第18話 計量単位E(アインシュタイン)



 今日の東京湾は雲たちでにぎやかな晴れだった。

 魚住幸恵は、課長室で手製のしゃけのおにぎりをほお張りながら、ディスプレイを横目に、機関銃のようにキーボードを叩いていた。


 オリオン対策本部の立ち上げ以来、隣の第一課の業務は異常な量になっている。せめて共管の案件については、第二課ですべておぜん立てをしてカバーしてやらないと、結婚願望の強い若菜が局長に辞表でも叩き付けやしないかと不安だった。≪終末≫を前に依願退職が増え、社会が成り立たなくなりつつある事情は、内務省に限らなかった。


「課長。朝香主査が面会を求めておられますが」

「通して」


 秘書が来客を告げた後、魚住はすばやく答えただけで顔を上げなかった。複数の書類を照らし合わせながら、二つ目のおにぎりをほお張る。

 個室に入る人の気配がした。瞬が現れると、魚住はちらりと目をやって、笑顔で部下をねぎらった。


「午前中の会議はありがとう。見事な議事進行ね。助かるわ」


 二課内部の会議の仕切りを新人の瞬に任せてみたのだが、瞬は万全の事前準備で鮮やかにさばいてみせた。おかげで会議の所要時間は従来の数分の一になった。この若者はただの戦争屋ではなさそうだった。


「軍人が命を張っている間も、内務省のクロノスがのん気な毎日を過ごしているんだとわかりましたよ。道理で人が減らされるわけだ」


 瞬は生まれつきの皮肉屋なのか、相次ぐ戦役で変わってしまったのか。


「これでも、わたしが会議の議題を四分の一以下に減らしているんだけどね。……それで朝香君、寮ぐらしはいかが? 新浦安での生活はどうかしら?」


 会話中も魚住の手は動きっぱなしだ。自分のように同時に複数思考ができる人間は世にあまりいないという事実に、魚住はクロノス養成の兵学校予科生時代に気づいた。


「……どちらかというと最悪ですね」


 不愛想な瞬の答えに、魚住は内心ため息を吐いた。


 猿橋の話では、瞬は若菜や砂子とも喧嘩したらしい。技術課からも突然道場荒らしのように訓練室に現れ、鍛錬器具を壊してしまうほど酷使する風変わりなクロノスについて苦情が寄せられている。傷心の一匹狼をスカウトしたはいいが、出自の全く違う異分子は内務省の空気に全くなじんでいないらしかった。


「例の逆行の件なら、無理よ。そもそも二課の職掌は――」


 魚住の言葉をさえぎって、瞬が用件を切り出してきた。


「わかってますよ。課長、代わりに俺をオリオン対策本部に出向させてください」


 歓迎会襲撃事件で看護師の馬場奈々子を死なせたせいでひどく傷ついていると、犬山若菜から聞いていたが、瞬なりに出した結論なのだろう。


「殉職者の空きが出るまでお待ちなさい。残念ながらそれほど先の話じゃないでしょうから」

「駄目なら、しばらく休職させてくださいませんか?」


 新人として着任して一週間も経たないうちに休職など認められるはずもない。体よくあしらうつもりだった魚住がようやく顔を上げると、思いつめたような瞬の顔があった。切れ長の目は今、憂いを湛えているが、使命感に燃えた時は力強く輝くに違いない。それにしても美男子の若者だ。魚住の愛した男に面差しが似ている気がするが、それも魚住が瞬をスカウトした理由のひとつだった。


「復讐でもするつもり?」

「だったら、いけませんか?」

「お子様ねえ。一年ほど放浪して気づかなかったの? あなた一人じゃ、何もできないってことに」

「オリオンは昴じゃない。俺ひとりで潰せますよ、この前みたいに。こっちがまごまごしているから襲撃なんてされるんだ」


「どうかしらね。オリオンとは何か、後ろで糸を引いている黒幕が誰なのか、知っているの? 私も知らないけどさ。全員殺害されたあの襲撃者たちが本当にオリオンかどうかもわからない。下手人不明で迷宮入りの案件なのに、あなたは手当たり次第に殺しに行くのかしら」


