第17話 残り香


 オリオンと目されるテロリストによる襲撃の数日後、朝香瞬は退院の日を迎えた。


 同じ病室から見る海が、今日はやけに蒼く見えた。奈々子の命を奪った瞬の動作光の色に似ている気がした。


「瞬一郎君。今日、退院だってね。あたし、会議で迎えに来られないんだけど、サルをよこすわね。今晩は早めに切り上げて退院パーティー、やってあげるからさ」


「ありがとうございます、課長補佐」


 犬山若菜は毎日、出勤前と退社の時に、瞬の病室を必ず見舞いに来た。誘われて病院でランチをともにした日もある。ちなみに猿橋は二度、砂子は一度だけ見舞いに来た。

 今晩は若菜の住んでいる寮の最上階にある共用スペースを借りて、退院祝いをしてくれるらしい。若菜の発案で猿橋が動き、砂子も招かれている。


「あたしもこの前に引っ越ししてから、ずっと会議続きでさ。ろくに部屋の片づけもできてないんだけれど、お酒の棚だけはバッチリ整理してあるからさ。飲みたくなったらいつでも来てね。あたしも初任地が新浦安だったから寮はよく知ってるけれど、君の寮よりずっとゴージャスだから」


 以前なら「おばさん」と思ったはずだが、渋いジャズのヴォーカルでもできそうなハスキーボイスを色っぽいと思うようになったのは、瞬が多少は大人になった証拠だろう。


 猿橋のランキングでは、若菜が魚住課長より下位だったが、当然ながら猿橋の好みを反映した評価にすぎない。容貌では甲乙つけ難く、瞬なら若菜を上位に付けたはずだった。砂子は清楚な少女らしさを残しているが、若菜は匂いたつような女の色気がある。魚住を知性的な美貌といえるが、若菜は野性的な美貌だ。


 猿橋が評するように、若菜が「魔性の女」なのかどうかは、まだよくわからなかった。瞬にとって若菜は面倒見のよい、頼りがいのある年上の女性だった。


「ごめんね。あたしがあの時、ワインなんて欲しがらなかったら、あの子は死ななくて済んだかも知れない。そうしたら、瞬一郎君も苦しまなくてよかったのにね……」


 宴会場の後方出入口付近にいた奈々子は、人質としてオリオンの者たちに捕らえられていたらしい。後の現場検証では、襲撃者たちとともに、朝香瞬によるサイの発動で死亡したと判断された。

 同情するように瞬を見る若菜から視線をそらして、瞬は窓の外を見た。


「君が防壁を張った時点で、すでに職員が何人もオリオンに殺されていた。あの状況下では、君の判断は正しかったのよ。君のおかげで一〇〇人以上の命が助かったんだから。あたしも含めてね」


 新浦安に時空局の関連施設が集中立地されているには、理由があった。しばしば命を狙われるクロノスたちを守る時空結界を組織的にまとめて張り、また、クロノス同士で身を護るためだ。

 内務省の本庁舎に展開された簡易結界は、事件後も破られることなく機能していた。つまり、オリオンたちを手引きして内部に引き入れた内通者がいたことになる 。


「魚住課長から聞いたんですが、逆行の申請は、されていないそうですね?」

「結果として死者数が基準以下にとどまったから、逆行相当案件にはならないのよね」


 瞬が襲撃者を殺害して被害を少なくしたせいもあって、内務省側の死者は奈々子を入れて十名未満にとどまった。事件の重大性は逆行許可基準のひとつだが、国民でさえ救済しないはずの案件で、内務省が身内を救済するプロジェクトを実行すれば、身内に甘いとの批判にさらされる。


 小規模な戦闘だったが、狭い部屋でサイを発動しあった。まるで異時空間戦闘のように、結界が複雑に入り組んで発生しているはずだ。逆行による救済には、相当の人員投入が必要だった。


