第19話 真冬のグレープフルーツ・ジュース


 朝香瞬は低い唸り声を上げながら、黒いレバーを胸の前で合わせる。腕を開くと、吊るされた鉄塊の重りがカチャンと高い音を立てた。


 クロノスたちの独身寮は内務省の敷地内に立地している。地階には、トレーニング・ジムとプールがあった。軍の施設ほどではないが、大きな観葉植物を置いたプールも六レーンあって、相当に充実していた。


 軍人時代には、瞬もジムで相当鍛えたものだが、いざ鍛錬を本格的に再開すると、身体がすっかり鈍(なま)っているとわかった。


 この春にオリオン対策本部が設置された関係で、活動の活発な地域には本部のクロノスが派遣されている。そのため一課も二課もクロノスが出払っており、ジムもプールもガラガラで使い放題だった。


「おい、朝香。お前いったい、何しとんねんや?」


 見ればわかるはずだが、猿橋の問いに、瞬はいちおう答えた。


「リアデルト・フライだ」


 単純動作を要求する平凡な構造だが、胸と背の筋肉を鍛えるトレーニング器具としては、名器だと瞬は考えている。


「そら、見たら、わかるわいな」


 猿橋は隣に設置されている器具に行儀悪く腰かけると、瞬のほうを向いた。


「昨日も過剰発動で保健室に担ぎ込まれとったクセに何をやっとんねんて、聞いとんにゃろが」


 瞬は重量をしっかりと感じながら、小刻みに震える筋肉にじっくり悲鳴を上げさせる。動作を終えてから、早口で答えた。


「サイを全く使わない筋トレだ。ガロア数値は最終的に、体力がベースになるんだ」

「んなもん、わかっとるわい。今日ぐらいは安静にしとけぇ言うとるんじゃ」

「負荷は軽くしてある。ずいぶん筋力が落ちたとわかったからな」


 瞬は前後を逆に座ると、今度は胸筋を鍛えていく。


 内務省に身を置いて他の命を救うことで、埋め合わせになるかは知らない。だが、さしあたり瞬は奈々子を死なせ、救えなかった悔しさを、身体を苛めて紛らわそうとしていた。魚住との話もあった。


 空間操作士の能力を図るもっとも単純で明快な基準は、計量単位G(ガロア)で測定される空間操作可能量だ。ガロア数値を上げるくらいしか、今の瞬に努力できることはなかった。


「お前、あの遠征では一万ガロアも出したゆう噂やないか? いったいなんぼ出したら気が済むねん。もうええやんけ」

「あれはひとりで出した数値じゃない。俺ひとりなら、まだ一〇〇〇ガロアがせいぜいだ」


 器具のノルマを達成した瞬は、次にアブドミナル・クランチ・ベンチに移る。物々しい命名だが、単に腹筋を鍛える器具だ。瞬は身体を前に折り始めた。

 猿橋も瞬の後についてきた。


「お前、最近、オレを避けとるやろ?」


 酔った上とはいえ、喧嘩をしてからまだ一週間も経っていなかった。大人だから、不愛想に挨拶くらいは交わしても、関わりを避けるのはごく自然な行動のうちだろう。


「サル、逆にひとつ聞いていいか?」

「オレが本気で狙ってる女以外やったら、何でも教えたるで」


 瞬は腹筋運動をしながら、尋ねる。


「何で俺に構う? 俺はあんたにとって、ただの同僚のはずだ。それにあまり相性がいいとも思えない」


 猿橋にとって、瞬が好もしい後輩として振る舞った記憶はまるでなかった。同僚として仕事はいっしょにしてもいいが、プライベートまで共有する理由もない。


「せやなあ。お前はめったやたらトンガっとって、自分勝手で、マイペースで、自信家で……。昔のオレみたいや。昔は自分が嫌いでたまらんかった……。お前も今、自分を嫌いなんとちゃうか?」


 いつも落ち着かず、鍛錬するか、酒でも飲んでいないと不安でたまらない理由は、自分に強い不満があるからだ。恋人や仲間たちを守れず、ひとり生き残った自分に嫌気がさしたからだ。


 微かにうなずいた瞬の汗ばんだ肩を、猿橋が軽く叩いた。


「何でお前が中途採用でウチに来られたか、わかっとるか?」

「魚住課長が採用してくれたんだろ?」

「せやけど、いくら幸恵さんでも、採用人数は新規に増やせへんで。ウチは人員も予算も減らされ続けとるさかいな」


 瞬には猿橋の言っている意味がわかった。


「せや。クロノスがひとり殉職してポストが空いたから、採用枠がでけたんや」


 猿橋は隣のベンチに足を広げて腰かけた。


「軍は集団で動くんやろけど、内務省のミッションの最小単位は二人や。よほど相性が悪かったら替えられるやろけどな」


 作戦行動では常にバックアップを用意する必要があるため、クロノスはペアで行動する。法律で設定されるサイの発動禁止期間も揃えることができ、労務管理もしやすくなる事情もあった。


「去年の夏、お前が放浪して遊んどったころにな、オリオンが関東でデビューしおったんや。通勤列車を衝突させおってな。ホンマ、あれは華々しい逆行テロやったで。事故はなかったことにできたんやけど……オレ、そのミッションでとちってもうてな。ずっと組んどったバディを死なせてしもたんや」


 逆行プロジェクトが成功した以上、事故自体は歴史から消えたため、世には逆行救済事案としてしか知られていないが、本来の歴史には列車テロ事件があったのだろう。


「わかったか? どれほど生意気でいけ好かん奴でも、お前はオレのバディなんや。オレはもう二度と、相棒を死なせへん。あんなツライ思いすんのはゼッタイに嫌やからな。死なせるくらいやったら、今度はオレが死んだる」


