第22話 時空局八課


 犬山若菜は、枕元の携帯端末が歌い出したベートーヴェンの「歓喜の歌」で目を覚ました。未来の自分からの電子メールに設定した着信音だ。

 約十五分後に、本部から緊急の呼び出しが掛かるはずだ。


 携帯画面の時間を見た。シンデレラがかぼちゃの馬車に乗り込んでから、まだ数分しか経っていない。さっき寝たばかりだった。


「チェッ、課長はいないし、また、あたしが責任取らなきゃじゃないの」


 若菜はテレビのスイッチを入れてから、洗面室に入った。今、試している「水だけ洗顔」を開始する。

 常に美しくあることが生きる目的ともいえる若菜にとって、化粧に必要な時間確保は至上命題だった。時間がある時は念入りに一時間以上かける日もあるが、最速は七分半で仕上げる。


 柔らかいタオルで顔を軽く拭くと、鏡台に向かって座った。化粧水を手早く顔になじませる。コットンは使わない。


 緊急招集を受けると若菜は、化粧の時間を捻出する目的で、過去の自分へ電子メールを逆行させる。目に見えない微細なデータの、局所的な、しかも十五分程度の逆行だ。まず気づかれない。


 当局としても、職員が寝間着姿のすっぴんで寝ぼけ眼をこすって出てくるより、ビシッと戦闘態勢で臨んでくれるほうがいいに決まっている。


 ――繰り返し、お伝えします。昨夜一〇時すぎに発生した列車衝突事故の被害者は、二〇〇人を超えると見られています。我が国で最悪の……


(これは本部の直掌案件になるわね。ラクさせてもらいましょうか)


 ふだん若菜が一課で裁いている支部案件は、支部組織の調査検討結果を一課が再チェックする仕事であり、一課が責任を持って処理する必要がある。これに対し、本部が直接担当する案件は本部の全八課の共同作業になる。しかも、課長が実施責任者となるから、今回は二課の魚住幸恵が会議を作るはずだ。あのスパコンに任せておけば、まず失敗はない。


 若菜は化粧下地を額、両頬に乗せていく。

 昨晩はむりやり仕事を九時半には終えて、寮に戻った。バーボンをストレートで一杯あおると、そのまま布団を被って寝た。夜更かしは美容の大敵だ。その後に起こったテロだろう。近頃のテロは、事後改変を阻止するための逆行テロで、人為結界を作っているからやっかいだ。


 恋の達人と見られる若菜がいつも恋を途中で投げ出し、実は恋がへたくそな理由は、自分でもはっきり分かっていた。幼いころから若菜は重度のブラコンだった。


 化粧下地を三本の手で、顔に均等に延ばしていく。

 若菜は無条件に、強い男が好きだった。今も、そうだ。若菜の兄、了一郎は強く、優しかった。兄もシスコンだとよくからかわれていたが、間違いではなかったと思う。だから兄は強くなるために、空間操作士の道を選んだのではないか。


 過労と睡眠不足のせいで眼の下に薄くできたクマを、コンシーラーで隠す。

 今まで若菜に恋をし、愛してくれた男たちはいた。だが、若菜が本気で恋をした男はひとりもいなかった。死んだ兄と比べれば、どの男も格段に見劣りがした。


 だが、齢こそ違え、朝香瞬という若者は兄に似ていた。

 無条件に強いだけではない。若菜以外の女性を愛して失い、自暴自棄になっているところまで、兄と似ていた。

 

 パフの斜め三分の一ほどにファンデーションをとって、頬に馴染ませていく。

 若菜は長いストレートの髪にすばやく、しかしていねいにブラシを掛ける

 

 避けようとしても、どうせ≪終末≫は来る。

 若菜よりも優秀なクロノスたちが、何人も異時空に散っていた。兄もそうだった。

 内務省にいる自分だって、いつ消えるか分からない。

 

 ならば悔いのないように、最後にあの若者との恋に燃えてみても、いいはずだ。瞬の心はすでに掴んでいる。二度目のデートの後は、しばらく連絡もせず、ポーカーフェイスで通してきた。そろそろ若菜とのデートを渇望する頃合いに違いない。