「……奴らの目的は、何だったんですか? ただのテロですか?」


 幹部クラスの若菜なら把握している情報もあるだろう。


「まだ目的がはっきりしないけれど、あたしたちが宴会場の対応に追われている隙に、本部の地下に潜入者があったようね」


 ただの陽動作戦に巻き込まれて、奈々子たちが命を落としたというのか。

 瞬は歯軋りしながら、奈々子の命を奪った自分の右手を見つめた。


「犬山補佐。対オリオンの作戦が決まったら、プロジェクトに必ず俺を加えてください」


 若菜は瞬にさらに身を寄せると、瞬の右手を両手で握った。手は少しひんやりとしていて、なめらかな湿り気を帯びていた。


「クロノスには、クロノスでなければ分からない苦しみがある。君のこの手は、あたしたちを守ってくれた手でもあるのよ」


 若菜が去った後も、爽やかな柑橘系の香水の香りが部屋に残った。



「おい、朝香。寮の話なんやけどな、お前、俺と部屋、交換せえへんか?」


 猿橋が差し出してきたタバコを一本摘まみながら、瞬は問い返した。


「なぜそんな面倒な真似をする必要があるんだ?」

「お前の隣、サコちゃんやねん。頼むし、代わってくれ」

「タダでは嫌だな。バランタインの三〇年を二年分提供するなら、考えてもいい」


 猿橋は肩をすくめると、ソファから立ち上がった。

 暮らし慣れた病室ともお別れだった。部屋を出ると、奈々子の死を当たり前のように受け入れてしまいそうな自分が嫌だった。

 ポピーの生けられた花瓶を見つめる瞬に、猿橋が声をかけた。


「朝香、お前、そこまでナナちゃんを好きやったんか?」


 この男は、無理やりにでも世の中を恋愛感情で説明したいようだ。入寮手続に立ち会い、寮内の施設を案内してくれるという猿橋の好意には感謝しているが、瞬はまじめに答える気にならなかった。


「ああ、略奪愛をするつもりだったよ」


 猿橋も本来所属の異なる奈々子を歓迎会に誘った責任を感じている様子だった。傷を舐め合いたいのかも知れない。


「ナナちゃん、婚約しとったんやなぁ」


 もうすぐ結婚するんだと恥ずかしそうに笑う奈々子の顔が、思い浮かんだ。奈々子の幸せを、瞬は自らの手で奪い去った。

 こんな時のために時間操作士がいて、逆行により歴史を変えるべきではないか。が、≪体制≫下で時間操作は厳格すぎるほどに管理されていた。もどかしさよりも、腹立たしさが募った。


 予知される『終末』さえなければ、過去は比較的自由に改変できたはずで、TSCAの開発当初はそのような空気であったらしい。だが、『終末』まで二年となり、非常時体制下に置かれた現在は、望むベくもなかった。