 猿橋は見かけこそチャラいが、この茶髪長髪、無精ひげのピアス男となら、信頼できる仲間になれる予感がした。


「せやから、トレーニングしながらでもええし、耳、貸せや」


 猿橋はだらしなく隣のベンチに寝転がった。


「お前がこの前ほざいてた逆行の件やけどな。サコちゃんとアネさんが臨時会議でどれだけみんなに食い下がったか、何も知らんやろ?」


 瞬は折り曲げた身体を止めて、猿橋を見た。


「あの二人は、やる時は徹底的にやるんやで」


 事件後、若菜はただちに砂子をプロジェクト・リーダーに任命して課員を総動員、徹夜で救済プロジェクト案を練りあげ、逆行許可申請書類をそろえたらしい。二課の猿橋もずいぶん手伝わされたそうだ。


「でも、あかんかった。時空ボーリングしてみたら、強力な時空間防壁が事件後に展開されとるってわかったんや。今の内務省に残っとるクロノス連中をフル動員しても、人為結果は破れへんちゅう計算結果が出た。仮に破ったとしても、プロジェクトの成功確率はゼロやった。ウチの時流解釈士のジジイの予知結果では『生還者なし』やった」


「その爺さんの未来予知は当たるのか?」

「あのジジイはヘボ占い師や。でも、逆に言えばな、占いでもハッキリわかる未来やった。アホでもわかる結末なんやから、間違いないわけや」

「それであきらめたのなら……やっぱりしかたないのか……」


 砂子は富士山をひっくり返すたとえを用いたが、魚住を見ればわかるように、内務省本局の課長補佐、主任になるほどのクロノスは一流だ。それでも破れない結界なら、誰も破れないのだろう。


「アホ抜かせ。それくらいで、あの二人があきらめるかい。また徹夜して、迂回逆行ルートでプロジェクトを組み直して提出したんや」


 迂回逆行とは、たとえば現在時空Aから過去時空Bに向かう途中に強力な結界がある場合、別の時空Cを経由して時空Bに到達する逆行手法だ。結界は存在について生じ、結果として事象単位で形成される。一つひとつの結界は、例えばビー玉のように球状に形成されていく。だが、その集積はサッカーボールのように均等に球形を構成するとは限らない。穴が開いて空気の抜けたボールのように凹んでいる場合もあり、まったく別の時空から到達できる場合も少なくない。


 だが、迂回逆行ルートを特定するためには、気が遠くなるほど膨大な量の調査分析が必要になる。


「分かったか、朝香? アネさんは、ただの男たらしの美女やないねんで。魚住幸恵が食指を動かして道支部から引き抜いたんや。関西支部のエースやったサコちゃんと最強ペアを組ませるためにな。二人とも正真正銘の本物の時間操作士や」


 会議続きで退屈そうなフリさえして毎朝、毎晩、病床の瞬を見舞っていた若菜が実際に取っていた行動に、瞬は呆れると同時に、畏敬の念を強く抱いた。


「しかもアネさんは、禁じ手まで繰り出さはった。北海道支部の時流解釈士に頼み込んで、鑑定結果を会議に提出したんやで。業務多忙のウチの時流解釈士には負担かけられへんて嫌味まで言うてな。預言者に上乗せさせて出させた成功確率は五十五パーセント。その日のうちに、臨時会議を通して、許可申請にこぎ着けはった」


 時間が経過するほど、逆行は困難になっていくから、逆行申請準備も短時日のうちに行われる。この作業は通常「徹夜」で行われるが、この場合の「徹夜」とは、作業のための「職務逆行」を繰り返しての徹夜を意味した。実際には、若菜と砂子は限界までサイを発動し、発動禁止時間を挟んで最低でも丸一週間は作業時間に費やしたはずだ。


「それなのになぜ、許可が下りなかったんだ?」


 猿橋は天井を見つめたまま力なく首を横に振った。


「アルマゲドンや。しかも、抵触ランクB。軍から『待った』が入ったら、いくらあのアネさんでも、どうしようもないやろが」


 軍の策定する終末回避計画≪アルマゲドン≫に抵触する行為は、何人も許されない。軍の時流解釈士により五段階評価の「抵触ランクB」と評された案件で違法逆行をすれば、軍法会議にかけられ極刑もありえた。違法逆行は通常裁判ではなく、軍事法廷の管轄だ。反政府組織にでも与しない限り、打つ手はなかった。


「朝香。お前、内務省の仕事、甘う見とったかも知れんけどな。逆行は簡単やない。今の体制下やとな、救えへん命のほうがずっと多いんやで」


 瞬は事情を何も知らずに、若菜と砂子を責めた。ずいぶん身勝手で大人げない真似をしたものだ。謝る必要があった。

 瞬はベンチから降りて立ち上がった。まず、猿橋に向かって頭を下げた。


「すまなかった、サル。許してくれ」

「オレは手伝うただけや。逆行は、時間屋さんの仕事やしな」

「課長補佐と織機さんは、もう仕事終わったかな」


「一課は今、くそ忙しいからな。うまいこと仕事の合間とか見つけろや。それと、レディに会うんやったら、シャワー浴びてから行けよ。お前、汗くさいぞ」


 瞬はその日、二人に会えなかった。



    †

 織機砂子が朝香瞬の退院祝いに、やたらと苦いビールを飲んでから、正常人の世界で一〇日ほどが過ぎた。この頃には、砂子も異常な新生活にずいぶん慣れてきた。

 この日も、本庁舎最上階の職員食堂でヘルシー定食、日替わりメニューと野菜天丼のカロリー計算を比べていると、背後で聞き慣れた甲高い声がした。


「サコちゃん、えらい偶然が続くもんやなぁ。今日もいっしょに食べへんか?」


 猿橋は、砂子が食堂のウィンドウでランチを物色している時間を狙って現れているのではないか。空間操作士だから時間移動はできないが、わざわざ逆行許可を取って適時に姿を見せているのかと思うくらいの正確さだった。