 第一課の採用する白基調の制服に着替え終わると、若菜は、鏡に映る自分の顔を見つめた。微笑んでみる。しょせん作り笑いだ。でも瞬とのデートでは、兄の死以来はじめて腹の底から笑うことができた。驚いたことに、若菜が自分の弱ささえ出せた。


 今まで若菜は恋に不誠実な自分が好きではなかった。泣かせた男の数は覚えていない。

 でも、若菜の美しさはまだ衰えていない。あきらめてかけていたが、自分にも本物の恋だってできるのではないか。

 若菜は足早に寮の部屋を出ると、エレベータへと向かう。

 空間士なら、数瞬で会議室に姿を見せられるのだが。



 若菜が内務省の会議室に入ると、空席は若菜の席だけだった。

 みじんもあせる様子を見せずに、済ました顔で魚住二課長の隣に着席する。若菜より七つほど年上のはずだが、魚住は薄化粧でも肌がすべすべしている。


「では、出席予定者がすべて揃いましたので、緊急会議を始めます。昨夜一〇時十一分、御徒町駅で発生した列車衝突事故案件につき、時空局長から、先ほど逆行の許可見込みの内示がありました。許可あり次第、直ちに救済チームを組むことになります。事件の重大性に鑑みて本部の直掌案件となります。慣例上、二課長の私がプロジェクト・リーダーを務めますので、よろしく」


 一課のほうが格上だが、課長不在のため、二課長が指揮をとる決まりだ。時空局全八課の代表者が顔を揃えていた。緊急案件でもあり、皆、課長というわけでなく、いちばん肩書が上の者を派遣している。


「では、まず調査課からご説明をお願いします」


 黒い太縁眼鏡の男が立ち上がって、説明を始めた。

 腹の突き出たメタボで、男の魅力をまるで感じさせないタイプだ。無駄な会議になると決まって現れる男だが、関心がなさすぎて、若菜はメタボの名前をまだ憶えていなかった。


「最新の調査結果は、随時お手元の画面に表示されますので、ご確認ください」



 体形はともかく、太縁眼鏡のプレゼン能力は高かった。うしろに控える部下の鯖江泉が有能なだけかも知れないが。

 下部組織である警察からの資料提供があるにしても、ごく短時間でよくこれだけの情報を集めたものだ。さすがに本部の調査力は違う。

 だが、「現時点では」、「現時点の」を連発して、ミッションが失敗した場合の予防線を張っている。調査不足が原因とされる事態を避けようとする小役人の習性だ。

 若菜思うに、調査課は無責任な研究者タイプが多い。集められるだけの情報を集めて、並べるだけ。どう料理するかは、あんたたちの責任でしょと投げ出す。


「そうすると、調査課の中間報告によれば、人為結界が確認されたのは一か所だけ、ということね?」


 魚住の確認に、メタボの太縁眼鏡が答えた。


「はい。現時点では、問題となる分岐器以外に、当該時空には自然結界しか確認されておりません」


 何者かが線路の分岐器(ポイント)を空間移動させたために起こった衝突だとの調査結果だった。



「では次、企画課、お願いします」


 痩せぎすの女が説明を始めた。企画課にはクロノスになれなかったが、時空間操作で何とか命を救おうとする熱血職員が多い。実際危ない橋を渡らされるクロノスにとっては、はた迷惑な話だ。

 だが女は熱血タイプではないらしく、ダイエットのし過ぎで一日に二回は貧血で倒れていそうな体型だった。肉付きのよい若菜と違い、男が抱いたときに女らしさを感じられないくらい骨ばって見える。かわいそうに、女としての魅力に欠ける。


「まだ、犯行声明はありませんが、今回の案件は、テロの疑いが濃厚でありまして」


 オリオンなら、すぐに犯行声明を出すはずだが、鳴りを潜めているようだ。


「したがいまして、逆行による改変行為に対しても、テロを仕掛けてくるおそれが十分に考えられます」


 要は、「出たとこ勝負、現場に任せる」と言いたいわけか。

 ≪終末≫が近付くにつれ、テロが激化し始めた。企画課の立てた計画通りに遂行できる素朴な案件があったのは、ひと昔前までだ。

 マニュアル通りのプロジェクト立案しかしないなら、企画課の存在価値はない。

 若菜思うに、企画課はいっそのこと調査課と統合してしまえばいい。



「では、広報課からの意見を」

 来た。大トリの登場だ。時間記録課も、総務課も、逆行前にしゃしゃり出たりはしない。

 時空間保安局・広報課は、他の組織でのどかに広報活動をしている連中とは質的に違う。広報課が反対すれば手続上、逆行許可の申請ができず、ミッション自体がポシャる。


 時空局第五課・広報課は、時空間防衛軍、すなわち「体制」と結びついて、軍との調整活動を任務としている。その意味では、軍の出先機関と考えてもいい。無論、課長も軍からの出向だった。

