第20話 退屈そうなダイオウイカ



 朝香瞬はいざ出かける段になって気づいた。

 瞬は今、第二課の制服、トレーニングウェアとゆったりしすぎた部屋着以外には、昔のカーキ色の軍服くらいしか持っていなかった。


 いや、今日は課長補佐である犬山若菜の誘いで、日用品の買い出しに出かけるだけだ。めかし込むとかえって変に気を回させるだろう。放浪中は軍服ばかり着ていた。着慣れた軍服がいちばん無難ではないか。


 自分なりに理屈をつけると、瞬は軍服姿で部屋の外へ出た。

 となりの砂子の部屋の扉をちらりと見てから、エレベータへ向かう。


 適度な湿り気を帯びた海風が瞬のほおを撫でた。


 四月半ばを迎えても、瞬の部屋には、喫緊にどうしても必要な物品――つまり酒類とジャンクフード類――を除き、まだろくに身の回りの品が揃っていなかった。職務が異常に多忙な二課の若菜も同じような状況らしい。


 「新浦安買出し計画」の待ち合わせ場所は、若菜の高級寮一階のロビーだった。


 待ち合わせ時間を五分ほど遅れ、若菜は真紅のワンピース姿で寮の一階ロビーに現れた。ベテランのファッション・モデルのように優雅な足取りで、瞬に向かって歩いてくる。ハイヒールの音がコツコツとフロアに響く。


 瞬は立ち上がると、さっと頭を下げた。軍人くずれにしては、瞬の上官に対する態度はそれほど丁寧ではないが、今日は軍服を着ているせいか、若菜のかもし出す威厳のせいか、背筋が自然に伸びていた。


「おはようございます、課長補佐」

「お待たせ、瞬一郎君」


 だが、瞬の姿を見るなり、若菜は腹を抱えて笑い出した。

 一、二分待ってみたが、しばらく収まりそうにない。


「もしかして、俺の身なりの件でしょうか……? ほかに何も持ってなかったので、今日、揃えようと……」


 若菜は何とか笑いを押さえようとしながら、とぎれとぎれに答えた。


「君、実にすてきよ。初デートに、軍服なんて……」

「……デートって言うか、今日のミッションは買い出しですよね……?」


 ふだんは悪女のようなふたぶてしいまでの落ち着きが恐ろしいほどの若菜だが、彼女が少女のように笑う姿は新鮮だった。


「君、子どもなの? 肉体年齢二十代の男女が二人っきりで、プライベートの時間を共有することを、世間ではデートって呼んでいるのよ。今日はその記念すべき一回目。何か文句、ある? 」

「……いえ」


 ようやく笑いが収まった様子の若菜は、白いハンカチで涙をぬぐった。


「ああ、おかしかった。出だしからここまであたしを愉快な気持ちにさせてくれた子は、君が初めてよ。期待できそうね。さ、行きましょっか?」


 若菜は瞬の左腕を両手でつかむと、豊かな胸を押しつけてきた。ふくよかな弾力に瞬はどぎまぎいする。


「課長補佐は、新浦安をよくご存知なんですか?」


 新浦安の街は、東京湾沖の浮上要塞にある。内務省が第四軍に匹敵する権力を持っていたころに作られた施設だ。ちなみに空間操作技術は、海洋浮上施設の設置を容易としていた。


「初任地だったからね。ショッピング・モールはひとつなんだけど、甘く見ちゃだめよ。中で迷子になるくらいだだっ広いから」


 玄関に向かおうとする瞬を、若菜が引き止めた。すっと差し出された携帯画面を受け取って、見た。


「現在地からの距離は、画面にある通り。歩けば二〇分ほどだけれど……」


 若菜は瞬の身体を正面から抱き締めてきた。柔らかく形のよい胸が瞬の身体の前面に容赦なく当たって形を崩した。遠慮会釈のない若菜のUネックは、あらわな肌にまとわりつく金の鎖を見せているが、その先にあるはずのインカローズのペンダントは谷間に沈み込んで姿が見えない。


「連れてって」


 空間操作士の瞬はテレポートすればよく、何もわざわざ歩く必要はない。若菜を連れて行くことも可能だ。


「あの……犬山補佐……職務外のサイ行使は……」


「いちおう禁じられてはいるけど、取り締まってはいない。さ、早く。ここでずっと抱き合っていたら、ゴールイン間近の恋人と間違われるわよ。あたしは別にいいけど、君は困るんじゃないの?」