 若菜がいれば必ずランチに誘ってくるのだが、管理者の会議が昼間に入るため、砂子が一人で食べに行く日が多い。今日も若菜は会議らしく、後でまた会議弁当の中身と文句を聞かされる羽目になるだろう。


「おお、ナポリタンか。今日は日替わりで決まりやな」

「どうせサルは、いつも日替わりじゃないの」

「オレは女の子でも食いもんでも雑食やからのう」


 面白くもないのに猿橋が笑っている。砂子は相手にしなかった。

 猿橋は瞬と仲直りしたらしい。昨日のランチは、瞬といっしょの食卓になりかけたから、わざわざ別のテーブルに移動したほどだ。瞬が何やら話しかけてきたが、食べかけの食器を返却台に戻して、さっさと食堂を出た。砂子は今日も同じ態度を取るつもりだった。


 砂子は、今日の天候について熱く語り始めた猿橋を振り返りもせず、食券機でヘルシー定食のボタンを押した。


 陽の当たる窓際の席にプレートを置く。

 砂子は、陽を浴びながら食べるのが好きだ。終末が近い。直射日光が肌に悪いと美容を心配するほど、この時代の人間は長く生きられない。


 遠く東京ディズニーリゾートのアトラクションが見える場所を選んでしまうのは、あの夢の国に人生の半分くらいを置き忘れて来たせいだろうか。ほぼすべての記憶を奪われた虹色の時を、砂子はあそこで迎えた。


「失礼するでぇ~」


 猿橋が向かい側に座ってきた。さっそく卓上のコショウを取り、スパゲッティに振りかけている。


「なんやこのコショウ、出が悪いなぁ」


 猿橋は得意のSFサイを発動し、十以上ある細い穴をきれいに掃除して、バサバサ振りかけた。


「詰まっていたやつは、どこに行ったの?」

「紙ナプキンにも移せるけど、もったいないしな。ナポリタンに入れたわ」


 何食わぬ顔で、猿橋はナポリタンに香辛料をふりかけている。


「便利なものね」

「オレもホンマそう思うで。こんな便利なダンナ持ったら、ごっつ幸せになるはずなんやけどな。世の女性陣はみんな、何でオレを放っときおんにゃ? 朝香みたいな顔だけの男に群がりよって」


 猿橋が瞬を茶化すのは日常茶飯事だが、砂子と瞬を仲直りさせようとする意図が感じられて、不愉快だった。だが顔には出さない。


「へえ、若菜先輩以外に狙っている子、誰かいるんだ?」


 猿橋は唇に人差し指を立てながら身を乗り出すと、声を落とした。


「企画調査課の泉ちゃんって、知らんか? あの子、朝香に書類持って来おるとき、真っ赤になっとんねん。ええ子やのに、かわいそうになぁ。アイツの毒牙にかかってまうと思うと、オレ、心配で夜しか寝られへんで」


 砂子が視線を回すと、察した猿橋が説明した。


「朝香のヤツは早退や。また、過剰発動でぶっ倒れおった。あいつ、カタキのように鍛錬しとるからのう」


 直接戦闘を得意とする空間操作士は、時間操作士よりも肉体鍛錬を重視する傾向があった。猿橋の話では、瞬は驚異的なスピードで事務作業を午前中に済ませると、後はたまに課に姿を見せるだけで、後はサイの発動訓練に入り、訓練室でひたすら特訓を続けているらしい。


 が、砂子には関係ない話だった。

 黙殺していると、猿橋がナポリタンで口の周りを赤くしながら尋ねてきた。


「サコちゃん、まだ朝香のこと、怒っとるんか?」

「当たり前でしょ?」


 あの男はただの人間兵器だ。一瞬でも瞬の容姿に見とれてしまった自分が恥ずかしく、命を助けられたくらいで男に心を開こうとした自分が、つくづく浅はかに思えた。


「あの事件の逆行申請の時、サコちゃんとアネさんがどれだけ頑張ったか教えたったんや。アイツ、ごっつ反省しとるで。謝るタイミングを探っとんにゃ。昨日かて、そうやったんやけど……」


「それで、ちょくちょくちょっかい出して来るわけね」


 瞬は昨日、若菜のもとに謝りに来たらしい。若菜の話では「もちろん笑って許してあげた」らしいが、それだけでなく、週末の買い物デートの約束までしたそうだ。


「朝香もあの晩は飲みすぎて、心にもないこと言うた思とんねん」

「心になきゃ、言葉として口から出るわけないでしょ?」

「そうでもないで、サコちゃん。人によるかも知れんけど、人間、酔うたらな――」


 砂子がガチャンと箸を置くと、いくつかの視線が向けられた。


「わかった。暴言については許してあげるって伝えといて。でも、これもハッキリと伝言しておいてくれる? わたしには『もういっさい構わないで』って。魚住課長と若菜先輩には、朝香君と同じチームにならないように頼んであるし、寮の部屋も変更願いを出してあるの。わたしの人生にとって彼は邪魔なのよ。サルもどうしてアイツの肩を持とうとするわけ?」


 猿橋は困ったような顔をしながら、長髪を指ですいた。


「オレも、サコちゃんがアイツに惚れてしもたらアカン思て、警戒してたし、生意気でいけ好かんやっちゃから、距離を置かなって思とったんやけどな。オレ、何ていうんかな……アイツに惚れてもうたんや」


 食いしん坊の猿橋が箸を置いたまま、真剣に砂子を見つめていた。


「はぁ?」


「変な意味やないで。アイツのクロノスとしての力に惚れたんや。この前、技術科の山さんにこわいモン見せたるぅ言われて、変なモンを見せられてしもてな。朝香の能力判定結果や。オレもこの業界長いし、そこそこのレベルや。でもな、アイツと比べたら、数値が全部ひとケタ違うんや。同じ人間がここまでできるとは、信じられへんかった。正直、感動した」