「オリオンはテロ組織なんでしょう? 間違って殺したって別に構わない」

「そういうの、そろそろ卒業したら? かわいい殺人鬼君」


 魚住は食べかけのおにぎりを置いて立ち上がると、瞬に背を向けて、東京湾の上空に浮かぶ白雲の向こうの太陽を眺めた。


「ねえ、朝香君。あなた、『終末』を回避したいと思う?」

「……俺はもう、どっちでもいいですよ」


 守りたい者を失った人間は、生きる意味を見失う時がある。自らの生に疑問を持つ者に、世は救えまい。瞬は今、復讐のためだけに生きている。まだしばらくは、それでいい。


「どっちでもいいなら、回避に協力なさいな」

「だからずっと軍にいたんですよ。でも……なんか疲れたんです、生きるのに」


「恋人がいなくなった世の中を生きてみても仕方ないって、子供じみた話かしら。抜群のTSCAを持ちながら、世界が滅ぶのを指くわえて見ているわけだ?」


「……課長のおっしゃるとおりですよ。別に反論はしません」


 相性の問題かも知れない、どうも瞬とはまだ話が噛み合わなかった。


「なぜ、天翔のクロノスの存在が許されなくなったか、知ってる?」

「時空間操作ができれば、世界を支配できますからね。現に今、誰かさんが独裁しているように」


 時間操作と空間操作を極めた能力者が最強の兵士となるのは事実だ。だが、サッカー選手と野球選手を両方やるようなもので、普通の人間にはできない。稀にやってのける人間がいるが、本当の禁止理由ではない。


「正確じゃないわね。時空間操作を極めた者がやがて、後天的に時流解読能力を持ちうると歴史が教えてくれたからよ。預言者をこれ以上生み出さないために、三士は独立とされた」


「TSCAの歴史は予科生時代に学習して、優を取りましたけどね。それが何か?」


 さも関心なさげに瞬が問い返してきた。


「昔、私が信じている預言者がいたの。彼は死を予知した時、私に預言を託した。私は彼の預言に従って動いている。朝香君、あなたは織機さんとともに、終末を回避する使命を与えられているのよ」


 言いながらも魚住は、自分の言葉が瞬の心にまったく届いていないとわかった。


 朝香瞬ほど、軍が策定するアルマゲドンに従い 、恋人や戦友たちとともに終末回避のために戦ってきた人間は少ないだろう。だが、もういい。


「迷惑な預言ですね。俺も昔、似たような話をされて、その気になった時期がありましたけれど。もう、辞めましたよ」


 瞬は、自分を凝視する魚住の顔を見返した。猿橋のランキングでは二位に君臨するだけあって、じっと見つめているとこっちが赤くなりそうなほどの美貌だった。


「朝香君、あなたが軍に戻らなかったのは、軍のやり方に不信を抱いたからじゃなくて?」


 魚住の指摘は間違っていない。瞬の沈黙を肯定と解したらしく、魚住が続ける。


「軍は本当に正しい道を歩んでいると思う? 軍に任せていたら、『終末』が回避されるって、あなたはまだ信じているの?」


 従軍してきただけのクロノスには分からないが、軍は時流解釈士の予言に従って動いているはずだ。ではなぜ第五次遠征の惨敗を予知しえなかったのか。昴サイドの預言者が完勝しただけの話か。


 黙ったままの瞬に、魚住が畳みかけた。


「あなたが内務省に来たのは、昴につながりを持つオリオンの情報を得て昴に復讐するためでしょ? でもどのみち世界が終わるなら、復讐なんて空しいと思わない?」


「だけど、内務省なんかに何ができるっていうんですか? 逆行による救済を標榜しながら、過去の改変もろくにできやしない」


「そうね。十年以上前に私が入省したころは、内務省に力があった。あの頃には『終末』がまだまだ先だったせいもあるけれど、時空局は軍の向こうを張っていた 。でも忘却の年にひとつの事件が起こった。以来、内務省は弱体化の一途をたどっている」


