第5章 空中列車

第21話 桜の散る理由



 近ごろの瞬はどうかしていた。

 いつもなら午前中で切り上げられる事務作業を午後まで引きずるのは、仕事に集中できていない端的な証拠だった。


 課は違っても、若菜とは職場で毎日のように会う。瞬はそのたびにドギマギしてしまうが、若菜はふたりの間に何も起こらなかったように澄ました顔で、瞬に上品な笑みを渡すだけだ。瞬は若菜と会っていっしょの時間を過ごしたいと思っていた。


 じらす作戦なのか、単に忙しいだけなのか、二度目のデートについての話はずっとなかった。立場上、瞬から提案すべき事柄なのだろうかとも思った。恋愛経験の差で、瞬などは完全に手玉に取られているのだろう。


 だが今日の昼休み、食堂で若菜、砂子と会い、猿橋も入れて四人でひさしぶりに食事をした。砂子を見ると、やはり好きだと思う。気が多い自分が情けなかった。

 食後、共用スペースでコーヒーを飲んでいると、若菜が優雅に歩いてきた。瞬が求められて耳を寄せると、全身がぞくりとするようなハスキーボイスがした。


「瞬一郎君、明日、デートするわよ。一一〇〇に迎えにきて」

「え? 明日って平日ですよね? 普通に仕事が入ってますけど……」

「幸恵さんにはちゃんと話を通してあるから、半休を取りなさい。いいわね?」

「は、はい……」


 有無を言わせず突然設定された二度目のデートに、瞬は戸惑ったが、内心は喜んでいた。魚住に確認すると若菜の言った通りで、事情は「明日、犬山さんに確認なさい」との話だった。

 午後、仕事に戻っても、まるで仕事が手につかなかった。瞬はいつもなら、ものの三十分で片づけているはずの仕事を、午後いっぱいかけて終えると、机上の書類を片づけ始めた。


 ――だめだ。仕事にならない。今日はこれで帰って、トレーニングで身体を痛めつけてから寝るとしよう。瞬が立ち上がろうとすると、猿橋が背後から現れ、書類を差し出してきた。


「今日は上がりか? その前にほれ。お前がミス連発するなんて、珍しいな」


 企画調査課からの意見照会の回答原案に、一年前のデータを載せていたらしい。


「すまない、サル。気を付ける」

「朝香、最近どうしたんや? ……お前、さては……」


 物めずらしそうに瞬の顔をのぞき込んだ猿橋が、ハハンとわかったような顔をした。


「アネさんの情報、売ったろか?」


 瞬が小さくうなずくと、猿橋は瞬の肩を叩きながら、耳元でささやいた。


「上等な酒持って、今晩、大阪に来いや」


 表情で問う瞬に、猿橋は真面目に答えた。


「寮の五〇五号室や。オレの半径三メートルは法律上、大阪なんやで。オレも二、三本メール打ったら上がりにするし、一時間ほどしたら、来てくれや」


 猿橋は口笛を吹きながら席に戻ると、キーボードに手を置いた。



 一時間の後、瞬は先日の若菜との買い物デートで購入した大吟醸を一升ぶらさげて、約束通り五〇五号室を訪れた。

 意外に整理整頓の行き届いた部屋では、猿橋が鉄板を温めながら待っていた。タコ焼きを作ってくれる様子なのだが、下ごしらえから徹底的に手伝わされた。女性をもてなす場合とは扱いが違うらしい。


「大阪人はみんなタコ焼きができるぅ思とるかも知れんけど、近ごろは意外にでけへん奴が多いんや」

「タコ焼きって、タコが入っていなかったかな?」

「素人はこれやから困るわ。豚肉のほうが美味いに決まっとるやないか」


 猿橋は鮮やかな手つきで球形のB級グルメを完成させていく。得意のSFサイは使っていない模様だ。


「ソースは掛けないんだ?」

「んなもん、掛けるかいな。そんなアホな真似したら、ソースの味しかせえへんがな」


 冷えたビールを片手に、忙しい作業をしながら、大きめのタコ焼きを二人で六〇個ほど食べると、大吟醸のフタを開けた。

 猿橋は若菜と旧知であり、いろいろとよく知っていそうだから、相談相手としては悪くないはずだ。が、忙しなくたこ焼きを作りながらする話でもないだろう。


 やがて本格的な飲酒モードに入ると、瞬から話を切り出した。

 瞬がこれまでの経緯を話すと、猿橋はグラスを片手に難しい顔をして、腕を組んだ。


「お前もついにアネさんの虜になってもうたか。まあ、内務省に入った一定水準以上の男やったら誰でもたどる道やし、しゃあないけどな」

「明日、二度目のデートだって言われたんだけど……あの女(ひと)は深入りするとやっぱり、まずいのかな……」


 猿橋は直接答えず、空にしたグラスを瞬に差し出した。一升瓶から酒を注ぐ。


「なんで、アネさんが『魔性の女』と恐れられてるかと言うとやな。真剣に付き合い始めるやろ。美人やし、男のほうは底なし沼にはまり込むように惚れてまうわけや。でもアネさんの方は、とことん自分を好きにさせときながら、何の未練もなさげにサクッとフってまうねん。ようストーカーに刺されへんもんやで。逆行して回避したはるだけかも知れんけど」


 猿橋は振動を始めた携帯端末を操作すると、指折り何かを数え始めた。


「朝香、おめでとう。お前は予科生時代を含めて、アネさんの獲物になったちょうど一〇八人目の男や。ま、俺もその中に入っとるんやけどな」


 猿橋は以前に一度、若菜が北海道支部に異動になる前、真剣にアタックしようと調査を行っていたらしい。連携している北海道支部の女性から今得た情報で、支部時代に振られた男性の数を加えた結果だという。