 史上最強の戦士と言われる空間操作士の能力は、クロノス登録基準をベースとして数値化して表される。サイコキネシス、テレポーテーションを基礎とする空間系サイの能力は計量単位ガロア(G)で計測される。想像と思考によるサイ発動を主とし、ウェルズ(W)で軽量される時間操作士の時間系サイとは似て非なる能力だ。


「空間屋の力は、持って生まれた才能が半分、その後の努力が半分やと思とった。アイツもただの天才やと思とったんや。でも違(ちご)た。アイツは予科生のとき、一ミリガロアも発動でけん落ちこぼれやった。アイツの場合、努力が九割以上なんや。オレも訓練の虫やて、山さんに言われとったけど、病み上がりでも平気でオレの倍くらいこなしおる。APの鍛錬も半端やない」


「それで人間兵器がいよいよ完成するわけね」


 砂子の毒舌に、猿橋は苦笑した。


「ウチに来るまで、アイツの頭には復讐しかなかった。それはあいつが恋人も友達もいっぺんに奪われてしもたからや。虹色の異時空で死んだ人間はもう戻ってこうへん。でも、オレらがおるやないか?」


 食いしん坊の猿橋がランチを食べずに熱弁をふるう間に、砂子はヘルシー定食を食べ終えて、食後のコーヒーに入っていた。


「それで結局、あなたは何が言いたいの?」

「アイツと組んだら、デカいことがでける。オレはそう確信した。せやから俺は、アネさんとサコちゃんと、朝香と四人でチームを組みたいんや。内務省史上、最強のチームをな。名前ももう決めてあんねん」

「ふうん。サルって、意外に職務熱心なのね」


 気のない返事で応じると、砂子はトレーを手に立ち上がった。


「でも悪いけど、ほか当たってくれる?」


 苦笑いする猿橋を置いて去ると、若い声がした。


「サルさん、ごいっしょにいいですか?」

「おお、ええで。泉ちゃん、いっしょに食お」


 猿橋の変わり身の早さに、今度は砂子が苦笑いした。



  †

 土曜日の昼下がり、織機砂子はこの日十杯目の紙コップをぺちゃんこに潰してゴミ箱に放り込むと、またコーヒーを注いだ。

 休日出勤はふだんよりオフィスが静かだから、それほど嫌でもないはずだった。だがその雰囲気を楽しむ余裕は、今の一課にはまったくなかった。


 組織で仕事をしている以上、他人のミスをカバーする必要があるのは分かる。そのために時間が取られるのもある程度はしかたない。だが、他人がミスを連発するのは、業務量に比べてあまりに人員が不足しているせいではないか。


 現在の圧倒的な業務過重の原因は、明確だった。内務省の予算・人員減らしと、オリオン対策本部への人員派遣というダブルパンチに見舞われているからだ。


 本来なら現業のクロノスがしなくてよいはずの事務作業にまで忙殺されるのは、クロノスの補助に当たる有能なパラクロノスたちが対策本部にほとんど取られてしまったせいだろう。


 席に戻ると、若菜のハスキーボイスが今日も快調だった。


「瞬一郎君、ジュースでもいいから、ちゃんとフルーツとらなきゃだめよ、グレープフルーツが嫌なら、ミックスでもいいし」


 明らかにオーバーワーク気味の若菜は、今朝も「化粧のノリが悪い」とグチっていて、髪も乱れがちだが、瞬に対して余裕をかましているのはさすがだ。


「それで、明日のデートの約束なんだけどさ、悪いけど、次の代休に変更できないかしら? そ、仕事」


 寮の身の回りの物をいっしょに買いに行くだけの約束を、勝手に「デート」にしてしまう若菜も相変わらずだが、プライベート最優先の若菜でさえ休日を返上する事態は、一課が異常な業務量を抱えている証拠だった。


 若菜は人を口説く場合、手紙やEメールの文章ではなく、必ずしゃべり文句で勝負するらしい。同性でさえゾクリとさせる若菜のハスキーボイスに魅せられてその虜となった男性被害者は、砂子が知っているだけでも数名いた。


「君が代休を取れる日は、他にないの?」


 この日、デスクでの一〇分ランチの間、若菜は日曜日を返上して、業務を正常化すると宣言していた。つまり明日の日曜日、砂子は半休も取れないわけだ。


 若菜は能力こそ高いが、課長補佐の権限しかないため、案件によってはいちいち東海支部にいる課長の決済をとってから事を進めなければならない。

 今、顔を出している課員が使えないと早々に見切った若菜は、手間のかかる仕事を一瞬で見抜くと、それを全部、砂子に振ると決めたらしく、次から次へとやっかいな仕事ばかりが降ってきた。


「火曜日はおねえさん、つまんない会議が入っちゃっているのよね……」


 戦争をやる軍と違って、およそ内務省・時空間保安局(時空局)の主役は、一課の時間操作士である。

 時空局の業務の根幹は二つあった。①違法な時空間操作の統制と、②逆行による国民の救済の二本柱である。


 ①違法逆行の取締り自体は各地の警察が行うが、重大案件は国レベルの時空局が関与する必要があった。支部対応で済むケースもあるが、今回のオリオンによる攻勢は事態の重大性に鑑み、本庁が対策本部を設置して実働部隊を指揮するにいたったわけだ。


 これに対して、②逆行による救済は、内務省ひいては≪体制≫の人気取り施策のひとつだった。国民からの救済要望は数多い。各支部の専用窓口で処理するのが通常だが、重要で判断が微妙な案件は一課のクロノスの裁断が求められる。また、支部で逆行不相当と決定された事案については、国民に不服申立権がある。支部の決定が正しいかどうかを、本部が裁くわけである。