 情報統制がされているため真相はやぶの中だが、≪内務省二課事件≫は、瞬もいちおう知っている。

 極めて高いTSCAを持つ二課長がクーデターを起こして殺害された内務省史の汚点と言われる事件だ。


 内務省・時空間保安局は省内の一部局にすぎないが、職員に多数のクロノスを擁するがゆえに、以前は軍に伍する力を持っていた。だが、二課事件を契機に、時間操作と空間操作の厳格分離が徹底されると同時に、内務省時空間保安局の権限が大幅に削られ、軍に移譲された。


「時空局は予算も人員も削られて、かつての力を失っている。正面から軍と対抗したところで、とても勝ち目はないわ」

「軍と内務省じゃ、役割が違うんです。張り合う意味がないと思いますがね」


 瞬は鼻で嗤いながら、答えた。我ながら内務省への帰属意識がまだ希薄らしい。

 時空局の本来の職掌は公安維持であり、≪終末≫回避ではない。


「今のままじゃ、軍が間違っていた場合、世界が終わってしまう。だから、あなたを内務省に採りたいと思ったの。たったひとりで救世軍の一個師団を相手に戦える超攻撃型のクロノスをね」


 瞬が内務省に来た理由は、魚住が看破していたとおり、オリオンから昴の情報を得て復讐するためだ。それ以上でも、それ以下でもなかった。


「他を当たってくださいませんか。休職できないんなら、退職させてもらいます。ヤメクロで食べていったほうが実入りもよさそうですしね」


 魚住は机の上のおにぎりの残りを口に入れると、優雅に微笑んだ。


「退職は困るから、休職させてあげるわ。もしもわたしにTSコンバットで勝てたらね」


 瞬が口を開く前に、魚住は花曇りの春空のような青い光壁を展開して、瞬を包み込んだ。

 動作光に包まれると、そのクロノスの魂を感じるという。


 瞬は母胎内にいるような安心感と安らぎを覚えた。癒しと呼ぶのは平凡すぎる。すべてが許されたという安堵に心が満たされて行く気がした。


「この青を、私が愛した人は『青霞』と呼んでくれた。わたしの霊石はエンジェライト。天使に喩えられる博愛の石。でも、罪な石よね、天使ならざる人間は複数の相手を同時に愛せはしないのだから……」


 魚住の光壁がフェードアウトすると、テレポートが完了していた。第三コロッセオにいるらしい。

 魚住はクロノス専用の兵器AP(アタック・プロモーター)を一本ずつ、両手にテレポートさせた。シリコン加工がほどこされた日本刀型の競技用APで、実際の殺傷能力は低く抑えてある。


 瞬は、魚住がみっともない姿で地に伏す姿を想像し、気の毒になった。小柄で優雅な年上の美女をいじめる気にはならなかった。


「課長、止しませんか。俺は軍でも七星陣に入っていました。課長が俺に勝てるとは思えない」


 異時空戦におけるクロノスの典型的なフォーメーションのひとつが、各人の霊石を共鳴させて強力なサイを得る≪七星陣≫と呼ばれる陣形だ。むろん、七星陣には最高レベルのクロノスたちが選ばれる。


「あら、わたしはTSコンバットで負けた経験は一度もないわよ。引き分けは二度、あるけれど」


 軍でも訓練や能力評価に利用されている「TSコンバット」は、時間(T)と空間(S)の略称を冠する競技で、クロノスがサイを用いて能力を競い合う模擬戦闘だ。


「それは課長がこれまで強い相手と戦わなかっただけですよ」

「昔、おたくの七星陣の主星と勝負したけれど、彼はまあまあ強かったわよ」

「……ボギー教官と?」


 瞬は内心の動揺を隠せないまま問い返した。瞬の時代の主星は恩人でもあるボギーこと、末永了一郎だ。軍史上最強といわれたクロノスである。瞬は結局、一度も彼に勝てなかった。