「でも話してみて、そんないい加減な人じゃないはずなんだ。マイペースだけど包んでくれるような優しさって言うか、スマートな思いやりがあって……」


 猿橋はグラスを持った手を横に振った。


「分かっとらんのう。せやから魔性やて言われんにゃがな」

「どうして、フるんだろう?」

「理由はわからんけど、フられた連中の話を総合すると、要するに飽きっぽいんかも知れんなぁ」

「じゃあ俺も……いずれ飽きられるわけか……」


 猿橋は同情するように、瞬のグラスに日本酒を注いだ。


「覚悟はしといたほうがええ。もしヤケドしたないんやったら、最初から夢を見いひんちゅう手もある。次のデートで『ええ想い出つくらせていただきました。アネさんは高嶺の花やし釣り合わへんと思いました』ゆうて、断ったらええねん」


 断るとしてもそんな大阪弁ではなかろうが、瞬は近ごろ暇さえあれば若菜について考えている気がする。それは好きだからだとわかっている。引き返すなら今だとわかっているが、引き返すべきなのだろうか。


「……でも……どうも俺はかなり好きになったみたいなんだ……あの人を……」

「ほな、やってみい。今回は可能性があるかも知れへんで。まずお前にはふたつ、追い風が吹いとる」


 顔を上げると、猿橋が勢いよく冷酒グラスを飲み干すところだった。注いでやる。猿橋は右手の親指を立てた。


「ひとつ、この世が終わりかけとるやろ? いくらアネさんかて、いつまでも男遊びばかりでけへんやろ。そろそろ真面目に身を固めるつもりやってこの前言うたはったしな。しゃあない、お前で手を打とうと考えたはるんかも知れん」


 猿橋は親指の次に人差し指を立てた。


「もうひとつ。シビアな話やけどな。実はアネさんにはこれまで結婚の話がいくつもあったんや。家の縁組も含めてな。でも、全部壊れとる。アネさんを手に入れるには、大きな障害があったからや。お前も空間屋やったら知っとるやろ? 史上最強のクロノス、末永了一郎を」


「ああ、若菜さんのお兄さんらしいな。俺の命の恩人だ。俺の教官で、戦友でもあった偉大な人だ」


 猿橋は声を落とし、身を乗り出してきた。


「それや。アネさんは重病のブラコンやってん。冗談抜きでアネサンが本気で恋してる相手は、自分の兄貴やったんや。恋人をいつも兄貴と比べてまうから、途中で恋を投げ出さはんねん。でも、ボギー教官を崇拝しとるお前やったら、アネさんも受け入れやすいかも知れん。それに何より兄貴は亡くならはったしな。オレとしては、アネさんを呪縛から解き放ってあげてほしいんやけど」


 若菜が第五次遠征で失くした「最も大切な人」とは恋人ではなく、ボギーだったわけか。若菜の恋が「実るはずもない恋」だった理由が、実兄に恋してしまったからだったとすれば、腑に落ちる。


「サル、実はこの件に関連してもうひとつ、相談があるんだ……」

「この際、何でもゆうてみいや。オレの本命に手ぇ出さん限り、応援したろ」

「この前、織機さんの部屋で夕食をごちそうになって、飲んだんだ」

「なぁにィ~! あのサコちゃんの部屋に潜入でけたんか? お前?」


 いつも大げさな猿橋だが、どうやら本当に驚いている様子だ。


「その時わかったんだけど、あのひとはやっぱり、俺の恋人じゃなかった」

「当たり前やないか」

「それでも、やっぱり好きだと思った」

「……なんでそうなんねん? お前、アネさんを好きなんとちゃうんか?」


「俺が織機さんに会ったのは、偶然じゃない気がするんだ」

「恋をしとる人間は、誰でもそう宣(のたま)いおるけどな」

「守ってあげたいと思った」

「お前も気が多いやっちゃのう。アネさんの話はどうなんねん?」

「順序が逆なんだ。俺が織機さんを好きなのに、若菜さんが割り込んで来たんだ」


「……聞きにくい話やけど、前の恋人はもう吹っ切ったんかいな」

「織機さんなら、恋をしても、そっくりだから納得してくれそうな気がするんだ」

「そんなもんかいな。でもまあ、亡くなった人への義理立ては、オレもおすすめせんけどな」

「つまり、若菜さんと交際しない理由がもしあるとしたら、織機さんしかいないんだ」


 瞬の正直な気持ちだった。若菜に捨てられて傷つきたくはない。だが、誰かをもっと好きになる以外に、若菜を思い切る方法を思いつかなかった。


「ホンマ、お前って自分勝手なやっちゃのう」

「すまない。どうしたら、いいと思う?」

「そらお前、本人に確かめてみるしかないやろが」


「確かめたんだが、取りつく島がなくてね……。織機さんはいつもTDSを見ているみたいだけど、行ってみたいのかな……。近いし誘ってみたら、付き合ってくれるだろうか――」


「やめとけ。あかん、TDSはやばいで」


 瞬が表情で問うと、猿橋は熟考するように天井を見上げていたが、やがて口を開いた。


「サコちゃんはTDSで記憶を奪われたらしいんや。本人は何も憶えてへんらしいけど、お前もオブリビアスやったら、わかるやろ? あんまり触れられとうない話やろしな」


 瞬は瞠目して猿橋を見た。瞬と同じTDSで虹色の時を迎えたのは、ただの偶然なのか。


「もしかして織機さんはグレープフルーツ・ジュースを好きだったりしないかな?」

「おう、サコちゃんの大好物や。いつやったか、グレープフルーツやったら結婚してもええとまで、言うてたで」


 心臓が激しく鼓動を打ち始めた。やはり織機砂子は……。


「ありがとう、サル。とても参考になった」


 立ち上がった瞬に、猿橋はだらしないかっこうで、ふざけて敬礼を返した。



 瞬は翌朝、約束よりも二〇分以上も早く、若菜が選んでくれたピンクのワイシャツ、こげ茶のテーラード・ジャケットに深緑のスラックスのいでたちで、若菜の寮のロビーに着いた。


