第15話 ちっぽけな戦場



 織機砂子は本来、歓迎会に少しだけ顔を出してから、退散するつもりだった。


「よう、サコちゃん。来てくれてありがとうな」


 ビールびんを片手にさっそく声をかけてきたのは、「サル」こと入省同期の猿橋だった。昨日再会したが、相変わらずひょうきんで、人なつこい男だ。

 猿橋の関西弁は殉職した同僚の蟹江を思い出させ、砂子にはもの悲しく聞こえた。


 砂子は歓迎してもらうような気分には、とてもなれなかった。

 ミッションの失敗で蟹江を死なせたのは、砂子だ。責任を取って辞職も考えた。だが、蟹江の凄絶な死に様がかえって、砂子を前に進ませた。逃げ出すように東京へ来た。今はただ、前へ進むしかない。


「浮かん顔やなぁ、サコちゃん。美人がもったいないで。新しい職場の様子はどや? サコちゃんをいじめる奴がおったら、オレが許さへんしな」


 初日だけでは分からないが、少なくとも関西支部よりは居心地が悪そうだった。


「ぼちぼちね。可もなく不可もなく、かな」


 つき合いで差し出したコップに、猿橋が注いでくれる。


「それで、エエ男は見つかったんか? サコちゃん」

「さあね。まだ、ちゃんと見ていないから」


 砂子には最初から男を物色する気などないが、話を合わせた。


 立食形式で丸テーブルが二十個ほど並んだ大きな会場だった。

 時空間保安局本部に属する職員のうち、半分も出席していないだろう。

 会議が長引いているのか、肩書のある課長たちはまだ一人も来ていなかった。せめて課長たちに挨拶してから帰るべきだろう。先輩の犬山若菜に黙って帰るわけにもいかなかった。


「一課は男が少ないしな。女子校みたいなもんやろ? 逆に二課は男子校やし、気ィ付けや。せやった、サコちゃんゴメンなぁ。昨日もいきなりごっつ変なん、見せてしもたやろ? ああいう手合いばっかりで困っとるんや」


 確かに昨日、砂子は良い意味でなく、驚かされた。

 蟹江の件をひきずって、近ごろ砂子はどうせ眠れないでいたのだが、夜明け前、入って間もない寮の部屋にいきなり呼び出しがかかり、救出作戦への参加を求められた。


 結果としてサイ発動を要する事態にはいたらず、単に同行しただけだった。が、同僚の空間操作士のあられもない姿を見せられ、さらには人違いの口説き文句で辟易(へきえき)させられもした。


 気でも触れているような若者だった。

 もっとも砂子は、あの空間操作士と本当に一度も会った覚えがないのかと問われれば、自信がなかった。昔どこかで会ったかも知れない。全くの他人ではない気もした。ただ、少なくともつい先年まで恋人関係だったなどという事実は、当たり前だが、全くなかった。


「別に、ゼンゼン覚えんでもええにゃけど、アイツ、朝香瞬一郎っていう軍人崩れのひねくれ者なんや。でもアイツ、女癖が極悪なだけで、根は悪うなさそうやで」


 砂子はこれまで何度も男に口説かれてきたが、口説き文句にしてはあまりに稚拙だった。我を忘れたように、必死で砂子に詰め寄ってきた。あの様子は演技でもなさそうだったが……。


「彼、今晩は来ていないようね」

「誘ったんやけど、何しろ一筋縄ではいかん変人、変態やからな」

 いや、それよりも、単に過剰発動のために疲労状態が尋常でないからだろう。


「なぜ、除隊したのかしら……?」

「サコちゃんも第五次遠征の話、知っとるやろ?」


 精鋭のクロノスを含む救世軍十五万が人為結界内の異時空間で戦死し、戻らなかった敗戦だ。

 父の教育方針もあって、砂子は政治や軍事に対し、関心を持たなかった。


 予科生時代から高い時間操作能力を示していた砂子には、軍からの熱心な勧誘があったが、彼女は迷いなく内務省を選んだ。≪終末≫の回避という大事が、時流解釈能力のない自分にできるとは思えなかった。