「そうよ。勝敗はつかなかったけれどね。おたがい手を抜いたんじゃないかって言われたわ。あのころは恋人同士だったから」


 瞬は魚住の整った顔を凝視した。たしかに女グセの悪いボギーでなくとも、男なら誰でも惚れてしまいそうな容貌ではあった。


「たしかに普通のクロノスでは、あなたの強力なガロア防壁を破れないわね。押さえ込まれて、終わり。わたしの防壁もせいぜい数百ガロア。だけど、わたしはあなたに勝てる」


 瞬の半分以下のガロア数値でどうやって瞬のサイ攻撃を防ぐというのか。

 魚住が差し出してきたAPを受け取る。


「コンバット・スーツはいらないわね。チャクラは二点抜きにする?」

「いいえ」


 チャクラとはサイを展開する起点となるエネルギースポットであり、TSコンバットの試合では八つのチャクラのいずれかをヒットすることで、勝敗が決せられる。喉の第五、眉間の第六チャクラは事故負傷の原因となりやすいため、初心者は「二点抜き」といい、攻撃ポイントから除外するルールがある。もっとも瞬レベルのクロノスになれば、ガロア防壁で直撃を防げるから、魚住の確認は、瞬を馬鹿にした発問とも取れた。


 瞬はAPの柄を握りしめた。訓練用でも、実戦用の標準的なAPの重量に合わせてあるが、使い慣れた瞬の実戦用AP≪三日月宗近≫よりは軽く、多少落ち着かない。


 瞬が構えると、魚住も青眼で構えた。

 構えだけで、魚住が素人でないとわかった。


 だが、ボギーと魚住が互角だったと言っても、ずいぶん昔の話だろう。時間士と違い、空間士は男性に適性がある。過酷な虹色の戦場にも出ず、たかだか内務省でくすぶっていたクロノスに、蒼光のメデューサと恐れられた瞬が敗れるはずがない。


「ケガをさせちゃいけないとか、考えなくていいから。行くわよ」


 魚住が眼を見開くと、青霞の光壁が魚住を包んでいく。

 魚住が展開し終える前に、瞬は蒼光の壁を立ち上げて、魚住の青霞の壁を押さえ込んだ。これで魚住はもう身動きが取れない。勝負あり、だ。


「お見事ね。これだけのガロア防壁に押さえ込まれたのはひさしぶりよ。あなたの一〇〇〇ガロアを超える防壁の前に、ふつうの空間操作士は勝てない。時間操作士のウェルズ防壁でも相当のレベルでない限り、対抗できないわね」


「俺の勝ちでいいですか、課長?」

「まさか。TSコンバットはガロア数値の競い合いじゃないでしょ? 今のあなたの空間操作では、私に勝てないことを教えてあげる」


 魚住は優雅に微笑むと、瞬に向かってゆっくりと歩み始めた。

 瞬はたじろいだ。魚住は倍以上のサイに押さえ込まれて身動き取れないはずだ。だが魚住は、まるで防壁など存在しない通常空間を歩いているかのように、優雅に歩いてくる。魚住の前には、虹色の透明のカーテンらしき光が、そよ風に吹かれるように揺れていた。


 瞬は内心あせった。見た覚えのない光だ。


 瞬はやむを得ず後ずさりした。精神を集中し、さらに防壁を強化していく。だが、魚住は止まらない。涼しい顔で、瞬の防壁を侵食してくる。

 ならばと、瞬は逆に踏み込んだ。APで斬りあげる。が、虹色のカーテンにはじかれた。跳びすさる。


 馬鹿な。魚住は、ガロア防壁を一方的に侵食しているというのか。


 ラメ入りの青霞を感じた。時間操作光だ。侵入を許した自防壁内で使われれば丸腰に等しい。


 魚住の姿が消えた。逆行したのか。

 