 ソファに腰かけながら、思案した。

 昨晩も今朝も、多忙と疲労を理由に、砂子は話を聞いてくれなかった。以前ほど嫌われてはいない様子だが、好かれてもいないらしい。体よくあしらわれた感じだった。


 記憶を奪われる前、瞬は誰かと恋をしていた。相手はわからないが、恋という感情だけは覚えていた。でもそのころの恋人は大災禍で存在を失ったのだと、ずっとあきらめていた。


 だが織機砂子こそが、世界が虹色に包まれたあの時、瞬とともにいた恋人ではなかったのか。砂子を媒介として瞬の出自もわかるのではないか。やはり瞬と砂子は結ばれる宿命にあるのではないか。ふたりの記憶を取り戻せないだろうか。


「ほかの女のことでも考えているのかしら、瞬一郎君?」


 耳元でハスキーボイスがすると、図星を突かれた瞬は驚いて立ち上がった。

 ソファの後ろには若菜がいた。白いシャツに花柄のパンツ、まだ二十歳だと言い張っても通用しそうな若い雰囲気で、まるで別人のようだった。またも若菜の新しい姿を見せつけられた気がして新鮮だった。


「す、すみません、若菜さん」

「さ、今日はお花見に行くわよ」


 瞬は若菜に腕をつかまれ、地階駐車場に向かう。


「何の花……ですか?」

「女といえば、若菜。花といえば、桜に決まっているじゃないの」


 だが四月も下旬に入り、関東地方の桜はことごとく散っているはずだ。


「東北にテレポートするとか?」

「いいえ。場所は吉祥寺の井の頭公園、時空研の近く」


 エレベータが地階に着くと、見るからにハイクラスのスポーツカーが、鈍い照明に黒光りして、瞬を待っていた。


「あたしの自慢のNSX。カッコいいでしょ?」


 シャープで車高の低い車体は、優雅な若菜に似合っている。車内は、漆黒とインカローズの色に統一されている。

 瞬は促されて助手席に乗った。


 若菜が運転席に座り、シフトレバーをつかんで発進させる姿も、そのために何百回か練習したようにスマートだった。若菜なら涼しい顔をして、片手ハンドルで時速一六〇キロくらい出しそうに見えた。


「予科生時代、第二兵学校だったんで、吉祥寺は詳しいほうですけど、桜はもう散ってますよ」

「あたしがいるのよ。逆行すれば桜があるわ」


 若菜の話では昨日、オリオンとの関係が懸念されているテロリスト、≪クロノスP≫の新しい目撃情報が得られたらしく、対策本部から緊急調査指示が出たらしい。


「研究所の近くでクロノスPは何をしていたのかしらね。時空研を襲うつもりなのか、それとも時空研がソイツを使っているのか」


 本来の逆行は面倒な正式申請をすべきだが、それでは調査記録が残る。今次ミッションの隠された目的はクロノスPと国立時空間研究所との関わりの調査であり、秘密裏に逆行する必要があった。


 そこで局長権限で、極秘裏の逆行ミッションを組む話になった。事後的に逆行管理データの書き換えも行う。ゆえに逆行人数も最低単位で、バックアップなしの二名とし、花見をしそびれた交際中の恋人がプライベートで逆行する形をとったわけだ。内務省時空局の幹部内では、瞬と若菜はすっかり恋愛関係にあると理解されているのだろうか。


「いいこと、瞬一郎君。目標には絶対に手を出しちゃだめよ」


 局長権限といっても、無許可逆行を≪体制≫にわからないようにもみ消すだけだ。露見した場合、実行犯である二人を局長が守ってくれる保証もなかった。


「ちょっと意外ですね。若菜さんがそこまで職務熱心になるなんて」

「あら、失礼ね。あたしだってクロノスのはしくれよ。もし終末を回避できるなら、それに越したことはないもの。女としての幸せも長く味わえるわけだしね」


 今回のミッションは二つ。

 まずクロノスPの実在と身体的特徴などを確認するために、その姿を現認し、録画する。クロノスPはエンハンサーを保持しているはずだから、運転席と助手席のすき間に挟んである四リットルの焼酎ペットボトル型の黒い波動測定装置を使えば、エンハンサー内の輝石反応が得られる。


 次に、クロノスPと時空研との関係を調べる。時空研への物理的な出入りをつかめればベストだが、テレポートを使う可能性もあるから、簡単ではなかろう。


「目標が現れるのは、日が暮れてから。それまではあたしたちのデートの時間よ」


 時空研は井の頭公園から数キロメートル離れた場所にある。◆若菜は公園の南にあるひと気のない公園のわきにNSXを停車させた。時空研から公園に向かう場合に通るであろう道路を見渡せる道として、若菜が事前に選んでいた。


「二週間も戻るにはけっこうサイを使うのよね。ハードなデートになりそうだけど、しかたないか」


 若菜は運転中もウォーミング・アップをしていたのだろう、ものの数分でNSXはインカローズの光に包まれた。

 動作光がフェードアウトしていく。


 ふたりは四月四日に戻ったらしい。


 若菜の指示に従い、トランクからシート、クーラー、菓子などを取り出して背負った。瞬の話ではトランクのあるスポーツカーは珍しいそうだが、瞬は詳しくない。


 腕を組んで公園を目指した。若菜と歩くのはまだ二回目だが、左隣を若菜が歩くときに、二の腕に柔らかい胸が触れていないと、瞬はひどく物足りない気がした。若菜中毒になりつつあるらしい。

