものさ」
なぜだろう。今日の飾らない瞬の言葉は上滑りせず、砂子の心の裡(うち)にそっと忍び込んできた。あれほど毎日のようにかき立ててきたのに、大仕事の前だからか、嫌悪感はすっかり消えていた。
空間を自在に操る朝香瞬は、一騎当千の殺人兵器だった男だ。だからこそ、命の尊さ、儚さを知っているとでもいうのだろうか。
なぜ砂子は男といるのに、それも大嫌いな元軍人といるのに、嫌だと思わないのだろう。それどころか、この若者とまだしばらくいっしょにいたいとさえ願う気持ちは、いったい心のどこから来るのだろう。
ミッションの成功を願う気持ちが、藁にもすがりたいと思わせるのか。いや違う。隠してもむだだ。砂子は瞬に対し、女として好意を抱き始めている。にわか仕立ての嫌悪感では、瞬に対する好意を打ち消せないとわかった。
瞬が携帯灰皿でタバコを消した。ボギーは消し方も教えたようだ。
これから二人は通過列車の運転室に乗り、事故回避措置をとる。今回のミッションの主役は若菜と猿橋だ。順調に分岐器の固定だけで事故が回避できれば、何もとるべき措置もなく、緊張する仕事でもないはずなのだが、簡単に行くだろうか。
砂子が鉄柵を離れて、塔屋のほうへ向かおうとすると、瞬はもう一本タバコを取り出して、火を付けた。砂子は足を止めた。
「俺には予知能力がないけど、もし今回の相手がこの前のように、改良型エンハンサーを持っていたら、話は簡単じゃない。テロ鎮圧はこれまでのやり方が全く通用しない、新たな時代に入ったと見たほうがいいかも知れない」
改良型エンハンサーは、従来のエンハンサーの一〇倍近い性能を持つ物もあるとされる。それを使えば、低能力の無資格者でも、クロノスたちと互角に渡り合えるだろう。
瞬は砂子にかからないよう、口を空に向かって尖らせながら煙を吐いた。
「たぶんもうテロと言うより、戦争なんだ。敵を殺さずに捕縛するのが原則だなんて、こっちの身が危なくて仕方ない。本来は内務省じゃなくて、軍が動くべきじゃないのかな?」
やはりこの若者は人を殺すことばかり、考えているらしい。だが、きれいごとだけでミッションは成功させられない。殺さなければ、殺される。蟹江のように。砂子が直接手を汚さずとも、他のクロノスが代わりに汚しているだけだ。
「いいえ。わたしたち内務省がやるのよ。私は軍も、軍人も嫌いだもの」
「そうみたいだね」
「でも……あなたはそれほど……嫌いじゃない気がする……」
「ありがとう……」
瞬がもう一本の煙草を取り出す前に、砂子は声をかけた。
「あと三十分で、いよいよ乗車待機よ。行きましょ」
「了解」
タバコをしまい、塔屋へ先に向かう瞬の背中が、砂子には今は頼もしく見えた。
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