 何をどうしたら終末を回避できるのか、どの預言を信じたらいいのか、砂子には見当もつかなかった。


 それなら砂子は、目の前にある命を救いたいと思った。事故や災害で失われた命をひとつでも多く取り戻すために、自分の能力を使うと決めた。だから今、彼女は内務省にいる。


「噂の域を出えへんにゃけど、アイツは軍を恨んどるみたいや。自分以外の全員が死ぬような作戦を実行しおったゆうてな。もちろん、恋人と仲間を皆殺しにした昴も恨んどる。軍と昴への復讐が生きがいらしいわ。こわい話や」


 砂子もまた、クロノスが天から与えられた能力を、発動限界まで使う。だがそれは人を救うためだ。これに対して朝香瞬一郎という男は、人を殺すために使ってきた。


 天賦の能力を用いるベクトルが、砂子と瞬では全く逆方向だった。

 時間操作士と空間操作士の宿命的な違いもそこにはあった。砂子が、蟹江などごく一部の例外を除き、空間操作士を嫌う理由でもあった。


「でも、そんなヤバイ奴がなんでウチに来おったんやって、話なんやけどな。腕だけは確かやから、ウチの課長がホレ込んでしもたみたいなんや。幸恵さんて人一倍、仕事熱心な人やからなぁ」


 砂子の隣で電撃を浴びたように、猿橋がビクリとした。


「おお、アネさん。こっち、こっちです!」


 大袈裟に猿橋がはしゃぐと、長い黒髪の女が肩で風を切りながら、つかつかと歩いてきた。研修所の先輩の若菜だった。相変わらず若菜がいるだけであたりが華やぐほどおしゃれである。


 砂子と若菜は目が合うと、二人とも自然、笑顔になった。研修所時代から、二人とも才媛で知られていたから、気心の知れた仲だった。しばらく故郷のある北海道支部にいたはずだ。


「サコ、ひさしぶりじゃないの。やっと会えたわね。面倒な役職に就いちゃって、来るなり無駄な会議に巻き込まれてね。さっき寮に入ったところなのよ。また、つるみましょうね」


 課長補佐になったせいで、会議が増えたのだろう。


「いやぁ。それにしてもアネさんは、相変わらずお綺麗ですなぁ」

「まだいたの、サル? あんた、いい男いたら、紹介なさいよ」


 若菜は猿橋に向かい、声を落として凄んだ。特徴的な若菜のハスキーボイスには、女の色香がいっそう加わり、艶が増しているがした。長髪のすそにパーマが掛けられ、きれいなウェーブを作っている。砂子の数倍は時間をかけて、美しくあろうとしている女性だ。


「何しろ北海道には、売れ残りしかいなくてさ。どいつもこいつも『終末』怖さに、新興宗教の集団結婚みたいに続々、結婚しやがって。こちとら、異時空翔び回って、精神年齢はもう四十近いんだからさ。若いから勢いでやっちゃう結婚って、ゴロゴロあるじゃない? 若いと見切り発車ができるけど、それも込みで、適齢期と呼ぶんだって今ごろ気づいたわ。でもあたし、絶対『終末』までに結婚してやる。とにかく時間がないのよ」


「それが正しい、思います。アネさん――」


 猿橋をさえぎって、若菜が砂子の耳元に口を寄せた。


「道支部にもね、サルを女にしたようなヒマな情報屋がいたの。支部時代はいつもつるんでたんだけど、彼女の情報網だとね、軍を除隊した超美形が二課に配属になるらしいわ。期はサコより一つ下らしいけれど、ウチの業界って、実際の年齢なんてワケわかんないしさ。本当はあたし、年上が好みなんだけど、『終末』も近いし、この際文句言ってらんないわ。要らない肩書ついちゃったから、口説きにくいかな?」


 若菜の機関銃のような喋りは、昔と変わらない。砂子には懐かしく思えた。


「先輩、出席者リストがありましたよ。それを見れば――」


「見なくても分かってるわ。名前は朝香瞬一郎。あたし、彼に会うために、この庁舎のテロ対策とかつまんない会議、ムリヤリ切り上げてきたんだから。サコ、まだ会ってない?」


「えーと……」


 答えに窮していると、そばで聞き耳を立てていた猿橋が、大げさによろめいた。


「アネさん。アカン、あきません。広辞苑の第三十五版から載ってる有名な話なんやけど、ソイツだけは、NGなんですわ」

「え? どうしてよ?」


「朝香瞬ゆうのは、和製ドン・ファンて呼ばれてまんねん。要するに、このオレでさえも足元に及ばんほどの、極限の女たらしなんですわ。オレの情報網やと、軍で捨てられた乙女は二十指に余るぅいいますねん。なあ、サコちゃん、アイツだけはヤバいよな?」