 この春、一課にいたベテランのパラクロノスがオリオン対策本部に異動したらしく、ろくに考えもしない生煮えの案件が次々とクロノスに上がってくるため、砂子はその案件処理だけでも半端でない時間を取られていた。逆行不相当としてはじくのは簡単だが、砂子としては救済ミッションにゴーサインを出してあげたい。とは言っても、逆行許可を取るのは簡単でない。許可を得るための理論武装をいちから砂子がしてやらねばならないわけだ。しかも処理には迅速さが求められる。発動限界まで職務逆行を繰り返して、やっと処理しているありさまだった。


「水曜日? オーケー。じゃ、そうしましょ。悪いわね」


 猿橋に聞くと、第二課は「内務省のスパコン」と恐れられる魚住課長がいるために、事務処理量が最初から半減しているらしい。

 しかも内部会議の事務方に選任された新人の朝香瞬が、万全の準備で会議に臨み、鮮やかな手際で議事を進行させ、これまでの四分の一程度の時間で会議を終えてしまうらしかった。


 およそ第二課空間操作課は体育会系で、第一課の立案するミッションの実行部隊である。一課が策定した逆行ミッション案に対し、実施面から意見は出すが原案を作る必要がなかった。「主担当 朝香瞬一郎」の名義で出される意見はいちいちもっともで、的確な反対意見か、建設的な修正意見だった。きちんと資料を読み込み分析したうえで意見が作られたと分かる内容で、関西支部のレベルに比べても数段上だった。瞬は内務省の仕事が初めてのはずだが、魚住課長も直す個所がなく楽をしているとの話だった。


 隣の課をうらやましがっても詮ない話だが、第二課では時間操作ができないため職務逆行もなく(必要があれば第一課に依頼がくる)、ゆったりとした時が流れているらしかった。


 砂子は書類の山の真ん中から、いちばん分厚そうな案件を引き抜いた。週末だけはこの山は増えない。明日中にこの山を失くしてやると心に決めた。



  †

 明日も出勤するぞと覚悟を決め、夕方に仕事をいったん切り上げた砂子にとって、小さな楽しみは夕食くらいしかなかった。昼間、若菜から浮いた話を聞かされながら、デスクで取ったインスタント・ラーメンは味気なく、ボリュームも少なかった。


 今晩のメニューも決めてある。手早く作れて美味しいものだ。


 砂子の頭の中では、泡立つビールの隣で、ポテトとベーコンをカリカリに揚げたオイルパスタが湯気を立てていた。気散じに、陽気な猿橋でも呼んで、酒を飲むのも悪くないかも知れない。これまで異性を部屋に入れたのは、タコ焼きと一升瓶を持って現れた蟹江くらいだが、猿橋なら許せる気がした。


 待つほどに、寮のエレベータが地下階から上がってきた。


 中にはガラス越しに青いトレーニング・ウェアを着た瞬の姿が見えた。もうひとつのエレベータを待つのも面倒だ。砂子はしかたなく乗り込んだが、瞬は具合でも悪いのか、エレベータの奥の壁にもたれたまま、顔を上げなかった。


 砂子は挨拶もせず、扉の「閉」ボタンを押した。


「……やあ、織機さん、ひさしぶりだね」


 エレベータが三階を通過したあたりで、砂子に気づいたらしい瞬が声をかけてきた。瞬は息遣いが荒く、声が震えている。


「……そうね」

「この寮からはディズニーシーのアトラクションがきれいに見えるんだね。気づいたらいつも眺めているんだ……」


 砂子が振り向くと、エレベータの後ろ窓から、遠く、傾いた夕陽にジェットコースターが宙返りする様子が見えた。


「クリスマス・イブにはカップルばっかりになるんだろうな……」


 今は春の盛りだ。季節外れの話題に、砂子は答えを返さなかった。

 二人を載せたエレベータが、音もなく目的階の十三階に着いた。


「レディ・ファーストで……」


 瞬は車いす用の「開」ボタンを押しながら、砂子を促した。


「どうも」


 砂子はわずかに会釈をし、できるだけ瞬の顔を見ないようにしてエレベータを出た。足早に自室に向かう。


 コツコツ歩く途中、後ろでドサッと鈍い音がした。嫌な予感がして振り返ると、エレベータの前で瞬が倒れている。

 はっきり言って砂子は、瞬に対し好感を抱いていない。やれやれ迷惑な話だと思ったが、砂子は明らかに具合の悪そうな人間を見捨てて放置するほど、薄情ではなかった。


 駆け戻ると、自動で閉じようとするエレベータの扉が、瞬の身体を挟んでは、開いていた。


「朝香君! 朝香君ッたら!」


 砂子は、瞬の引き締まった筋肉質の身体を支えて、立たせてやる。見ると、瞬の額には脂汗が滲んでいる。明らかにサイを過剰発動した後の脱力症状だった。猿橋が言っていたように、ムチャな鍛錬を続けているに違いない。


「ごめん……。迷惑かけて、すまないね。前は千本くらい平気だったんだけど、おかしいな…… 」


 砂子はふらつきながら、瞬を部屋の前まで連れて行った。瞬はよろめいて壁にもたれる。震える手でカードを取り出す。扉のカードリーダーに入れられない。砂子が代わりに差し込んでやると、鍵が開いた。扉を開けてやる。


 あとは放っておくつもりだったが、瞬が玄関先に勢いよく倒れ込む音がした。砂子はしかたなく瞬を助け起こし、靴を脱がせて、リビングのソファまで引きずるようにして何とか運んだ。


 夕陽の差し込む部屋はガランとしていて、備品も数えるほどしかない。砂子の部屋にはまだ積んである段ボール箱がないのは、片付けたというより、放浪していた瞬には最初から荷物がほとんどなかったのだろう。


 部屋に置いてある物は色とりどりの酒瓶とグラス類、買いためてあるらしいジャンクフードだけだった。キッチンを見ると、インスタント麺のカップが丁寧に整理されて積んであった。