 痩せ型のインテリタイプの男は座ったままで、意味もなく片笑みを浮かべた


「担当する時流解釈士の予知によれば、アルマゲドンとの抵触はありませんな。速やかなる逆行を希望いたします」


 「速やかなる逆行」とは聞こえがいいが、要は調査不十分な状態のまま、ミッションを成功させろという無体な要求だ。成功すれば、広報課は≪体制≫の成果として救済事例を大々的に広報する。


 セキュリティ会社がコンピュータ・ウィルスを流しているのではないかとの疑いが昔からあるように、テロ案件も軍の仕業なのではないかと思うことが、内部にいる若菜さえ、あった。



「六課、七課、八課からは、特にありませんね」


 過去改変の影響を受けない結界内で、改変記録を綴るだけの六課・時間記録課や、主に逆行後のトラブル解決を処理する七課・総務課が、事前の意見を出すことは滅多にない。八課・技術課は今、「改良型エンハンサー」で手いっぱいだ。


「ではこれから職務逆行に入り、ミッションの詳細な立案を行います。被害者の多さを考えても、このミッションは確実に成功させる必要があります。こんな列車事故、歴史からなくさなきゃいけないから」


 若菜は、魚住のような仕事一筋タイプとは距離を置いてきた。

 魚住は仕事のためなら、平気でプライベートを犠牲にする。それは、子供までいて人生でやるべきことを済ませたからだろう。だが若菜はまだ、女としてきちんと生きていない。魚住とは、前提が違う。

 若菜は魚住が進行させていく会議中、一言も発せず、腕組みをしながら天上を見上げていた。


「人員配置ですが、規定によれば、バックアップも入れて、時間士二名、空間士三名、各課からの支援要員も入れて総計十五名で、逆行許可が下りる見込みです」


 これだけの大事故でも、クロノスの配置に五名を借り出せれば、御の字だった。相手が反政府組織≪昴≫なら、軍は四ケタのクロノスを出動させるのだが。

 魚住が若菜を見た。


「二課としては、私と当直の猿橋君に加えて、朝香君に出動命令を掛けるつもりです。これだけの案件ですから、一課からもエース級を出してもらいます。犬山課長補佐と織畑主査に担当願えますか?」

「了解です」


「では、出動するクロノスに伝達し、午前三時から打ち合わせを行います。では、この会議は、午前四時から再開とします」



   †

 織機砂子は東京湾を行き交う夜行船の数が少なくなっても、まだ寮の自室で、ディスプレイに向かっていた。

 砂子は寝られないでいるうち、携帯端末への非常速報に気づいた。


 都心で発生した列車事故のニュースを知って以来、自分が救済チームのメンバーに加わることを前提に情報収集と解析に勤しんでいた。自分がプロジェクト・リーダーなら、どうするか。今ごろ管理者たちが招集され、ミッション実施に向けたチームの立ち上げが議論されているはずだ。


 時間保安課内で共有すべき極秘情報は日付が変わったころから、クロノス資格を持つ課員には随時、パスワード付きの電子データで伝達されていた。さしあたり先ほど送信された調査課の「中間報告」がベースになる。


 数時間前の昨夜午後一〇時すぎに起こった混雑率一二〇パーセント超の列車同士の正面衝突では、死者だけでも現時点で二百名以上に上っている。明らかに逆行相当の重大案件だ。


 環状外回り線と通過列車の衝突は、岡地町駅で起こった。いずれも十一の車両に乗客が約三〇〇〇人乗っていた。

 過失による事故なら事象改変は比較的容易だ。だが果たして、これほど悲惨な事故が過失で起こるだろうか。


 救済ミッション成功の鍵は、テロリストからの時空防御になるかも知れない。

 第一課長が長期出張で不在の今、現場の指揮を執るのは魚住第二課長だ。一回り近く年上で評判のいいクロノスだが、朝香瞬の保護に同行した馬鹿げたミッションを除けば、本格的な仕事をいっしょにするのは初めてだった。お手並み拝見と行こうか。