「わかりました」


 瞬は片腕で若菜のなまめかしい身体をそっと抱いた。香水なのかほのあまい匂いが鼻をくすぐり、気が散ってしかたないが、精神を集中した。

 瞬のレベルになれば、抱き合わなくてもテレポートに失敗する可能性はほぼないが、瞬も嫌な気持ちはしなかった。



 蒼光がフェードアウトすると、瞬と若菜は陽の光の下にいた。


「ありがとう。帰りもお願いね。さ、行きましょ」


 若菜が瞬の腕を取り、キャンドル型噴水の脇を通って、エントランスへ向かう。

 海に近い巨大なショッピング・モールの建物は外壁三面のガラスはまるで鏡を張りつけたように、東京湾の青を反射してきらめいている。


「あたし、瞬一郎君の霊石って、好きだな。海の青じゃなくて、空の青だと思う」


 若菜が優雅に足を出すたびに、豊かな胸が瞬の二の腕にそれとわかるように押しつけられる。


「そうかも知れませんね……。あの……課長補佐……」

「なあに?」

「くどいようですが、この前は失礼な事を申し上げて、すみませんでした」


「男はとにかく飽きっぽい生き物でしょ。だから大人の女はね、裏の顔をいくつも持っていなきゃいけないのよ。若い女は可愛いだけで、底が浅いでしょ?」


「……そんな、ものですか?」

「それで、ちょっとはあたしを見直したの? ただ色っぽいだけの女じゃないって?」


「いえ、あの……はい……」

「よろしい。じゃ、仕事の時以外は、下の名前で呼んでくれたら、忘れてあげる」

「え? じゃあ……若菜、さん……」

「なあに、瞬一郎君?」


 瞬は、予科生時代からままごとのような恋愛しか経験してこなかった。すべてのやりとりを若菜に一方的にリードされ、赤面するばかりだった。


「かわいい!」


 若菜に言われても腹が立たないのは、年齢のせいだけではなさそうだった。

 正直に心に問えば、瞬はこの女性を好きだと思った。瞬は若菜に圧倒されながら、急流に流されるように惹かれ始めている自分を感じていた。


「ねえ、瞬一郎君。ここの水族館、行ったことある?」


 瞬は新浦安の外れに初めて来た。「ない」と答えると、若菜は瞬の腕を取り、すぐに方向を転換して窓口に向かった。実に決断の早い女性だ。


「大人、二枚くださいな。この割引クーポン、使えるでしょ?」


 若菜は携帯端末を示しながら、クレジット・カードを出した。意外とチャッカリしているらしい。

 軍服の内ポケットから財布を取り出そうとする瞬を若菜が制した。「君の歓迎会よ。上官のあたしが誘ったんだからさ」とウィンクする。


 若菜が瞬の腕をつかみ直すたびに、ボリューム感のある若菜の弾力的な胸が、容赦なく腕に当たった。わざとだろう。


「高給取りのクロノスになったはいいけれど、使う時間があんまりないのよね。役付きになっちゃったから、ますます絶望的なのよね」


 新浦安水族館の目玉は深海魚だった。

 リール(最後の産業革命)が進展するまでは、生きたままの深海魚の展示は限定的だったが、空間操作技術の進歩で水圧の創出が可能となり、強固な水槽の設置もできるようになった。


「見て、リュウグウノツカイ! 優雅よねえ。もし生まれ変わるなら、これも悪くないわね」


 瞬は幼女のようにはしゃぐ若菜の姿に、魔性の女の底知れなさを感じた。

 光届かぬ海底にすむ深海魚たちの健康にとって、光はうまくないらしい。だから瞬は若菜に引っ張られながら、真っ暗な中を歩いて行く。

 水族館最大の目玉は「ダイオウイカ」の遊泳水槽だ。触手が体長の半分以上だが、見ごたえのある十数メートルの細長い身体が回遊し、目の前を横切っていく。


 若菜の話では、開館当初こそ行列のできる賑わいだったそうだが、今では落ち着いていて、水曜日の今日は来場者の姿もまばらだった。瞬は、若菜にうながされて水槽からいちばん離れたベンチに座る。


「退屈そうに泳いでるわね、あのダイオウイカ。あの子、今、何を考えてるのかな?」


 若菜は暗がりでも腕を離さず身をぴったりと瞬にくっつけている。


「そうですね……。動物なら、個体保存と種族保存でしょうか」

「人間と大して変わらないのね。あたしたちと、同じか……」


 若菜が肩にもたれかかってくると、若菜のかぐわしい息が瞬の頬にかかった。


「ねえ、瞬一郎君。終末って、回避できると思う?」

「難しい……質問ですね」


 瞬は軍に所属し、終末回避のためと信じて戦ってきた。が、今はアルマゲドンとは直接関係のない内務省にいる。


「誰かまじめに、回避しようとしているのかしら?」

「いちおう、俺はまじめに考えています」


 魚住の話は、もう一度、瞬の使命感を呼び覚まそうとしていた。かつて恋人や戦友たちと戦った目的を瞬は己のうちによみがえらせたかった。さもなくば彼らの死がむだとなるではないか。


