第4章 乾いた新天地

第16話 マーズの庭


 天川真子は半身を起こすと、はめ殺しの病室の窓から井の頭公園の桜色を眺めた。

 今朝、気がつくと、卓上のデジタル・カレンダーが一日分とんでいた。真子にとって、意識のないまま処置を受け、何が起こったかも知らずに目覚める経験は、さして珍しいくもない。


 クロノスはそれだけで不幸だ。だが、三士の中で最も不幸なクロノスは、ごく普通の日常生活さえ禁止される時流解釈士だろうと、真子は確信していた。


 朝からずっと、この二日間に起こった出来事を反芻してきた。

 あの若者を心に思い浮かべる度に心が騒めくのは、なぜか。

 どうしても、もう一度会いたいと願うのは、なぜか。

 やっと作れた、たった一人の友達だからか。たぶん違う。

 これが「恋」という代物に違いない。


 イメージではなく、多少なりとも血沸き肉躍るような体験を真子がしたのは、生まれて初めてかも知れなかった。

 真子が置かれている状態は、昔から幽閉に近かった。


 幼い頃から「体制」にとって最重要の預言者であるとされ、厳重すぎるほどに身の安全が守られてきた。


 今回の「事故」を仕組んだのは、誰か。

 真子は、時流解釈能力を持つゆえであろう、人の世というものが常に何者かの意思によって動かされていると感じていた。その何者かを「神」と呼びたいのなら、そう呼んでもいい。もっともその「神」は、いつの世も人が願っている正義を実現する神とはどうやら無縁な意思のようなのだが。


 ノックの音がした。

 無視していると、「お嬢様、失礼いたします」との声がして病室のドアがゆっくりと開き、懐かしい土のような匂いがした。真子は戸口に視線を移した。

 二メートルはあろうかという長身の男が、くぐるように頭を下げて、病室に入ってきた。


「マーズ! あんた、ひさしぶりじゃないの!」


 痩せた虎がのっそりと立ち上がったような中年男は、父の天川時雄の直属の部下で、昔からよく真子の護衛として付けられたクロノスだった。本名は別にあるはずだが、真子は研究所のコードネーム≪マーズ ≫しか知らない。


「お嬢様、ご機嫌うるわしゅう」


 しゃべりすぎて喉がやられた時のように裏返った声が、懐かしい。

 声をかけると、マーズはわずかな笑みを片方の口元にだけ浮かべた。長い付き合いの真子でなければ見過ごしてしまうような微笑である。


「あんた、最近、どこで何をやっていたのよ?」


 子どもが叱られたように、マーズは何度も頭を下げた。


「面目ございません。お父様の色々なご命令を処理しておりました」


 機密事項だからマーズも語らず、真子も知らされていないが、マーズは時雄の密命をこなしているらしい。まじめくさったマーズのことだから、どんな命令がされても、文句ひとつ言わず愚直にこなしているに違いない。


「しばらくは研究所にいるの? また、あんたの庭に連れて行ってよ」


 マーズは家族がいないようだった。彼は暇さえあれば、研究所の広大な敷地の片隅にある庭園の手入れをしていた。寡黙なマーズの唯一の趣味らしい。

 真子はマーズの庭で時を過ごすのが好きだった。


「よろしければ、今からお連れしましょうか、お嬢様?」

「そうね。天気もいいし、敷地内だったら、鴨志田もそれほど怒らないでしょ?」



 マーズが車椅子を押し、敷地内の桜並木を過ぎる。


「そういえば、マーズと鴨志田と三人で、お花見をした時もあったわね。あれは何年前かな……?」

「所長代行 (鴨志田)がまだ主席研究員でいらしたころ、でしたか……」


 今から四、五年前、鴨志田がまだ優しかったころだ。


「人って、変わるものよねぇ。でも、マーズはずっと変わらないわね」

「私はずっと、お嬢様をお守りいたします」


 クロノスの中には裕福な生活を送る者も多いが、マーズはいたって無欲らしく、仕事と庭の手入れ以外にはまるで興味がない様子だった。


「憶えてる、マーズ? あんたが最初に、あたしの護衛に付けられた時のこと?」


 マーズは微かな笑みを口元に浮かべて、こくりと頷いた。

 遅発性オブリビアスが味わった運命はある意味で、忘却の日にすべての記憶をなくした即時性オブリビアスよりも残酷だったかも知れない。

 忘却の日から何年も遅れて、消滅する時限爆弾のように、真子は段階的に記憶が奪われて行った。そのため真子は一〇歳になるころに、完全な記憶を奪われた。結局、現在の真子には、一〇歳以降の記憶だけが存在する。