 瞬はあわててテレポートしながら防壁の再展開を――


 気づくと、魚住のAPでみぞおちを強打され、ふっとばされていた。瞬の負けだ。瞬はコロッセオの側壁で強打した左肩を手で押さえる。


 強い。別格の強さだった。実戦なら瞬は殺害されていただろう。

 これほどのクロノスが内務省にいるとは、考えてもみなかった。


 魚住は優雅に微笑みながら、瞬に尋ねた。


「仕事、少しはやる気になったかしら?」

「いったい何ですか? あの虹色のカーテンみたいな光は?」


「天翔のクロノスは、時間操作と空間操作を別々にできる能力者を指す言葉じゃないのよ。その意味でボギーは天翔のクロノスとはいえない。私が使ったのは、ガロアでもウェルズでもない、時空間操作力。計量単位はE、アインシュタイン」


「時空間操作力、アインシュタイン……」

「この世で使える者は数えるほどしかいないでしょうね。天翔のクロノスのほとんどは抹殺されたから」


 魚住は寂しげに微笑んだ。


「課長にこれほどの力があるのなら、俺なんて必要ないでしょう」


「いいえ、私のアインシュタインは偽物よ。強力なガロアがウェルズを破れるのと同じで、強力なウェルズに、アインシュタインは対抗できない。私では、あなたのような最強の空間士を倒せても、時間士は倒せない。私の限界数値はもう何年も変わっていないから、これ以上強くなることもない。私の力だけでは敵に勝てないのよ」


「敵って、異神を倒すんですか?」


「最終的にはね。でも、さしあたっては天兵よ。星ぼしの名を冠したクロノスたちが、異神の尖兵として降臨する。いえ、すでにしている。昨年末に現れたクロノスPはおそらく最初の天兵、マーズ。今の私たちではマーズを止められないでしょうけれど」


「それって、『月の虹』に出てくる……」

「そうよ。すべてはあの預言書のとおりに動いている」


 クロノス養成校である兵学校に学んだ者なら、『月の虹』は誰でも教養として知っている。だが、神話や伝説のような代物で、それを信じると言われても、ギリシャ神話のアポロンやアルテミスが本当に現実世界に出てくるような感覚だ。内務省でも最高の知性とされる魚住の口から出るとは信じられなかった。


「その天兵はどこから来るんですか?」

「私にもまだわからない。軍は昴を、内務省はオリオンを敵と考えている。でも、おそらく人類の敵は別にいる」

「どこにいるんですか?」


「敵は軍にも、内務省にも、時空研にもいるようね。この前の襲撃事件では、本庁の地下通路に張られていた結界が作動しなかった。すべての注意が宴会場に向けられている間に、敵はゆうゆうと地下の結界内に侵入した。毎日変更されるパスワードをテロリストに漏らした者がいるはずなのよ。局長室が決める極秘パスワードをね」


「課長、内務省本部の地下にはいったい何があるんですか?」


「忘却の日は内務省本庁で始まった。ここにこそ救世の鍵があるのよ。……時が来たら、いずれあなたたちを案内するつもりよ。わたしが内務省本部にずっととどまっている理由もそれで分かるでしょう 」


 魚住はまだ瞬を信用し切れていないのだろう。当然の話だが。


「課長はいったい……何者なんですか?」


「ただのクロノスよ。でも私が愛した人の遺志を継いで、幼い娘に未来を残したいと願う母親でもあるわ」


 肩を押さえてうずくまったままの瞬に、魚住が手を差し出してきた。


「さ、課長室でコーヒーでもごちそうするわ」


 瞬が魚住のしっとりした手を握ると、青霞に包まれ、二人は課長室に戻っていた。



 瞬は、魚住が自前のコーヒーメーカーで淹れてくれたブラックを飲んだ。ほろ苦い。


「……ボギー教官とは?」

「結婚はしなかったけれど、親友であり、同志だった。彼は軍で、私は内務省で救世のために動いていた」

「でも俺は見ての通り、ただの空間屋です。天翔のクロノスじゃない」


「そうね。でも、時空局には、あなたに匹敵する時間操作士がいるでしょ。研修所を歴代三位の成績で卒業した逸材。朝香瞬と織機砂子が力を合わせれば、天翔のクロノスになれると思う。たとえ軍が誤った道へ行ったとしても、私たちが『終末』を止めるのよ」