「サル。ナナさんの婚約者が誰だったか、あんたの情報網で調べてくれないか」

「知って、どないすんねんな」


 謝って済む話ではない。瞬なら、許さないはずだ。


「わからない。ただ、誰の幸せを奪ったのか、知る責任があると思うんだ……」

「……よっしゃ。でも、ちょっと時間をくれや。それにしても、まさか裏切り者がおるとはのう」

「俺が絶対に見つけ出して、始末してやる……」


 奈々子のおかげで、瞬は「人を救う」というクロノスの仕事に生きがいを見出せそうな気がしていた。だが、奈々子の死がすべてをふりだしに戻した。


「まあ、あんまり物騒なこと、ゆうなや。買い物の約束しとったらしいけど、俺が代わりに連れて行ったるさかい。ほな、ぼちぼち行こか」


 瞬は猿橋に背を向けて、病室の窓際に歩み寄った。傾きかけた春の太陽が海面を輝かせている。

 出がけに、最後に奈々子の生けてくれた花瓶を一瞥した。


「死にはしない。約束したから」


 瞬は一日に三度水を替えたが、ポピーの花はすでに枯れかけていた。それでもなお、瞬には魔法の花の香りが残っている気がした。



 織機砂子が仕事を何とか切り上げて指示された会場に着くと、すでに瞬、若菜、猿橋がテーブルを囲み、出来上がり始めている様子だった。


「おお、サコちゃん、遅かったな。乾杯の練習で酔い潰れてしまいそうやったで」


 ほろ酔いの猿橋がすでにコンロで野菜を焼き始めていた。


「ごめん、若菜先輩にいっぱい仕事、もらってるからさ」

「あら、サコ、皮肉をいうと女性力が下がるわよ。さ、メンバーもそろったし。じゃ。サル、乾杯の発声」


 若菜の指示で、猿橋が咳ばらいをしてから、立ちあがった。


「ええ~この度は、朝香瞬一郎君を本局二課の同僚として迎え、また、織機砂子さんを関西支部から無事に引き抜けまして、わが省の時空保安局と致しましては――」

「あんた、前置き長いわよ。もういいわ」


 遠慮なく途中でさえぎった若菜が、ビールジョッキを上げた。


「じゃ、みんなお幸せに、乾杯!」


 猿橋があわててジョッキを合わせた。気のいい猿橋は今晩のパーティーのために午後から半休を取り、買ってきた食材を切って鋭意準備を進めていたらしい。


「ほな、肉、焼くでぇ」


 猿橋がトングで最高級の肉を載せると、じゅわっと元気な音がした。

 砂子も若菜も名家の令嬢だから、およそ金銭に不自由した経験はない。瞬は完全なオブリビアスで身元不明だが、猿橋は裕福な出ではない。それでもクロノスは有資格者が命を張る現業公務員だけに、高給取りだった。独身貴族なら金には困らないはずだが、世界があと二年しかないとの認識もあって、金使いが荒かった。


 何とか終末を回避しようと日々生きている人間もいる一方で、世には、死ぬまでに金を使い切ろうと豪遊の旅に出る資産家もいるらしい。クロノスとて、終末回避ができる自信もないから、批判できる筋合いでもないのだが。


「ビールはサーバーを使うに限るわねぇ。泡の出かたが違うわよ」

「アネさんの人生の半分は『酒』ですからなぁ。ほんま、頭下がりますわ」

「否定はしないけどさ。じゃあ、あとの半分は何なのよ?」

「オトコとちゃうんですか?」

「わかっているじゃないの」

「じゃあ、仕事は入ってないんですか?」


 見かねた砂子が一応、ツッコミを入れておく。若菜はサーバーから瞬のビールのお替りを上手に注ぎながら答えた。


「アルコールが入っていないときは、仕事やってるでしょ。入れ替わり制なのよ」

「結局、オトコは常に半分を占めとるんですな?」

「サル、あんたも他人のこと、言えないと思うけど?」

「そら、そうです。オレの場合、アネさんを尊敬してますさかい、人生の半分は『オンナ』ですわ。残されたあと二年、駆け抜けるで、オレは」

「そういっている割には、女の子に困っているみたいだけど?」

「それは、アネさんもおんなじやないですか?」

「あたしの場合は、理想が高いだけで、本来はよりどりみどりだもの。あんたとは出発点も理由も違うわよ」


 若菜のハスキーボイスに、おちゃらけた猿橋のテナーで、バカ話が延々と繰り広げる間も、瞬はビールを黙ってチビリチビリやっていた。ひとり瞬だけが場違いに暗い雰囲気を醸し出している。


「さ、次、赤ワイン、行きましょ。サコ、空けてくれる?」

 指名された砂子はワイン・オープナーを探すが、見当たらない。

「あれ、ないかしら? じゃあ、サル。開けて」

「了解」


 猿橋が右手を濃紺に輝かせ、ワイン・ボトルの首を包んだ。


 第一線で活躍しているクロノスには、大なり小なり特技とも呼べるサイを持つものだが、猿橋の特技は、SF(スーパーファイン)と呼ばれる超微細なサイだった。瞬のように巨大で強力な防壁を展開しようとするクロノスが多い中では、異色の存在と言っていい。