 研究所から客観的に伝えられた情報以外に、自分が誰なのか、何があったのかも真子は知らない。


「あの時も、お嬢様を私の庭にお連れしていました」


 記憶という存在のよりどころを失ったせいだろう、真子は、失語症になった。鴨志田にも、時雄にも、誰にも話をしなくなった。入れかわり立ちかわり治療に当たった研究者たちも「時間が必要」と繰り返すだけで、さじを投げた。

 そんな時に真子に付けられたのがマーズだった。確か五人目くらいの付き人だったと思う。


 それまでの付き人と違って、マーズはいっさい無駄口を叩かなかった。車椅子を押し、自分の庭に連れて行くと、黙ってひたすら真子の前で草木の世話をした。


 あれは冬だったろうか、マーズはブロッコリーの苗を買ってきて、庭の一画に植えた。天気のよい日にときどき掘り返しては、肥料を入れ、空気を含ませた。真子が手伝いたくなって、手を出すと、マーズは大きな手で真子の小さな手をくるみ、やり方を教えてくれた。


 日に日にブロッコリーが巨大な葉を茂らせていく。ほとんどしゃべらないマーズが「お嬢様、ブロッコリーは花のつぼみを食べるんですよ」と教えてくれた。

 やがて濃緑のつぼみが大きく育つと、マーズは剪定バサミで切りひと房ちぎって口に入れた。


 味を確認したマーズは大きくうなずき、小さなひと房を真子に差し出してきた。

 マーズの手に泥が付いていたが、不思議と気にならなかった。真子がブロッコリーのかけらを口に入れると、自然な甘さがとろけた。


「……おいしい……」


 記憶喪失後に初めて口に出せた言葉だった。

 以来、真子は庭でマーズを質問攻めにした。マーズはたいていの植物を知っていて、何でも答えてくれたものだ。



「あれ? 草ぼうぼうかと思ったら、きれいに手入れしてあるじゃないの?」

「お嬢様のお見舞いに伺う前に、手入れを済ませておきましたので」

「何よ、あたしよりも庭のほうが大事ってわけ?」


 もちろん冗談だが、マーズはあわてて釈明を始めた。


「ですが、お嬢様をお連れするのに、手入れをしておきませんと……」

「マーズは魔法使いみたいね。あんたが庭に手を入れると、草木がよみがえるもの」


 真子は絶賛したつもりだが、マーズはさびしげに巨樹を見あげているだけだった。


「ねえ、このでかい樹、いったい何なの?」


「コウリバヤシというヤシの木です。わたしがオブリビアスになるずっと前に誰かが植えたようですが 。一稔性と申しまして、人間と同じくらいの生涯で、一度しか花を付けない珍しい木です」


「へえ、そうなんだ……。この樹も終末までに急いで花を咲かせないと、間に合わないのね……」


 今日の真子は体調がよかった。車椅子を降りて、菜の花を撫でた。人を好きになると、優しくなれるのかも知れないと思った。


「ねえ、マーズ、聞いて。あたしね、好きな人ができたみたいなの」


 真子は自分が首筋まで真っ赤になっているのがわかった。

 マーズに何でも打ち明けられるのは、齢が親子ほど離れていて、マーズが何でも黙って聞いてくれるからだと思う。それに、ふだん何も見ていないような眼をしているマーズも、真子にだけは優しい瞳を向けてくれる気がした。