 砂子は苦笑いを漏らしながら、あいまいにうなずいた。


「いち日早く昨日の朝、仕事で会ったんです。ミッションの内容は部外秘で、詳細はお話しできないんですけど、第一印象はこれ以上考えられないほど最悪でした。ふしだらで、最低の男。とにかく女には手が早いから、先輩でも気をつけたほうがいいわ」


 砂子の隣で、猿橋が腕組みをしながら、いい話を聞いたとでもいうように、ウンウンうなずいている。


「手が速いのなんの、オレのサイの発動モーションより、速いんやから。ホンマにとんでもないヤツが来てしもたモンです。時空局の風紀取締課長としては、始末に困っておりますねん」


 もちろん風紀取締課などという代物は、現実には存在しない。

 若菜は、特徴的な小さな黒子のあるアゴに人差し指を当てながら、照明のまばゆい天井を見上げた。


「……おっかしいなぁ。あたしの仕入れた情報では、修習時代までは、至って誠実、真面目な硬派だったはずなんだけどな……。長い間つき合ってた恋人を、この前の遠征で亡くしたらしくてね。傷心の若者を、あたしが優しく慰めてあげようと思ってたのにさ……」


 かなりのプランニングをして上京してきたのか、すっかりしょげ返っている若菜が、砂子は気の毒になった。


「先輩、気を落とさないでください。人は見かけによらないものだし、女グセが悪いだけで、そこさえ我慢すればだいじょうぶかも知れませんし。それに、あんなんじゃなくて、先輩なら他にきっといい人が見つかりますから」


 若菜はぶぜんとした表情で、首を何度もひねった。若菜の男好きは昔からだが、理想が高すぎるのだと、砂子は思わないでもない。


「そういう気休めの言葉は、昔は有効だったかも知れないけれど、あたしたちには、あと二年しか残されていないのよ。新婚生活をせめて半年でも楽しむとしたら、一年半以内。出産と子育てを少しでも体験してみたいなら、今から半年以内に結婚しなきゃいけない。あたし、切羽つまってんのよね。仕事ならいつでも辞める覚悟はてきてるわよ。今日のつまんない会議の連続で、ますます決意が固まったわ」


「おお、ナナちゃんやないか?」


 砂子のかたわらで、猿橋がはしゃいでかけ出した。


「サルの知り合いの男女比って、一対九くらいじゃないかしらね」


 若菜が毒づくと、砂子は小さく笑った。


「そう言う先輩は、どうなんですか?」

「あたしは、見さかいなく男に声をかけたりしないから。だいいち一定水準を満たした美形しか、目に入らないし」

「でも、サルの連れて来る子、なかなかキレイですよ」

「あたし、女には関心ないのよねぇ」


 猿橋はまるで自分の手柄であるかのように、若い女性を右手で示しながら、戻ってきた。


「皆さんにご紹介しますわ。わが内務省本部附属病院が誇るハートフルな美人看護師、馬場奈々子さん。二課には、ただナナちゃんに会いたい一心で、わざと発動限界を超えるアホもおるくらいや。オレも一回やったことあるけど」


 あいにく誰も反応せず、猿橋の馬鹿笑いだけが、まだ人のまばらな会場に響いた。


「さて、こちらが一課の課長補佐であられる犬山若菜さんと、局長の一人娘、織機砂子さんや。うわあ、こうして見ると美人ぞろいやわ、ほんまに。ああ、オレもう、どうしたらええねん」