「どうして、課長じゃなく、俺や織機さんなんですか?」

「『月の虹』によると、救世の扉を開く者はオブリビアスだとされている。だから私じゃない。猿橋君や犬山さんでもない」

「俺は結局、どうしたらいいんですか?」


 今の瞬には、ブラックを啜るくらいしか思いつかない。


「まずは強くなりなさい。あなたのサイ発動量は私と違って、発動するたびにレベルが違う。あなたほどの経験を持ちながら数値がまったく安定しないのは、ガロアが限界数値にぜんぜん届いていないからよ。あなたのガロア防壁はまだまだ強くなる。あなたは最強の空間操作士でなく、最強のクロノスになって。さもなくば天兵との戦いには勝てない」


「でも俺はさっき課長に負けたばかりですよ。どうしろと?」


「いいこと、朝香君。改良型エンハンサーが登場した以上、あなたはもう特別のクロノスじゃない。やみくもに鍛錬を積んでもだめよ。技術課からクレームが来たから、朝香君のことを話しておいたわ。あなたのガロア数値を一ケタ上げるために骨を折ってくれるはずよ。根っからの技術者で、ひどく不愛想だけれど、内務省のTSCA技術は山さん と谷君のコンビに支えられているの。ラボに住んでいるから、彼らに相談してみて。あなたはもっと強くならなければいけない」


「わかりました。この足で行ってきます」


 瞬はブラックを飲み干すと、立ちあがる。

 すでに魚住はディスプレイ画面に戻り、キーを叩き始めていた。



     †

 瞬が訓練室の隣にあるラボをノックしても、中からの返事はなかった。

 ドアを開けようとしても、ロックされている。何度もノックしたが、らちがあかない。


 瞬はしかたなく室内にテレポートした。が、入ったはいいが、テレポート先にはラボの中に積み重なっていたガラスケースがあった。


「し、しまった!」


 すぐにガロア防壁を床に展開するが、時すでに遅し。ケースや中のガラスびんが床に落ちて割れ、散乱した。


「も、申し訳ありません! 弁償します」


 研究員らはいっせいに瞬を見たが、何もなかったように作業に戻った。

 瞬は割れたグラスを拾い、近くにあったホウキできる限りケースを原状に復そうとしたが、誰も手伝おうとしない。


 中には白衣の研究者が何人か座っているが、試験時間中のように小さな作業音がするだけだ。誰も何も言わず、部屋は静まり返っている。

 小柄な痩せた頭頂のはげた薄い老人が立ち上がると、瞬のほうに向かってきた。


「あの……俺は、この四月から二課に配属された――」


 老人は目も合わせず瞬を押しのけると、瞬の斜め後ろにある棚からビーカーを取り出し、黙って器具だらけの座席に戻っていく。


「すみません、山さんでいらっしゃいますか?」


 後ろ姿に声を掛けても老人は返事をせずに座り、黙々と作業を続けている。顕微鏡をのぞき込みながら、ブレスレットの霊石を極細のピンセットで処理しているようだ。エンハンサーのメンテナンス作業だろう。


 エンハンサーに使用される輝石回路は超微細な構造であり、米粒に絵を描くような精密な作業が要求される 。低質な既製品の量産エンハンサーと違い、最高水準のエンハンサーは機械加工では製造できず、職人の手作業によるしかないとされている。