 歩くほどに満開の桜が見え、人も増えてきた。


 平日の昼下がりだ。ふたりぶんのスペースはすぐに見つかった。若菜の指示通りにシートを敷き、花見の態勢に入る。

 さっそく缶ビールで乾杯して飲み干す。若菜の指示で、クーラーボックスからよく冷えた一升瓶を抜き出した。


「とっておきの一本。あたし、精米歩合四〇パーセント未満しか飲まないから」


 冷えたグラスで乾杯する。ふたりは異口同音で見知らぬ杜氏に讃辞を送った。とことん透き通った水晶を飲んでいるようだ。


「今日は本気で飲めませんね」

「でも、まだ夜まで時間があるわ。万一君がつぶれても、あたしは酒豪だから問題ないわよ。戦闘が起こるわけでもないですしね」


 若菜はザルではなくて、ワクと呼ばれているらしい。一晩で二升は軽いそうだ。若菜の身体はどうなっているのかと視線を送るが、今日はミッションのためか露出部分が少ない。


 若菜は高級スーパーのトートバッグからランチバッグを取り出す。中にはパステルカラーの小分け容器が十個以上現れた。指示される前に、瞬はふたを開けていく。


「今朝、作ってきたのよ。召し上がれ」


 サーモン・マリネ、ぶり大根、いわしのなめろう、たこキムチ……今から居酒屋でも開けそうなほど豪勢なメニューがそろっている。隣のカップルが食べているソーセージを焼き切ったキュウリを串で刺しただけなどの手抜き料理は一つも存在しない。


「すごい。朝、起きるのが遅くて、腹減ってたんです。遠慮なくいただきます」


 若菜と結ばれれば、毎日のように豪華な食事を楽しめるのかも知れない。残された二年間を、愛し愛されながら悦楽のまま駆け抜けて、生を終える。そういう道もあるのだろうか。

 評価を待つように見る若菜を瞬は正視できず、次の料理に視線を移す。


「プロみたいにおいしいです」

「当り前よ。あたし、女のプロだから」


 女としての魅力をすべてMAXに高めようとしているかのようだった。

 取り箸はない。手の込んだ少量のつまみを酒と花を楽しみながら、ふたりで平らげていく。


「でも、よかった。君はちゃんと味わってくれているみたいで。あたしが腕を振るった料理でも、兄はジャンクフードと同列にしか見ていなかったから」

「ボギー教官は女よりジャンクが好きだって言ってましたもんね……」


 もしかするとボギーは実妹を女として愛せなかったために、女よりジャンクフードを愛したのかも知れないと瞬は思った。恋多き兄妹となったのも、互いを異性として愛せなかったせいだろうか。


 食べ終えると、飲酒モードに入った。

 大吟醸を味わいながら、イカげそ、ジャーキー、チーズをつまむ。若菜に変化は見られないが、瞬のほうは酒が回ってきたようだ。


「瞬一郎君。あたしのひざまくら、どうぞ」


 瞬はあぐらだったが、若菜は茶席にいるように正座で背筋を伸ばしている。

 酔いも手伝って、瞬は若菜の膝に頭を乗せた。あいにく今日はズボンのため直接の接触はないが、若菜のほの甘い蜂蜜のような匂いとぬくもりが心地よかった。

 若菜が瞬を見下ろし、瞬の髪をそっと撫でてくれる。若菜のほほ笑みの背景には、満開の桜とその向こうに青空があった。


「最高の食事に、最高の花、最高の酒……」

「そして、最高の女」

「あ、はい……そうですね」


 幸せとはこのような状態を指すに違いないが、心の隅で寂しく思うのは、戦役で亡くした恋人を思うせいか、それとも彼女と酷似する砂子に未練があるせいか。


 若菜は頭上の桜花を見上げている。何を見ているのだろうか。

 死んだ兄の面影か、過去の恋人たちか、それとも残された未来か……。


 若菜は酒豪に違いないが、ふだんよりペースを落としていた。この後のミッションに配慮しているからだろう。気にしている素振りひとつ見せはしないが。この先輩の女クロノスはただの時間操作士ではない。若菜もまたクロノスとしての使命感を強く持っているに違いなかった。


 一陣の風に、桜花がいっせいに枝を離れて舞い降りていく。若菜は右手を差し出した。


「若菜さん。桜は散るために咲くのでしょうか? 咲いたから散るのでしょうか?」

「どちらでもないわ」


 若菜は花吹雪に手をかざしたまま、続けた。


「桜は咲きたいから咲き、散りたいから散るのよ。人生と同じね」


 天真爛漫な若菜らしい答えだと瞬は思った。

 だが瞬は、こう考えていた。桜は美しく散るために咲く。でもただ散るだけではない。また咲くために、散るのだ、と。


「でも、いろんな桜があっていいと思う。世の中にいろんな恋があるように……」


 若菜はほかに可能性がないかのように物事を決めつけて、気持ちいいほどに断言する。だがそれでいて、他の考えを否定するわけでもなく、尊重する度量を余裕たっぷりに持っている。中身も大人の女だと思った。


 若菜はようやく受け止めたらしい花びらを二枚つまむと、手にしたグラスの大吟醸に浮かべた。少女のようなところもある。瞬は若菜を好きだと思った。


「瞬一郎君、飲む?」


 若菜は、「はい」と答えて起き上がろうとする瞬の肩を手で押さえた。


「そのままでいいわ。飲ませてあげるから」


 若菜はグラスの大吟醸を口に含むと、膝のうえの瞬に顔を近づけてきた。若菜の長髪が黒い帳を作り、ふたりの顔だけがある空間を作った。

 しっとり湿った若菜の唇が瞬の唇を押し開ける。口移しにまだ冷たい酒が注ぎこまれる。最後に若菜の舌が花弁らしき個体を瞬の口の中に差し入れてきた。



 ひどいのどの渇きを感じた。


「お目覚め?」


 瞬の真上には若菜の笑顔があった。桜花の上の空はすでに色づいている。ずっと眠っていたらしい。

 瞬は慌てて身を起こした。


「す、すみません。ずっとひざまくらで……」


 若菜が「どうぞ」と差し出してくるグラスの水を飲み干す。ありがたい。


「ふつうの女なら足が痺れてギブアップしているでしょうけどね。あたしはだいじょうぶなの」

「どうしてですか?」


「女は正座がいちばん美しいから、特訓したの。正座はそもそも、いちばん長く座れる究極の座法なのよ。左右にいつも体重を移し変えながら座れば、痺れないの。慣れるまでは大変だけどね。でもおしっこをガマンするのは大変だったわよ。いっしょに行こっか?」