「ほいよ」


 サルの手の中にコルクが映っている。器用な技だ 。もしかしたらこの技を見せるためにわざとワインオープナーを持ってこなかったのかも知れない。

 瞬はペースが異様に早かった。砂子が注いでもすぐにグラスを開けてしまう。早く酔いたいのか飲んでばかりで、ほとんど食べていない様子だった。


「ワイン、二本空いちゃったわね。次、瞬一郎君は何を飲む? おねえさんが作ってあげるけど」


 若菜は猿橋に指示して十種類以上のアルコールを運ばせ、取り揃えていた。

 黙ったままの瞬の前に、若菜がロックグラスの縁に塩を付けたカクテルを作って、置いた。


「迷ったら、ソルティー・ドッグ。若菜流の飲みかたよ」


 毒見するように一口だけ飲んだ瞬が、やっと聞こえるくらいの声で評した。


「……美味いですね。これ、何が入っているんですか?」

「ウォッカをグレープフルーツ・ジュースで割るの。塩をキレイにつけるには技術が要るのよ」

「俺、グレープフルーツ、嫌いなのに、酒でごまかせば、飲めるんだ……」

「そら、アネさんの愛情がこもっとるからのう」


 引き続き黙って飲み続ける瞬の前に、猿橋は肉が山盛り乗った皿を置いた。


「ほら、お前も食わんかい」

「……すまない。あんまり食欲がないんだ」

「なんや、瞬。さっきからシケたツラしとんのう。食わな、元気でえへんぞ」

「あの事件からまだ一週間にもならないのに、飲んで騒ぐ気分にならないんだ」


 瞬が冷たく言い放つと、猿橋が肉を裏返していたトングを脇の皿に置いた。


「逆やろが。あの事件があったから、騒ぐんやないか」

「俺はそんなに単純な人間じゃない」


 猿橋の顔から笑みが消えた。


「お前、あほか? お前がずっと沈み切っとるから、励ましたろ思って開いてるパーティーやないか?」

「余計なお世話だよ。飲み食いしたからって、問題が解決するわけじゃない」


「お前はガキか? 俺らの笑顔の下に、ほんまに笑顔があるぅ思っとんのか? みんな、それぞれに思いを抱えとんにゃ。苦しんどんのはお前だけやない。いつまでも引きずっとったら、もたへんぞ。吹っ切らなあかん時もあるんや」


「吹っ切るには、早いんじゃないのか? 俺たちはクロノスだぞ」


 瞬はがばりと身を起こすと、若菜に向かって土下座するように頭を下げた。


「課長補佐、お願いです。逆行許可をとってもらえませんか?」


 カクテル作成中の若菜は、マドラーでかき混ぜ終え、ひと口確認するように、味を見てから答えた。


「……ごめんね、朝香君。オリオンの奴らは最近、逆行テロしかしない。今回もそうだったわ。最近の通達でね、逆行テロ対策については、アルマゲドンとの抵触を厳重に吟味する段取りになったんだけど、今回の件は時流解釈士からNOが出されたの。悪いけど、あきらめて」


 テロリスト側も逆行により過去が改変されれば、テロが無効だと分かっている。だから、逆行して過去を改変してテロを行う。


 逆行テロは、通常事象と異なり、過去改変があるために、自然結界の上に強力な人為結界がうわ塗りされる。無論テロリストたちが死ねば彼らの死も確定するが、テロが成功した場合には、強力な結界で結果を守れるわけだ。