 何をどうする必要もないだろうと砂子は思ったが、奈々子は礼儀正しく、砂子たちに頭を下げた。


「初めまして。サルさんには、いつもよくして頂いて……」


 猿橋は、奈々子の隣で腕を組みながら保護者然として、何度もうなずいている。瞬とは違う意味で、子供のような男だ。


「気をつけなさいよ、ナナちゃん。このサル、一年じゅう発情期だから。どちらかと言えば、野生の猿のほうが安全よ」

「ちょう待ってくださいや、アネさん。朝香やあるまいし、オレ、そんなに手ェ早ないで。なあ、サコちゃん」


 砂子にしても、何度も猿橋に同調する義理はない。若菜の鋭い視線を感じて、苦笑いだけで済ませた。


「私、仕事で遅くなって、さっき来たんですけど、まだ瞬さんはいらしてないんでしょうね。ずいぶん体力を消耗されていましたから、無理かな……」


 奈々子の言葉に、猿橋がびくりと反応した。


「ちょ、ちょう待ちや、ナナちゃん。『シュンさん』って、誰やねん。オレは聞き逃せへんかったで、その変な呼び方は」


「ああ、朝香さんのこと。おたがい下の名前で呼び合うことになったんです。今日のお昼すぎにナースコールで、おやつにタバコとブラックのコーヒー飲みたいって、おっしゃって。ホテルじゃないのに普通、病院でそんなオーダーします? どんなおじさんクロノスかとおもったら、とても可愛い人でね。手が空いたらすぐに、コーヒーを持って行ったんですけど、いびきかいて寝てたんです。すっごくハンサムだしとっても感じのいい人ですね。私、ファンになりそう」


 すました表情の若菜がすこし鼻をふくまらせた気がした。


「それはちゃうにゃ、ナナちゃん。男を顔だけで決めたらアカンで。誰ゆうて、アイツだけは要注意なんや。会った初日から、口説いてきおったとはな……」

「口説くなんて。もうすっかりお友達ですけれど。寮に何もないから、退院したら、買い物を手伝ってって、言われただけです」


 猿橋は、掌で両眼を押さえながら、天を仰いで大げさに嘆息した。


「これや。『新浦安の在原業平』を自称するこのオレをも、文句なしに凌駕するプレイボーイが、ついに内務省に降臨して来おった。異神降臨どころの話ちゃうで、これは。サコちゃん、何とか言うたってくれや。このままでは、内務省じゅうのうら若き乙女の方々が、毒牙の餌食にされてまうやないか。時間屋さんとして、悲劇を漫然と見すごすわけには行かんやろ?」

「別にいいんじゃないの? 買い物につき合うくらい」


 猿橋は今日から、朝香瞬と同僚になったはずだ。半ば冗談とはいえ、かくも同僚を貶(おとし)めて、今後の仕事に支障を来さないのだろうか。砂子はいずれ二課の彼らとチームを組む身として、内心不安になってきた。


「おいおい、サコちゃん。その程度の防波堤で、蒼光のメデューサの猛攻撃は防げへんで。俺とサコちゃんはすでに一人、目の前で目撃したけど、被害者は世界中にゴロゴロ出とんにゃ。瞬きひとつで女を落としたってのが、ふたつ名の由来らしいからな。乙女連中に教えたってください、アネさん。この世の常識というもんを」


 若菜は細く描いた眉をもっともらしくひそめて、声を落とした。


「まあ、あたしは朝香君をよく知らないから、何とも言えないけどね。寮暮らしに必要な物、買うんでしょ。ってことは、荷物を持って、朝香君の部屋に入るわけよね? いっしょに? 朝香君は野獣だという評判がもし本当だとすると、明るい時間帯に済ませたほうがいいかもね」


「さすがは、先生。恋愛で分からんことがあったら、女王様に何でも聞いたらええ」


 奈々子は途中から笑い始めた。一度、笑い出したら止まらない様子だった。


「……でも、猿橋さん。わたし、こう見えてけっこう齢、行っているんですよ。婚約者もいるんです 。この六月に結婚するんですから」


 猿橋は絶句し、打ちひしがれたようにたじろいだ。猿橋のオーバーリアクションは、もしなければ、彼が正常でない証なのだろう。


「サルも気が利かないわねえ。赤ワインでも取ってきなさいな」

「失礼しましたァ!」


 若菜にアゴで使われて駆け出そうとするサルを奈々子が引き止めた。


「わたしが取ってきます。待っていてください」


 奈々子は明るく笑うと、ぺこりと頭を下げた。


「あんなええ子やのに、信じられへん。オレらのマドンナを、いったいどこの誰が仕留めおったんやろ。オレらがオリオンのせいで忙しかった間に抜け駆けしおったんやな。そいつ、許さへんぞ、オレは」