 毎日、倒れ込むほど鍛錬をしては、ジャンクフードを食べ、酒を飲んで寝る生活なのだろう。砂子の知った話ではないが、いかにも不健康きわまりない日常を送っている様子だった。


 砂子としては、これでただの知人として最大限の義理を果たした。これ以上、瞬につき合う必要は、どのような意味でもないはずだった。砂子がきびすを返して部屋を出ようとした時、ベッド脇にある写真立てが目に入った。


 のぞき込んだ砂子の眼は、写真の中の女性にクギ付けになった。不安で心臓が激しく動悸した。


 瞬にすがりついて笑顔を浮かべている若い女性の姿――。

 不気味なほど自分に酷似している。砂子にはどう見ても、その女性が自分自身にしか見えなかった。


 瞬は眠っているのか、すやすやと寝息を立てていた。過剰発動をしたクロノスは、安静にして栄養を取るしか回復方法はない。


 砂子は写真を手に取って、見入った。


 女性の服は、地味だが清楚な白のワンピースで、どちらかと言えば、砂子の好みに似通っていた。写真の瞬と女性は、これ以上ないほど幸せそうな笑顔を浮かべて、映っていた。


(朝香君って、こんな笑顔をするんだ……)


 殺人兵器などとはとても思えない、あどけなささえ残る美少年の笑顔だった。


(わたし……こんなにいい笑顔したこと……一度もないだろうな……)


 砂子が心の底から幸せだと思った時には、写真にうつる女性のように、周りまで輝かせるような笑顔を浮かべるのだろうか。


 ふたりはよほど愛し合っていたに違いない。女性が戦死さえしなければ、今ごろはきっと幸せな結婚生活を送っていたのだろう。クロノスなどやめていたかも知れない。だが戦役が運命を狂わせた。女は戦死し、生き残った男は独身寮で荒れた生活を送っている。


(でも、わたしの知った話じゃない……)


 無関係だと知っていても、砂子は写真から目を離せなかった。

 その女性は瞳の色だけが違った。カラーコンタクトでもはめているのか、瞬の元恋人は、完全なプラチナ色の瞳をしているように見えた。

 瞳を除けば、すべてが酷似している。この事実は砂子本人でも認めざるを得なかった。


 砂子は写真立てをそっともとに戻した。


 これだけ似ていたのなら、瞬が砂子を恋人と間違えた件については、許してあげようと砂子は思った。


 瞬の寝顔を見た。男慣れした若菜が食指を動かすだけあって、まれにみる美男子には違いない。見つめているうち、会った時からなぜか瞬を懐かしく 感じていた理由がわかった。


 切れ長の目に、太く上がり気味の眉。形のよい高めの鼻に、薄めの唇。父の織機刻司にどこか似ていた。だから、懐かしく感じたに違いない。

 疲れたのだろう、ふだんは固く閉じられた瞬の口は半開きで、すやすやと寝息を立てている。


 瞬は今夜もジャンクフードと酒で夜を明かすのだろうか。亡き恋人の幻影に思いを馳せながら、砂子の隣室で……。

 砂子は近くにあったタオルケットを瞬にかけてやると、音を立てずに部屋を出た。



 朝香瞬が目を覚ますと、すでに日は沈んでいた。


 ソファ……に寝ている。

 記憶をたどってみた。寮の地下の訓練室でサイの発動訓練をするうち、異様な疲れを覚えた。まずいと思い、部屋に戻って休もうとエレベータで上がる途中、砂子と乗り合わせた。


 エレベータを降りる時にサイの過剰発動の反動が出た。全身から力が抜けて倒れた瞬を、砂子が助けに来てくれた。支えられながら部屋の扉を開けた時までは覚えていた。


 その後、砂子は瞬をソファまで運んでくれたのだろう。


 部屋の様子に特に変化はなかった。

 ベランダに出て、くれなずむ東京湾を眺めた。

 どこからか香ばしい匂いが漂ってきた。隣からだ。砂子が作っているらしい。


 ひどい空腹を感じた。近ごろは以前よりも身体が重いと痛感し、食べる量を減らそうと考え、今日も昼食を抜いたせいだろう。

 ベランダの柵に身を乗り出して隣の窓をのぞきこむ。まったく同じ照明のはずなのに、砂子の部屋からは温かい明かりが漏れているように感じた。若菜からも買い出し延期の連絡があったが、一課の職員は業務多忙で、例外なく毎晩帰りが遅い様子だった。


 猿橋から伝言は聞いていたが、本人に直接きちんと謝っておきたかった。

 赤ワインを手土産に、遅ればせながら引っ越しの挨拶がてら訪問すれば、夕食にありつけないだろうか。砂子との間にとどまる様子もなく増幅していく誤解の溝を少しでも埋められにないか。


 瞬は室内に戻ると、写真の中の恋人の遺影を見た。


(明日乃……。織機さんは、本当に君じゃないんだろうか。記憶操作をされているだけなんじゃないのか……。その点もはっきりさせておく必要があるからな……)


 覚悟を決めた瞬は、棚のワインボトルを一本つかむと、玄関を出た。

 深呼吸してから、隣室のチャイムを押した。



  †

 織機砂子がフライパンでポテトを炒めていると、玄関のチャイムが鳴った。

 モニターには、瞬が映っている。小一時間ほどで眼を覚ましたようだ。

 となりの部屋に、よりによって瞬が引っ越してくるとは思わなかったが、さっき瞬のわびしい部屋に入って、かわいそうに思う気持ちが少しだけ湧いた。自分と瓜ふたつの女性を真剣に愛していたらしい事情も本当だとわかった。


 先日の襲撃事件でもいちおう命を救われているし、猿橋によれば反省しているそうだ。隣人でもあり、いつまでも黙殺し続けるわけにもいくまい。ベランダに出て隣を見れば、砂子の在室は丸わかりだし、居留守を使うのも見っともない。