 赤面する瞬を置いて、若菜はすっと立ち上がった。


「あら、誤解してるの? そうね、個室でいっしょにしてもいいかもね……冗談よ」


 行列に並んで用を済ませて戻ると、撤収作業を開始する。すでに日はずいぶん傾いていて、夜は近い。

 NSXのトランクに荷物を戻すと、座席に座った。

 若菜にならって、座席を最大にリクライニングさせる。


「瞬一郎君、酔いはまだ残ってる?」

「はい、少し」


 若菜は身を起こすと、瞬の顔にインカローズ色に光る手を差し出してきた。若菜の手入れの行き届いた手のひらにキスをする形になった。香水だろうか、上質な石けんのように上品な匂いだ。

 瞬の全身が光に包まれていく。くすぐられるような、かゆいところをかいてもらっているような快感を伴う動作光だ。

 ヒーリング・サイの一種なのだろう。酔いが消えていく。


「楽になった?」


 瞬が礼を言ったとき、波動測定装置からピピッ、ピピッと電子音がした。小さなディスプレイが起動し、白い画面が浮き出ている。若菜がボリュームをひねって音を消した。


「ガロア反応。テレポートしてきたようね」

「輝石反応の分析結果が出てきます 」

「これって……距離は五〇〇メートルなのに……一〇〇コペルニクスを超えているっていうの?」


 若菜が珍しく驚きの声を上げた。

 無理もない。

 一グラムの輝石について、一メートル離れた地点で測定される標準波動が一コペルニクスと定義されている。輝石の発見者であり、エンハンサーの発明者である故織機博士が時空間概念のコペルニクス的に転換させるとの意図を込めてつけた計量単位名らしい。


 若菜と瞬の輝石を合わせても二グラム程度の輝石であり、すぐそばで測定されても二コペルニクスを超える程度だ。コペルニクスは距離の二乗に反比例するが、五〇〇メートルを離れた場所で、一〇〇コペルニクスを超えるなら、gでなくkgベースの輝石を使用していることになる。


 レアアースの帝王である輝石の相場はおよそ金の二十倍をくだらないといわれる。高額なだけでない。それだけの輝石を使えばどれだけの時空間操作が可能となるだろうか。そもそも人間にかくも多量な輝石を使えるはずがない。瞬でさえ一グラムの輝石の潜在可能性の一部しか使えていないのだから。


「故障……ですよね……」

「だといいんだけどね……」


 若菜は「よし」と気合を入れると、瞬を見た。


「瞬一郎君、服を脱ぎなさい。上半身だけでいいから」

「え? どうしてですか?」


「カムフラージュよ。車の中でじっと通りを探っていたら、いかにも怪しいじゃない。車の中でイケナイことをしようとしているカップルだと思わせれば、いくらでもごまかせるでしょ? 急いで」


 瞬がシャツと下着を脱ぐと、若菜が助手席にやって来て、瞬の上に身体をかぶせてきた。さらに若菜は瞬の手を取り、自分の胸に当てた。


「次はあたしの服を脱がせて。早く」


 指示の通り、若菜の白いシャツのボタンをはずしていく。

 ピンク色のブラジャーが現れた。インカローズのペンダントと色を合わせてある。瞬がブラジャーのストラップに手をやると、若菜がいたずらっぽく笑った。


「これも取りたいでしょ? でも、こんな場所じゃ、いやよ。ここから先は三度目のデートで返事を聞いてからね」


 瞬は身体を預けてきた若菜を受け止める。

 蜂蜜のような若菜の身体の匂いが好きだと思った。

 瞬がおそるおそるむっちりした身体を抱きしめると、耳元に若菜の甘い吐息がかかった。


 上にいる若菜には社外の様子が見えるが、瞬には角度的に若菜しか見えない。

 若菜はハンドバッグから単眼鏡を取り出すと、品を作りながら瞬に注意してきた。


「これで録画するけれど、音も入るから、変な声、出させないでね」



 犬山若菜は下にいる瞬に体重を預けながら、NSXのリアガラスから外の様子を慎重に見ていた。若菜の心は震えていた。

 目標は三〇〇メートル以内に接近しているが、すでに波動測定装置は九九九コペルニクスの計量限界を振り切れていた。


 魚住の注意もあって瞬には伝えていないが、今回の目標、クロノスPはパイロキネシスの使い手で、第五次遠征で軍の正規兵を焼殺したクロノスだと魚住は見ていた。若菜は瞬を傷つけまいと尋ねていないが、遠征の敗因は敵方にいた二人のクロノスに依ると、戦役から戻った朝香瞬一郎は報告していた。うち一人が炎を操る長身の男だった。むろん瞬が虹色の戦場をすべて把握していたわけでもなかろうが、瞬以外にただ一人生き残った時間記録士の記録とも諸数値が合致していた。


 魚住によれば、このクロノスこそ異神降臨に先立って遣わされる天兵マーズだ。若菜にとってもマーズは兄である末永了一郎の仇でもあった。若菜は自制できる自信があった。だが瞬は、一年も復讐のために放浪していた男だ。仇と知れば、何をしでかすかわからなかった。勝てれば、いい。だが、今の瞬にはまだ勝てまい。若菜は、マーズの姿を瞬に見せまいと決めていた。