 半分は本気だったのか、猿橋は蒼ざめた表情で、可哀想に思えるほどしきりと首をひねった。


「それにしても、みんな、チャッカリしてるわねぇ。確かに、女ばっかの一課より、附属病院のほうが有利よね。ああ、旦那を探すんなら、あたしも空間操作士になっとくんだったな……」


 若菜が愚痴っている間も、砂子は半ば無意識に、昨日会った朝香瞬という男の姿を探していた。ほとんど全裸の瞬しか見ていないから、ちゃんと服を着ている姿は、想像するしかないのだが。

 奈々子が後方の出入口付近で、赤ワインをオーダーしていた。


 それにしても、瞬も昨日は少女と抱き合っていたと思ったら、過労状態でなお奈々子を口説くとは、よほどの女好きなのだろう。


 砂子はホール前方の出入口に眼を移した。

 噂をすれば何とやら、ちょうど一人の若者が部屋に入って来るところだった。

 濃紺の制服姿の朝香瞬だった。砂子はハッとした。


 確かにたいていの女なら惹かれてしまう容姿だった。だが、砂子は幸いあの若者の本性を知っている。それに、そもそも砂子に男は必要なかった。


 それでも瞬の横顔から目をそらさず、食い入るように眺めるうち、瞬と視線が合った。瞬が口元に笑顔を浮かべようとする様子を見て、砂子はあわてて眼をそらした。


 ――突然、銃声がした。


 ホール後方の出入口から、幾人もの武装した侵入者が見えた。


 照明が次々と破壊され、落下していく。


 悲鳴が上がった。皆がしゃがみ込み、あるいはテーブルの下に隠れた。


 辺りが暗闇になった。


 クロノスたちはとっさに、時空防壁を展開する。

 様々な色の光壁が、会場じゅうに浮かび上がり、広がった。近くにいた非クロノスたちを、光壁の中に取り込んで守っている。


「オリオンの報復かいな……終末教の連中かな……?」


 テーブルの下で猿橋が水色の光壁を展開し、砂子と若菜を守ってくれていた。


 人間兵器と呼ばれる空間操作士ほど、時間操作士は戦闘行為に熟達していない。ものの数秒で強固な防壁を立ち上げたサイの発動速度はさすがだった。サイの種類がまったく違うために、時間操作士なら、ウォーミングアップしておかない限り、早くても秒単位での立ち上げは、無理だ。


 後方の出入口付近から、次々と紫光がほとばしった。ガラスが割れるような軋み音と共に、光壁を破られたクロノスたちが悲鳴を上げて、消えた。


「何でや! 何が起こっとるんや?」


 猿橋が悲鳴を上げた。クロノスたちの展開する防壁を、いとも簡単に破るサイを放つ者は、いったい誰か。


「今日の会議で議題にされていた改良型のエンハンサーね。オリオンの連中が手に入れたって情報もあったけれど、見たのは初めてよ。そこそこの能力者でも、平均値の十倍近いサイが出せるらしわ。これは、まずいわね」