「でも、どうやって……?」

「まだ、わかりません……」

「でも、軍にいて、本当にこの世を残せそうだと思った?」


 軍にいた頃は、鍛錬と反政府組織の討滅に追われていた。日々を生き残るのが精いっぱいだった。アルマゲドンに依拠する軍の作戦行動が、自分の行為が、はたして終末回避に役立っていたのか、末端の兵士には知りようはずもない事柄だった。

 先日会った天川真子も≪終末≫回避が不可能だと明言していた。


「……わかりませんね」

「あたしに言わせれば、ムリっぽいわよ。大災禍(カタストロフィ)もそうだったけれど、異神降臨に向けた公式の預言はすべて的中しているでしょ?」


 ふたりの前の水槽では、ダイオウイカがゆったりと浮かんでいる。


「あたしはね、あたしの兄が世界を救うって、ずっと信じていたの。兄さえいれば、だいじょうぶだって思ってた。……でも……戻ってこなかった……」

「若菜さんのお兄さんはクロノスをされていたんですか?」

「うん。強いから、絶対死ぬはずないって、思っていたのにな……」


 若菜は今、妹モードに入っているようで、どこか可愛らしかった。本当に幾つもの面を持った大人の女性だ。猿橋が「魔性の女」と表現した意味が分かってきた気がした。誘惑し、好きにさせておいて、捨てるらしい。瞬も気を付ける必要がありそうだ。


「見た目はサルみたいにチャラいんだけど、腕は最高だった。君も空間屋さんなら、知っているはずよ。末永了一郎」

「え? もしかして……ボギー教官……ですか……?」

「そうよ。兄は八獣家への反発もあって、奥さんの籍に入ったから、姓は犬山じゃないけれど」


 ボギーは恩師であるだけでなく、幾度も瞬の命を救ってくれたかけがえのない恩人であり、戦友だった。ボギーの戦死は、瞬の喪失感の何割かを確実に占めていた。彼の死は終末回避の遺志を継がねばという瞬の決意を強くするよりも、むしろボギーなくしてそれは不可能だとのあきらめを瞬にもたらしていた。瞬が復讐にこだわっていたのは、生き残った自分が終末回避の志を放棄したことを正当化するためだったにすぎまい。


「……若菜さんが……ボギー教官の、妹さん……」

「ボギーの妹は、いやかしら?」

「いえ……なんていうか……ただでさえ緊張しているのに、ますます緊張してしまって……」


「兄のことは、交際相手に言わないようにしていたの。二通り、両極端のリアクションしかないから。大好きか、大嫌いか。でも、兄はもういないし、君なら、いっしょに哀しみを共有できそうだったから、言ったわけ」

「……光栄です」


 若菜がしなだれかかって来るため、瞬は体制を立て直そうと若菜の肩に手を回した。恩人の妹というだけで、信頼していい気がした。


「あたしはこれまで、時間屋として千人くらいは命を救ってきたかな……。それが無意味だったとは思わない。でも、兄が死んで、未来の希望を失くしちゃった。これだけ終末が近づいてきたらさ、逆行して救っても、救わなくても、それほど変わらないと思わない? あと少ししか生きられないんだったらさ」


 若菜は甘えるように、頭を瞬の肩に乗せてきた。若菜の髪が頬に触れる。同意を求める気もないようで、話を続けている。


「仕事はやるし、実際やっているわよ。でも、いいかげんに他人のことじゃなくて、自分と愛する人のことだけを考えて、残された人生を生きたいと思うのよ。あたしの考え、間違っているかしら?」

「いいえ……」


 現に終末を見越して、少なからぬ数の人間が自分のためだけの人生を送ろうとし始めていた。


 ダイオウイカが物憂げに暗い水槽に浮かんでいる。


 世界の終わりが近づき、内務省の誇るクロノスまでがやる気をなくしている。軍も優秀なクロノスを失った。本当にこの世がこのまま終わっていく気がした。魚住や自分にいったい何ができるだろうか。