「若菜さんの見立て通り、この道を通りそうですね。どんな奴でしょうね」


 NSXのシートはあまり倒れないが、最大にリクライニングさせた助手席であおむけになり、下着姿の若菜に押さえつけている瞬には波動測定機器くらいしか見えない。


 単眼鏡ごしに人影が見えた。目から外した単眼鏡をシートの肩に挟んで撮影を開始する。


「お出ましなすったわね」


 異様に長身の痩せた男がゆっくりと歩いてきた。目撃情報の通り、少女の乗る車いすを押していた。見た目には病気の少女とその世話をしている父親にしか見えない。


 瞬も見ようと思ったのだろう、身体を動かした。

 だが、若菜は身体をずらし、胸で瞬の顔を押さえつけた。


 ゆっくりと通り過ぎる車いすには髪の長い美しい顔立ちの少女が乗っていた。男と少女は同時にちらりと車の中を見たが、若菜のあらわな肌が見えたのだろう、予想通りすぐに目をそらした。ただの発情期のカップルだと思ったろう。


 間違いない、天兵マーズだ。


 今、マーズは無防備に身体をさらしている。


 若菜は空間操作士とも互角に渡り合える攻撃型の時間操作士だ。空間士が例えば敵の心臓を異なる空間にテレポートさせれば命を絶てるように、時間士も心臓を例えば数分後に移動させれば、命を奪える。


 若菜が「時流」と呼ばれる時間操作線で男の心臓を貫けば、殺せるはずだ。背後から時流で撃ち、マーズをここで始末できないか。

 若菜は一瞬、迷いを覚えたが、波動測定装置の示す「九九九」のデジタル数値を見て、思いとどまった。端的に言えば、底知れない恐怖に襲われた。


 若菜が身体を起こすと、圧迫から解放された瞬が、大きく息を吸った。


「最高の気分だったでしょ?」

「ええ、まあ……それはもう……」

「じゃあ、しばらくあたしを抱きしめていて」


 瞬がおずおずと抱きしめてくれた。

 極度の緊張から解放された若菜の身体が震え始めていた。本能が恐怖を感じ取ったに違いない。


「帰りましょっか」

「え? でも、時空研との関係は?」

「テレポートを使っているから、尻尾はつかめそうにないわ」


 NSXごとインカローズの光に包むと、逆行した四月下旬の夜に戻った。逆行中の時間を経過させて還行すると肉体への影響が少なく、逆行による未適応症の危険性も抑えられるためだ。それに、昼間から今のふたりの状態を見せるのはうまくないだろう。だが、サイ発動のせいか、疲労が若菜を襲った。


「このまま、あたしを抱きしめていて……なんか、疲れたの……」


 若菜はそのまま沼に沈み込むような眠気に身をゆだねた。



 若菜は男の腕の中で目を覚ました。

 顔を上げると、若菜の目の前に瞬の優しげな瞳があった。


「ごめん、ずいぶん寝ちゃったかな……」

「三時間ほどですね」


 母の胎内にいるように安らかに眠ることができた。睡眠薬なしで眠れたのは、何年ぶりだろう。


「ずっと、こうしてくれていたの?」

「俺はいくらでもウェルカムですけどね」

「あたし、うなされてなかった?」

「いいえ。よくおやすみでしたよ」


 無防備な寝顔を見られたのは悔しい気がするはずなのに、瞬に対しては何とも思わなかった。今度の恋は、本物なのだろうか……。


「そう……」


 若菜は波動測定装置に目をやった。思わず身震いをした。


「どうしたんですか? 若菜さん?」

「……あたし……怖い……」


 瞬の優しい問いかけに、若菜は思わず正直に答えていた。なぜだろう、若菜が兄以外の人間に弱さを見せたのは、これが初めてではないか。


「安心してください、若菜さん。命に代えても、俺が必ずあなたを守ってみせます」


 若菜は瞬の顔を両手で包み、間近に顔を近づけて瞳を見つめた。


「君はあたしを守るためなら、死ねるっていうの?」

「死ねます」

「どうして?」


 若菜はこれまで、恋人のために死ねると思ったことなど一度もなかった。弱い男のために、守られるべき女がなぜ死なねばならないのか。死ねばそれで終わりではないか 。

 瞬は目の前で真っ赤になりながら、答えた。


「俺は若菜さんが好きです。ますます好きになっていく。実は今日、どこか若菜さんの嫌なところを探そうと思ったんですけど、ひとつも見つからなかった。完敗です」


 明らかにこの素直で純粋な青年は、若菜に恋をしている。

 朝香瞬は、面食いの若菜の要求水準を最高レベルでクリアーしているだけではない。若菜が敬愛してやまなかった兄の弟子であり、兄を慕っていた若者だ。軍でも七星陣のひとりに選ばれ、若菜の好む強い男だ。瞬の優しさとひたむきさになら、若菜の弱さをさらけだし、守ってもらいたいと思えるのではないか。


 若菜はいくつもの恋に失敗をしてきたが、この若者となら、本当の恋ができるのではないか。


「じゃあ、三回目のデートは要らない? もうあたしに降参?」

「すみません……その前にひとつ確認しておきたいことがあるんです」


 猿橋の話では、死んだ恋人に酷似しているという理由で、出会うなり砂子を口説いたらしい。砂子の気持ちを確認したいのかも知れない。


「どうぞ。あたしは逃げも隠れもしない。でも、君は必ずあたしのものにしてみせる」


 天兵と戦えば、瞬はいずれ死ぬのではないか。例えば若菜を守るために。これまでは半ば冗談だったが、どうせ世界が滅びるなら、本当にふたりで現実から逃避したらどうだろうかとさえ思った 。


 若菜は瞬の上で白いシャツを着ると運転席に戻った。

 シフトレバーをつかむ手がまだ少し震えている。肝の据わっている若菜が、相手のクロノスにこれほどの恐怖を感じたのは初めてだった。あるいは本物の恋を天兵に奪われると恐れたためか。


 魚住によれば、車いすの少女は時空研秘蔵の預言者で、瞬とも因縁があるらしい。やはり天兵は昴ではなく、時空研とつながりがあった。

 測定上限値の一〇〇〇コペルニクスを優に超える膨大な量の輝石を持つクロノス 。大量の輝石をただ持っているだけならいい。だが、もしも使いこなせるとすれば、お手上げだ。天兵を破るにはそれこそ一〇〇万ガロアの防壁が必要になるだろう。