 第五次遠征の敗因は、昴が用いた「改良型エンハンサー」にあると、まことしやかに言われていた。

 終末思想など動機は様々だが 、クロノスの存在自体を容認せず、この世から抹殺しようとする目的で一致する組織は、複数あった。


 クロノスの集う会場を狙えば、用意に多人数のクロノスの命を奪える。

 暗がりでサイが無規律に発動されれば、無用の干渉が生じ、攻撃防御に支障をきたす。かといって、サイで防御しなければ通常兵器の餌食となる。


 だが、どうやって彼らはクロノスの本拠地に侵入できたのか。

 砂子の間近、壁の外で男の低い声が聞こえた。


「壁を消せ、サル」

「なんや、朝香か? お前――」

「壁を消して、奥の壁際に寄れ」

「何でや? 危ないやろが」


 少し離れた場所でまた、紫光が煌めき、悲鳴が上がった。

 砂子は気づいた。瞬が正しい。敵は光壁を頼りにサイを放っている。


「サル、発動を止めて! 標的にされてる!」


 砂子に続いて、若菜が叫んだ。


「みんな、発動を止めて!」


 暗がりで浮かび上がるガロアの防壁は今、クロノスの所在を敵に教えているに過ぎなかった。


「でも、壁がなかったら、通常兵器にやられてまうやないか」


 防壁を失ったクロノスはただの人間だ。旧時代の機関銃の類がそのまま威力を発揮してしまう。

 瞬の低音が砂子たちの耳のそばで響いた。


「心配するな。俺が、みんなを守ってやる」

「せやけど、朝香、どうやって……」

「お前らといっしょにするな。織機さんと猿橋は、できる限り壁際にみんなを誘導してくれ。後は、俺に任せろ」


 瞬が砂子のもとを離れる気配がした。

 暗闇の中で、闖入者たちは用意したサーチライトで会場を照らし始めた。通常兵器による一斉射撃で、殺し尽くすつもりか。


 皆が壁際に退避し、あるいはテーブルの下に身を隠す中、ライトが乱舞する空間に、一人の若者が無防備に見える姿で立ち尽くしていた。


 瞬に向かって、いっせいに銃口が火を噴いた。

 だが無数の銃弾は、一瞬で床から天井まで立ち上がった蒼光の防壁の前に、弾かれた。

 すでにクロノスたちがめいめい作っていた光壁は消えている。


 ひと際強く輝く蒼光の壁だけがホールに浮かび上がっていた。宇宙から見た地球の色。瞬の霊石は「ラピスラズリ」だろう。


 ほとばしる紫光がいっせいに瞬の防壁を襲った。が、蒼い光壁は、何も浴びなかったように、光り輝いていたままだ。

 クロノスの展開する光壁は、その者の魂の光だという者もいる。砂子はすなおに美しいと思った。


「いったい、あいつ、何ガロアの壁、作っとんにゃろ?」


 砂子の隣で、若菜があきれるように呟いた。


「優に三〇〇ガロアを超えているわね。あんなの見たの、ひさしぶり……。あの強度をたった独りで、それも一瞬で作るなんて……」


 敵から放たれる紫光のサイが、瞬の防壁に降り注いだ。

 が、敵から紫光が発せられるたび、すかさず逆方向に、放たれた矢のような鋭い蒼光が走った。

 瞬の指先から繰り出される蒼光が、次々と標的を襲っていく。

 砂子は眼を疑った。


「何て、速いリスタートなの……」


 どれだけ優れた空間操作士でもあっても、通常、サイの発動モーションには、数秒程度の時間を要する。ガロア数が高いほど負荷が大きいから、次の発動まで時間がかかる。


 ところが瞬は、ほとんど瞬きをする程度の速さで、サイを連続発動していた。たった一人で多人数に渡り合える秘密は、ガロア数値の高さだけではなさそうだった。


「APも使っとらへん。これが、虹色の空間で、敵味方が怯えたっちゅう『蒼光のメデューサ』の力やな。でも、何でこんな奴がおんのに、戦争で負けてもうたんやろ……」


 ひとにらみで対象を石化したと伝わるギリシャ神話のメデューサにちなむ二つ名だが、いざ目の前にすると、その意味がよくわかった。

 蒼光の前に、やがて紫光は沈黙した。非常照明が復旧していく。

 会場外に制服の機動隊と救急隊が駆けつけていた。


「俺は二課所属の空間操作士、朝香瞬だ。済まないが、病み上がりでな。後はここの警備責任者に任せていいか。おおよそ始末したが、まだ残党がいるかも知れない。誰かに防壁を張らせながら、一人ひとり慎重に身元確認してくれ」


 瞬が光壁を消すと、機動隊がいっせいに会場に入ってきた。

 砂子はあたりをすばやく見渡す。死傷者が出ているが、救急隊と他の時間操作士が簡易逆行による手当てに入っていた。


 砂子の目の前で、瞬が倒れ込むように膝を突いた。

 かたわらの若菜が先に駆け寄って、瞬の身を支えた。


「瞬一郎君! だいじょうぶ?」


 昨日の時点ですでに発動限界を大幅に超え、相当の過負荷だったはずだ。さらにさっきのサイ発動で、相当疲弊しただろう。普通のクロノスなら本来、立っていられるような状態ではないはずだ。