 水族館から出ると、若菜は太陽に向かって、声を上げながら大きく伸びをした。


「瞬一郎君、おなかすいたね。お昼、食べよっか?」

「そうですね。こんどは俺がごちそうしますから」


 水族館に連れて行ってもらいっぱなしと言うわけにはいかない。せめてランチくらいは負担すべきだろう。


「今日はフレンチの気分なんだけど、かまわないかしら?」


 返事を聞く前に、若菜はオープンテラスの高級レストランに瞬を連れて行った。

 若菜は網タイツの足を組んだ膝の上にひじをつくと、挑むように瞬を見た。

 瞬はごくりと唾を飲み込むと、メニューに視線を写した。ふだん常食しているジャンクフードの金額と比べれば、二ケタほど違いがある。

 若菜は涼しい顔で、最上のデラックス・コースと上等な赤ワインをボトルで注文した。


「昼から……飲むんですか?」

「休日くらい飲まなきゃ、人生、損だと思わない?」


 さすがに良家の出だけあって、若菜のふるまいは貴婦人のように優雅だった。さっきの水族館での行為が夢だったように、テーブルマナーも話題も上品で、一点の非の打ち所もなかった。


「出ましょっか」

 食事を終えると、若菜は瞬をうながして、立ち上がった。先を歩く。若菜に対し、店員たちはにこやかに頭を下げて送り出すだけだ。


「あの……支払いは?」

「あたしは八獣の出でしょ? このお店、接待用に使っているからツケで食べられるのよ。小さい頃からの常連なの」

「でも……」

「君とはまたデートしたいからさ。ソフトクリーム、ごちそうしてくれる?」

「すみません、ごちそうさまでした」

「あたしじゃないわ、家が出すんだから、気にしないで」


 中学生の恋人のように並んでソフトクリームを食べた後、若菜がハンドバッグを手に立ちあがった。


「ごちそうさま。さ、買い物、始めよっか? 手始めに何を買う?」

「そうですね。酒が切れて来たんで、何本か」

「あたしと趣味が合いそうね。でも、軽い物から先に買いましょ。ついて来て」


 若菜はまず男性下着のコーナーに向かった。瞬に確認しながら、プロ主婦のように次から次へとシャツやパンツや靴下を放り込んで行く。趣味もいい。信じがたい手際のよさで、スラックスからジャケットまで、たった一時間ほどで買い物が済んだ。


「じゃ、あたしの買い物にもつき合ってちょうだいな」


 次に若菜が向かったのは女性下着のコーナーだった。若菜は自分のプロポーションを自慢するかのように、いちいち似合うかどうかを瞬に問うてくる。

 その場にいること自体が不慣れで場違いな気がして、瞬はしどろもどろに「似合うと思います」と答えるしかなかった。


 オブリビアスである瞬の正確な年齢は、自分でもわからないが、肉体的には二十三歳程度らしい。異時空間の滞在期間を含む実効年齢では三十歳は超えているはずだが、それでも若菜の前では、自分がまだ子どものようで、調子が狂った。


 猿橋によれば、若菜は二十七歳だが、逆行を主とする時間操作士だから、異時空に滞在する期間は瞬たちより長くなっているはずだ。人によっては四十歳近い精神年齢だろう。


 若菜の落ち着き払った様子に、瞬はまるで若い学生のように手玉に取られている気がしてならない。


 いちいち指図しリードする若菜の態度は押しつけがましいはずなのだが、天真爛漫であるためかごく自然に感じられた。上官だからではない、若菜の「大人の女」としての妖艶な魅力は、瞬の好みと合致してもいて、惹かれるいっぽうでまったく反発を覚えない自分が不思議だった。端的に、相性が合うのかも知れない。


 酒類を含め買い物を済ませると、カート二台分の荷物になった。


「七〇九号室までお願いできる? ちょうど玄関にテレしてくれると助かるわ」


 若菜がまた瞬に抱きついて来た。

 初心者のころは安全のため、移動させる対象をしっかりと掴んでいたほうがよいが、瞬のレベルになれば必要ない。現に山積みの買い物袋も移動させられる。だがせっかくの機会だ。瞬は、若菜を抱き締めたいと思った。