 瞬を無視しない理由をいくつも数えあげてみる自分の思考に、砂子は戸惑いを覚えた。どうやら砂子の本心は、瞬と落ち着いて話をすることを望んでいるらしかった。


 急いでエプロンをはずす。二度目のチャイムで、玄関のドアを開けた。


「やあ、織機さん。取り込み中だったかな? ……ごめん」


 精悍な表情は変わらないが、最初に会った時に比べると、さらにやつれている気がした。サイの過剰発動よりも、奈々子を死なせた精神的な打撃が大きかったのかも知れない。


「別にいいけど……なにか、用?」

「さっきはありがとう、助かったよ。隣に越してきたのに、引っ越しのご挨拶もしてないと思ってね……」

「それはどうも……」


 瞬が差し出してきた赤ワインを一本、両手で受け取る。勝手に閉じかけたドアを瞬の足が止めた。


「隣同士なんて、君とはご縁がありそうだな。ああ、いい匂いがするね……」


 瞬はわざとらしく、鼻をくんくんすすった。


「今、夕食を作ってるのよ……」

「本当に美味しそうな匂いがするね……俺、おなか空いているんだけど、夕食、何にしようかな……」


 瞬がオーバーリアクションでアピールすると、砂子は小さく笑った。


「ま、いいわ。ひとりで全部食べたら太るし、残り物もあるから、今日だけ特別に、どうぞ」


 男嫌いの砂子が自室に異性を入れるなど、珍しい話だった。内心それほど瞬を嫌っていないのかも知れない、と思う。


「もうすぐできるから、とりあえず座ってて」


 瞬はソファでなくダイニングの木製椅子に座った。小さなキッチンだが対面式だから、たがいの顔がよく見えた。


「まだ、片づいていないのよね。来るなり山のように仕事が入ったからさ」


 砂子は、リビングに積み上がった段ボールを見あげる瞬に言いわけをする自分が不思議だった。瞬にだらしない女だと思われるのが嫌なのだろうか。

 サラダ用にニンジンを極細に切っている間も、砂子は瞬の視線を感じていた。おかしい。見られても不快に思わない自分が不思議でならなかった。

 砂子が顔を上げると、目が合った。瞬が甘い笑みを作ると、砂子はどぎまぎした。


「な、何よ、朝香君?」

「え? ああ、君に怒られそうだから、言わないよ」


 また、瞬の死んだ恋人に砂子が似ているという話だろう。事実その通りだとさっき知ったのだが。


「まだ少しかかるから、先に飲んでいたら?」

「じゃ、乾杯しようか。オープナーあるかな?」


 砂子も段ボール箱が未整理で、見つかっていなかった。ずっとビールを飲んですぐに寝てしまう日々だった。


「別に構わないよ、手で空けるからさ」

「朝香君、SF展開もできるの?」


 瞬がつむった眼を開くと、ワインのコルクが瞬の手に移っていた。微細な空間操作まで自在にやってのけるらしい。


「コルクくらいがせいぜいだけどね。サルの職人技には遠く及ばない」


 瞬は食器棚からワイングラスを二つ出すと、赤紫の液体を注いだ。


「じゃ、尊敬する同僚との出会いに、感謝の念を込めて。おたがい、長生きできますように……」


 拒否するのも大人げない、砂子は小さくうなずいてグラスを鳴らした。

 瞬は勢いよくグラスを開けた。

 手酌で酒を入れては飲む。瞬は酒をあてがっておけば、満足するらしい。空間操作士によくいるタイプだった。

 夕食はベーコン、ポテトとキノコのスパゲッティに、緑黄色サラダだ。


「美味しいよ。今日もコンビニ弁当かカップ麺かと思っていたのに、まさかこんなごちそうにありつけるとは予知してなかったよ。ラッキーだな」

「おおげさねぇ。わたしはA級グルメの若菜先輩と違って、料理はいかに手間をかけずに早く美味しく作れるかってことばかり考えているから」

「気が合うね。僕もB級グルメ派だからさ」


 砂子がキノコをこりこりいわせながら食べていると、瞬が訊ねた。


「織機さんはキノコが好きなんだ?」

「大好物よ。キノコだけでスパを作る時もあるくらいよ」


 実は砂子は昔は大のキノコ嫌いで、あの形を見るのもいやだったが、克服してからは多食するようになった。


「……そうなんだ。比べるのは失礼だけど、ふだんはジャンクづくしだから、最高に美味しいよ」

「そんな健康管理で、プロの仕事、できるのかしらね?」


「俺の師匠もジャンクばっかり食べていたけど、超一流だったよ。彼はジャンクフード・マニアでね、新製品が発売されると必ず揃えていたんだ。一度だけで軽々に結論は出せないから、三回は食べるでしょ? 彼が最も重視する基準、分かるかな? 最高の評価を付けるために不可欠の条件?」


「……コスパ、かな?」


「たしかにそれも大事だね。でも彼は『飽きが来ない』作品を最も高く評価していた。だから、気に入ったジャンクはひとケース買う。かくて彼の部屋にはジャンクが山のように積み上がるわけだ」


「朝香君の部屋みたいに?」

「ああ、さっき見られちゃったんだね……」


 瞬が頭をかくと、砂子は笑った。瞬がワインを注いでくれる。

 さらにひとしきり、風変わりな教官の破天荒ぶりについて瞬が面白おかしく話すと、砂子はふと蟹江のしていた話を思い出して、尋ねた。


「それって、もしかしてヘビースモーカーの『ボギー』っていう教官かしら?」

「え? どうしてわかるの?」


 関西支部の同僚が「ボギー」について話していたと説明すると、瞬は旧知の親友に会ったように手を叩いて喜んだ。が、蟹江の殉職について話すと「ごめん」と顔色を変えた。


 しんみりとした空気になったが、瞬とふたりきりでいる時空を嫌じゃないと感じる自分に、砂子は気づき始めていた。


「織機さん、今夜こそと思っていたんだけど、君に謝りたいんだ。これまで色々とごめん。まず、最初に会った時、無理やりキスしようとしたりしたこと……。きちんと謝ってなかったから……」