 砂子が濃い目のコーヒーを飲み干した時、案のじょう、携帯端末に連絡が入った。課長補佐の犬山若菜だ。


「サコ、悪いけど、至急の案件。今から頼めるかしら?」

「了解。五分以内に、伺います」


 とっくに化粧は済ませてある。部屋着を脱いで白の制服に手を通した。

 砂子は右手をイヤリングにやって、誓った。


「絶対に全員を救ってみせる。見守っててね、蟹江さん」



 砂子が内務省の会議室に着くと、すでに魚住、若菜、猿橋が円卓を囲み、その周りに各課から選出された支援要員がパイプ椅子に座り、待ち構えていた。


「お待たせしました」

「ご苦労さま、織機主査」


 若菜に示された椅子に座る。隣は空席だった。

 机上の資料に目をやった。一枚目に今回の救済ミッションの「チーム編成表」が見えた。二課の欄に「朝香瞬一郎」の名がすぐ眼に入った。


「空間屋はすぐに来られるはずやのに、朝香は遅いのう」

「化粧も要らないのにね」


 若菜がつけ加えると、猿橋が笑った。


「ホンマや。あいつヒゲもろくに剃っとらへんし、クソでも垂れとんのかいな」


 猿橋は笑いを誘おうとしたようだが、仕事前に張りつめた会議室の空気に下品な冗談は空しく消えて行った。


「朝香君は過剰発動気味で、無理はできないんじゃないでしょうか?」


 砂子の問いに、魚住が即答した。


「今回は重大事件だし、恐らくはテロ。ウチの威信が掛かっている。絶対に成功させなきゃならない。彼の力が必要よ」


 魚住の言葉の終わらぬうち、砂子は突然ときめきにも似た懐かしい温もりを全身に感じた。だが、それはすぐに強烈な違和感へと変わった。

 砂子は短い悲鳴を上げて脇に飛びすさった。

 制服姿の瞬がまそばに姿を現していた。


「ごめん、織機さん。ブッキングしちゃったね」


 瞬間移動した先に人がいると、反射神経が機能するより短い〇・二秒ほどの間だが、身体と身体が重なる「空間重合」を生ずる場合がある。「ブッキング」と俗称されるが、砂子は空間士の恋人たちが遊びに使うと聞いた覚えがあった。


 物体同士も弾き合うし、空間士も慣れていてすぐに回避する。同一空間に二つの存在が重なって存在し続ける矛盾は生じないから、別に実害はないのだが。

 まさか故意のブッキング、ではないと思うが、瞬ほどのレベルのクロノスなら可能な技かも知れなかった。


 ちなみに時間移動の場合は、空間移動よりも移動に時間を要するため、反射神経ではじかれてしまい、「時間重合」は生じない。


「もう、気を付けてよ!」


 砂子が怒鳴りつけると、瞬はもう一度すなおに謝った。頭をかきながら、黙って砂子の隣に腰を下ろす。

 砂子はにらみつけるようにチラリと瞬の横顔を見た。若菜が本気で狙っている男だけあって、顔だけは抜群にいい。砂子がこれまで会った男の中でも一番の美形だろう。


 だが、サイコキネシスで拘束され抱きしめられた夜以来、若菜は瞬について考えてしまうたびに、こう言い聞かせていた。

 コイツは無数の人命を奪ってきた人間兵器だ。砂子とは真逆の人生を歩んできた悪鬼だ。そうだ、隣にいるだけでおぞましいのだ。

 不思議なもので、キスされなかったことで自分が否定されたような気持ちになり、逆恨みのように瞬に対する嫌悪感が募るようになっていた。


「朝香主査、遅かったじゃないの?」


 若菜の柔らかい問いかけに、瞬はもう一度頭を下げた。


「すみません。織機さんが隣に住んでますからね、いっしょに行こうと思って、しつこくチャイムを鳴らしていたもので」


 まだ正式に会議は始まっていないとの認識で、砂子は腹立ちに任せて反応した。


「どうして私が、あなたといっしょに仕事に行くわけ?」

「寝坊してないかと心配になって、中にも入ってみたんだけどね」


 空間操作士に施錠は無意味だ。そんな人間が隣に住んでいると思うと、プライバシーがあったものではなかった。


「ちょっと、何するのよ! やめてくれない?」

「冗談だよ、そんな怖い真似しないさ」


 瞬は笑いを誘おうとしたようだが、砂子の剣幕に会議室はかえって凍り付いた。

 しかたなく魚住が割って入った。


「その辺でいいわ、二人とも。時間がないの。さて、今回のミッションについて説明します。調査課の中間報告によると、事故原因は通過する快速列車の分岐器を何者かが、直前に空間操作で切り替えたためだと判明しています」