 瞬は遠慮がちだが、今度は両腕で若菜を抱き締めた。無条件にやわらかい。蒼光を展開した。携帯端末で指示された場所に翔んだ。



「買い物につき合ってくれたお礼に、夕食をごちそうするわね。ソファに掛けて、飲んでいて」


 部屋に戻っても、ひとりでソファに寝転がり、東京湾を見ながら酒を飲むだけだ。瞬もまだしばらく若菜といっしょにいたいと思った。

 若菜は実に手際よく鶏肉をさばいて、パン粉を付けてチーズをのせ、こんがりとやいてくれた。豆腐サラダも美しく持ってある。


「おいしい……。若菜さんって、なんでもできる完璧な人なんですね」

「そうよ。あたし、いつでも結婚できるように、家事能力も抜群なの」


 外食の時よりも酒量が多いせいもあって、ふたりは年来の友人のように、打ち解けて話した。

 食後のデザートワインは白だが、上等で、飲みやすい。

 若菜は立ち上がると、瞬を窓際に誘った。


「ここからの眺め、いいでしょ?」


 瞬たちの寮と違い、窓が南を向いているため、東京ディズニーリゾートは見えない。東京湾とさらに向こうにある海を行き交う夜行船が見えた。

 瞬は、若菜の隣に立った。


「今日、瞬一郎君といっしょにいてさ。わかったことがあるの。……つまり、こういうこと……」


 瞬が問うように見ると、若菜は瞬の首に手を回し、いきなり唇を重ねてきた。

 瞬も受け入れるが、息苦しくなるほど濃厚なキスだった。


「わかった? 君を好きだってこと。君もあたしが好きでしょ?」


 もともと瞬は、若菜の容姿に対して好意を抱いていたが、明るく開けっ広げで幼さも時おり見せる、表裏のない若菜の性格も、好きだと思った。

 朝からずっと若菜と過ごし、嫌だと思った瞬間は一度もなかった。若菜のふるまいは何度も催行されて完成の域に達したツアーをガイドするツアコンのようで、瞬も安心して身を任せていた感覚だった。


「……それは……好きですけれど……」


 若菜は満足したようにうなずくと、瞬からそっと身を離し、行き過ぎる夜行船の明かりを見下ろした。


「瞬一郎君、恋人を失くしたんだってね……。あたしもこの世でいちばん好きな人を第五次遠征で失くしたから……。どうせ実るはずもない恋だったけれど……君の気持ちはわかるつもりよ……」


 若菜ほどの美人なら、恋人のいないはずがなかった。十五万人が死んだ遠征に参加していてもおかしくはない。体よく作った嘘とは思えなかった。


「失恋の克服のしかた、教えてあげよっか? 簡単じゃないけど、方法じたいは意外に単純なんだ」


 振り向いた若菜の目に涙が浮かんでいるようにみえた。女心はまるで見当がつかないが、瞬は若菜を守ってあげたいと思った。


「別の恋をして、とことんその相手を愛すること」

「……それが……できなかったら?」

「とにかく恋を始めてみるのよ。そうしたら、変わっていくわ。自分も、世界も、何もかも……」


 若菜は白ワインを注いだグラスを瞬に渡した。音を鳴らす。


「ということで、あたしたち、半年以内の結婚を前提につき合わない?」

「え?」

「もしかして、嫌かしら?」

「いえ……もちろん嫌じゃないんですけど、俺はまだ、若菜さんが赤系の下着が好きだってことくらいしか、知りませんし……」


 完全な若菜ペースに、瞬は一矢を報いたつもりだったが、若菜は優雅な笑みでかわしただけだった。


「それだけ知っていれば十分よ。今日、つきあってわかったでしょ? あたしは見ての通りの人間、足し算も引き算も不要よ。今夜すぐに結論を出してとは言わないけれど、三回目のデートの最後に同じ質問をするから、それまでに考えておいてくれない?」


 今日いちにちで若菜の様々な面を見たが、どれも作ったような様子はなかった。恐らく若菜は、独裁者天川時雄の前に出ても、せいぜい言葉遣いが変わる程度で、同じ態度を取るだろう。優雅に余裕をかましながら、ごく自然に悩殺するに違いない。


「……わかりました。お返事します」


「なにしろ終末まで時間がないの。ゴールインできたら、あたしは寿退職する 。残された人生を愛だけに生きるつもりだから。その相手が君だったら、うれしい」


 若菜が露出部分の多い身体をふたたび瞬の腕の中に埋めてきた。

 瞬はそっと若菜を抱き締める。若菜の背中のまとわりつくようにむっちりとした肌に触れた。出会って間もない女性だが、愛おしいと思った。



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■用語説明No.20:AP(アタック・プロモーター)

稀少鉱物≪輝石≫を利用した時空間操作兵器の総称。時空防壁を展開する相手には、通常兵器が通用しないため、APが用いられる。

防壁強度に大きな差がある場合はAPなしで防壁を破壊できるが、差が少ない場合はAPを使うほうが戦闘上、有利である。

APに、重火器が余り使用されないのは、輝石を利用した弾丸類が使い捨てとなるため高コストであることと、輝石の使用量が少なく、また、弾丸類にエンハンサーによりサイを発動する人体に直接触れないために、刀剣に比べて対防壁破壊力が劣ること、による。

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