「そうですか」


 マーズはめったに自分の意見を言わない。だが、口調でマーズが喜んでくれているのだと、わかった。


「あたし好みのすっごい美男子でね 。まだ若いくせに大人ぶって、ちょっとかわいいのよ。冴えない冗談を言うけれど、優しそうな人なの」

「それはけっこうなお話です」


 異様な長身のために、座ったまま見あげると威圧されそうだが、真子は慣れているせいか、気にならない。


「ねえ、マーズはいい年だけれど、好きな人とか、いなかったの?」


 マーズはゆっくりと首を横に振った。


「……私も、オブリビアスですから、憶えておりません」

「そうだったわね……」


 庭の手入れが得意な中年男は、記憶を完全に奪われるまでどこで何をしていたのだろうか。なぜ研究所所属のクロノスになり、父の時雄に仕えるようになったのだろうか。


 問うてもマーズは答えまいが、例えば真子がどこにでもある普通の家の娘で、マーズが近所の農家のおじさんであるとか、もっとありきたりの関係で出会えたらよかったのに、と思う。


「ねえ、マーズ。好きだって気持ちをどうやって伝えたらいいと思う?」


 巨木のようなマーズを見あげる。どうやら真剣に考えてくれているらしい。

 だが考えてみれば、世にマーズほど恋愛談議の相手として相応しくない人間もいなさそうだった。まだ鴨志田のほうがいいかも知れない。


「その人はね、内務省にいるみたいなの。……もう、会えないかな……」


 マーズが一瞬、目を泳がせた気がしたが、中年にもなってナイーブな男なのだろう。真子はコウリバヤシの梢に視線を移した。


「相手はいちおう大人だし、あたしを子どもだと思っているだろうしね。会えたところで、相手にしてもらえないかも知れないけどさ。世界が終わるんなら、それまでに一度くらい、恋愛をしてみたいのよね……」


 マーズはちゃんと聞いているはずだが何も言わない。コメントのしようがないのだろう。庭木や作物のことは何でも教えてくれるが、それ以外の話をマーズに聞いても、思いやる気持ち以外は返って来なかった。


「ねえ、マーズ。最近ウチでやってる改良型APの実装試験を内務省のクロノスにやってもらう名目にしたら、もう一度、会えないかな……?」


 反政府組織「昴」がエンハンサーの改良に取り組んでいたのに対し、研究所はクロノス専用の兵器であるAP(アタック・プロモーター)の技術開発に力を傾注してきた。

 問われても、マーズにわかるはずもない話だが。


「お会いできると、よろしいですね……」


 マーズが裏返った声で応じたとき、真子にはマーズが別れを言いに来たのだと気付いた。予知能力のせいだろうか、真子の感はよく当たる。


「いつまで研究所にいるの、マーズ?」

「明日からしばらく、北陸へ参ります」


 真子は念を込めて、マーズの未来を予知しようとした。だが、何のイメージも頭には浮かばなかった。昔から自分自身を含めて、なぜか研究所関係の人間の未来は予知できなかった 。


「気を付けてね。今度あんたと会った時に、ボーイフレンドを紹介で来たらいいんだけど……」

「楽しみにいたしております、お嬢様」


 マーズの庭に春風が吹いている。預言によれば、人類は二年後の春を迎えられまい。


「お願いがあるんだけどさ、マーズ。あたし、いちど夜桜を見てみたいの。今晩、公園に連れて行ってくれない?」

「花見の酔客などでご不快かと存じますが」

「人恋しいのよ。ふだん誰とも会えないから。マーズがいれば危なくないでしょ? 車いすを押して。お願い」

「かしこまりました」



 マーズが病室に真子を戻してくれ、ひと眠りしたころ、真子の嫌いな化粧水の匂いが漂ってきた。


「お元気でお目覚めのご様子、何よりです」


 鴨志田はいつから女としての幸せを、人としての誇りとともに捨ててしまったのだろう。以前の鴨志田は明るく優しい女性で、真子もすっかり懐いていたものだ。あまりの違いに、今となっては、他者の記憶と自分の過去が混線しているような気さえ、した。


「マーズ、またどっかに行っちゃったんだね?」

「彼にも仕事がございますので」

「どんな仕事、してるんだろ?」

「救世 のために因果律を整えていく作業です」


 抽象的な物言いだが、マーズが救世のために邪魔な存在を消す命令を実行していることに、真子も気づき始めていた。優しいマーズがブロッコリーの手入れをするように、人の命を奪っている姿は思い浮かべたくもなかった。誰がいかなる根拠で「救世」に資すると認めているのか分からないが、アルマゲドンの策定には、真子の預言が大いに利用されているはずだった。