「……逆行が全く不可能なわけじゃないでしょ? ダメもとで、試すだけ試したっていいはずです」


 瞬が食い下がっても、若菜は首を横に振るだけだった。


「サル、わたしにビールもう一杯、頼めるかしら?」


 剣呑な雰囲気を変えようと、砂子は努めて明るくオーダーしてみた。


「ほいよ」


 サルがダンとジョッキを置いた時、瞬は若菜をまっすぐに見た。


「……だったら、組織には頼らない。犬山補佐が個人的に、俺を過去に連れて行ってくださいませんか?」


「会社を辞めて、ね? あたしは、攻撃型の時間操作士として養成されてきた。逆行テロで形成されて、あれほど強固、複雑に絡み合った人為結界よ。あたしのウェルズ値では、破ることはできない」


 時間操作量を表すウェルズ値Wには個人差があるが、砂子でも無理だろう。

 結界は人ひとりの存在ごとに生じるが、今回のように多人数が関係する時空で、逆行による人為結界が形成された場合には、組織的に逆行プロジェクトを組まない限り、過去の改変は現実的に不可能だった。


 砂子は瞬の鋭い視線を感じた。相当飲んでいるため、座ったような酔眼だった。


「わかりましたよ。じゃあ、織機さん。君の力で、俺をあの前に連れて行ってくれないか? 亡くなった人たちを救いたいんだ。俺が逆行できれば、一人も死なせやしない。君は観音様なんだろう?」


 砂子は力なく首を横に振った。


「残念だけれど、ぜんぶ先輩が言った通りよ」

「ふん。結局、織機さんも同じなんだ?」

「そうね。逆行は現実的じゃないとわたしも思う」


 ビールを飲もうとした砂子に、瞬がからんできた。


「君は人を救うのが仕事だって言っているけれど、スッパリあきらめて、ビールを飲んでいられるんだ? いやに物分かりがいいじゃないか」


 瞬の皮肉な物言いに、砂子もカチンと来た。


「病院で寝込んでいただけで、何も事情を知らないクセに、変な言いがかり、付けないでくれる?」

「世の中、結果がすべてなんだよ。要は見捨てるんだね?」

「時間操作は、空間操作よりも制約が多いの。素人が口を出さないでくれるかしら」

「ああ、素人だよ。でも、俺が時間を操作できたら、誰が何と言おうと、独りでも絶対に逆行してやるさ」


 売り言葉に買い言葉で、砂子もまくし立てる。


「バカバカしい。あなた、空間操作で富士山をひっくり返せる? できたら、わたしも逆行してやるわよ! 空間を壊すだけの単細胞バカに、時間の繊細さがわかってたまるものですか!」


 時間操作は絡まった糸をほぐす作業にしばしば喩えられる。何でも破壊する空間操作とは本質的に異なる。


「実におめでたいね。賢い時間士の皆さんはあきらめが早いから、こうやってすぐに切り替えて平気で飲み食いできるんだ」


 猿橋が机をバンと叩いた。


「おい、朝香。お前、言うてええことと悪いことがあるぞ!」


 割って入った猿橋が、若菜と砂子に向かって謝った。


「すんまへん。コイツ、メシもろくに食わんと飲み続けとったから、悪酔いしとるだけなんですわ」

「酔っていても分かるぜ。時間屋の連中がひとり残らず腰抜けだって話くらいはな」


 瞬が言い終わる前に、砂子が飲みかけのビールジョッキを、机に叩きつけるように置くと、枝豆のカラが飛び跳ねて碗からこぼれた。


「大きなお世話よ! あなたみたいな冷血な殺人兵器に比べれば、誰だって腰抜けでしょうけどね」

「サコ、おやめなさい。あんたも飲みすぎなんじゃないの?」


 若菜が落ち着いた声で、諭すようにまとめようとした。


「もうこの辺りにしておきましょ。朝香君。君が言うように、空間操作技術ほど、時間操作は進歩していないでしょうね。人間は時間を支配した気になっているけれど、今の世にも変えられない過去のほうがずっと多いのよ」