「わたし、誤解されているけれど、男性恐怖症なのよ。急にあんなことされたから、怖かった……」

「本当にごめん……。おとぎ話みたいにキスをしたら、君が記憶を取り戻すかと思ったんだ……」


 今から思うと、「キスをすれば記憶を取り戻す」などと考える瞬の子供っぽさが可愛らしく感じた。笑う場面ではないはずだが、瞬の申しわけなさそうな顔が面白く、砂子はなぜか笑い出した。つられて、瞬もひきつった笑みを浮かべるが、どうしたものかといった表情が可笑しく、砂子はまた笑った。


「……女性って、よくわからないね……」


 砂子は自分でも今、自分の心がどう動いているのか分からなかった。



 沈黙が訪れた後、砂子は自然に窓の外を見た。TDS(東京ディズニーシー)のジェット・コースターが光の線を作っている。

 瞬もワイングラスを片手に眺めている様子だった。


「ねえ、織機さんは虹色の時、どこで何をやっていたの?」


 虹色の時とは、人類の三分の二が消滅し、一部の人間の記憶が奪われた≪忘却の日≫を指す。今から十年ほど前のクリスマス・イブに起こった出来事だ。

 砂子は記憶を部分的に持っている≪不真正オブリビアス≫だった。恋人の少年を死なせた初恋の思い出だけが残り、他の記憶はすべて滅失していた。もっとも少年はイメージとしてしか残っていない。


「わたしは病院で目が覚めたわ。だから、はっきり憶えていないの」


 砂子のように虹色の時に意識を失い、気づいたら病院に収容されていたという人間は不真正オブリビアスに多い。

 瞬は窓の外、遠くに見えるテーマパークに眼をやりながら、さびしげな笑みを浮かべた。


「そうか。やっぱり君も違うんだろうね。僕はあの時、テーマパークで遊んでいたんだ。二人分の食事を載せたプレートを持って、どこかのテーブルへ向かっている途中だった。飲み物は二つあった。コーヒーとグレープフルーツ・ジュース。僕は酸っぱい飲み物が苦手でね、グレープフルーツなんて食べたこともない。だから、僕の恋人が飲むはずのジュースだったんだ」


 聖夜にふたりきりでテーマパークに行くのなら、ふつうは恋人といっしょだろう。特に混雑している日だから、恋人が席を取って待っている間に、瞬はレジに並び、二人分の食事を買って戻る途中だったわけだ。


「テーマパークって、どこの?」

「TDSだよ。ほら、ここからも見えるでしょ? 僕は十年前、あそこで記憶を全部奪われた」


 砂子はがくぜんとして瞬を見た。


 病院で意識が戻ったのは事実だが、砂子はあの時、TDS内で意識を失っていたところを収容されたと聞いている。砂子はその時まだ十四才だったはずだが、衣服や手持ちのハンドバッグから見ると、精いっぱいのおめかしをした痕跡があった。


「人類の三分の二以上が消失したんだ。あの頃の僕の恋人が生きている可能性は、三分の一もないわけだからね……」


 砂子は心に汗をかきながら、必死で考えた。いや、砂子の恋人は、砂子の誤発動のサイで致命傷を負い、死んでしまったはずだった。生きているはずがない。あの日、TDSへは家族で行ったのだ。父と、大災禍で消えた母との三人で。


 砂子はワインを飲み干して、気を取り直した。


「朝香君も『僕』って言うのね。『俺』より似合っていると思う」


 瞬はワイングラスのステムをくるくる回しながら、赤い液体を眺めている。少年時代に戻ったように、懐かしげな表情に見えた。


「本当だ……気付かなかったな……。『俺』って言い始めたのは、世界中をひとりで放浪していた時からだね。悪党相手に『僕』じゃ、恰好つかないからさ、いつの間にか一人称を変えていたんだ」


 瞬がのぞきこむように、砂子に顔を近づけてきた。


「サルに聞いたけど、君の動作光はプラチナ色なんだね。僕の恋人もそうだった……。君の本当の瞳の色は、違う色じゃないのかな。カラーコンタクトを付ければ、黒目にできるけど」

「よくごらんなさいよ。コンタクトなんて、していないから」


 瞬は顔を真っ赤にしながら、このままキスでもするのかと思うほど、砂子に顔を近づけて来た。


 人殺しの癖に、澄み切った瞳で、じっと砂子の瞳をのぞき込んでいる。


 瞬の瞳がきらりと光ったように見えた。

 瞬は天を仰ぐように、視線を上げていた。涙を隠しているらしい。


「……済まない、織機さん。君の言う通り、人違いだったみたいだ」



 ワインを空け、どこかしょぼくれた様子の瞬が帰った後、砂子は気を落ち受けようと冷蔵庫の扉を開けた。

 常備してある大好物のグレープフルーツ・ジュースを取り出す。ビールジョッキになみなみと注ぐ。


(こんな美味しい飲み物が好きな人間なんて、世に五万といるもの……)


 まだ飲酒できない十四、五歳の少女がイブ・デートで冷たいグレープフルーツ・ジュースを注文する可能性はいくらでもあるはずだ。


 砂子は真冬でもやっているように、グラスの黄色く濁った液体を一気に飲み干した。



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■用語説明No.19:大災禍(カタストロフィ)

二〇五一年十二月二四日夕刻(東京時間)に起こった人類の大量消滅。人類の約三分の二に当たる約六十億人が、虹色の光と共に数秒で、地上から消滅した。

消滅と同時に全人類の記憶が消去され、あるいは改変されたために、≪忘却の日≫とも呼ばれる。原因は不明だが、来たる≪終末の日≫に同様の現象が起こり、残りの人類が消滅すると考えられている。

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