 瞬は仕方なく作業が終わるまでそのまま待つことにしたが、老人は驚異の集中力で作業を続けている。


 一時間ほどしてようやく顔を上げた老人は、瞬の存在に初めて気づいたように、瞬をいぶかしげに見た。


「〇・六ミリ以下の精密作業は機械では正確にできんからの。それで、わしに何か用かな? 若いの」

「二課の朝香と申します。魚住二課長から、ラボの山さんを訪ねるように言われましてね」

「ふん……あんたが救世軍崩れの新入りかね? 罪滅ぼしにでも来たつもりか?」


 山さんは露骨に嫌そうな顔に変えると、無精ひげをまさぐりながら、ぼそりとつぶやいた。


「わしは軍人が嫌いでな 」

「すみません。でも今は同じ会社の一員です。公平に扱ってくれませんか」


「わしは昔から好き嫌いの激しいタチでな、不公平がわしの信条じゃ。あんたはどうも好きになれんが、幸恵(魚住)さんから話は聞いておるから、いちおうつき合ってやる。検査室に入れ」


 山さんに促され、瞬はラボに併設された個室に入った。


「ドラ、手伝え」


 山さんの怒鳴り声に、作業着姿の小太りな男が腹を突き出して現れた。ドラは 、黙ってうなずき、ガラスごしに瞬の前に座った。ドラとはドラえもん体型のおかげでつけられたあだ名に違いない。丸い身体に雪だるまのように大きな頭が乗っている。よく見るといちおう首はあるようだ。


「不愛想な奴じゃが、エンハンサー技師としての腕は確かじゃ」


 山さんに「不愛想」と言われれば相当なものだが、首からぶら下げている身分証を見ると「谷」という名らしい。


「若いの、真ん中にカラ光線を当ててみな」


 検査室に入ってきた山さんが標的を示した。瞬が同心円の中心に細い蒼光を当てる。山さんの指示どおり、瞬は視力検査表のような的に次々と蒼光を当てていく。


「霊石はラピスラズリか。実物は初めてじゃな。コンタクトレンズ型とは珍しいのう。じゃが、波長がレンジからはみ出ておるな。エンハンサーを貸してみい」


 山さんが差し出してきたシャーレにレンズを外して入れる。山さんは拡大鏡でエンハンサーを調べ、ドラと二言、三言話していたが、やがて腕を組んで考え込んだ。


「ありえん数値じゃ。ドラ、やり直せ」


 指示に従い、ドラは黙ってうなずくと、ディスプレイに向かう。

 山さんが腕組をしながらのぞき込む。

 瞬が話しかけても山さんはずっと答えなかったが、やがて尋ねてきた。


「あんた、このエンハンサーは最近使い始めたばかりじゃな?」

「いえ、もう何年も使っていますが」

「嘘をつけ、霊石にほとんど劣化がない。ドラ、やり直せ」


 谷ことドラは黙々と作業をこなすが、山さんの表情は変わらない。

 山さんはドラに何度も作業をさせたが、ついにあきらめたように、瞬を見た。


「よう分からん。しばらく預からせてくれんか」

「その間は……?」

「これを使え」


 山さんがブレスレットを見繕って、ひとつを放り投げてきた。受け取って見ると、クオーツ(水晶)の規格品である。霊石として万人に使用可能なぶん、力を最大限に引き出すことは難しい。


「わしが作ったものじゃ。クオーツじゃからと馬鹿にするなよ。今日は帰れ。さっきあんたが壊した器具の弁償代金といっしょに、またわしから連絡する」

「だいたいどれくらいかかりそうですか?」


 山さんはドラと顔をくっつけあうようにしてディスプレイをのぞき込み、瞬がそのあと何を話しかけても、一言も返事を返さなかった。


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■用語説明No.18:国立兵学校予科(空間操作科)

国家資格である時空間操作士(クロノス)を養成する教育機関の一つ。

東京に三校、全国に十八校ある 。各校一学年の定員は一八〇名で、全寮制。通常の中等部カリキュラムに加えて、空間操作の理論と実技を習得する。

クロノスになるための最短コースであり、兵学校生は準公務員扱いとなり、給与が支給されるため、例年、極めて高い競争倍率となる。

なお、クロノス三士のうち、時間操作士、時流解釈士については全く別系列の養成機関が存在する。

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