「若菜さん、テレポートで戻れますけど」

「それじゃ味気ないでしょ? せっかくのデートなんだから、ナイト・シティを滑走するのよ」

 若菜はギアをNに入れると、クラッチを踏み、エンジンをかけた。



    †

 織機砂子が静まり返ったオフィスを後にすると、背後でオートロックの音がした。

 終電がないぶん、残業は際限がないともいえた。すでに午前零時を回っているが、今日も砂子が最後だった。

 仕事がはかどらない理由は、疲れがたまっているからというより、心の奥底に引っ掛かりがあるせいではないか。


 砂子は、フロアの大窓に身を寄せてTDSの方角を眺めた。すでに灯りは消えているが、月明かりにほの暗くアトラクションが見えた。


 砂子は降りて行くエレベータの窓から、高く上った満月を見あげた。


 若菜の話では、瞬との交際がうまく行っているらしい。今日は二度目のデートだと言って仕事を砂子に任せて休みを取っていた。瞬のほうも若菜にはぞっこんらしく、若菜に会うたびに赤くなっている様子は可哀想なくらいだった。輝いて見える若菜に嫉妬さえ感じていた。


 人違いとはいえ瞬は、初対面で辟易するほどの勢いで砂子に言い寄ってきた。その瞬が急速に若菜に接近していくと、身勝手なもので、奪われたような気がして、惜しいとも思った。


 猿橋は瞬を女たらしだというが、そうではなさそうだ。最初のミッションで少女と抱き合っていたのも、体調不良の少女の身体を温めてやるためだと分かっていた。わざわざ救助を待つ間に劣情で及んだ行為とは思えない。


「今日も遅くまでお疲れ様です」


 本庁舎を後にし、守衛のおじさんに敬礼を返すと、砂子は外の冷気を思いきり吸った。

 寮のロビーに入ると、照明の落ちた暗がりに人影が見えた。瞬だった。眠っている。


「朝香君、こんな所で寝て、何やっているの? 起きなさいよ」


 びっくりして目を覚ました瞬が慌てて、立ちあがった。若菜が選んだらしい上品なテーラード・ジャケットを着ている。


「ありがとう。酔い覚ましに散歩して戻ったら、月がきれいでね。見ていたら、そのまま眠ってしまったみたいだ」

「優雅なご身分ねぇ」


 ロビーで寝込む理由としては腑に落ちなかったが、砂子は気にせずエレベータに向かった。瞬が隣に来た。


「空間屋さんがエレベータを使うなんて、意外と律儀なのね」

「酔って使うと失敗する時もあるからね」

「それにしても、独身の男女を隣同士の部屋にするなんて、全くウチの会社も、どうかしてるわよね」


 別に言わなくていい話だった。どうして今日はこんなに饒舌なのだろう。沈黙を怖れるように話しかける砂子は、自分が不思議だった。いや、理由は分かっていた。

 偶然であるはずがない。瞬はロビーで砂子を待っていたに違いない。砂子は瞬に告白されるのが怖いのだ。だから、しゃべっている。


「朝香君、隔てる物が壁ひとつしかないからって、入って来ないでよね」


 空間操作士にとって、壁一枚挟んだテレポートくらい、兵学校中等部のカイロスでもできるだろう。もともとクロノスの超能力をもってすれば、多くの完全犯罪が可能になるだろう。だが、クロノスとしての高い職業倫理に委ねられているわけだ。


 エレベータが十三階に到達するまで、あと三フロアだ。しゃべり続けていれば、すぐに着いてしまうはずだ。


「聞いたわよ、朝香君。若菜先輩とうまく行っているそうじゃないの。今日もデートだったんでしょ? あなたの女好きにはお手上げね」

「君に誤解される理由は十分にあると思うから、反論はしないよ。実際、若菜さんはとても素敵な女性だ。それも間違いない」

「ごちそうさま。まあ、若菜先輩は女子も含めてみんなの憧れだったんだから。お似合いだと思うよ。よかったね。そろそろふたりとも年貢を納め合いなさいな」


 目的階に着くと、エレベータの扉が開いた。

 瞬は必ず女性を先に下ろす。砂子が先に下りた。

 このまま部屋の前まで歩いて行けばいい。それで全部、終わるはずだ。


「待って、織機さん。話があるんだ。本当は君をロビーで待っていたんだ。君はどうやら部屋に入れてくれないってわかったから」


 砂子は足を止め、背中で聞いた。振り返らない。顔を見られたら、揺れる本心を気づかれてしまう気がした。


「織機さん、桜は散るために咲くのかな? それとも咲いたから散るのかな?」

「はぁ?」


 ふだんのようにへたくそな笑いを取る気のようにも思えない。むしろ必死さの混じった口調だった。だが、桜が散って久しい四月下旬に、時機を失した問いをするために、瞬は砂子を待っていたわけでもあるまい。


 砂子が振り返ると、瞬の思いつめたような表情があった。冗談ではないらしい。問いじたいは、砂子も桜を見るとき、時おり考えていた疑問だった。


「わたしは、桜は、美しく散るために咲くんだと思う。でもただ散るだけじゃない。また咲くために、散るのよ」


 瞬はハッとしたような表情になった。


「……不思議だね。僕もそう思っていたんだ。いや、不思議じゃない気がする。君と僕が同じ考えなのはむしろ自然かも知れない。でも、咲きたいから咲く、散りたいから散る桜があってもいいと、今日、気づいたんだ」