 砂子は切り替えて、仕事に戻る。

 自分は人を救うためにクロノスになった。その原点へ帰る。

 秋葉原―上野間にある岡地町駅には、環状線と東浜線の二路線が止まる。両路線が使う二つの島式プラットホームには、一番線から四番線まで四つの線路があり、さらに通過車両用に三つの線路があった。


 何者かが通過直前に分岐器を切り替えたために、北上する東浜線の通過車両と東京駅へ向かう環状線の外回り列車とが衝突したらしい。

 事前に流されていた極秘情報の内容と、事実関係の把握に変更点はないようだった


 となりの瞬を見ると、初めて聞くかのように話に聞き入っていた。

 髪の寝癖から判断しても、起きてからすぐに来た様子だった。


「企画課による計画原案は、当該分岐器の時空間固定です。問題の分岐器さえ動かないようにしておけば、物理的にこの事故が起こることはあり得ないという判断です」


 処理方針は、時空間操作のセオリー通り、改変すべき事象の直前にある直接的原因の除去である。最も確実で、改変事象による派生的影響の少ないやり方である。砂子も、会議室に来る前から考えていたオーソドックスな方法だ。


「ただし、相手は恐らくテロ組織。今回の改変に私たちが成功した場合、次にどのような手段に訴えて来るか、分からない」


 最近のテロは手が込んでいた。逆行中のテロは人為結界が形成されるため、再逆行による再改変が必要となり、ハードルがぐんと高くなる。逆行ミッションに向かうクロノスたちを狙った二段構えのテロさえあった。蟹江が殉職した事件のように。


「現場での臨機応変の対応が必要とされます。現在の予定では、本日〇五○○に、逆行を開始します」


 会議室から軽いどよめきが起こった。


「ちょう待ってください、課長。拙速ちゃいますか、なんぼ何でも。もっと調べてみんと……」


「ウチの管轄区域じゃないけど、最近はテロ実行後に、テロリストたちがダミー逆行を繰り返して、結界を作る事例が増えているの。人為結界を幾つも作られた場合、逆行に制限が出る結果、ミッションに失敗した例が、三件も続いている。今回は事態の重大性に鑑みても、とにかく先手を打てという局長の判断よ」


 時が経つほど情報は得られるが、そのぶん、逆行により改変される因果律が増え、アルマゲドンへの抵触が生じる恐れがある。以前はもっと慎重に立案実行したものだが、今はもう、直接的な改変対象が特定できているなら、実行してしまうのが、正解かも知れない。



 魚住が手際よく今後の段取りを説明していく。


①事故発生の約八時間前、午後二時へ逆行。

②過去時警察力の緊急配備。

③現場を見渡せる岡地町駅北口の高層ビルを二十四時間収用して、現地本部を設置。

④鉄道関係者からの事情聴取と協力要請。

⑤原因者の調査及び改変措置の実施。

⑥事後処理


 この六段階ごとに役割分担を確認していく。


「課長、原因者が特定できた場合に、取るべき対抗措置は?」


 魚住に質問する瞬を、砂子はにらみつけた。この殺人鬼はまた、殺すつもりか。


「拘束して、現地本部へ連行。その後、過去時警察に引き渡します」


 時空局は逆行人員を最低限にとどめるかわりに、法律で過去の警察権力を利用できる。昨晩午後の時点の警察関係者を動員するわけだ。「過去時警察」と呼ばれる。


「危急を要する場合は?」

「……現場の判断に、任せます」

「了解」


 瞬の端正な横顔からは、人命を奪う悩みを何も読み取れなかった。

 砂子は燃え盛る嫌悪感を、隣に座る同僚に感じた。


「クロノスの配置だけれど、私は現地本部で指揮を執ります。岡地町駅の一番線のプラットホームに二名、問題の通過列車に二名を配置するのが原案だけど、意見があれば、どうぞ」