「おかげで助かったわ、瞬一郎君。ありがとう。あたし、二課の犬山若菜。よろしくね」


 こんな時にいきなり下の名前で呼び始めた若菜に、なぜか砂子はいい感情を持てなかった。


「ああ。たしかサルが言っていた、魔性の女の人ですね」


 砂子は思わず引いたが、若菜は喜んでいる様子にさえ見えた。


「そうよ。これからはお姉さんが、君の面倒を見てあげるわね」


 若菜に助け起こされて、瞬が立ち上がった。砂子と目が合った。


「やあ、織機さん。昨日はいろいろすまなかったね」

「いいえ……」


 今は助けられた礼を言うべきだろうが、うまく言葉が出なかった。

 空間保安課の濃紺の制服がよく似合っていた。砂子は少しの間、不覚にも見惚(みと)れた。


「……下ろしたてでね。変なシワでもついているかな」


 視線に気づいた瞬が、自分の制服を見直している。


「いえ、あなたが服をちゃんと着ている姿、初めて見たから」

「君は、嫌味を言うタイプの人だったんだ?」

「別に。ただ、事実を言っただけ」

「いずれにしても、手厳しい人だな。……さてと、酒にありつければと思ったんだが、今日はもう、それどころじゃなさそうだ」


 若菜が妖艶な笑みを浮かべて瞬を見あげた時、砂子の胸が気持ち悪くざらついた。


「あたしの部屋で飲む? たいていのお酒ならそろえてあるわよ。部屋もあなたたちより上等だから」

「いいですね。病室じゃ、酒がご法度らしくてね。当たり前でしょうけど」

「でも先輩、今日は無理でしょう? 管理者だから、この件の始末をさせられるんじゃないですか?」


「そうだよね。あたしも余計な肩書がついちゃったもんね」

「朝香君も病み上がりでしょ? おとなしく病院に戻って安静になさいな」

「了解」


 瞬がいなければ、テロリストによる襲撃はどの程度成功したろうか。軽蔑しているはずの「人間兵器」に守られた自分が腹立たしくもあった。


「じゃあ、瞬一郎君。退院したら一度、君をあたしの私設バーにご招待するわね」


 ねぎらいの言葉をかける若菜に比べ、自分は瞬に冷たい言い方ばかりしている気がした。


 砂子が何か温かい言葉を継ごうと探していると、突然、銃声と同時に、瞬が砂子と若菜を押し倒した。


 瞬が、顔をしかめている。


「朝香君!」


 若菜が悲鳴を上げた。

 砂子は、左足に流れて来る生暖かい液体を感じた。

 瞬は血を吐き、砂子と若菜をかばって倒れ込んだままだ。


 身を起こそうとする砂子を、「動くな」と瞬が押さえた。

 若菜と自分の白い制服が真っ赤に染まっている。


 悲鳴がした。銃を手にした生き残りの残党は、他のクロノスに始末されたようだった。

 砂子が半身を起こすと、瞬は脇腹を押さえながら、呻き声を上げた。


「発動する力がもう残ってなくてね。通常兵器にやられるなんて、ザマぁない……」


 致命傷でない限り、≪時の綾≫と呼ばれる受傷後まもない間は、時間操作士が簡易逆行で手当てが容易にできる。


「すぐにヒーリングを!」


 時間操作のため精神集中に入ろうとした砂子を、若菜が押しとどめた。


「待って、あたし、ウォーミングアップは済ませてあるから。彼の手当てはあたしがやるわ」


 若菜がインカローズのピンク色に輝く手をかかげると、瞬の負傷個所が負傷前の状態に戻されて行く。砂子は瞬に対するよくわからない感情で心を乱されて何の準備もしていなかった。が、若菜は瞬が受傷した時から、発動準備に入っていたに違いない。


 瞬の苦痛の表情が和らいでいく。


「ありがとうございます。課長補佐」


 ケガは治せても、過剰発動による心身の疲労までは治せない。

 担架で運ばれて行く瞬の脇に、猿橋が駆け寄ってきた。涙を流している。


「朝香、大丈夫か?」

「ああ、課長補佐のおかげで、助かった」

「えらいこっちゃ……。ナナちゃんが……」



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■用語説明No.15:オリオン

クロノスたちの抹殺による「終末」回避を目的とするテロ組織。

軍によってしばしば「昴」と同列に扱われるが、反政府軍事組織ではなく、クロノス暗殺を実行する犯罪組織であるため、内務省の取締対象となっている。

終末思想を唱える「終末教」との結びつきも指摘されている。オリオン内部にも相当数のクロノスが存在すると見られている。

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