 瞬は立ち上がると、吼えた。


「一般論はたくさんです! 奈々子さんたちを救うために、あんたたちは何もしようとせずに、ただメシ食って酒を飲んでるってわけだ?」


 猿橋が立ち上がると、瞬の胸倉をつかんだ。


「お前、ええかげんにせえや!」


 猿橋が振り上げた拳で瞬の頬を殴りつけると、にぶい音がした。胸倉をつかんで放さない猿橋を、瞬が酔眼で睨みつけている。


「あんたのSF(超微細)なんかで、この俺に勝てるとでも思ってるのか?」

「そらぁ素面のお前には勝てへんやろな。でも、酒に飲まれて、足元もおぼつかん今のお前にやったら、勝てっど」


 にらみ合う瞬と猿橋の顔の間に、ピンク色の光が差した。若菜の霊石≪インカローズ≫の色だ。ラメ入りの光が時間操作の特徴である。

 見ると、若菜が左手の人差し指を立てて光線を発している。時の流れを振るわせて作るカラ光線で、無害なサイだ。


「朝香君、今日はもうグチャグチャでさ、ワケがわかんないから、もういい。でも、ひとつだけ君に言っておくわ。あたしたちは、君の味方だから」


 瞬の瞳から涙がこぼれ出た。


「……俺には味方なんて、いない。俺の味方はあの遠征でみんな、死んだんだ」


 瞬は本当なら戦死した恋人や仲間たちを時間操作で取り戻したいのかも知れない。昴には極めて高い時間操作能力を持つクロノスがいると聞く。瞬はそのために昴との接触を試みていたのだろうか。


 いずれにせよ若菜と砂子に当たってみたところで、何も事態は変わらないが、瞬には、他に当たれる人間がいないのだろう。


 猿橋の手を胸倉から外すと、酔いで瞬の足元がふらついた。


「どうせ俺は軍人崩れの人殺しさ。軽蔑されるべき殺人兵器だよ。あんたらに俺の気持ちが分かるはずがない」


 瞬は捨て台詞を吐くと、ラピスラズリの蒼光で全身を覆った。姿が消えていく。

 蒼光がフェードアウトし、テレポートで瞬が跡形もなく去ると、すっかり泡の消えたビールと気まずい雰囲気だけが残った。


「……今日は殺人兵器の本音が聞けて、よかったわ。最初に会った時から大嫌いだったけれど、ますます嫌いになった。猿橋君。わたし、彼とはもう、仕事以外での付き合いをするつもり、ないから。一切、声をかけないでね」


「サコ。そんなに単純な話かしら……」

「単純明快だったと思いますけど」


「あたしたちは、逆行できるから救えます、逆行できないから救えません、あきらめてくださいって。神様みたく人の命を決めている。でも、彼はこれまで人を殺すことでしか、人を救えなかった。軍人は人を殺すのが仕事だけれど、戦争がない時は訓練してりゃいいんだから、楽なものよ。でも彼が軍にいた時代は、ひたすら戦争をやっていた。……あたしたちに彼の気持ちが分かるはずもない、かもね……」


「殺人兵器の気持ちなんて、わたしは分かりたくもありませんけれど」


 若菜はとことん飲むと決めたらしく、ロックグラスにブランデーをなみなみと注いだ。


「彼は壊れかけてる……。誰かがそばにいてあげる必要があるわね……彼がほんとうに壊れてしまう前に……」


 砂子は泡のなくなったビールを飲んだ。苦いとしか思わなかった。



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■用語説明No.17:逆行許可

時間操作士による過去事象の改変申請に対して時空間保安局長が与える時空間保護法九条二項に基づく許可。

時間操作士が過去に自身及び関係者をテレポートさせて、過去の事象に関与して行う。過去の改変は、現在・未来に大きな影響を及ぼすおそれがあるため、逆行許可は原則として多数人の人命救助(おおむね10名以上)を目的とする場合しか与えられない。時流解釈士の未来予知によって、軍の策定する終末回避計画≪アルマゲドン≫に支障をきたす(抵触する)とされた場合、申請は拒絶される。

なお、逆行の難易は、時の経過、対象事象に関わる人間の数、自然・人為結界の強度により様々である。

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