「あたしの未来予知結果は一ミリも変わらないけれど、本当にマーズの仕事が何かの役に立っているのかしらね」

「将棋やチェスもすぐに詰められるわけではありません。一つひとつ手を打っていかなければ」

「ねえ、鴨志田。昔、マーズと三人でお花見をした時のこと、憶えてる?」


 時流解釈士は、あまりに多くの未来を追体験するために、自分自身の過去が分からなくなってしまう場合がある。能力の高い預言者ほどその傾向があった。果ては発狂して、預言者としての役目を終える者もいた。


 鴨志田が作ってくれた弁当を囲んで、マーズと真子が幸せを感じた時が確かにあったのだと、確認しておきたかった。

 だが、鴨志田は何の関心もなさそうに首を横に振ると、真子に顔を寄せた。


「そんなことよりお嬢様。まだプレス発表されていませんが、昨夜、内務省本部でちょっとした襲撃事件があり、死者が出たそうです」

 真子は電撃を浴びたように半身を起こした。


「何が起こったっていうの?」

「オリオンによる襲撃だと推測されています」


 テロ組織オリオンは、クロノスの抹殺を公言としている。朝香瞬は無事だろうか。


「……クロノスに死者は?」

「若干名、出たようですが」


 真子は咳払いしてから、遠回しに瞬の安否を尋ねてみた。


「このあいだ、ちょっとだけ世話になったクロノスがいたけれど、名前は何て言ったかしらね? 彼はだいじょうぶだったのかな……」

「朝香瞬一郎空間操作士ですね。殉職者リストには名前がなかったように思いますが……」

「そう……あたしは別にどっちでもいいけれど……」


 口先だけで応じたが、心の動揺が鴨志田には見透かされている気がした。

 真子は最近、強い頭痛に悩まされている。預言者によくある症状だ。預言者の中には未来のイメージに精神が耐え切れずに発狂する者たちもいる。真子はいつまで自我を保てるのだろうか 。わからない。せめて自分を失ってしまうまでに恋をしておきたかった。が、研究所付属病院の一室に閉じ込められていたのでは、恋などできるはずもなかった。


「ねえ、鴨志田。改良型APの実装試験だけれど、ウチのクロノスはサイレンサー開発で手いっぱいだし、内務省のクロノスを使ってみたらどうかしら? 内務省の預言者は頼りないから、あたしがアルマゲドンとの抵触を確認してもいいわよ」


 赤眼鏡の奥で、鴨志田が瞬時に研究所の利害得失を計算し尽くした気がした。


「なるほど軍も遠征の失敗で再編途上ですから、内務省も宜しいかもしれませんね。検討を指示いたします」



 鴨志田が去った後、真子は、サイドテーブルのカチューシャを手に取り、髪につけてみた。


 置いてあった手鏡を見ながら、手で髪を整える。きれいだ、と自分でも思う。以前より顔が輝いて見えるのは「恋」のせいだろうか。


 真子は鏡に映る自分の顔に満足して、うなずいた。


 目を閉じ、精神を集中させる。

 しばらくのち、真子はカチューシャを外して、サイドテーブルに力なく置いた。


 やはり、未来のイメージは全く変わっていなかった。

 二年後、人類は再び虹色の終末を迎えて、滅びる。

 それまで未適応症の自分が生きていられるかはわからないが。


 窓の外を見る。


 高層階からは桜並木など全く見えない。それでも花曇りの空はなぜか桜色を帯びているように見えた。



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■用語説明No.16:国立時空間研究所(時空研)

エンハンサーやアタック・プロモーター(AP)など時空間操作技術・能力の研究開発を行う国の研究機関。東京三鷹に本部がある。

純粋な研究者集団であり、本来、政策決定能力を持たないが、軍や内務省に対し、必要な技術的助言を行うほか、≪終末≫回避に向けた現体制の諮問機関としての役割も果たしている。

初代所長は、エンハンサーの発明者である故織機幾久夫(おりはた・いくお)博士。

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