 意味不明だ。しかもなぜ今日思ったのかは知らないが、突っ込みは入れなかった。しごくまじめに語る瞬の姿はこっけいというより、気の毒な気さえした。


「……それで?」

「実は若菜さんと交際するかどうか迷っているんだ。交際したら、そのままあの人を本気で愛してしまう予感がするんだ」


 訴えかけるような瞬の視線に耐え切れず、砂子はとりあえず瞬に背を向けた。


「何で、そんな話を私にするわけ? まったく関係ないじゃない? わたしたち、ただの隣人でしょ?」

「悪いけど、あるんだ。君が僕の恋人になってくれる可能性が〇・一パーセントでもあるのなら、僕は君を選ぶつもりだから」


 砂子はふり返るかわりに、空に浮かぶ満月を斜め上に見た。


「昔の恋人に似てるからって理由で好きになられたんじゃ、かなわないわ。わたしはわたしなんだから」

「分かってるさ。亡くなった僕の恋人はキノコが大の苦手でね。食事に出ると決まってキノコをえり分けていたんだ。だからこの前、キノコを美味しそうに食べる君の姿を見て、わかった。当たり前だけど、君はやっぱり君なんだって」


 瞬に口説かれるのがいやなら、立ち去って部屋に入ればいい。なのに、なぜ砂子は足を踏み出そうとしないのか。

 まさか砂子は瞬に恋しているのだろうか。いや、ただ、自分のものにできるのに人に奪われることが不愉快なだけだ。失うことが惜しい、離れていくのが寂しいと思っているだけだ。だが、好きでもないのにキープして、先輩の上司の恋を邪魔するわけにはいかない。


「ねえ、織機さん。とりあえず次の休み、TDSに付き合ってくれないかな?」

「どうしてあなたとプライベートを共有する必要があるの? しかもどうしてTDS? 近いから?」

「君とともに行けば、何かを思い出すかも知れない」

「は? どういう意味?」


「虹色の時、君はTDSで記憶をなくした。グレープフルーツが大好物だとも聞いた。君こそが十年前のクリスマス・イブに、僕といっしょにいた恋人だと思うんだ。記憶が消されても、僕は君を心で憶えていた。だから僕は、君にそっくりの女性に恋をしたんだ」


 もしかしたら瞬の言う通りなのかも知れない。


「でも……仮にそうだとして、それが何だっていうの?」

「大災禍でむりやり凍結させられた恋だ。もういちど、再開できないかな?」


 だいたい砂子には恋人などいなくても構わない。これまでもずっとそうだったから。煩わしいだけだ。放っておいても世界は終わる。


「カビの生えた恋なんて、再開しなくていいんじゃない? ……わたし、恋人、いらないから……」

「話はサルから聞いている。待つよ。君の病気が治るまで、ずっと……」

「終末まであと二年よ。もっと確実な恋をなさいな。時間切れになるわよ」

「それでも構わない。僕がこれ以上、若菜さんに近づけば、もう別れられなくなるんだ」


「それでいいんじゃないかしら。安心して。わたしがあなたと恋をする可能性はマイナス一万パーセント。金輪際、ないわ」

「うそだ!“君はうそをついている!」


 瞬が砂子の両肩を後ろから乱暴につかんだ。


 身体が動かなくなった。サイコキネシスで拘束されている。砂子の身体が宙を浮いて、瞬のほうを向いた。


「朝香君、何の……つもり……?」


 顔だけは拘束されていない。口も動いた。


「ごめん、織機さん……僕は本気なんだ」

「この前、部屋に入れてあげて、夕食をごちそうしたからって、勘違いしないでよね。あなたとは、仕事以外のお付き合いをするつもりはないんだから」


 瞬が砂子の動かない身体を抱き締めてきた。瞬の心臓の鼓動を感じ合った。砂子の鼓動も伝わっているだろう。

 瞬がゆっくりと顔を近づけてきた。たがいの息が混じり合う。なのに、嫌だと思わない自分が不思議でたまらなかった。


「大嫌いではなくなったけど、あなたを好きだって言った覚えは一度もないわ」

「織機さん、本当にごめん……」


 顔を背けることはできた。嫌なら顔を横に向ければいい。そうすれば瞬は、あきらめるに違いない。だが、砂子は自分の気持ちがわからなくなっていた。


 だから砂子は眼をつむった。それが砂子のできる精いっぱいだった。


「いいわ。キスをして気が済むのなら、やってみなさい。監視カメラに映っているでしょうけれど、セクハラで訴えたりしないから。これでもう、二度とわたしに付きまとわないって誓うのなら」


 強がって男を拒否するのは、病気のせいだ。言葉とは裏腹に、砂子はむしろキスを望んでさえいる気がした。砂子の動悸がどうしようもなく高まっていく。


 瞬の息が唇にかかった。

 瞬の温もりが唇の数ミリほど先にあるようだった。


 だが、しばらくして温もりは消えた。

 眼を開けると、瞬は身を引いていた。

 発動光が消え、拘束も解かれている。


「ごめん、織機さん。俺はどうかしていたみたいだ」


 砂子の目からどうしようもなく涙があふれ出てきた。


「バカ!」


 砂子の涙に、瞬は驚いた顔をして、砂子に謝り続けた。


「あなた、何も分かってないのね!」


 砂子は瞬のほおを思いきりはり倒した。きびすを返して自室の前まで駆けた。ハンドバッグからカードを抜きだす。あふれ出て来た涙で、視界がゆがんだ。


 ひどく落胆をした理由は、砂子が本当は瞬にキスされたかったからに違いなかった。涙が出てしかたないのは、心にもない言葉ばかり並べて、また恋愛から逃げだした自分が情けなくかったせいだろうか。


 砂子はすばやくドアを開けると、中に逃げ込んだ。


 瞬は通路に立ち尽くしたまま追ってこず、チャイムを鳴らしもしなかった。



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■用語説明No.21:輝石

大規模隆起を繰り返した、小笠原諸島西ノ島の古代地層から発見された稀少鉱物。古代に落下した隕石に由来すると考えられている。見た目は、虹色をしたレインボー水晶に似ているが、性質はそれまで地球で発見されていた、いかなる物質とも異なっている。エンハンサーの核であり、時空操作を可能とする「奇跡」に因んで、故織機幾久夫 博士により、命名された。

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