 時間士、空間士一名ずつでコンビを組む。ミッション中にテロリストが時空間攻撃を仕かけてくるおそれもあるから、時空のペアで必要な防壁を張る必要があった。妥当な配置といえた。


「では、ホームに犬山補佐と猿橋主査、列車に織機主査と朝香主査というフォーメーションで、行こうと思います」


 今回のミッションでは、ポイント固定が最初の鍵となる。殺人鬼よりは温かみの感じられる猿橋と組みたかったが、経験もある上司の若菜がより重要な役割を担うのは当然だろう。また、微細なSFサイを駆使できる猿橋がポイント操作を担当するのも順当だ。この組み合わせは仕方あるまい。


「時流解釈士による予知結果は?」


 砂子の問いに、魚住が答えた。


「成功確率、六〇パーセント。アルマゲドンへの抵触は、なし」

「でも、課長。順番から言うと、今回のカサンドラ、もしかして枡田(ますだ)さんとちゃうんですか?」


 砂子も、枡田という老時流解釈士の噂は聴いていた。

 経歴と気位だけの六十過ぎの男で、時空局のお荷物の時流解釈士だった。能力が高ければ、軍か研究所に行くから、出来の悪い時流解釈士が内務省に来るのは仕方ないが、まさに当たるも八卦、占いの世界だとの評判だった。まるで「使えない」らしい。


 不思議と預言者は、早死と高齢死に二分される傾向があるが、残念ながら枡田は後者らしく、まだまだ元気らしい。

 まだしも使える時流解釈士は、よく「いないよりマシ」と言われるが、枡田の場合、「いないほうがマシ」と陰口を叩かれていた。


 要はぶっつけ本番、出たとこ勝負のプロジェクトになるわけだ。


「あのひと、いつも六〇パーやないですか? 楽な商売やっとるで、ホンマに」


 猿橋の性格もあるが、公的な会議で批判されても、広報課が黙っているのは、広報課にとってもお荷物だからかも知れない。

 枡田は恐らく、終末回避のための計画「アルマゲドン」との抵触の有無だけを確認するだけで精一杯の小役人に違いなかった。


 実際には、死者が二百人を超えた大事件で、鉄道遅延による影響も加味すれば、十万人超の因果律の変更が「アルマゲドンに抵触しない」と言ってくれただけでも、値打ちがある。


 要するに今回のミッションでは、預言者が役に立たない。現場力だけが物を言うわけだ。


「朝香主査、ご苦労様。いっしょにフォーマルなお仕事をするのは初めてね。若いから、まだ眠いでしょ。コーヒー飲みましょ」


 職場では他人行儀な態度だったが、会議が引けるや、若菜が瞬の片腕を胸の間に挟んで、会議室を出て行った。

 その二人の姿がどうしようもなく不愉快に感じられたのは、砂子が瞬を嫌悪しているためか、あるいは逆に……。


 砂子は休憩室に向かう途中で、足を止めた。自販機スペース若菜の艶(なま)めかしい声がした。聞くとはなく、耳をそばだてた。


「瞬一郎君、さっきはどうして遅れたの? 君らしくないわね」


 自販機がコップを落とす音が聞こえた。


「空間屋には、時間の巻き戻しが、できませんからね」

「その代わり、またたき一つで移動できるじゃないの」


 自販機が出来あがりを知らせる高い音を出した。


「俺は今回のミッションに賭けているんです。命を奪うんじゃなくて、救うって行為をどうしても成功させたいんです。ですから……死んだ俺の昔の仲間たち一人ひとりに成功させてくれって、祈っていたんです。誰かのいる場所じゃ、やりにくいし……考えてみたら結構たくさんいたから、ずいぶん時間がかかって……」


 砂子は足音を立てずに、その場を離れた。



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■用語説明No.22:時流解釈士(預言者)

時流解釈すなわち、未来予知ができる日本の最高の国家資格。

クロノス三士の頂点に位置付けられ、「預言者」と俗称される。

時流解釈能力は、数千万人に一人と言われるほど稀有の能力であるため、適性が認められ、かつ他の時流解釈士により認められた者しか、養成を受けられない。

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